第8話 月霧の里

あちこちから、子供の泣き声、叱りつける女房の甲高い声、亭主の怒鳴り声などがやかましく聞こえていた。頼邑とふたりの男が路地木戸を通ってひときわ大きい家屋の戸口からバタバタと駆け寄る 複数の足音がした。

「伊助ー」

と呼ぶ声がすると、わらわらと人が集まってきた。

「伊助、それどしたんだ?」

里の人は、伊助の姿を見て驚いたように眼を剥いて訊いた。

伊助は、言いづらいのか逡巡としている。まさか、襲った相手に助けられたとは、自尊心が崩れる。

「すまない、その傷は私がやったのだ」

「ちっ、ちげぇ。いや間違っていねぇ。でも、これには訳があるんだ」

伊助は、慌てた口調になる。

ふたりの会話に無精髭を生やした男が、頼邑の前に歩み寄り、突然、胸ぐらをつかんできた。顔が怒気で赫黒く染まっている。

「ん? よくここに来れたものだな! それとも 罰を受けに来たというか」

恫喝するように言った。

一瞬にして、場の空気が重くなり、女たち、特に子供がひどくおびえていた。慌てて、伊助は、無精髭の男の手を払った。

「やめろ、この方は、おれの傷を手当してくれた。それでいいだろう」

怪我を受けた本人に言われてしまっては、いくらか高ぶった気持ちが落ち着いた。それでも、どうも腑におちないのがあった。

「分からん。襲った相手をなぜ手当てをした?」

と眉間に皺を寄せ、咎めるような視線を投げつけた。

なぜ、襲った男が伊助を助けたのか皆目分からない、男にはこの旅人が戯れ言を言ったにしか思えなかった。そう思うと腹立しくなってきた。

「訳の分からぬことを。わしを愚弄しておるのか!」

無精髭の男の顔が油に火を注いだように憎怒にゆがんだ。

「やめぬか、治丘衛」

あのひときわ大きい家屋の戸口が、がらりと開き、中から老人がでてきた。面長で顎がとがって、頬が痩けている。一見、落武者みたいである。

治丘衛とは対称に武芸などには縁のない体つきだったが、頼邑にむけられた細い眼には能夷らしいものがあった。

「旅の方よ、無礼を赦せ。伊助が世話になったな」

そして、付け加えるように、

「客人をもてなしおやり」

そう言い残すと、自分は帰って行った。

「客人? この男が」

治丘衛は眼を丸くし、キョロキョロとした。

頼邑は、治丘衛に案内してもらうことになったのだが、治丘衛は、何かとぶつぶつと小言をしている。女、子供は珍しい客人の頼邑に好奇の眼で後ろ姿を見送っていたが、やがて、ひとりふたりとその後をついていった。

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