Ⅸ 春が来ない



 なんでなんだろう。

 どうしてなんだろう。

 全ては、掌から零れ落ちる水滴のように。

 私の手元から、消えて無くなってしまう。

 ハルガは、桜の木の幹に寄りかかりながら、思った。

 タカヒロが来なくなってから、どれほどの時間が流れただろうか。

 果てしなく永い、重い季節が、何度も通り過ぎて。

 覚えている限りでは、確か十年ぐらいだったと思う。

 誰もいなくなった今は、時間を数える必要は無い。

 それなのに、時が経つのは、酷く緩慢で。

 タカヒロが居た時間は、瞬く間に過ぎ去ってしまって。

 楽しい時間ばかりが早く終わって、辛い時間だけは遅く続いて。

 この意地悪な現実が、私を百年以上も前から、蝕んでいる。

 寿命が長い私にとって、退屈な時間は地獄のようだ。

 誰もいない、誰も来ない、私だけの孤独。子供が一緒にいる時なんて、ほんの僅か。一生の百分の一にも満たない。

 だから、その子供といられる短い時間が、本当に楽しくて。

 いなくなってから、深い哀しみを覚える。

 ナオキも、ハジメも、コウスケも、コトミも。

 みんなみんな、いなくなった。

 最初に会ったナオキは、小学三年生の時にサッカー友達と遊ぶようになって、来なくなって。

 ハジメは、小学二年生の時に、ゲームを買ってもらったと喜んでいて、その次の日から来なくなった。

 コウスケは、小学四年生の時、この通りの前で車にはねられて、そのままいなくなって。

 コトミは、中学受験の時に、親に塾に行かされるという話をして、それから私の前からいなくなった。

 みんなみんな、私の前から突然、消えてしまう。

 誰一人として、残ってくれなかった。まるで自然だと言うように、大人になる時間が来れば、消滅してしまう。

 そして、タカヒロも――もう、いない。


「なんでなんだろう……」


 ハルガは、地面に体育座りをすると、顔を膝に埋めた。

 季節は、冬。道の前を、毛糸のセーターと帽子をかぶった男の子が歩いている。ふと、男の子がハルガを見た。ハルガも、上目遣いに男の子を見た。一瞬だけ、目が合った。そして男の子は、側にいた母親に手を引かれて、いなくなった。

 冷たい風が、何も無い空き地に吹き付ける。ただ、年老いた桜の木の枝だけが、風になびいて揺れていた。

 タカヒロがいなくなってからも、子供と会うことはあった。だが、大体親がいて、一度も話すことなく消えてしまう。運良くその時に親がいなくて、一緒に遊んだ子供もいたが、次の日には来なくなっていた。

 今の御時世では、子供を常に監視していないと気が済まない親が多いらしい。子供が一人で出かけるのは危険だと思い、すぐにやめさせる。

 そんなに心配なら、首輪でも付けておけばいいのに。

 ペットのように、檻の中で大事に飼えばいいんだ。

 そんな思いを巡らせながら、さらに気分は沈鬱していく。罵倒しても、言葉は誰にも届かず、ただ自分の身に跳ね返るだけで。

 すごく、情けなかった。

 もう、タカヒロの親ほど、子供を放って置いてくれる家庭はないようだ。過保護といえばそうだし、幸せな家族ともいえるのだろう。

 タカヒロの名前が出たせいか、懐かしい日々が頭をよぎる。

 そういえば、タカヒロは高校生になった後も、何度かこの空き地の前を通っていた。そしてその度に、一度立ち止まり、桜の木へと目を向けてくれた。

 タカヒロに声をかけたかった。喉元まで出かかった。

 どうせ聞こえはしないから、呼んでもいいだろうと。

 でも、できなかった。タカヒロの名前を、呼べなかった。

 どうせ振り向いてくれやしない。そんなのは、悲しいだけだ。

 もしかしたら、振り向いてくれるかもしれない。そう都合良く考えた時もあったが、そんな希望を抱いては、いくつ打ち砕かれたことか。

 だから、声をかけなかった。いや、それは嘘だ。声をかけられなかったんだ。これ以上、傷つきたくなかったから。

 それに、タカヒロを呼び止めたところで、どうにもならない。彼はもう、大人の世界に入ってしまったのだから。

 もう、タカヒロは大人なんだ。子供だったあの時とは違う。タカヒロは、私から卒業したんだ。だから、私も、卒業しなくちゃいけない。

 ハルガは、体育座りのまま、おもむろに桜の木の根元に手を伸ばした。そこには、地面に埋めて保存していた、過去の思い出が置いてあった。

 軽い、アイスキャンディーの棒。

 他にも、夏休みの絵日記の切り取ったページや、零点のテストがあったのだが、それらはすでに雨の中に曝して、ぐちゃぐちゃに溶かして風化した。

 この質素な棒だけが、タカヒロとの間を繋ぐ、最後の希望だった。

 ハルガは、無心でアイスキャンディーの棒を握りしめた。大きく息を吸って、しっかりと道路を見据える。

 そして、思いっきり、放り投げた。

 弧を描いて飛んでいく、アイスキャンディーの棒。コンクリートの道路に落ちて、そのままだった。

 ハルガはそれを見て、また膝の中に顔を埋めた。

 両膝に、両頬を当てる。泣いているわけではなかった。ただ、温かさが欲しいだけだった。人恋しさを感じる、だけだった。

 どれほどの時間が流れても。

 どれほどの季節が通り過ぎても、私は、タカヒロのことを忘れられない。

 タカヒロがくれた物を捨てても、タカヒロを捨てることなんて、できないよ。

 記憶から消そうとすると、逆に、昔のことを思い出し、懐かしんでしまう。ダメだとは思っても、過去の温かかった日々の余韻に浸ることを、拒めなかった。

 ハルガは、無意識の内に、遠い日を思い出していた。

 それは、一番嬉しかった日。初めて逢ってから、一週間ぐらいが経った頃。

 その時、タカヒロは小学校二年生で。

 小学校の友達を、連れてきたんだっけ。




「みんな、ハルガだよ! おれのともだちなんだ!」

 春の温かさが落ち着いてきた、あるお昼のことだった。

 タカヒロは同じクラスの友達を二人連れてきて、私に彼らを、彼らに私を紹介してくれた。

 私も、嬉しかった。また新しい友達が出来るのかと、期待に胸を膨らませていた。

 だが、実際には、そんなことは無かった。友達二人には、私のことが見えなかった。

「え、どこにいるの、そのともだちは」

「ほら! ここにいるだろ!」

 タカヒロが一生懸命に指を指したけど、友達二人はよく分からないというような顔をしていた。

「ねえ、コアラ公園にいこうよ。あそこで『ひみつせんたいジャッカーフィーバー』やりたい」

「おれがレッドやる!」

「はやくいこうよ、タカヒロくん」

 タカヒロは、友達二人と私を見比べた。

 この時、ハルガには分かっていた。最近の子供は、漫画を読んだり、アニメを見たり、ゲームをしているから、心が汚れて、妖精のことが見えないんだ、と。

 ハルガは既に、覚悟していた。これがタカヒロとのお別れになることを。ここでタカヒロが友達を選ぶことは、当たり前であり、自然なことだから。

 ハルガは、そっとタカヒロから離れると、項垂れて、桜の木の陰へ行こうとした。だが突然、肩を掴まれた。

 驚いて背後を振り返ると、そこにはタカヒロの真剣な顔があった。そしてその後ろには、連れてきた友達二人が帰るところが見えた。

「タカヒロ、友達は……」

「うん、公園にいくんだって。おれはここがいいや」

 タカヒロはそう言って、さも当たり前のように、ハルガに笑いかけた。

「ね、ハルガ。なにをして遊ぶ?」

「……タカヒロは、友達と遊ばなくていいのか?」

「え、なんで? おれのともだちはハルガだよ」

「いや、そうじゃなくて……ええと」

 ハルガは、タカヒロに自分のことを説明した。

 妖精だから、大人には見えないこと。最近の子供にも見ることができないこと。今はタカヒロにしか見えていないこと。

 そして、自分と遊ぶより小学校の友達と遊んだ方がいいんじゃないか、と言う前に、タカヒロが口を挟んだ。

「じゃあ、ハルガはずっと一人ぼっちだったの?」

「……まあ、そうだな」

 否定する意味も無いので、正直に答える。

 するとタカヒロは、大きく胸を張って言った。

「じゃあおれ、ハルガとずっとともだちでいるよ」

「……え?」

 どうして話がそこに飛んだのか、理解できない。ハルガが頭を悩ませていると、タカヒロがぽつりと呟いた。

「おれ、一人でいるかなしさ、わかるからさ。すごくさむくて、なきそうになるんだ」

 タカヒロの両親の話が、頭をよぎる。そうだ。タカヒロは、ずっと独りぼっちだったんだ。両親がいるのに構ってもらえず、理不尽な寂しさを感じて、生きてきたんだ。


 そう、それはまるで、この土地から出ることができない、独りぼっちの私のように。


「ハルガが一人なら、おれがともだちになるよ。ずっとともだち。だから、ハルガはもう一人じゃないよ」

 タカヒロは、無邪気に笑った。

 その笑顔が、とても素直だったから。

 私は、素直に涙を零してしまった。

「ああ、ともだちだ……」

「どうしたの、ハルガ。いたいの?」

「ううん、これは違うの……これは、宝石なんだ……」

 遠い春の日の、懐かしい記憶。

 私とタカヒロが、友達になった日。

 そう、ともだちだ。

 ずっと、ともだちだ。




 閑散とした空き地の中に、寂れた風が渦を巻くように吹き込む。

 中央では、枯れ葉が風に翻弄されてくるくると舞っていた。

 ハルガはそれを気にも留めずに、心の中でずっと、タカヒロの言葉を反復していた。

 ともだち。

 ずっと、ともだち。

 でも、タカヒロは、もう。

 表の道路を見た。そこには、アイスキャンディーの棒が落ちていた。空き地の外に出てしまったから、もう戻らない。

 大人の世界に行ってしまったから、もう帰ってこない。

 思い出も、タカヒロも、決して。

 だから、忘れよう。

 もう二度と逢えないのなら、忘れてしまおう。

 戻ってこないのに覚えているなんて、辛すぎるよ。

「卒業しなくちゃ……」

 ハルガは、目元の水滴を拭った。ポンチョの裾に染み入る、雫。

 そして、本当に最後に残っている、タカヒロとの思い出を捨てることを、決意した。

 そっと、自分の頭に手を伸ばした。髪に指を絡ませて、黄色い大きなリボンを外す。両手に載せて、目の高さまで降ろして、じっと見つめた。

 これが、タカヒロとの最後の思い出。最後の、繋がり。

 タカヒロがくれた、私が欲しかった女の子のリボン。

 大きくて、黄色くて。タンポポの花弁のような、温かくて優しいプレゼント。

 目を閉じれば、もらったときの記憶が、鮮明に思い出せる。

 タカヒロが、リボンをくれた日のこと。

 中学受験の時に、後ろから抱きつかれたこと。

 そして、高校受験の時に、私を忘れたこと。

 卒業、しなくちゃ。

 タンポポの花弁のような大きいリボンを、小さな手でポンポンと叩く。柔らかい感触、綺麗な黄色が、とても大好きで。

 これをくれたタカヒロのことが、本当に、大好きで。

 思い出すと、頭の中が、白くなって……

 リボンを、右手に持ち替えた。ぎゅっと、握りしめて、腕を振りかぶる。空き地の外へと、大人の世界を目がけて。


 力強く、放り投げる。


 だが、実際には、リボンから手を離せなかったし、力も弱々しかった。黄色い大きなリボンは、ずっと私の右手の中にあった。

 手の中に遺る、かつての温かさ。

 捨てられなかった、遺してしまった思い出を、桜の木の根元に静かに置いた。

 弱い自分が、不甲斐なくて、奥歯を強く噛みしめた。

 無理だった。投げられなかった。

 忘れることなんて、できなかった。

 タカヒロとの思い出を、失ってしまうだなんて。

 そんなこと、私には、到底できなかった。

 私は、タカヒロから卒業できない。

 あんな偉そうなことを言っておきながら、私は無力だ。

 どうしようもなく、臆病で、意気地無しで、寂しがり屋だ。

 ナオキのことも、ハジメも、コウスケも、コトミも、そしてタカヒロも。

 誰一人として、忘れることなんて、できやしない。

 だって、みんな、私の大切な、友達――だったんだから。

 地面から立ち上がって、無意識に手を突いた。指先には、樹皮のザラついた、萎れた感触。

 ハルガは、頭上を見上げた。小さい背丈から、年老いた桜の木の枝と、広大な寒空を。

 指先の感触を味わいながら、零す。

「ああ、やっぱりこれは私なんだ」

 認めたくなかったけど。

 こんな寂しそうな、花も咲かせない、歳を取っただけの桜の木が、私だなんて。

 でも、やっぱり、そうなんだ。


「私は、咲かない桜の木の妖精なんだ……」


 年老いた桜の木と、独りの妖精の後ろ姿。

 冬の冷気は、孤独の寒さとなって、骨身に沁みた。

 花が咲かない。

 春が、来ない。

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