Ⅹ 原っぱの中央で  



 自然が工業の発展により減少しつつある、県。

 県の端に位置する、背の低い建物が碁盤状に並ぶ、地区。

 地区境の公道に沿って建てられた住宅街の中に、ぽっかりと浮いた形でその土地はあった。

 一度も花が咲いたことのない桜の木が生えた、小さな空き地。

 この場所は、売りに出てから何十年という年月が経っているのに、未だに売れ残っていた。

 工業化を邁進する県にとっては珍しいことだが、この土地にまつわる噂話を考慮すれば、仕方が無いことかもしれない。

 かつては咲かない桜の木から生まれた作り話ばかりだったのだが、近年では実際に土地を購入しようとした男性が交通事故にあい、また、土地内で遊んでいた子供がいなくなるという出来事があった。

 前者は実際に目撃した人もおり、テレビで報道されたということもあって、全国規模で知れ渡っている。後者は報道こそされなかったものの、街のごく一部で話題になったことが逆に閉塞的な趣を現し、近隣に水面下の恐怖を与えた。『土地の呪い』『桜の木の神隠し』と語られているこの場所は、日本全国という広い範囲にも、町内という狭い範囲にも奇怪な存在として認識されているのである。

 そのせいか、ますます人は離れていった。風評の煽りを喰らったせいか、隣で長年商売を続けてきた酒屋も、今月限りで店をたたむことになった。しかし売りに出しても、呪いの土地の隣というだけあって、買い手が付かずに空き地になるのは明らかだ。

 都心で高層マンションが建てられる一方で、地区境の住宅街ではひそやかに、わずかずつ自然が増えていた。そしてそれらは全て、この小さな土地から始まった一連の現象だった。




 変化しない土地。時代の流れに影響されずに在り続ける、桜。

 その下ではいつもと変わらず、妖精が静かに過ごしていた。

 三月末という、冬なのか春なのかはっきりしない中途半端な時期なので、いつも以上にやることがない。ハルガはしゃがんで、地面からタンポポの芽が出るのを見つめていた。

 タンポポの花が咲くことは、春の到来をイメージさせる。咲かない桜よりもタンポポの花の方が好きなのは、そういった理由からだった。だが、今のハルガには、そんな晴れやかな気持ちは無い。

 ハルガはいい加減飽きたのか、雑草が生えてきたばかりの原っぱに面倒くさそうに座り込むと、空を見上げた。空には、冬の寒さがまだまだ続くと言いたげな、重苦しい暗雲がかかっていた。


 隣の酒屋が潰れるのか。

 潰れた後には、何ができるのだろうか。

 駄菓子屋さんならいいな、子供もたくさん来るし。

 あ、やっぱりラーメン屋がいいかも。臭いだけでも嗅いでみたい。


 ハルガは陽気に笑い飛ばそうとしたが、出てくるのは乾いた声だけだった。頑張って明るく振る舞おうとしても、心は逆にしんみりとしてしまう。

 時間の流れに沿って、周りは変わっていく。

 生まれたときから隣にあった酒屋が無くなるように、隣の家のおじさんが奥さんの元に帰ったように。

 でも、ここだけは変わらない。いつまでも同じだ。

 咲かない桜の木が一本。妖精が一人。

 昨日も、今日も、明日も。そしてこれからもずっと、変わらないんだろう。

「はぁ」

 思わず、溜息が漏れた。そのまま力を抜いて、どさりと仰向けに倒れる。前髪が捲れて、おでこが丸見えになっているのが分かるけど、誰もいないから別に構わなかった。

 両手を頭の下に敷いて、また目の前に広がる冷たい空を見遣る。これ以外に、見ていて変化のあるものは無い。とはいっても、雲が流れる程度なのだけれども。そういえば、灰色の雲は、それほど私に似ているのだろうか。不意に、誰かがそんなことを言っていたのを思い出した。もし似ているなら、実は私は雨雲の妖精なのかもしれないな。それなら、雲みたいに風に流されて、遠くまで飛んで行きたい。

 呆と、とりとめのない時間が過ぎていく。

 雲は流れ、鳥が横切り、風が吹く。だが、それでも、原っぱに変化は一切無かった。どれほどの時間が経過しても、ずっとこのままだ。

 そしてそれは、何十年と繰り返されている、無意味な行程だった。

 今日もこうして、何も無いまま終わるんだろう。

 ハルガは、そう信じて疑ってなかった。そして、そのまま瞼を閉じて、眠りに就こうとした時だった。ふと、遠くから一定間隔で近づいてくる音が聞こえた。砂利を踏む音から、足音だと分かる。

 どこか、その足音に聞き覚えがあって、そっと視線を移す。


 ――タカヒロ。


 驚愕に、胸を打たれた。咄嗟に、上半身を起こす。

 空き地の前の道路を、上下ジャージ姿のタカヒロが走っている。

 高校生の時から見ていなかったけど、一目でタカヒロだと分かった。見間違えるはずが、あるもんか。あれは、確かにタカヒロだ。

「タカヒロ……!」

 思わず嬉しくなって、立ち上がった。するとタカヒロは、私のことを見……

 ……いや、空き地の中を一瞥して、そのまま通り過ぎてしまった。

 昂揚した気持ちが、一瞬で凍り付く。

 ハルガは、気の抜けたように腰を下ろした。そして、タカヒロが消えた道の先をずっと見ている自分が、情けなくて、奥歯をきつく噛みしめた。

 どうして、喜んでしまったのだろう。どうせ、タカヒロにはもう、私のことなんか見えないというのに。私のことなんか、忘れているというのに。

 でも、それなのに。

 私はいつまでも忘れることができない、なんて。

 ハルガは、今までタカヒロのことを忘れたと、自分自身に思い込ませていたが、やはり無理だった。忘れることができなかった。それほど、タカヒロと過ごした時間が、貴重だったから。

 胸の奥に秘めた気持ちの宝石箱を、苦しくなるほど、ぎゅっと握りしめる。心が、悲鳴をあげた。

 私は、馬鹿だ。最悪に女々しいやつだ。もういくつもの季節が流れたというのに、未だに離れられないなんて。

 ハルガは、頭を抱えた。もはや、生殺しのように思えた。こんな思いをするぐらいなら、消えてしまいたい。

 もう、どうせ、一人ぼっちなんだから――

「タカヒロ……」

「どうしたの?」

 ハルガは、頭を押さえていた手を離した。目を見開いて、ゆっくりと、声の元を見る。

 そこは、すぐ隣。肩が触れるか触れないかの、至近距離に。

 タカヒロが、座っていた。

「ごめん、ハルガ。悪戯が過ぎたかな」

「え……」

 ハルガは、唖然とした。

 隣に、タカヒロがいる。

 いなくなったはずの、タカヒロが。

 もう、見えない、はずなのに。

 頭の中が、一瞬で真っ白になった。目に映っているものが理解できなくて、何も考えられない。だから、出た言葉は、非常に安易なものだった。

「どうして……」

「さっきのは見えないふりをしてたんだ。本当は見えてたんだけどね。こっそり近づいたら驚くかな、って思って」

「そ、そうじゃなくて」

 ダメだ、頭が回らない。

「なんで、ここにいるの?」

「ああ、音を立てないで近づいただけだよ。昔もハルガ、気が付かなかっただろ? 腰ぬかしちゃってさ。案外鈍いんだな」

 タカヒロが、軽く笑い飛ばす。ハルガはその様子を、目を丸くして見つめていた。

 タカヒロの顔は、大人らしくなったものの、昔の面影が残っていて、あまり変わっていないように思えた。その代わり、背丈が馬鹿みたいに伸びていて、顎には髭が生えている。そう、どこから見ても、大人だ。

 なのに、なぜ、タカヒロは私のことが見えるのだろうか。

「えっと……私のこと、なんで見えてるの……?」

 思ったことをそのまま口にすると、タカヒロはうーんと唸った。

「なんでだろうな。俺、未だに子供なのかもな」

「そんなことって……それに、記憶から消えたはずでしょ?」

「ああ、そのことなんだけど」

 タカヒロは、思う存分原っぱに寝転がると、曇り空を見上げた。そして、やっぱりこっちの眺めの方がいいや、と言うと、にっこりと笑った。

「思い出せたんだよ、ハルガのこと。でも、思い出の品は全部引っ越しの時に捨てちゃってたからさ。俺ももう二度と、記憶が戻らないと思ってた。でもさ、俺と美保ミホ……妻の間に女の子が生まれてな。遥香ハルカっていう名前なんだ。それがもう、すごく可愛いらしい娘でな。見た目も中身もハルガにそっくりなんだよ。多分無意識の内に、ハルガから名前をもらったんだろうな。それで遥香が、年頃になって、アクセサリーが欲しいって言いだしたんだよ。そして一緒に百貨店に行ったら、偶然見つけたんだ」

 タカヒロが、ハルガに手を伸ばす。

 大きな、太い腕。

 ハルガは、びくっと目を閉じた。恐る恐る目を開けると、タカヒロの手は、頭の上の黄色いリボンに触れていた。

「嬉しいな、まだ付けていてくれたんだ」

 タカヒロは言ってから恥ずかしくなったのか、視線を逸らしてしまった。ハルガは、その様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。

 見た目が大きくなっても、中身は昔と変わっていないんだね。

「そのリボンを買って、遥香の頭に付けたんだ。そしたら、遥香の姿と、ハルガの姿が重なって……そこで、全部思い出した。ハルガのことを、全部」

 でも、とタカヒロは首を傾げた。

「思い出した理由は分かったんだけど、なんでまだハルガを見ることができるのかなあ。もう大人になったはずなのに」

 大人になってないよ。

 ハルガは、心の中でそっと付け加えた。

 私が見えるなら、まだ子供の証。

 タカヒロは、ずっと子供のような純粋な心でいたんだ。

「まだまだ子供だな、タカヒロも」

 ハルガは、勝ち気で言った。鼻をぐずらせながら。

 タカヒロは、嬉しそうに笑って答えた。

「その通りだよ」

 空き地の中に、笑い声が響く。二人分の、笑い声。

 楽しくて、嬉しくて、ハルガの目からは水滴が零れていた。

「ハルガ、泣くなよ」

「泣いてないよ……これは宝石だ……」

「はいはい」

 タカヒロはあやすように、ハルガの頭に手を載せた。

 大きいけど、柔らかい手。以前は私が撫でていたはずなのに、今では撫でられている。

 それが、信じられなくて。

 心から、嬉しかった。

 ハルガは目を閉じて、されるがままに頭を撫で回してもらった。

 いつかのように、春風になりかけた穏やかな風が、二人の髪を揺らす。微かに、甘い花弁の匂いが、鼻先をくすぐった。

 するとタカヒロは、ふと、思いついたように言った。

「なあ、ハルガ。俺、ここに引っ越そうかな」

「……え?」

 突然のことに、返事が間の抜けたものになってしまった。

「娘の遥香が来年で小学生になるから、丁度マイホームを買おうって話になってたんだ。それに、ここに家を建てれば、ハルガとずっと一緒にいられるだろ? 中央に桜の木が生えてるから、ロの字型の家にすればいい。真ん中は庭園にしてさ。 ……いや、違う、それだと違うな。そうだ、家の中に桜の木が入るように設計しよう。これなら暖房が効いた部屋の中で、ハルガと一緒にいられるな。天井を硝子張りにして、日光が入るようにしよう。なんだったら隣の酒屋が無くなった土地も購入して、くっつけて広くしてもいい。それに遥香ももう六歳だから、ハルガといい遊び相手になるぞ。小さいけど、元気いっぱいな娘でな。ハルガと遥香で、一生懸命かけっこをすればいい。俺もいるから、三人で一緒に遊べるぞ。それにな――」

「うん、うん……」

 ハルガは、目元を指で擦りながら、何度も頷いた。

 大人になったタカヒロに、頭を撫でられながら。

 タカヒロの温もりを、感じながら。


 私は、今までずっと一人で。

 子供が大人になる、未来なんか。

 少しも、期待していなかったけど。

 未来が、初めて楽しみになった。

 もう、私は、一人じゃないから。

 友達が、できたから。


 二人の上には、桜の木の枝が伸びていた。

 それは、百年以上もこの土地に在り続ける、桜の木。

 咲かないはずの、桜の木だった。

 春の訪れを予感させる三月。

 桜の枝の蕾は、静かに開き初めていた。




 薄く沈んだ曇り空の下。

 桜の木が咲く、小さな原っぱの中央で。

 戯れる、二人の子供の姿。


                            ――了

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春が遙か 赤狐 @yumegaato

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