Ⅵ
Ⅵ 中学受験
小学校六年生の春。
タカヒロは、クラスがとある話題で盛り上がっているのを耳にした。
中学受験。
小学生のタカヒロ達にとっての、最初の進路選択。
クラスの中は、中学受験をする人としない人とにはっきりと分かれていた。タカヒロは、別にどっちでもいいと思っていた。
だが、担任の先生から面談をされ、遅く帰って来た両親からも耳が痛くなるほど言われたので、タカヒロも自然と中学受験のことを考えるようになった。
クラスの状況を調べてみると、受験をしないでそのまま公立中学校に進むグループが大半のようだった。先生も、タカヒロのあまり良くない成績を指摘して、こちらを選んだ方が良いと言っていた。
だが、両親はそうはいかなかった。子供を良い中学に行かせることは、親にとって大変な名誉らしい。必死に勉強をして、私立の中学に合格しろと騒ぎ立てる。
タカヒロは判断に迷ったので、当たり前のようにハルガに相談をすることにした。実際のところ、親や先生よりも、ハルガの方がずっと頼りになるからだ。
空が高く、遠くに見える天気だった。タカヒロが原っぱに行くと、ハルガはしゃがみこんで、タンポポの種に息を吹きかけていた。
「ハルガ!」
「おはよう、タカヒロ」
ハルガは、すでにタカヒロが来ていたことに気付いていたようだ。すくっと立ち上がって、タカヒロと向かい合う。するとハルガは、首を傾げながら口を開いた。
「どうした、タカヒロ。何か考え事でもしているのか?」
「え、なんで分かったんだよ!?」
タカヒロが反射的に大声をあげると、ハルガは、ふふふと妖しく笑った。
「あんたに会ってから長いからね。それぐらい私にはお見通しさ。それで、どうしたんだ?」
見透かされたのが面白くなかったが、どうせ相談するつもりだったしいいか、と思った。
「実は……」
タカヒロは、中学受験のことを話した。ハルガが知らないだろうと思って、中学校のことから受験のことを、全部。
だが、ハルガはすでに知っていたみたいだ。説明を聞きながら、時々相づちを入れてくる。その表情は、どこか曇っているように見えた。
「親はさ、受験しろしろうるさいんだよ。いい中学に入って、いい仕事をできるようになれって。親にとっていい仕事って、つまりはお金が入る仕事だろ? 今までずっとほったらかしにしていたくせに、調子がいいっつーの」
全部言い終わる頃には、雲がすっかり移動していて、二人で座っている場所は日陰になっていた。
「で、ハルガはどう思う? オレは受験した方がいいのかな」
「タカヒロはどうしたいんだ?」
タカヒロは、あごに指をあてて考えた。
「オレは受験したくないな。だって、公立の中学校に行ったら友達もそのままだし、受験勉強もしなくていいんだぜ? でもさあ……」
ちらりと、ハルガの様子を見た。ハルガは、気の抜けた顔で真正面を見ている。
「オレ、クラスで頭悪いってバカにされてるんだ。一人で遊んでるキチガイって言われたよ。他の女子の方が頭悪いくせにさ。そいつらを見返すために、ちょっとだけやってみようかな、って思うんだ。それで、ハルガはどう思う?」
「……さあ」
「え?」
ハルガは突然立ち上がると、桜の木へ歩いて行った。何か、怒らせるようなことを言っただろうか。でも、思い出してみても分からない。
ハルガは、桜の根元で立ち止まると、木の枝を見上げた。柳のように垂れ下がった枝には、春なのに花が咲いていない。代わりに薄いピンク色の、丸々とした蕾がぶら下がっていた。
「そっか、とうとうこの時が来たか……」
タカヒロには、ハルガの声が小さくて聞き取れなかった。ただ、桜の木を見上げている、こぢんまりとした背中は、寂しそうに見えた。
春の風が、舞う。
桜の木の蕾が、微かに震える。
ハルガは、リボンを揺らしながら、ゆっくりと振り返った。
「タカヒロ、お別れの時間だ」
ハルガは、咲かない桜の木に触れながら、呟いた。今にも消え入りそうな、脆い声だった。
「え?」
タカヒロは、おもむろに立ち上がった。
「何言ってんの? ハルガ」
「タカヒロ、あんたはもう大人になるんだよ」
「え? え??」
ハルガの言っている意味が、分からない。
お別れ? 大人になる?
唐突すぎて、思考が追いついていかなかった。
「――中学受験。大人になるための、一段階目だ」
そこでタカヒロは、やっと気付いた。中学受験は、中学生になるための道。大人に近づくための、第一歩。
そして、同時に思い出していた。何回も何回も、ハルガに言われた言葉。
妖精は、大人には見えない。
「ハ、ハルガ。もしかして、中学受験をすると……ハルガが見えなくなるのか?」
タカヒロは、焦ったように口を動かした。ハルガが、それを見てにやりと笑う。
「やっと思い出したか。成長したな、タカヒロは」
だが、その笑顔も、生意気な言葉も。
全てが、まるで作り物であるかのように感じられた。
「じゃ、じゃあ……これからハルガに会えなくなるのか?」
「簡単に言えば、そうだね。タカヒロはどんどん大人になっていくんだ。他のみんなと同じように」
「うそだ……」
頭の後ろを、殴られたような感覚がした。突然の出来事に、動揺を隠せない。
まさか、そんな、ハルガと会えなくなるなんて。
「こ、声は!? ハルガと話すことも……」
「だから、そのことについて話してあげる。私の声が聞こえなくなる、その前にね」
タカヒロは、出かかった言葉を飲み込んだ。そして、先生に注意された時よりも、ずっと静かにした。ハルガの話が、今にも聞けなくなってしまうかもしれないから。
ハルガは、冷静にタカヒロを見据えると、ありがとう、と呟いた。それから、説明を始めた。
「何回も教えたように、妖精は大人には見えない。だから、タカヒロが大人になると私は見えなくなる。もちろん、声も聞こえなくなる。そして、これはあまり言いたくないんだけど……私に関する記憶は、全部消えるの」
「え……?」
タカヒロは、絶句した。
「とは言っても、タカヒロは私を忘れたことさえ忘れるから大丈夫。最初からいなかったように、記憶がうまい具合にすっぽりと抜け落ちるから。だから、タカヒロが心配する必要は無いよ」
ハルガは、淡々と説明を続ける。
「私の記憶によると、これは妖精が自分自身を守るための手段らしいんだ。大人に存在が知られたら、なにをされるか分かったもんじゃないからね。見えなくするだけじゃなくて、記憶からも消さないと意味がないでしょ? 大人になった人間が、妖精のことを覚えていたら大変なんだよ。妖精を見ていいのは子供だけ。大人になるためには、妖精を忘れなくてはいけない」
「……なんだよ、それ」
静かにすると、決めたのに。
思わず、感情が溢れた。
「大人に成るためには、仕方が無いんだよ。大人は、妖精なんて子供みたいな夢を見ていたらいけないんだ。それとね、私達が見えなくなるっていうのは、段々薄くなるとかじゃなくて、一辺に消えるの。考えてみたら、当然だな。記憶だって、一辺に消えないと意味が無いし」
「いやだよ」
「そして」
「いやだよ!」
「タカヒロ……」
タカヒロは、いつの間にか泣いていた。鼻水をすすりながら、瞼を腕で擦った。涙のせいか、視界がぼやけてしまっている。今にもハルガのことを見失ってしまいそうで、恐かった。
「ハルガが消えるなんて、いやだ。忘れることなんて、できないよ!」
「……人はみんな大人になる。仕方が無いのさ」
「仕方が無いって、言うなよ!」
タカヒロは、叫んだ。急に突きつけられた事実が、あまりに理不尽すぎて。納得することが、できなくて。だだをこねる幼児のように、ただ叫んだ。
叫ぶ度に溢れる涙は、怒りではなく、悲しさによるものだった。
「じゃあ、オレ、中学受験なんかしないよ。ずっと子供でいるよ。そうすれば、ずっとハルガと遊べるだろ?」
「私のために人生を変えるな、タカヒロ」
ハルガは落ち着いた態度を一変させ、強い口調で告げた。タカヒロはびくりとして、ハルガの顔を見返す。ハルガは腕を組んで、タカヒロを灰色の瞳で睨み付けていた。体は小さいのに、圧倒的な迫力を感じる。
「タカヒロは、大人にならないのか? 周りの子供は、いや世界中の子供は、みんな大人になっていく。それなのに、タカヒロだけ子供のままでいるのか?」
「う……うん。子供のままでいるよ」
「やめておけ。自分に嘘はつくな」
タカヒロは、黙った。心臓がドクンドクンと、早く動いているのが分かる。手の平には、気持ち悪い汗が滲んでいた。
だが、この時、タカヒロの中には恐怖心だけではなく、別の感情が芽生えていた。それは、今までずっと仲良く遊んでいた友達ハルガへの、初めての反抗心だった。
そうだ。ここで、負けるわけにはいかない。ハルガの言う通りにしたら、オレ達は別れることになってしまう。そんなのは、絶対に嫌だ。
タカヒロは、唾を飲み込むと、意を決して言った。
「でも……ハルガだって、嘘をついてるじゃないか」
「なに?」
「ハルガは仕方無いって言ってるけど、本当の気持ちはどうなんだよ。オレがいなくなって、平気なのかよ」
「それは……」
ハルガは、目を伏せた。動揺しているのが、タカヒロの目にも良く分かった。ハルガは、しばらく迷ってから、ぼそりと零した。
「平気なわけ、ないだろ。私だって、タカヒロがいなくなるのは、嫌だ」
「だったら、嘘なんかつくなよ。オレだって、ハルガと一緒にいたい……」
「でもな!」
ハルガは耐えきれなくなったように、叫んだ。
「例え嫌でも、選択しなければならないときがあるんだよ! 子供のタカヒロには、分からないだろうけどな!」
大声の余韻が、空き地の中に残る。ハルガは、はっとしたように自分の口に手をあてた。だが、発した言葉は、戻せるはずが無い。
子供のタカヒロには、分からない。
それは、タカヒロの両親に限らず、大人達が子供に使うお決まりの定型句だった。子供だから分かるはずが無いと、大人と子供をあらかじめ区別する。タカヒロはこの台詞を言う人のことを、卑怯だと思っていた。例えそれが、友達だったとしても。
だがタカヒロは意外にも、言われたこと自体にはあまりショックを受けていなかった。ただ、どうして今言われたのかが気になった。
子供には分からないなら、大人になれば分かるのか。ハルガがそれを言ったということは、早く大人になれということなのか。
タカヒロは、黙って考え込んでいた。対してハルガは、苦しそうな表情を浮かべていた。
お互いが口を閉ざしたまま、時間が過ぎる。春の陽気に包まれた空き地には、重苦しい空気が漂っていた。
「……ごめん」
先に沈黙を破ったのは、ハルガだった。
「今の失言は、謝る。でもな、タカヒロはやっぱり、私のことなんか考えないで、大人になるべきだよ」
ハルガは、そっと視線を逸らした。それから、面倒そうに吐き捨てた。
「悪いが、今日はもう帰ってくれ。疲れた」
「え、でも」
ハルガは、タカヒロの声を遮った。
「もう、言い合いたくない。疲れたって、言っただろ。これ以上話すと、私はタカヒロのことが嫌いになるよ」
思わず、口が止まった。ハルガと一緒にいられるなら、何を言われたって構わない。でも、ハルガに嫌われるのだけは、嫌だった。
タカヒロは、呆然と立ち尽くした。そして、地面に置いたランドセルを拾い上げ、ハルガの顔を見ようとした。だが、ハルガはわざとらしく顔を背けた。
顔も、見せてくれないのか。
ハルガのことが見えるのに、見せてもらえないなんて。
このまま別れるのかと思うと、胸が苦しくなった。
タカヒロは、やり切れない気持ちのまま、肩を落として、原っぱから出て行った。
振り返りたいという想いを、無理に抑えて。
ハルガは、タカヒロの後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
そして、完全にいなくなってから、ぽつりと呟いた。
「これでいいんだ……」
ハルガは振り返って、ぼんやりと、原っぱの中央を眺めた。そこには変わらず、未だに花を咲かせない年老いた桜がある。
たった一本だけ、独りぼっちで。
ハルガは、桜の木に手を突くと、頭を項垂れさせた。温かい日溜まりの中で、爽やかな風が、ハルガと桜の木に吹いていた。
その風が通り過ぎた瞬間、
「ハルガ!」
「わっ」
タカヒロはハルガの隙を突いて、背後から抱きしめた。一気に道路から空き地の中を走り抜け、戻ってきたのだ。
ハルガは、突然背後から抱きつかれたショックで、軽く腰が抜けてしまった。慌てて背後を見ようとするも、抱きつかれているせいで振り向くことができなかった。
「たたた、タカヒロ!?」
「オレ、嫌だよ! ハルガと別れたくない! ハルガに嫌われてもいい! だけど、ハルガと別れるのだけは、嫌だ! ハルガは、オレの家族……いや、家族よりも大切な友達なんだ! そんなハルガと別れるなんて、嫌だよお!」
タカヒロはハルガを抱きながら、跪いた。それはまるで、許しを乞うように。
ハルガは溜息を零すと、振り向かないで、答えた。
「まったく、タカヒロはまだまだ子供だなあ」
そして、笑った。
「これはもうちょっと、私が面倒を見ないとダメだね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます