Ⅶ 季節は巡る



 貴博は、そのまま公立中学校に進学した。

 元からあまり受験をする気は無かったし、なによりもハルガの存在が大きかった。貴博の両親はというと、最初は猛反対をしていたのだが、最終的には貴博の意志を尊重し、公立中学校に行くことを許したのだった。最も、私立の受験料の高さを両親が初めて知ったためだったのだが……




 貴博は中学校の入学式を終えると、すぐにハルガの元へ向かった。

 ハルガはいつも通り、原っぱにいた。人差し指で、頭の上の大きなリボンをいじっていた。

「そうか、タカヒロもいよいよ中学生か。おめでとう」

 そして、制服姿の貴博を見て、ほぅ、と感嘆を漏らした。

「意外に似合うもんだな。馬子にも衣装、と言ったところか」

 貴博は、照れくさそうに頭を掻いた。ハルガも気恥ずかしいのか、落ち着かない様子でそわそわとしている。

「それにしても、まだ私が見えるなんてな。初めての経験だよ」

「中学生になると、見えなくなるのか?」

 ハルガは、こくりと頷いた。

「今まで会った子供達、ナオキも、ハジメも、コウスケも、コトミも、みんな中学生になるまでに、私を忘れたものさ。大体は小学校三、四年生、最長で中学生までだったのに、タカヒロで記録更新だ」

 貴博は、不思議に思った。小学四年生と言えば、まだまだ子供ではないか。それなのに、なぜハルガのことを忘れてしまうのか。そのことを尋ねると、ハルガはうーんと唸った。

「最近の子供達は成長が早いからね。仕方が無いんだよ。 ……おっと、また言っちゃったな。ごめんごめん」

 貴博は、ハルガが語尾を濁したのを聞き逃さなかった。でも、追求はしなかった。

 ハルガは、ぴょんっと飛び起きると、軽く腰を曲げて、儚げに言った。

「だから、タカヒロがいつ大人になるのか、ちょっと怖いかな」

 春らしい温かさを含んだ、穏やかな昼下がりだった。




 夏になった。

 貴博とハルガは、原っぱに俯せで寝転がって、一休みしていた。

「タカヒロは、テレビゲームとかやったことあるか?」

 ハルガは、あめ玉の形をしたアイスを口の中で転がしながら、言った。貴博がこれならハルガも人目を気にせずに食べられるだろうと思い、買ってきた物だった。

 貴博は、首を横に振った。ハルガが納得したように頷く。

「これは誰にも話したことが無かったんだけどな……タカヒロがおいしいアイスをくれたから、教えてあげる。テレビゲーム、実はあれをやると妖精が見えなくなるんだ」

 貴博は、舐めていたアイスを落としそうになった。

「あのRPGとかだっけ? あの中に、モンスターやら妖精やらが出てくるんだけど、それがよくない。ゲームの世界が現実の世界と違うのは、子供にだって分かる。だから、ゲームの世界があったらいいなあ、って考える。あったらいいな、ってことは、現実とは違うってことだ。タカヒロ、分かるか?」

 貴博は短く、ああ、と答えた。ハルガは嬉しそうに、貴博の顔を見返す。

「流石、中学生は理解力が違うな。つまり、あったらいいな、が変わって、妖精がいたらいいな、と思うようになる。そして現実とは違うことのように考え、やがて存在を疑ったり、どういう生物なのかと知りたくなる」

 ハルガの口からは、言葉と同時に、アイスが溶けた液の音がぴちゃぴちゃと聞こえる。そのせいで、説明があまり耳に入らなかった。

「存在を疑うっていうことは、すでに純心な子供じゃない、大人だ。だから妖精が見えなくなる。そういうことさ」

 貴博は、小学生の時のことを思い出していた。放課後になると、度々友達の家でゲームをやろうと誘われていたが、断ってハルガと遊んでいたのだ。もしあの時、友達の誘いを受けていたら……そう考えると、ぞっとした。

 ハルガが急に静かになったので、何気なく視線を向けると、ハルガはなぜか、口の中に手を突っ込んでいた。それはまるで、喉に何かが詰まっているようだった。

「どうしたんだ、ハルガ」

 慌てて訊くと、ハルガは苦しそうに答えた。

「アイスキャンディーの棒が無い……」




 秋になった。

「勉強も同じだよ」

 貴博は、原っぱに座り込んで、夕空を眺めていた。秋の空はつるべ落としというが、まさにその通りだ。夕焼け色に染まったかと思いきや、すぐに濃い紺色に塗り潰されてしまった。ハルガはというと、星明かりの下で貴博の鞄の中をがさごそと漁っている。

「人は勉強をすると、知識を身に付けていく。それは少なからず、大人になっていくってことだ」

 ハルガはそう言って、一枚の用紙を取り出した。その紙には、堂々と赤丸が付いていた。零点だ。

「うん、これならタカヒロは大丈夫だな」

 ハルガは意気揚々としていたが、さらに鞄の中を調べていく内に、その表情は徐々に険しいものになった。ハルガの手には、いつの間にかテスト用紙が五枚ほど捕まっていた。もちろん、全部零点だ。

「いくら子供でいたいといっても、これはダメだ。勉強しないと、ろくなことがないぞ」

「……そうかなあ」

 貴博は、勉強にあまり関心を持っていなかった。中学受験の時には同級生を見返そうと意気込んではいたが、勉強をするとハルガが消えてしまうと聞いてからは、完全にやる気が消沈していた。テストで悪い点数を取るだけでハルガと一緒にいられるなら、安いもんだ。

 ハルガは、やれやれと言いたそうな顔で、手に持った零点のテストを見つめていた。そして丁寧に折りたたむと、木の根本にある穴の中に埋めた。

「じゃあ、これは私が隠しておいてやるよ」

 夕闇の中で、ハルガは意地悪に言った。ありがたい反面、とてもばつが悪かった。




 冬になった。

 すっかり草木が無くなった空き地に入ると、いつもとは違った雰囲気がした。いや、むしろ雰囲気がなくなった、と言うべきだろうか。

 それは、植物が無くなったからでは無く、もっと大きな変化。

 空き地の中には、ハルガの姿が無かった。

 貴博は、呆然と、空き地内を見回した。燐家との境目の塀から、中央に立ち構える桜の木の裏まで。だが、どこを探しても、あの小さな体は見当たらなかった。そもそも、この土地の中に隠れられそうな場所はどこにも無い。

 だから、いち早く悟った。ハルガが、消えてしまったんだと。

 覇気が無くなったように、桜の木の根元に腰を下ろした。空き地の中から、外の道路を眺める。

 もしかすると、外に出て行ったかもしれない。そんな都合の良い考えを想像したが、ハルガと一緒にいた六年間の中で、一度もそんなことは無かった。

 恐らく、ハルガは今も変わらず、この場所にいるんだろう。ただ、見えなくなってしまっただけ。俺が、大人になってしまったからだ。

 どうしようもなくなって、抜け殻のように、ずっと座り続けていた。これから自分がどうすればいいのか、見当も付かなかった。唐突すぎて、悲しささえも感じられなかった。

 一時間ほど過ぎた後、貴博は、やっと思考を働かせた。今日はひとまず帰って、明日もう一度来よう。今日はたまたま見えなかっただけで、日を改めれば、また会えるだろう。そう、明日も会えなかったら、明後日も来ればいい。明後日も会えなかったら、明明後日も……

 貴博は、無気力になった体を無理に立たせた。その時、バランスが崩れて、桜の木に勢いよく肩がぶつかってしまった。すると、頭上から物音がして、無数の木の枝が降ってきた。それと同時に、灰色の球体も。

「え?」

 その球体が落下するのを目にした瞬間、貴博は反射的に手を伸ばした。両腕に衝撃を感じながらも、力強く受け止める。

「いってててて」

 貴博は、腕の中で呻き声をあげているそれに目を凝らした。貴博の左腕には灰色の頭が、右腕には小さな素足が載っかっていた。そしてその灰色の髪の上には、黄色のリボンが。

 その容姿は――ハルガに間違い無かった。

「ハルガ!」

「え? わっ! タカヒロ!?」

 ハルガは、突然目の前に貴博が現れて、仰天したように叫んだ。貴博は、そんなことはお構いなしに、両腕に抱えたハルガの肩に触った。大丈夫だ、ハルガは、ここにいる。触ることが、できる。

「ハルガ……!」

 嬉しさがこみ上げて、目頭が熱くなった。もう離さないようにと、しっかりと、腕の中のハルガを抱きしめた。

「な、なんだよ、なんで泣きそうなんだよ」

 ハルガはお姫様抱っこの体勢で、嗚咽を堪える貴博を見て、ただ狼狽えることしかできなかった。


 しばらくしてから、貴博は平常心を取り戻した。そして、落ち着いた途端に、中学生にもなって泣いてしまった自分が恥ずかしくなった。

 地面に降ろしてもらったハルガは、そんな貴博を見上げて、白けた顔で口を開いた。

「ねえ、タカヒロ。この間も、言ったでしょ? 私が見えなくなるときには、記憶も消えるって。だから私が消えたって思ったときは、記憶が残ってるんだから心配しなくていいんだよ」

 話を聞くと、ハルガは気まぐれで桜の木の上で昼寝をしていただけ、とのことだった。そして、貴博が木に思い切り肩をぶつけた衝撃で落下してしまったようだ。そういえば空き地の中を探した時は、地面ばかりを見ていたため、木の上は完全に盲点だった。

 ハルガは、怒ったように頬を膨らましていた。寝ているところを起こされた上に、心底驚かされたのだから当然だろう。だが貴博が謝ると、ハルガは少し照れた顔をして、謝らなくていいよ、と返した。

「お姫様抱っこっていう貴重な体験が出来たしね。許してあげるよ」

 そして、表情を硬くして、抑揚のない声で付け加えた。

「でも、これで分かったでしょ? 私とタカヒロは、いつ会えなくなってもおかしくないの」




 中学二年生の春。

 あっという間に季節が流れ、一年が経った。

「まだ私のことが見えるなんてね」

 ハルガは、柔らかい太陽の日射しを浴びながら、笑っていた。

「タカヒロの心は、よっぽど子供なんだろうねえ」

 だが、貴博にはそれが笑顔には見えなかった。中学受験の時から、ハルガの心からの笑顔は見ていないように思えた。

 その理由は、分かっている。

 いつ消えるか、分からないからだ。

 貴博は、いつかのハルガの言葉を思い出した。


 “いつ遊べなくなるか分からないから、今の内に遊んでおこう”

 “いつ会えなくなっても、おかしくない”


 まさに、この言葉の通りだと思う。ハルガと別れる日は、刻一刻と迫っている。

 貴博は、ハルガに見られていることに気付くと、制服の裾で目を擦り、笑顔を作った。ハルガのような、心とも無い笑顔だった。




 中学二年目の夏。

 蝉の声が、原っぱの中に響いていた。貴博は団扇で顔を扇ぎながら、桜の木に寄りかかって座っていた。

「そういえば、前にタカヒロが小学校の友達を連れてきた時があっただろ? 小学校二年生の時だったっけな」

 ハルガの突然の話に、貴博は首を傾げた。そういえば、そんなことがあった気もする。

「あの時さ、他の子供には私が見えなかったんだよ。やっぱり、最近の子供は心が濁っているんだねえ」

 貴博は、あっ、と声を漏らした。そうだ、思い出した。たしかあれは、小学校二年生の四月のことだ。友達にはハルガのことが見えなくて、あの日からハルガと二人だけで遊ぶようになったんだ。

 ハルガは、貴博が覚えていたことに、満足した様子だった。そして、ぽつりと呟いた。

「私は、あの時が一番嬉しかった……」

「え? なに?」

 蝉の鳴き声が五月蠅くて、聞こえなかった。聞き返すと、ハルガは焦ったように誤魔化した。

「いや、なんでもない。それよりもほら、次のアイスくれ」

 貴博は、ドライアイスの入ったビニール袋からあめ玉のアイスを取り出した。そして、ハルガの小さな手の平に載せた。コーラ味だ。




 中学二年目の秋。

 貴博は、原っぱの上にあぐらをかいて座り、赤とんぼが飛んでいく景色を眺めていた。ハルガはというと、赤とんぼを素手で捕まえようと、目の前を右往左往していた。

 どうやら、昆虫にはハルガの姿が見えるらしい。ハルガが捕まえようと手を伸ばす度に、するりとすり抜けて飛び去ってしまう。

 貴博はその光景を見て、疑問に思った。そして、ハルガに直接訊いてみることにした。

「珍しいな、タカヒロの方から訊いてくるなんて。どうした?」

「ハルガは、物を触ることができるのか?」

 ハルガは目を瞬かせると、難しそうな顔をした。

「うーん、なんというか……そうだね。人間の子供よりも頭が幼い生物なら、触ることができるかな。無生物だったら、なんだって触れるし。あと、雨が降ってきた時とかのために、体を全部透けさせることもできるけど」

 貴博は、思っていたよりも明確な答えが返ってきたことに驚いた。てっきり、もっと曖昧なものだと考えていたのだ。自然と、労いの言葉が出る。

「へえ、よく知ってるな」

「そりゃあ、妖精本人だからな」

 ハルガは、さも可笑しそうに笑った。そして、頭のリボンの上に赤とんぼが乗ったのに気付くと、ぴたりと足を止めた。そっと手を上げて、指先で羽を摘もうとしたが、やはりその前に逃げられてしまった。

 ハルガは、夕日に消えゆく赤とんぼを眺めながら、ぽつりと零した。

「でもそうか、私に疑問を持つようになったか……」

 不意に聞こえた言葉は、秋の冷気のように心に染みた。




 中学二年目の冬。

 この地方にしては、珍しく雪が降った。この日のハルガは、いつもよりも上機嫌に見えた。

「六年振りかな、雪は」

 ハルガは、空き地が雪で埋まっていく景色を、楽しそうに眺めていた。貴博は、紺色のマフラーを首元に巻き、ハルガの小さな後ろ姿を見下ろしていた。

 雪がある程度降り積もってから、二人で力を合わせて雪だるまを作り始めた。野球ボール大の雪玉を、雪原に転がして徐々に大きくしていく。ほどなくして、六年前に二人で作ったのよりも、遙かに巨大な雪だるまができた。ハルガの背丈と比べると、一・四倍程度だろうか。

 ハルガは、出来上がった雪だるまを満足そうに見つめながら、雪の上にぺたんと座った。

「あー、楽しいなあ。いつまでもこんな日が続けばいいのにな」

 ハルガの言葉が、雪原に重く残る。

 貴博には、分かっていた。ハルガが、心から楽しんでいないことが。二人の心の奥底には、以前として茫漠な不安が横たわっているということが。

「なあ、ハルガ」

 口から、白い吐息が漏れる。

「なんで妖精って、大人には見えないんだろうな」

「……なんだか今更だな」

 ハルガは屈んで、地面に積もったばかりの新雪を掻き集めていた。

「前にも言わなかったかな? 大人には、夢を見ている暇なんか無いんだよ」

「大人になるって、そんな嫌なことなのか?」

 ハルガは、顔を上げた。きょとんとした、子猫っぽい表情だった。

「大人になることは、もっと楽しいことだと思ってた。色々なことができると思ってた。だけど、まるで違うじゃないか。夢を失って、時間も失って。失う物の方が、大きいんじゃないのか?」

「まさか、こうしてタカヒロと真面目に話せる日が来るなんてね。長生きもしてみるもんだ」

 ハルガは、愉快そうに微笑んだ。

「でもタカヒロは、その代わりになにか手に入れたものがあるんじゃないか?」

「確かに、手に入れたさ。この考え方も、難しくなる勉強も、複雑な人間関係も。でもそれは、俺が望んだ物じゃない。こんなもの、欲しくなかった。俺はただ、子供のままで、ハルガと一緒にいたいだけなのに」

 ハルガは、やれやれといった様子で立ち上がると、貴博の顔を真正面に見据えた。そして、あどけない顔に笑みを浮かべ、呟いた。

「人間は成長していく過程で、何かを得て何かを失っていく。それが良い物なのか悪い物なのかは、分からないけどね」

 静かに降る雪が、ハルガの灰色の双眸と髪とポンチョとを鮮やかに飾る。白と灰の無彩色で創られた世界では、黄金色のタンポポの花弁が栄えて映っていた。

 貴博は、その幻想的な光景に、思わず溜息を零した。そして、思った。


 ああ、やっぱりハルガは、妖精なんだな、と。


「大人の人間達にとっては、私は消えちまった方がいいのさ」

 ハルガは、にっこりと目を閉じて、微笑んだ。それはまるで、全てを受諾しているような、潔い笑顔だった。

「そんな……」

 貴博は反論しようとしたが、ハルガの表情を見て、自分の言おうとしていることは無意味だということに気が付いた。決して答えなんか出やしない。いや、それ以前の問題だ。話したところで、自分が大人になるのを止められやしない。受け入れるしか、ないんだ。

 だからこそハルガは、この考えが正しいとも間違っているとも言わない。言っても、どうしようもないことだから。

 貴博は、下唇を噛んだ。ハルガは目を細くして、うん、と頷いた。

「仕方が無いことなんだよ」

 鈍色の寒空からは、なおも雪が降り注ぐ。

 白い雪原に浮かぶハルガの姿は、心無しか、薄れて見えた。




 気が付けば、季節は巡り、中学三年生になった。

 貴博は、遂にこの時が来たかと、覚悟を決めていた。

 高校受験。

 中学受験をしなかったために、今度こそは避けては通れない道だった。中卒という手もあるが、それは自分自身が嫌だった。それに、両親の件もある。


 ――母親が倒れた。


 今まで邪魔だと思っていた母親が、家で気を失って倒れているのを貴博は発見した。原因は過労とのことだったが、かなり衰弱していたらしく、二ヶ月経った今でも入院している。

 ここで初めて貴博は、両親の存在の大きさを知ったのだ。夜遅くまで勤めて、帰って来てから料理を作ってくれた母親を、学費や食費を稼いでくれる父親を想うようになった。

 だから、高校受験だけは、しなければいけない。両親のために、そして何よりも自分のために。

 だが、そのために失う代償は、とても大きかった。




「そっか、タカヒロももう高校生になるのか。小学生だった頃のことが、懐かしく思えるよ」

 ハルガは、話の一部始終を聞くと、冗談めかしてそう答えた。

 だが、残念ながらそれは、ちっとも笑えなかった。

「私は、覚悟していたよ」

 ハルガの姿が、こぢんまりとして見える。

「タカヒロは、次の日には大人になって、来なくなるかもしれない。だからいつも、いつ遊べなくなってもいいようにたくさん遊んだつもりだ」

 いつか聞いた言葉が、心の奥にのし掛かる。

「なに、来るべき時が来ただけだ。タカヒロが悪く思うようなことじゃないよ」

 歯を食いしばる。砕けそうなほど、強く。

「どうやら私達は、長く一緒に居すぎたみたいだな」




 貴博は、勉強を最小限に抑えた。

 あまり勉強をしてしまうと、ハルガが消えてしまうから。

 いつも以上に、毎日空き地に通うことを心がけた。雨の日も、台風の日も、ずっと。

 だが、現実は辛く、重い。

 貴博がどれほど子供でいたいと願っても。

 勉強、塾、模擬試験。その現実が、貴博の心を汚していく。

 貴博は、懸命に、抗った。だが、結果は、非情で、残酷なものだった。




 一月。高校受験の、一ヶ月前。

 貴博が塾帰りに空き地に着くと、ハルガは神妙な面持ちで、霜柱の生えた地面に座っていた。その灰色の瞳は、何も無い空中を捕らえているようだった。

「ハルガ!」

 貴博は、できるだけ元気に声をかけたが、ハルガは無反応だった。

「ハルガ?」

「タカヒロ、もうやめよう」

 瞬間、貴博の顔から笑みが消える。

 ハルガは凍えた地面に手を突いて立ち上がると、貴博の顔を見据えた。

「もう、やめよう」

 ハルガの言葉の意味が、最初は理解できなかった。だが、冷たい風が二人の間を吹き抜けていく度に、頭の中で着実に形に成っていった。

「こんなことを続けたって、意味が無いよ」

 凍て付いた空き地の中に、辛い言葉が響く。

「タカヒロが苦しんでいる姿なんて、見たくない。君はもう、私から卒業して、大人になるべきだ」

 ハルガは、そっと貴博に目線を向けた。ハルガの哀れむような目が、堪らなかった。

 貴博は、何かを言い返そうとした。だが、感情が胸に詰まって、言葉にできなかった。それは、昔から想いを言葉にするのが苦手だったからか。それとも、この生活にいい加減疲れていたからか。

 だから貴博は、何も言わずに、その場に立ち竦んだ。目線を合わせないように、項垂れて、拳を握りしめることしか、できなかった。

 ハルガはそれを感じ取って、優しく貴博に声をかけた。

「私のことはいいから、自分のことだけを考えて。それに、両親を悲しませたくないでしょう?」

 頭の中で、映写機が廻る。自分の過去と未来を記録し続ける、果てしなく長いフィルムが。

 自分のこと。両親のこと。

 受験のこと。将来のこと。大人のこと。

 自分は一体、何の為に大人になるのか。

 なぜ大人にならなくてはいけないのか。

 なぜ大人にならないことが、これほどまでに苦しいのか。

 だが、いずれにしろ、映写機が映し出す未来には、大人の自分自身の姿があった。

 大人になることは、決して拒めない。

「でも、でも……!」

 貴博は、必死に言葉を絞り出した。受験勉強とハルガの間で削られ、摩耗し切った神経が、貴博の中で再びガリガリと音を立て始めた。

 それが空転の音だと気が付くのに、時間はかからなかった。

「でも……!」

 諦めるわけには、いかなかった。ここで辞めてしまったら、俺とハルガの間も、消え去ってしまう。

 脳内に響き渡る、不協和音。もう、限界だった。

「もういいからタカヒロ、ほら――」

 貴博は、ハルガの声に反応して、顔を上げた。

 貴博の目の前には、ハルガの顔が。

 曇り空のような灰色の、髪と瞳が。

 そして、ハルガの、この上ない喜びの表情が。

 そう、大人になりたくなかったのは、ハルガのため。ひとりぼっちの、妖精のハルガを、淋しくさせたくなかったから。でも、そのハルガが、笑ってくれるなら――


 刹那、目の前がカメラのフラッシュのように閃いた。パチンという破裂音が鼓膜の奥で弾けて、思わず耳を押さえる。

 貴博は、恐る恐る顔を起こした。耳から手を離して、ゆっくりと周囲を見渡す。

 空き地を囲むブロック塀に、地面から生えた霜柱。そして中央に立つ、寒々とした桜の老木。

 貴博は、空き地の中をぐるりと見返した。そして、言葉を漏らした。


「あれ……なんで俺、こんなところにいるんだろう」


 貴博は不思議に思いながら、ふと足下に鞄が落ちていることに気が付いた。それは中学で指定された、肩掛け鞄だった。静かに拾い上げて、付着した土を払い落とす。中身を確認すると、塾で使っている教科書が入っていた。そうだ、塾の帰りだったんだ。

 今は母親がいないから、早く帰って家事を手伝わないと。貴博は、鞄を担ぎ直すと、道路へと足を向けた。

 そして、振り返ることなく、空き地を後にした。



「……バイバイ、タカヒロ」

 背後の声は、届かなかった。

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