第10話次兄ヨッヘンリントの受難

 その日のモーリア家の夕食は、まるでお通夜の様に沈んだ食事だった。


 いつもは明るく今日の出来事を報告するクリスロードが、塞ぎ込んで無口な上に料理にも余り口をつけない。

 母親や二人の姉達がかいがいしく声をかけて、ようやく一口つける程度だった。ヨッヘンリントが場を和ませようと口を開くと、アルドンサとダルシネアが揃って般若と夜叉の表情で睨みつけ、彼を黙らせる。クリスロードがこの日の夕食で口にした言葉は「いただきます」「はい、そうですね」「いいえ、何でもありません」「ご馳走様でした」の四つである。朝の出来事をフォローする為に、クリスロードの大好きな料理を用意したのだが、「今日は食べたくありません、ごめんなさい」と言って、殆どの料理に手をつけず食堂を後にしたのだった。いつもは三杯はおかわりをするオリザさえ、殆ど食べ残したクリスロードに家族一同は騒然となる、どうしたものかすったもんだの緊急家族会議が開かれた。この時最大の戦犯と目されるヨッヘンリントは、発言どころか弁解すらも妹の冷たい視線によって許されず、針のむしろ状態であった。


 実はこの日、ヨッヘンリントはモーリア辺境伯領の全ての女性を敵に回してしまったのだ、理由はクリスの懇願をすげなく扱い、ゴーレムをあっさりと消してしまったあの行為である。グラップルの朝練が終わると、三々五々とクリスロードの友達が城にやって来る。名目は遊びに、なのだが、実際はアヤメとベッシーによる子供向けのスポーツ&魔法教室を受講しに来るのだ。


 超弩級のインストラクターがいるのに、僕達二人クリスとタバサだけで独占するのは勿体ない、もしかしたら逸材がいるかも知れません、真似事で構わないから、是非友達にも手ほどきをお願いします。


 というクリスの願いをアヤメとベッシーが聞き入れる形で始まったこの教室、育児の手間が省けて家事がはかどる、子供が礼儀正しくなった、ちょっとの怪我で泣かなくなった、明るくなった、等々の理由で親達の間で好評を得ている。遊びの真似事である為、体力に優れた子と、発育の遅れた子に分けてざっくりと二クラス作り、午前二時間午後二時間を交代で魔法とグラップルのレッスンを受けるのだ。

 朝練ゴーレム事件の後、いつもは明るく皆をリードするクリスロードが塞ぎ込んで元気が無い。正に心ここにあらずな状態で無制御に魔力を振るう為、安全に留意されていたはずのレッスン場は危険極まりない場所と化していた。

 クリスロードの危険な憔悴ぶりに、これは只事ではないと察したベッシーが、広域結界障壁魔法をかけて子供達を守りながら、同じ様に高機動局所集中防壁魔法を縦横無尽に操り、見学者を保護しているタバサに心当たりを聞いた。すると「心当たりもにゃにも」と、今朝のゴーレムを巡るヨッヘンリントとの顛末を事細かく話して聞かせた。するとベッシーと見学者の眉間に深い皺が刻まれた、見学者達は口々に「まぁ、なんて酷い」「クリスちゃん可哀想」と言う声が囁かれる。この見学者達は何を隠そう『馬』と『御者』を射にやって来た、ウィリバルトの押し掛け婚約者候補達である。彼女達の心の打算部分、夢儚く散った時の保険候補の名簿から、この時ヨッヘンリントの名前がキレイさっぱりと削除された。

 波乱の午前の部が終わり、子供達のお楽しみのお昼ご飯の時間がやって来る。子供達のお昼ご飯は初めは基本弁当持参だったが、とある休息日 ―こちらの世界でいう日曜日― に、家庭経済状況から持参出来ない子供達に向けてアルドンサとダルシネアがオリザボールとオリザロールを差し入れると、これが子供達に大好評となる。自弁の子供達は口々に「僕もお姉ちゃんのオリザボールが食べたいな。」「私はオリザロールが良いな。」と言って羨望の眼差しを向けたのだった。これに気を良くした二人は「「良いわよ、お姉ちゃん達に任せなさい!! 」」と胸を叩いて今に至る。平日は学業があるため早朝に早起きして用意し、配膳はクリスロード付きのメイド達に任せているのだが、今日は安息日である、二人の姉達が両手にバスケットを抱えてやって来た、そして憔悴のクリスロードを見て愕然とする。


「まぁ、クリス、一体何があったの? 」

「お姉ちゃんに言ってごらん」


 と、サンドイッチ頬ずりで聞いてみるが、クリスロードは


「何でも有りません、ダルシー姉さんアルディー姉さん」


 と言ったきり、抱えた膝に顔を伏せ、石のように黙り込んでしまった。二人は産まれてから初めて見る弟の落ち込みぶりに心の底から青ざめる。もしやこのままかつてのタバサの様に、気鬱の病になってしまうのではないかと考えるに至った双子の姉妹は、まるでこの世の終わりが訪れたかのように狼狽した。


「タバサちゃん、一体クリスの身に何が起こったの? 」

「どんな些細な事でも良いの、気がついた事が有ったら私達に教えて!! 」


 地獄で仏の心地で双子の姉妹は涙を目にうかべながらタバサの手を握り、取り縋る様な瞳でクリスロードの身に何が起きたのかを質問をする。


「!! ぬぅわんでぇすってぇぇぇぇ……」

「あのバカ兄めぇええ! 私達の可愛いクリスに何て仕打ちををををを……」

「「許すぁあああん!! 」」


 事の顛末をタバサから聞くや、アルドンサとダルシネアは烈火の如く激怒した。怒髪天を衝く勢いで怒り狂う双子の姉妹に、周りの子供達は心の底から恐怖する。

 女性的な柔らかさを持ちつつも、シャープネスな肢体を持ち、どんな激しい遊びにも笑顔で最後まで付き合ってくれ、そして醸し出すゆるふわな空気で場を和ませ、癒してくれる子供達の理想の憧れのマドンナの豹変ぶりに、何があっても今後この二人を怒らせる事は絶対にするまいと、この時タバサは心に強く誓ったのであった。


「ああ、可哀想なクリス」

「今からお姉ちゃん達が、悪いヨッヘン兄様に『メッ』てしてきてあげる」

「「だから早く機嫌を直してね」」


 そう言って世にも恐ろしい笑顔を浮かべると、双子の姉妹は怯える子供達を後に、兄ヨッヘンリントを成敗すべくその場を立ち去ったのだった。この背中を見送った子供達は、成長して子を成した後、子供の躾にこの時の体験談を利用する。


 お城の中の奥深く、誰も知らないお部屋の中に、とても美しい双子の女神様が住んでいます。

 女神様は言う事を聞かない悪い子や、嘘つき悪戯っ子イジメっ子が大嫌い、そんな子達には鬼の様な恐い顔をして、細剣レイピアで串刺しをしにやって来ます。でも優しい良い子には、たっぷりの愛情で守護してくれるのよ。

 女神様は千里眼の魔法で、子供達みんなの事を見ているの、だから女神様の守護を受けられる様、良い子にしましょうね。


 その後、悪い子には毎年罰を与えに、良い子にはご褒美のプレゼントを与えにやって来ると加えられ、更にその後、甘いお菓子とご馳走で迎え、正直に懺悔すれば許されると加えられた。こうしてモーリア辺境伯領にナマハゲとクリスマスが合体した行事が生まれ、それはやがて大陸全土に波及する事となる。



「じゃぁ父さん、頼んだよ」


 そう言って父カーレイの執務室から退出し、ドアを閉めたヨッヘンリントは、不意に首筋に尋常ならざる二つの鋭い殺気を感じ、身をこわばらせる。


「何奴!? 」

「何奴とは御挨拶ですわね、御兄様」

「実の妹にそれはあんまりですわ、御兄様」


 ヨッヘンリントが鋭く誰何をすると将来のナマハゲサンタは、兄の首筋を細剣(レイピア)の剣先でチクリチクリと小突きながら口を開いた。


「冗談はよせ、アルディー、ダルシー! 」

「冗談では有りませんわ、ヨッヘン兄様」

「ええ、私(わたくし)達は、至って本気ですのよ、ヨッヘン兄様」

「一体全体何のつもりだ!」


 悪鬼も泣いて逃げ出す様な凄惨な含み笑いを浮かべて迫る双子の妹を前に、蒼白となり引きつった表情に冷や汗を浮かべるヨッヘンリントは抗議の声を荒げると、妹達は更に冷酷な笑みを浮かべて答える。


「何のつもりだとは、おっしゃいますね、ヨッヘン兄様」

「ヨッヘン兄様、私達に問う前に、ご自分の胸に聞いてみては如何です? 」

「何を言っている!? 俺には話しが見えんぞ!! 」


 抗議の叫び声をあげるヨッヘンリントに対し、彼の妹達は心底嘆かわしいとため息をつきながら、顔を見合わせ首を左右に振った。


「その若さで健忘症とはお労しい」

「モーリア家の男子に凡愚無し。この伝統を穢す前に、私達で引導を渡して差し上げましょう」


 そう言うや否や、双子の姉妹は、流れる様な無駄の無い動きで、憎き兄に必殺の剣技を叩き込む。ヨッヘンリントは、充分過ぎる殺意が込められたその一撃を、剣として背負ったスコップを手に持ち替え、辛うじて受け止める事に成功した。


「お前ら、今のはマジでシャレになんねぇぞ!」

「ええ、勿論」

「シャレなどではありませんわ」


 ネコ科の大型獣が獲物を追い詰めた時の様な、嬲り楽しむ様な目でヨッヘンリントを一瞥すると、アルドンサとダルシネアは、嵐の様な刺突を繰り出した。この激しい刺突の嵐を以て、この双子の姉妹は『嵐の使者ストームブリンガー』という異名を戴いている。

 言葉にならない悲鳴を上げながら、必殺の暴風雨をスコップで右へ左へと受け流すヨッヘンリントに、双子の姉妹は忌々しげな表情で、鉄壁の防御を続けるスコップを見つめ、吐き捨てる。


「その大円匙の技、クリスからもたらされたと言うのに」

「その恩を仇で返すとは、見下げ果てた兄様ですわ」


 自分をまるで汚い物を見る様な目つきで見つめる妹達の言葉に、ヨッヘンリントの頭上に大きな『?』が浮かんだ。


「ちょっと待て、クリスが一体どうしたと言うんだ? 」

「この期に及んでまだ白を切るとは」

「今朝、兄様はクリスにゴーレムを見せびらかせて、さんざんに羨ましがらせたそうではありませんか」

「ああ、あの事か。俺は別に見せびらかすつもりでゴーレムを出した訳じゃ無いぞ、あれはだなぁ……」


 何だそんな事かと事情説明を開始したヨッヘンリントだったが、彼の軽い口調が妹達の神経を逆撫でする。


「「問答無用!! 」」


 こうして再び激しい刺突の嵐に晒されたヨッヘンリントは、スコップを振り回して細剣の切先を交わし続ける。


「おい、だからちょっと待て、落ち着いて少し説明させろ!」

「兄様の説明など、聞くに及びませんわ。ねぇ、アルディー」

「全くですわ、ダルシー。私達にとっては、ヨッヘン兄様が軽率に見せびらかしたゴーレムを恋しがり、膝を抱えて泣いているクリスの姿が全てですわ」


 ヨッヘンリントはこの妹達の言葉に目を剥いた。


「何だって! クリスが泣いているって!? そんな馬鹿な……」

「そんな馬鹿なとは一体どういう意味ですか、兄様!?」

「御返答次第では、只では済ませませんわよ、兄様!!」

「いや、だってお前達、あの聞き分けの良いクリスだぞ、こんな事で泣くなんて有り得んだろう」


 これは、当時ヨッヘンリントが『軽い』と誤解されていた原因の一つである。彼は欲しい物や達成したい事柄が有った場合、現在講じている手段ではその達成が不可能であると悟ると、たとえそれがどんなに工夫を重ねた手段であっても、あっさりと捨てて別の手段に切り替える事を躊躇わなかった。それはそれで当然の事なのだが、何故彼がそれを行うと軽薄と誤解されたのかと言うと、それは可能不可能の見切りの早さである。彼の場合、それが異常に早いのだ。普通の人ならば、何度もトライして失敗に失敗を重ねた上で軌道修正を行うところを、頭の回転が早い彼は結果が出る前にそれを予測して行うのが常であった。余人には理解出来ない諦めの早さと潔さは、目的すらも諦めたと誤解され、結果ヨッヘンリントの人格自体を見誤らせる事になっていた。

 そんなヨッヘンリントは、弟クリスロードの聞き分けの良さの中に自分と同質の物を感じていた。故にこんな事で泣くなんて有り得んだろう、と言う発言に繋がったのだ。しかしその言葉は、妹達の怒りの炎にハイオクタンのガソリンを注ぎ込む結果を産む。

 逆鱗を鷲掴みにされたアルドンサとダルシネアは、細剣をくるりと回転させて持ち替えると、無神経な兄に細剣の柄部分のナックルガードで拳打を叩き込んだ。


「ひでぶっ! 」


 双子の姉妹の絶妙なコンビネーション、肝臓と腎臓への時間差攻撃を受け、ヨッヘンリントは崩れ落ち、言葉にならない悲鳴をあげて悶絶する。女子の打撃と侮る事無かれ、アルドンサ、ダルシネア両人の細剣は、一般的な貴族の持つそれではない。それは華美な装飾を一切排除した実用性一辺倒の業物であり、当然の如くナックルガードも接近戦で相手の顎を粉砕するのが目的の優れ物だった。そんな禍々しい凶器に、卓越した格闘技術に充分な身体強化魔術を込めた一撃である、如何にヨッヘンリントがグラップルの猛者といえ悶絶ダウンするのは致し方の無いことであった。


「あら、魂の緒を刈り取った筈ですのに、随分と無駄に頑丈な兄様でしょう」

「本当に命冥加な兄様ですこと、これを契機にその軽はずみな心根を入れ替える事をおすすめしますわ」

「な……、何故だ……」


 ボクシングの世界では、顎への一撃でのダウンは天に昇る心地良さ、ボディーへの一撃でのダウンは地獄に落ちる苦しさ、と言う言葉が有る、その地獄に落ちる苦しさの中、妹達にテンカウント代わりの罵声を浴びせられたヨッヘンリントが呟いて、力なく伸ばした手を優しく握る者がいた。


「?」


 ヨッヘンリントが顔を上げると、そこには聖母の微笑みを浮かべながら自分の手を取るアヤメの姿が有った。


「メイド長、すまんが治癒魔法を……」

「ヨッヘンリント様、お稽古の時間です」

「へっ?」


 助けを求めるヨッヘンリントの言葉を遮り、アヤメが笑顔でそう言うと、ヨッヘンリントの視界が逆転した。地に伏して悶絶し、地面が見えていたヨッヘンリントの視界は、一瞬のうちに青空を映し出す、その視界に微笑み見下ろすアヤメの姿が入り、ヨッヘンリントは取られた手を支点に小手返しで投げられた事を悟った。アヤメはヨッヘンリントが背中に叩きつけられた痛みを感じる暇を与えず、小手返しから流れる様に腕絡みを極める。


「何をする!? メイド長!! 」

「ですから、お稽古でございます、ヨッヘンリント様」


 狼狽して荒らげられたヨッヘンリントの詰問を、アヤメは邪気の無い童女の笑顔で受け流し、腕絡みから腕ひしぎ十字固めに移行する。


「!!!!」


 これは筆者の体験談だが、関節技というのは、かけられて悲鳴をあげられるものは、まだまだ本当に関節を極められてはおらず、充分に脱出する余地が有り、技術さえ有れば逆に関節を取り返すチャンスでも有る。本当に関節が極まってしまった場合、その関節から脊髄を伝い、1000万ボルト級の衝撃が脳髄に炸裂し、そのショックで身体は仰け反り悶絶し、脳が悲鳴なんぞ悠長にあげる余裕を与えてはくれないのだ。そうなるともう「こう返して逆にこう極めてやる」なんて平和な事を考えている暇は無い、その痛みから逃れる為には、ただひたすらにタップをするしかないのだ。某魔女っ子プリンセスアニメのED曲の歌詞ではないが、完璧に極まった関節技の前には、岩を貫く信念も砕け散り、千の正義も真実も跪いてしまうのだ。


「ヨッヘンリント様、関節技の要諦は瞬殺に有ります。それなのに何ですか、今朝の腑抜けた関節技あの応報やりとりは」

「!! ギブ!! ギブ!! メイド長! ギブ!! 」


 堪らずタップするヨッヘンリントを無慈悲にもスルーし、慈母の様な微笑みをたたえながら、アヤメは優しく諭す様に言葉を続ける。そして、腕ひしぎ十字固めから脇固めに移行して立ち上がった。脇固めの恐ろしい所は支点が一点しかなく、その激痛を以て掛け手は受け手の動きを自由にコントロール出来る事である。肘一点にかかる激痛を少しでも和らげようと、アヤメの動きに合わせて膝立ちとなる。


「私はあんな腑抜けた技を教えた記憶は有りません。関節を取ったら即座に極める! 極めたら有無を言わさずタップを取る! 」


 ヨッヘンリントの視界が再び回転した、脇固めで姿勢が前のめりに固定され、地面を映していた視界はくるりと前転した後、青空を映し出す、そして激痛は肘から膝に移行した。アヤメはヨッヘンリントにビクトル投げからの膝十字固めを鮮やかに決めていた。膝から発信した痛みという電気信号が、脊髄を駆け上り、ヨッヘンリントの脳髄に炸裂する。激痛に仰け反るヨッヘンリントに悲鳴をあげる暇を与えず、アヤメは体格差から些か無理の有る膝十字固めから、アキレス腱固めに移行して締め上げる。


「!! ギブ! マジでギブ! メイド長!! ギブ! 本当ギブ!! 」

「派手な打撃、斬撃など所詮は華拳繍腿。一発で相手の戦闘能力を奪い、戦意を挫く関節技こそ王者の技!」

「!!!!!!! 」


 苦痛に顔を歪めるヨッヘンリントなどお構い無しに、淡々と関節技の講義を続けながら、アヤメはアキレス腱固めからヒールホールドへと技を移行した。


「刀折れ、矢が尽きようとも、己が身を盾にして仲間を守る勇気、そして自分も生き延びようとする強靭な精神無くば、到底身に付ける事など叶いません」

「!!!!!!! 」


 そう言ってアヤメは立ち上がると、ヨッヘンリントを頭上高く抱え挙げ、どの関節がどんな風に極っているか分からない、全身複合複雑怪奇な関節技で締め上げる。全身を駆け巡る激痛に息を飲み目を剥いたヨッヘンリントの全身からボキリと不気味な音が鳴り響くと、アヤメはフッと息を吐いてから漸く技をかける手の力を緩めたのだった。ドサリと地面に落ち、悶絶痙攣するヨッヘンリントの頭付近に正座して、アヤメは講義を締めくくった。


「今朝の様な心根では、道を極めるどころか、遠ざかる一方です。ではヨッヘンリント様、失礼致します」


 そう言ってアヤメは立ち上がると、師範からメイド長への職務に戻るため、踵を返して家令詰所に向かうのだった。


「仇は取りましたよ、クリスロード様」


 立ち去る間際に、小声で呟いたその言葉が、ヨッヘンリントの耳に届いていたかどうかは定かではない。



 理不尽な暴力に晒されズタボロとなり、スコップを杖に歩を進めるヨッヘンリントを呼び止める声が彼の耳に飛び込んだ。


失礼すんづれいするべはぁ、ヨッヘンリントさぁ


 声に反応して力無く顔を向けたヨッヘンリントが視界に捉えたのは、『静かなる雷鳴クワイエットライオット』の異名を恣にする電撃魔法の名手、クリスロードの魔法戦家庭教師にして、森林エルフ有力氏族、武闘派として名高いボーン氏族史上最強の魔法戦士、ベッシー・サラ・ボーン嬢がイオノクラフト効果で優雅ぶきみに宙に浮いている姿だった……。


「聞くところによっとぉ、ヨッヘンリントさぁは『ペテン師』っつう二つ名ば戴く程ん魔法戦巧者ぞな。まんずわだす一手ぺっこ御教授ばぁお願い致すたく、失礼すんづれいながら模擬戦の申し込みさぁいたすますわ」

「!? 」


 さて、その数十分後、さらにズタボロにされた上に、髪型を無理矢理アフロに変えられ、折れたスコップを杖に這うような足取りでクリスロード達の居るレッスン場へ向かって歩くヨッヘンリントの姿があった。彼には安息日の日課が有る、レッスンを終えた子供ハラペコ達に、所謂三時のおやつとしてお手製のお菓子を振る舞う事である。この三時のおやつはタバサが毎朝押し掛け婚約者達から貰ってくるお菓子で賄っていたが、食べ盛りの子供達には量が少な過ぎた。そんな話を小耳に挟んだヨッヘンリントが、一肌脱ごうと、手引き書を首っ引きで調理したパンケーキを持って行くと、思わぬ好評を得る事となる。


「コンビニスイーツなんかより、とっても美味しい! 」


 クリスロードの『意味不明』な褒め言葉に気を良くしたヨッヘンリントは、その日からお菓子作りにドップリはまって今日に至る。ズタボロにされたヨッヘンリントの心を支えているのは、自分の作ったおやつを喜んで食べる子供達の笑顔だった。その笑顔のために、妹達によってズタボロにされた身体の痛みをこらえ、やっとの思いでレッスン場にたどり着いたヨッヘンリントだったが、そこで信じられない光景を目の当たりにする。いつもなら、「ヨッヘンリント様、早く早く、僕もうお腹ペコペコだよ! 」「私も私も! 」と、子供達が群がって来て、「よーし、今準備するから待ってろよー」「ハーイ」というやり取りが有るのだが、今日に限ってそれが無い。というか、それ以前に待ってる筈の子供達の姿が見当たらない。唯一残っていたタバサに、ヨッヘンリントが涙目で事情を訪ねると、彼女は実に素っ気ない態度でこう答えた。


「若ちゃまをいじめた若たまのおやつなんかいらない。って、とっくにみんな帰ったにゃ。アタイも後片付け終わったからもう帰るにゃ」


 感情のこもらない平板な口調で事情説明をし、一瞥もくれずに立ち去ったタバサの背中を見送ったヨッヘンリントの心の中と、誰も居なくなったレッスン場に一陣のすきま風が吹き荒ぶ。


 ついに心が折れ、力無く倒れ伏したヨッヘンリントを、不意に優しい治癒魔法が包み込んだ。ヨッヘンリントが顔を上げると、そこにはやれやれと困り者を見つめる表情で自分を見下ろすメリッサ筆頭魔導官がいた。


「やれやれ、頭の回転が速過ぎるのも良し悪しじゃのう。お前さんの頭についていく心の持ち主なぞ、そうそう居るもんじゃあ無いぞえ。これからは要所で立ち止まって、相手の心が追いつくまで待つ様に心掛けるべきじゃな」


 メリッサの助言に、ヨッヘンリントはウルウルとした涙目で、何度も何度も頷くのであった。




「やっちまったぁ!!! 」


 今朝、ヨッヘンリントとのゴーレムについてのやり取りで泣き叫んだクリスロードはその後、思考面、前世記憶の『おっさん』部分が幼児としての感情に追いついて、その抑制に成功する。そして冷静になると、今度は先程の子供じみた行為を恥じて赤面する事と相成った。それは再び幼児としての感情面が暴走する原因となり、無かった事にしたい、穴が有ったら入りたい、消えて無くなりたいという感情に支配されたクリスロードは、レッスン中に魔力を暴走させたり姉達に顔を見せられなかったりと、また子供じみた逃避を行う事となる。そしてまたおっさん部分が追いついて、またそして……。

 と、いう感じで只今クリスロードは、幼児の感情と大人の理性が織り成す負のスパイラルに陥り、もがき苦しんでいる最中であった。


「恥ずぃ~っ、消えて無くなりてぇ~っ」


 荒れ狂う自己嫌悪の嵐にもまれ、濁流にくるくると翻弄される笹舟の様に心と身体を悶絶させ、クリスロードは団子に結われた頭から髪飾りを引き抜いた。クリスロードが髪飾りに魔力を込めると、それは輝きながら一本のギタールへと変化していく。


「俺の大馬鹿野郎~っ!!!! 」


 大声でシャウトして掻き鳴らすギタールの音色は、正統派の音楽家ならば顔を顰める様な酷い音色だったが、クリスロードはお構い無しにピックを振るう。


「あれぇ、お師さん、今日の事がそんなに気になりやんすか? 」

「出来る事なら、目覚めた時からやり直したい」

「まぁ、うふふふふふ。お師さん、何やら子供らしゅうて、可愛らしいやないどすか」

「そんな、笑うなんて酷いじゃないか、レイラ! 」


 思わず吹き出したレイラに、クリスロードが膨れっ面で抗議をすると、レイラは優しく彼を諭す。


「堪忍や、お師さん。でもな、わちきは安心したんでありんすよ、子供らしいお師さんの姿に」

「安心した? 」


 驚き聞き返すクリスロードにレイラは続ける。


「そうどすえ。お師さん幼児のくせに、ちっとも幼児らしくあらへんえ、わちきはどないしょ思ってましたわ」

「え? でもレイラは俺がどういう存在だか知ってるだろう? 」

「勿の論どす、それでもわちきは不安になりやんした。知らへん人は、もっと不安だったんやあらしませんか? 」

「……」


 キッパリと言い切ったレイラの言葉に、思い当たる節がてんこ盛りのクリスロードは黙りこむ。


「あれで良いんでありんすよ、きっと。確かに皆はん心配しとるやおへんけど、きっと安心もしとるに違いあらへんえ。変に老成した所もありんすが、お師さんはやっぱり年相応の幼児なんや、って」

「そうかな……」

「へぇ、そうでありんす。お師さん、タバサちゃんに言ったでありんしょう、これからは一緒にいっぱい楽しもうって」

「うん……」

「ほんなら、お師さんも、もいっぺん幼児に戻って楽しんだらよろしいのでありゃしませんかえ? 怪異のわちきが言うのも変かもでありんすが、お師さんみたいに記憶を持ち越して生まれ変わるなんて不思議は聞いたことあらしません。お師さんは前世でぎょうさん嫌な事があったでやんす、折角やり直すチャンスが出来たんおすから、無駄にするんはいけずと言うもんでありんすよ」

「それは分かっているんだけどね、でもなぁ……」


 その辺のところはクリスロードとて良く分かっている、だがしかし、前世記憶の新田九朗としては、なんともやりきれない、釈然としないものが有った。それもその筈である、前世五十歳プラス今世もうすぐ七歳、都合五十七年分の記憶がシームレスに続いている彼としては、現在進行形の『幼児プレイ』には名状し難い抵抗感が有った。そんな訳で、いまひとつ煮えきらない態度をとるクリスロードに、レイラは音色を更に歪ませてたたみかける。


「ほんならお師さん、わちきの言葉は神さんのお告げや思うて、従うでありんす」

「神様って……」


 いきなり突飛な事を言い始めたレイラに、クリスロードは目を丸くした。


「お師さん、前にわちきが気持ち悪(わろ)ないか聞いた時に、わちきの事を神さんみたいなもんやから、問題あらへん言ったでありんすなぁ。確か、付き……、付き……、付く……? 」

「付喪神」

「そう、その付喪神。付喪の神さんのお告げや思って、有り難く受けてくりゃさんしぃ」

「付喪神のお告げなんて、聞いた事無いぞ」

「まだ言いよりますか! ならこうしてやりんす!」


 まだ言い繕おうとするクリスロードに、レイラは更に酷く音色を歪ませて迫る。


「あっ、この音色クール! 」


 クリスロードは歪んだ音色をを利用して、デスメタル調のコードを刻み、激しくヘッドバンギングを始めた。その姿にレイラは心底呆れ、ため息をつく。


「はぁっ、お師さん本当変わってますなぁ、今までのお師さん達は、わちきが少しでも音を歪ませたら、大層に狼狽えよったのに、お師さんはその歪んだ音色すら喜んで楽(がく)を紡ぎよりやす、罰にならしません」

「エフェクターの話はしただろ、レイラ」

「へぇ、でも元々の綺麗な音色を、わざわざ手ぇ加えてこんな酷い音色にするなんて、わちきには理解出来ひんえ。まあ、今回はお師さんの心の乱れを抑えられた事で良しとするでありんす」


 そう言ってレイラは歪んだ音色を、元のクリーンな『天上の音色』と形容される、甘く、それでいて強い芯の通った音色に戻した。クリスロードもそれに合わせてデスメタル調のコードから前世で速弾き練習によく弾いていた、パガニーニによる超絶技巧練習曲第三番『ラ・カンパネラ』に変え軽快に弾き始めた。そしてクールになった頭で、如何にしてあのゴーレム召喚魔導具を迅速に手に入れようかと算段を開始した時である。


「若ちゃま、入るにゃ!」

「「「「わたたたた」」」」

「タバサ、みんな」


 恐らくは扉にへばり付いて中を伺っていたが、勢いよくタバサが扉を開けたがために支えを失い、部屋の中に転がり倒れ込んできたのであろう家族一同と、大きな羊皮紙を抱えて飛び込んできたタバサを、クリスロードは目を丸くして交互に見やった。

「いやいや、私達は決して覗いてなんて」と誤魔化す家族一同を踏み越えて、クリスロードの目の前に駆け足でやって来たタバサは、持ってきた羊皮紙を床に広げる。羊皮紙には、恐らくタバサが書いたのであろう、たどたどしくも夢のいっぱい詰まった、可愛ら勇ましいゴーレムの絵が描かれていた。


「タバサ、これは?」

「若ちゃま、本当はゴーレムあげたいんにゃけど……」


 目に涙を浮かべ、しゃくりあげながら、タバサはクリスロードに説明する。


「ごめんなさいにゃ、今はこれで我慢して欲しいにゃ!」


 タバサは悔しかった、かつて自分が気鬱に沈んでいた時、クリスロードは持てる魔法の限りを尽くして救い出してくれた、でも自分は落ち込むクリスロードにこの程度の事しか出来ない、その事実が堪らなく悔しかった。


「ありがとう、嬉しいよ、タバサ。これはどんなゴーレム?」


 紙ほどではないにしろ、記録媒体として羊皮紙は貴重な品物だ、それもこんな大きな物は子供がおいそれと手に入れられる代物ではない、きっとあちこちに必死に頭を下げて譲り受けた物に違いない。落ち込んでいた自分を慰めようと、必死に頑張ったタバサにクリスロードは胸を打たれた。悔し涙に泣き濡れるタバサの背中を優しく擦りながらクリスロードが尋ねると、タバサは大慌てで涙を拭いて鼻をすすった。


「これはこの世で一番強いゴーレムにゃ、このゴーレムにかかったら、あの怖い鉄の獣も、若たまのゴーレムもこてんぱんのイチコロにゃ!」


 大好きな若ちゃまが元気を取り戻し、嬉しくなったタバサは泣いたカラスよろしく喜色満面で夢中で絵のゴーレムの説明を始めた。その背中にもう一度、クリスロードは心の中で礼をするのだった。


「本当にありがとう、タバサ」

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