第17話懺悔の会

 スティーブ・スティーブンス司教は多才な人物として知られている。教会の司教としてミサを重ねるうちに声楽家、オルガン奏者としての才能に目覚め、高い評価を得る様になり、また趣味として赴任先の風景画を書くうちに水彩画家として頭角を現していた。その他にも海洋生物学者としてアカデミーに名を連ねる一方、ウインタースポーツ協会の理事も務めるスポーツマンでもある。多才多芸、いろいろな顔を持つスティーブンス司教には実はもう一つ、余人には知られぬ様に隠している秘密の顔が有った。


「何処にいるんだい? 隠れてないで出ておいで」


 四つん這いになって、修道院の裏庭で何やら探してるスティーブンス司教の顔は、探し物をしている割には深刻さが伺えない。むしろその逆で、目尻を下げ、蕩けんばかりに相好を崩している。


「恥ずかしがり屋さんだね、意地悪しないから出ておいで。さぁ、私と一緒に遊ぼう」


 スティーブンス司教は本日修道院で行われる懺悔の会で信者達の懺悔を聞き、その事柄についてのアドバイスをすると共に赦しを与える為にやって来ているのだが、そんな役目は何処へやら、一心不乱に何かを探している。


 にゃーん


「ほら、こっちだよ、こっちへおいで。その可愛い顔を見せて、私に撫でさせておくれ」


 スティーブンス司教は、所謂『猫馬鹿』という人間であった。彼は猫を愛する余り、猫の気配を近くに感じると、それはもういても立ってもいられない状態に陥るのだ。そうして大切な仕事の最中でも途中で放り出し、夢中で猫を愛でるのである。本人はそれを隠しているつもりなのだが、周囲にはダダ漏れであった。


「おや、スティーブンス司教はどうしました」

「そういえば、通りの向こうに猫がいましたよ」

「そうですか、なら仕方ないですね」


 そんな会話が成立するくらいにバレているのは、本人の預かり知らぬ事である。この行為を周囲から微笑ましく思われているのは、スティーブンス司教の人格が如何に優れているかの証左であろう。

 懺悔室に向かう途中で子猫の鳴き声を耳にしたスティーブンス司教は、愛らしい子猫の姿を一目見ようと探していたのだった。


 そんなスティーブンス司教の様子を、物陰から伺う三人の人影があった。


「ベッシー姉ちゃん、うまくおびき寄せて来たにゃ」

「まんず上出来だけろ、ほいだばわっちも、ほれ」


 スティーブンス司教が探していた猫は、タバサの声色であった。クリっとした目で見上げ、戦果報告をするタバサにベッシーが頷いた、そして口の中で呪文を唱えると、彼女の使役する精霊達が一斉にスティーブンス司教を取り囲む。


「う、うーん」


 そうとは知らないスティーブンス司教は、いきなり猛烈な睡魔に襲われ、抗う事無く深い眠りの世界へと旅立って行った。


「まんず、こいで四時間ぐりゃぁ目ぇ覚まさんべぇ」

「じゃぁ、手はず通り納屋に寝かせて来る」


 ベッシーの言葉を受けたカエデは、夢の世界へと旅立ったスティーブンス司教を頭上に軽々と抱え上げると、納屋に向かってすたすたと歩いて行った。


「ごめんなさいにゃ、司教様。これで勘弁するにゃ」


 納屋の藁束の上に横たわり、安らかに寝息をたてるスティーブンス司教に、タバサがお気に入りの猫のヌイグルミを抱かせている時、クリスロードは長兄ウィリバルトの袖を引っ張っていた。


「ウィリ兄さん、ウィリ兄さん」


 修道院主催の懺悔の会に、ボランティアとして手伝いにやって来て、受け付けとして来席者の案内をしていたウィリバルトは、少し神妙な顔で呼びかけるクリスロードに、何事かと思い周囲の人に頭を下げて席を外した。


「どうした、クリス」


 年齢の割には老成しており、この様な席では異様に気が回るクリスロードが、ボランティアとはいえ仕事中に声をかけるのは珍しい事である。ウィリバルトは膝をついて視線を合わせ、弟の目を覗き込んだ。


「実は、スティーブンス司教が急に身体の具合を悪くして、寝込んでしまったそうです」

「スティーブンス司教が? で、容態は?」

「はい、何でも耳から痔が出て鼻から脱腸するという奇病とかで、今メリッサさんが治療しています」

「それは面妖な……。で、それがどうした? 」

「はい、懺悔を聞く係が手薄になり、懺悔室の前に待っている人が溢れかえっています」


 それを聞いたウィリバルトは顎に手を当てる。


「そうか、では受付で少し制限をして……」

「いえ、兄さん、そうではなくて」


 受付で注意を促し、入場制限をしようとするウィリバルトの思案をクリスロードが遮る。


「ナターシャ様が、ウィリ兄さんに代わりを頼めないかと言っています」

「何? 大伯母様が? 」


 マザーナターシャことアナスタシアは、モーリア辺境伯家では完全にトミーの妻として認識され、家族の一員に数えられている。であるからこそ、彼は彼女を大伯母と呼んだのだった。


「ううん、大伯母様の頼みなら私も吝かでは無いが……、果たして若輩者の私に、それが務まるだろうか……」


 頭を捻るウィリバルトを、クリスロードは屈託の無い笑顔で見上げ、一つの提案をする。


「ウィリ兄さん、ゆくゆくは父上の跡を継ぎ、モーリア辺境伯となるウィリ兄さんにとって、領民達が普段どんな事で悩んでるのかを知るのは、領政を行う上で重要な知識になると思います。今回はそれを知る良いチャンスではないでしょうか?」

「だがな……、とはいえいい加減な受け答えは出来ないし……」

「だったら、まず一人だけやってみましょうよ。やる前から出来る出来ないを考えても仕方ありません、兎に角一回やって、ダメだと思ったら断ればいいんです」


 強引に話しを進めるクリスロードに、些かの胡散臭さを感じていたウィリバルトだったが、やや離れた廊下の曲がり角で、済まなそうに頭を下げるマザーナターシャの姿を見て心を決めた。


「分かった、大伯母様の頼みだし、無下に断るわけにはいかないな。自信は無いが、クリスの言う通り、まず一回やってみよう」

「それでこそウィリ兄さんです」


 こうしてウィリバルトは図らずも、スティーブンス司教の代わりとなって懺悔を聞く事となった。懺悔室は人二人が対面で座れる程度の広さで、懺悔をする側と聞く側の間には間仕切がしてあり、互いに相手の顔を見えなくなっている。そして音声変換の魔道具で声も変えられていて、プライバシーの完全保護がなされていた。ウィリバルトが狭い懺悔室に巨体をねじ込み、椅子に座って「お待たせしました、ではどうぞ」と言って、返ってきた声を聞いて驚いた、変換されてるはずの相手の声が全く変換されていないのだ。しかもその声の主はウィリバルトの知己の女性である。


「おい、クリス、魔道具が壊れているぞ」


 小声で背後に控えるクリスロードにそう言うと、彼は涼しい顔でこう答えた。


「ええ、ですが兄さんの声はちゃんと変えられています、だから大丈夫ですよ」

「大丈夫ったってお前なぁ」

「ほら、もう懺悔が始まっていますよ、ちゃんと聞いてあげて下さいね、じゃ、僕はこれで」

「おい、ちょっと待て、クリス、クリス」


 慌てて呼び止めるも、クリスロードは天使の様な悪魔の笑顔を残し、その場を去って行った。


「あのう……、懺悔をしても、よろしいですか? 」


 間仕切りの向こうから、こちらを気遣う様に問いかける声に、ウィリバルトは覚悟を決める。懺悔をする側に気を遣わせるとは情けない、領民の生の声に触れるチャンスを無駄にしては、天国の大伯父トミーに笑われる。


「申し訳ありません、少しバタバタしまして。はい、もう大丈夫ですよ。えー、おほん。では、神の御心に貴女の罪を委ね、告白するのです」


 ウィリバルトは居住まいを正すと、咳払いを一つして懺悔を促すのだった。




 大丈夫かしら、この懺悔室の人……


 バーバラーは懺悔室の椅子に腰掛け、そう思った。

 懺悔室に入り、失礼しますと挨拶をしたら、にわかに間仕切りの向こう側はバタつき始めた。どうにも落ち着かぬ雰囲気を発散する間仕切りの向こうの担当者に、バーバラーは一抹の不安を感じていた。高名な司教さんが担当になるとナターシャから聞かされていたが、本当なのかしらと訝しく思ったバーバラーだが、まぁ懺悔をするのは自分だし、兎に角言いたい事を言ってスッキリしようと気を取り直した。

 バーバラーがこの懺悔の会に参加した理由は、マザーナターシャの勧めである。幼い時に犯した罪『他種族人に対する差別と虐待』を告白し、スッキリした気持ちで出家なさい。俗世の罪は俗世で清算し、新しく生まれ変わった気持ちで修行を始めるのです。というマザーナターシャからのアドバイスを受け、彼女はは勇んで懺悔の会に出席したのだ。目を閉じて一度深く深呼吸をすると、バーバラーは静かにその美しい口から言葉を紡ぎだした。


 私は、とある貴族の娘に産まれ、王都からこのモーリア領にやって来た卑しい女です。 私がこのモーリア領にやって来た理由は、他の貴族のお嬢さん達と同じく、かつて王都でお見かけしたウィリバルト様の御前試合での勇姿と、社交界で知った純朴で誠実なお人柄に惹かれ、是非ともその妻となりお慕いし支えたいという想いからでした。モーリア領での日々は、それは夢のような素敵な日々でした。憧れのウィリバルト様とふれあい、そのお人柄を深く知るにつれ、私の心はもうあのお方無しには生きていけない程に、想いは深くなっていきました、でも……。


 何ですと!?


 バーバラーの第一声を聞いたウィリバルトは、その意外な内容に肝を潰した。駐在渉外官としてモーリア領にやって来た貴族の娘達の真の目的を、この時初めてウィリバルトは知ったのである。仰々しい役職名でやって来たにしては、どうにも仕事そっちのけの彼女達の行動に、少し訝しく思っていたウィリバルトだったが、まさかそんな真相が隠されていたとは露ほども思っていなかった。これは由々しき事態だぞ、そう考えて彼は居住まいを正し、バーバラーの言葉を一つも聞き漏らすまいと、全身を耳にして向き直った。


 ……でも私は、このモーリア領で過ごすうちに、自分にはウィリバルト様に想いを伝える資格……、いいえ想いを抱く資格など持ってはいない事に気が付きました。私は幼い頃、教育を受けた王都の上級貴族の常識を疑う事無く、ヒト族至上主義に則り異種族差別をしており、異種族の使用人達に辛い仕打ちをしてしまいました。そしてその行いは、このモーリア領に来るまでの間、いえ、来てからもしばらくの間、全種族の頂点に君臨するヒト族の特権と思い続けておりました。しかし、ウィリバルト様と共にモーリア領の歴史を学ぶうち、それは間違った思想である事に気づきました。ヒト族はただ統治能力に優れているだけで、高貴な存在では無いと云うことを。そして純朴なこのモーリア領の全ての人達とふれあううちに、ウィリバルト様か何故あのように成長なされたのか理解出来ました。そして、自分自身がどれ程残酷で卑しい存在で有るのかを思い知りました。私の仕打ちを受け、怯えて苦痛に歪む使用人達の顔を思い出すたび、後悔と罪悪感で私の心は千々に乱れ、この身を引き裂いてしまいたい衝動に駆られます。知らなかったとか、教育のせいとかは言い訳になりません、少しでも優しさを持ち、自分自身の頭で考える事をしていれば、誤りに気付けた筈なのに……。優しさを捨て、自分自身の頭で考える事を放棄した、このような罪深い私が、あのウィリバルト様にどうして想いを伝えられましょう。私は贖罪の為に出家して、マザーナターシャの下で尼となり、種族融和の為に尽力したいと思います。この様な事で、犯した罪を償いきれるとは思いませんが、根強く残る種族差別に苦しむ人々に寄り添い、その救済に微力を捧げ生きる事を誓い、私の懺悔とさせて頂きます。お聞きくださいまして、有難うございます。


 ウィリバルトはこのバーバラーの告白に深い感銘を受けた、恐らくはクリスロードに調えられたお膳立てに乗せられた形ではあるが、それを差し引いてもバーバラーの聡明さを知った事、駐在渉外官の名目でモーリア領に訪れた彼女達の真の目的を知った事、それらはウィリバルトの心を深く打ったのだった。


 なんということだ!!


 思わず立ち上がったウィリバルトは、狭い懺悔室の天井に脳天を強打、もんどりうって前のめりに倒れた弾みで薄い間仕切りを破壊、立ち上がろうと手をかけた瞬間壁は倒壊、支えを失ったウィリバルトは再び倒れ込み、その勢いで懺悔室を完全破壊してしまった。思いもよらぬ方法で登場したウィリバルトに、バーバラーは絶句して立ち尽くしてしまった。


「ウィリバルト……様……」

「痛たたた……」


 一瞬呆然としたバーバラーだったが、身体のあちこちをしこたま打ちつけ、床に倒れ顔をしかめるウィリバルトの前に膝を着く。


「大丈夫ですか? ウィリバルト様、お怪我は有りませんか?」

「いえ、大丈夫ですバーバラー嬢、私は鍛えていますので人一倍頑丈ですから」


 心配そうな目で自分を覗き込むバーバラーに、ウィリバルトは上体を起こしながら笑顔を返す。すると安心したバーバラーは、何故ここにウィリバルトが居るのかと、再び疑念が浮かび上がる。


「ウィリバルト様、どうしてこんな所に……?」

「担当の司教さんが急な体調不良という事で、私がその代役を頼まれ……、いや、そんな事よりも」


 ウィリバルトは表情と姿勢を改め、真剣な面持ちでバーバラーの前に跪き、その手を取った。


「先ほどのバーバラー嬢の懺悔、このウィリバルト、感服致しました」

「えっ?」


 ウィリバルトのその言葉で、自分の懺悔が聞かれていたのだとしっかり自覚すると、気恥ずかしさで後ずさろうとするバーバラーだったが、ウィリバルトにしっかりと手を握られ、それを阻まれた。ウィリバルトは言葉を続ける。


「これまで正しいと信じていた事を、自ら学ぶ事で間違いと気付き認める聡明さ、その事実を受け入れ、幼い頃の過ちを反省する真摯さ、そして自らを厳しく罰するだけではなく尼になって償い改め、世の認識を少しでも変えようとする意志の力、このウィリバルト、心より敬服致します」

「そんな……、ウィリバルト様、私なんかにその様なお言葉はもったいのうございます。私がこの考えに至ったのは、ウィリバルト様をはじめとするモーリア領の皆様方のお陰です。もし私が王都にいたままならば、きっと今も酷い異種族差別をしていたでしょう、私はそんな卑しい女です」


 赤面しながらそう言い残し、走り去ろうとしたバーバラーだったが、そうは問屋が卸さなかった。ウィリバルトはバーバラの手をしっかりと握りしめ、立ち上がる。


「ただの卑しい女に、気がつける事でしょうか? ただの卑しい女が、尼になる決意をする程に深く反省するでしょうか!? 私にはそうは思えません!」


 ウィリバルトは語気を強め、バーバラーの手を自らの胸に抱き締める様に引き寄せた。思わぬ展開の推移に上気しながらも、流されてはいけないとバーバラーは反駁する。


「それはきっとウィリバルト様が仁愛の君だから、そうお感じになるのですわ。私を憐れんでその聡明さを曇らせてはなりません」

「聡明なんかであるものか! 私は世間で言われているような人格者ではありません。御前試合で活躍できたのは、ただ私の体格が他より大きかっただけで、決して剣術に優れているからではありません。それに純朴な仁愛の君なんてとんでもない、ただの世間知らずな田舎貴族の長男に過ぎません。正直な話、こんな見かけ倒しの私が、このアルステリアの要地であるこのモーリア領を受け継いで治めて良いものか、不安で仕方ありません」

「ウィリバルト……様……」

「それに比べ、貴女は住み慣れた王都を離れる決断力、自ら学び新しい事実を受け入れる器、過ちに気づき自らを糺す厳しさをお持ちです。そのどれを取ってもこのウィリバルト、恥ずかしながら貴女に遠く及びません。願わくばバーバラー嬢、この非才のウィリバルトを側で支え、叱り、教え導いていただけないでしょうか。この通り、伏してお願い致します」


 ガバッとひれ伏すウィリバルトを目の前に、バーバラーは冷静に考える。


 私は尼になるのに、ウィリバルト様の閣僚になって、納得のいく仕事が出来るだろうか?


 有難い申し出なのだろうが、どちらも中途半端に終わっては、自分のためにも、ウィリバルト様のためにもならない、ここは断るべきだろう。そうバーバラーは判断した。


「ウィリバルト様、大変光栄な申し出ですが、私にはお受けする事が出来ません」

「何と!?」


 この世の終わりのような絶望の眼差しで見上げるウィリバルトに、バーバラーはその理由を説明しようと言葉を続ける。


「私、これから出家して、尼になるというのに、ウィリバルト様の閣僚もとなると、修行と仕事を両立させる自信が……」


 言葉を続けるバーバラーの両肩をウィリバルトはがっしりと掴み、食い入るような目付きでバーバラーの瞳を覗き込む。


「閣僚なんかじゃない、私は、貴女に、伴侶として支えて貰いたいのです!」

「えっ? 伴侶??」

「はい、妻としてこのウィリバルトを支えて欲しいのです」


 モーリア領にやって来た押し掛け婚約希望者達は、この頃になるとウィリバルトの朴念仁さへの耐性が既に出来あがっている。彼女達はウィリバルトの口にする自分にとっての思わせ振りな言葉は、三ランクぐらい斜め下に判断するのが妥当であるとの共通認識を持っていた。今のバーバラーもその認識に従い、閣僚になって欲しいと言っているのだと判断して対応していたのだが、自ら諦めた上でのド直球である、その反動効果は凄まじい破壊力があった。


「妻!? きゅう……」


 降って湧いた幸せに、バーバラーの思考回路は爆発、そのまま目を回してへたり込んでしまった。


「バーバラー嬢! お気を確かに、バーバラー嬢!! 失礼!!」


 目を回したバーバラーを軽々と抱き上げると、ウィリバルトは医務室に向かって駆け出したのだった。




「なんだってさ。ま、なんにせよめでたしめでたしって事だな」

「そ、そうだな、うん、おめでたい事だ……」


 以上のウィリバルトの婚約に至る話を能天気に結んだヨッヘンリントに、動揺丸出しの相槌を打ったマリアはどんがらがっしゃんと整備道具を取り落としながらも、何とか所定の位置に片付ける事に成功した。


「今日は疲れた……、シャワーを浴びて宿舎に帰る」


 フラフラと力無い足取りで歩き出すマリアの背中に、ヨッヘンリントが声をかける。


「マリア、そっち男用だぞ」

「ああ、そうか……」


 魂の抜けた表情でマリアは答えると、回れ右して出口へと歩いていく。そして……


 バキィ!!


 突然室内に鳴り響く破壊音に振り向いたヨッヘンリントが見た物は、担いだ大戦斧が出入口の鴨居に引っ掛かった事に気付かずに、破壊して出ていったマリアの後ろ姿であった。


 その日からマリアの日常は精彩を欠いていく。心ここに有らずの状態が続き、軍務にもミスが目立つ様になっていった。それが目に余り始め、その都度鉄拳制裁を受けるも、鍛え抜かれたマリアの肉体に殴った拳が砕かれる上官が続出。また上の空で戦技訓練を行い、ついつい手加減を忘れてパートナーを病院送りにしたりと、周りを恐怖のどん底に陥れながらマリアの放心状態は日々エスカレートしていった。


「ウィリ兄様……」


 自分がそんな騒動を巻き起こしている事など露知らず、傷心のマリアは毎日ため息をついては夜毎枕を涙で濡らすのであった。


 しかしこのままではいけない。諦めたはずの想いを割りきれない乙女心をねじ伏せるべく、マリアは行動を開始した。


 その日は領民達に発表するのに先立ち、モーリア領文武百官にウィリバルトの婚約発表を行う日だった。早朝マリアは沐浴して身を清め、虎人族の武人の正装に身を包む、身仕度を終えた彼女はパウエル城へと馬を進めた。マリアは日の明けきらないパウエル城内を迷うこと無く、第一練武場に着くと入り口前に端座して目を閉じる。幼い日、マリアはよくここに来ていた。種族の持つ力の違いから、同じ子供相手では夢中になって遊べないハンディを持っていたマリアは、ここでウィリバルト相手に思い切りそのストレスを発散していたのである。そんな思い出の場所で、ウィリバルトは今なお剣の早朝鍛練をしている事をマリアは知っていた。

 幼い日の思い出に身を委ねるマリアは、この場所に近づいてくる気配を感じると、思い出を懐かしむ柔らかい表情をその端正な顔から消し去って居住まいを正す。


「ウィリバルト様」

「おお、マリアか、久しぶりだな。どうしたんだ、こんな所で?」


 やって来た気配の主に、マリアは静かに声をかけると、相手も彼女に気付き、気の置けない者に対する気安い口調で言葉を返した。成長した今も、昔と変わらない笑顔で自分を見るウィリバルトに、マリアの心は激しく動揺して決意が揺らぎそうになる。これではいけないと心の中で自分を叱責したマリアは、意を決して口を開いた。


「ウィリバルト様、この度の御婚約、誠におめでとうございます」


 片膝を着き、右拳を胸に、左拳を腰に添えて頭を下げる、虎人族戦士特有の礼を捧げるマリアに、ウィリバルトは苦笑する。


「ありがとうマリア、君が祝ってくれて嬉しいよ。でも僕にそんな礼儀はいらないよ、さあ立って。そうだ、久しぶりに稽古でもしようか……」


 優しく肩に置かれたウィリバルトの手に、マリアの震えが伝わる。その震えを感じたウィリバルトの表情が変わった。


「マリア……」

「幼き頃より妹の様に接し、目をかけて下さったウィリバルト様の御婚約、このマリア……、このマリア……」


 これではいけない、自分はウィリバルト様への想いと決別し、主君と臣下の関係になる為にここにやって来たのだ!

 そう自らを叱責するマリアだったが、堰を切った様に涙が溢れ、本当の想いを口にしてしまった。


「ごめんなさい、ウィリ兄様、マリアは……、マリアは心から、ウィリ兄様をお慕いしておりました」


 そう言って泣き崩れるマリアの背中に、そっと小さな手が優しく置かれた。マリアが顔を上げると、そこにはみすぼらしい糞掃衣に身を包み、慈愛の笑みを浮かべるウィリバルトの婚約者、バーバラー・フォン・ストライザントの姿があった。


「マリアさん、貴女もウィリバルト様の事が?」

「申し訳ありません、奥方様、申し訳ありません」


 バーバラーの問いに、マリアは床に額を打ち付ける勢いで謝罪をした。しかしバーバラーはそんなマリアを抱き起こすと、優しく微笑みながら首を左右に振ってこう言った。


「何を謝るの? 人が人を好きになる事に罪は無いわ。マリアさん、貴女に謝る事なんて何も無いのよ」

「奥方様……」


 泣き濡れるマリアをあやす様に、バーバラーはマリアがウィリバルトを慕うに至った過程を、女学生が恋バナをする様な感じで誘導していく。マリアはそれについて、何度も謝りながら涙をたたえ幼い日の思い出を語り、気がついたら何時しかウィリバルトに恋心を抱いていた事をバーバラーに話していた。


「まぁ、そうだったの……、辛かったのね、分かるわー」


 ウンウンと頷いたバーバラーは、マリアの手を取ると、額をくっつける様に目を合わせる。


「貴女も、私やみんなと一緒なのね、いえ、想い続けた歴史を考えると、私達の誰よりも深く濃いのかも知れないわ」

「恐れ入ります、申し訳ありません、奥方様」


 蚊の泣くような声で答えるマリアの言葉が終わらないうちに、バーバラーがとんでもない事を言い出した。


「マリアさん、貴女、私達の筆頭におなりなさいな。貴女が一番相応しいわ、皆さんもそう思うでしょう?」


 思考が追い付かないマリアがバーバラーの視線の先を見ると、いつの間に居たのか大勢の美姫達が納得の表情で首を縦に振っていた。


「えっ? 奥方様、これは一体?」

「嫌ねぇマリア、奥方様だなんて、貴女も同じなんだから、これからはバーバラーって呼んで頂戴。他人行儀は無しよ」

「えっ? えっ?」

「婚約発表まで余り時間が無いわ、さぁ、急いでマリアの仕度を整えないと。皆さん、手伝って下さいな」


 バーバラーの号令の下、美姫達はマリアを取り囲むと、驚く彼女に有無を言わさず連れ去って行った。


「ではウィリバルト様、後程」


 一人残ったバーバラーはウィリバルトに一礼をすると、踵を返し鼻歌交じりにスキップを踏みながら美姫達の後を追って行った。ウィリバルトは突然の嵐が過ぎ去った様な気持ちで、その場に立ち尽くしその後ろ姿を見つめるだけであった。


 ウィリバルトがバーバラーと婚約を交わした後、最初に相談した事が、駐在渉外官という名目でやって来た押し掛け婚約希望者の処遇だった。彼女達の気持ちを理解せずに、今日までズルズルと気を揉ませ続けた罪滅ぼしを、一体どうすべきなのか? それについての事だった。誰の心も無にしない、彼女達の真心に誠心誠意応える対応をしたい、全ての望みに可能な限り応えたいというウィリバルトに、バーバラーはお任せくださいと答え、その回答を持って来たのがこの前日である。

彼女はそれまでの間、全ての押し掛け婚約希望者を集めてその去就についての会合を開いていた。そうして出た答えは、全員が平等な立場でウィリバルトの妻となる事であった。モーリア領のおおらかな空気とウィリバルトの朴念仁さに身も心も感化された彼女達は、今後もモーリア領で暮らしたい、自分が彼の目に叶うなら是非とはにかみながら想いを告白した。全ての望みに可能な限り応えたいと宣言した手前、ウィリバルトにこれを拒否する選択肢は存在しなかった。自分の朴念仁ぶりがしでかした事の大きさに内心たじろぎながらも、ウィリバルトは全員との婚約を許諾するに至ったのだ。押し掛け婚約希望者の人数は、バーバラーを含めて総勢九十九名、そして今そこにマリアが加わることが決定する。


 これより数時間後、つつがなくウィリバルトの婚約発表が行われた。その結果、彼は新たな二つ名を頂戴することとなる。ウィリバルトは不本意ながらも、全世界はもとより千年先の未来にまで


『百の正妻よめを持つ男』


という勇名を轟かせる事となってしまった。

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