Ⅳ
Ⅳ 台風の日
小学四年生の梅雨。
タカヒロが算数のノートを閉じると、窓の外で雷の音が聞こえた。
そういえば、今日の夜は台風が来るんだっけ。タカヒロは机からどくと、畳の上にごろんと転がった。
今日もいつもと同じように、親はいない。共にタカヒロのために働きに出かけているのだが、まだ小学校四年生のタカヒロには理解も納得もできなかった。
両手を組んで頭の下に敷いて、汚い天井を見上げる。すると、また窓の外が光るのが目に入った。
「けっこーはげしいな」
独り言を呟いた直後、さらに眩しい光が点滅した。思わず、目を閉じる。
瞬間、瞼の裏に、ハルガの顔が浮かんだ。
ハルガは、この雨の中で大丈夫だろうか。
ふと、ハルガのことが気になった。あの空き地には、雨を防げるような物は何もない。たしか前に聞いたときは、妖精は雨を受けないから大丈夫だ、と言っていた。だから心配しなくていい、って。
突風で、木造のアパートの壁が歪んだ音をたてた。窓硝子が、割れそうなほど振動している。部屋の中には、微かに雨の臭いが立ちこめていた。
だけど、とタカヒロは思う。
今日は台風だ。これだけ雨や雷が降っていたら、ハルガも困っているはずだ。
助けなきゃ。
タカヒロは思い立つと、畳から跳ね起きた。そして、傘を二本持って、玄関を鍵も掛けずに飛び出した。
タカヒロは、走った。
背中を激しい雨に打たれながら。
傘は差していたが、この豪雨の中では役に立たなかった。しかもタカヒロは、前傾姿勢で走っているのだ。
タカヒロは、傘が役割を果たしていないことに気付き、傘を閉じようとした。だが、それと同時に背後から突風が吹き付け、傘が逆さまに折れ曲がってしまった。タカヒロは、傘が壊れて悲しく思ったが、もう一本持ってきてよかった、と考えた。
濡れたコンクリートの上を走ると、足が滑って転びそうになる。ハルガのために用意した傘と、壊れた傘をそれぞれ両手に持ちながら、慎重に、そして思いっきり駆けた。
空き地に着いたときには、雨が少し弱まっていた。原っぱの中を見渡す。
すると、ハルガはすぐ足下にいた。灰色の頭を雨に打たれながら、地べたに体育座りをしていた。
「ハルガ! その、だいじょうぶ!?」
「馬鹿だな、タカヒロは」
ハルガは、呆れた顔でタカヒロを見上げていた。一生懸命走ってきたのに、なぜ悪口を言われるのだろう。タカヒロは、泣きそうになった。
「だって、おれ、心配だったから……」
「前にも言ったでしょ? 妖精には、雨が当たらないって」
よく見ると、ハルガの頭に雨粒は当たっていなかった。ハルガの体を通り抜けて、地面に落ちて跳ねていた。
「でも、でも……!」
色々な思いを口に出そうとしたが、どれから言えばいいか分からなくなった。目に水滴を溜めながら、ぶるぶると体を震わせることしかできなかった。
それを見ていたハルガは、タカヒロの手を取った。雨の中なのに、ハルガの手は、温かかった。そのまま引っ張られて、ハルガと同じように濡れた草の上に座る。
「お尻が冷えると思うけど……」
ハルガは、タカヒロの体に、ぴとっとくっついた。
「私が温めてやる。だから、少し休んでいきな。この様子だと、もう一降り来そうだから」
ハルガの言った通り、すぐにまた大雨が降り始めた。タカヒロは、持ってきた空色水玉の傘を、ハルガも入るように差した。
傘を打つ雨の音が、二人の間に静かに響く。
「おれ、心配だったんだ」
びしょびしょの服ごしに、ハルガの温かさを感じる。
「今日は、学校の先生が、台風が来るって言ってたから……」
ハルガは雨空を見上げながら、黙って聞いていた。
「だから……ハルガのことが、心配になって……」
服を、ぎゅっと握りしめる。
「ごめんなさい!」
「なんで謝るんだか」
タカヒロは、驚いたようにハルガの顔を見た。いつの間にか、ハルガの目はタカヒロに向いていた。
「タカヒロは、私のためを思って来てくれたんだろ? だったら、謝らなくていいよ。謝る必要の無いときに、謝っちゃダメだ」
ハルガは、頬に笑みを浮かべていた。
「私が怒ったのは、タカヒロが風邪をひくかもしれない、ということ。こんな大雨の中に、薄着で傘も差さないで来たら、それは怒るよ。だから、タカヒロの正しい返事は『これから気をつける』これで百点満点だ」
タカヒロはここで初めて、自分の服を見た。昼が暑かったため、Tシャツに半ズボンという軽装だった。
「ご、ごめん……」
「だから、そうじゃないだろ? 正しい答えは?」
タカヒロは、ハルガの顔を見て、にっこりと笑って言った。
「これから、気をつけます!」
「よし、良い子だ」
ハルガは、雨で濡れたタカヒロの頭を、ごしごしと撫でた。ハルガの手は、やっぱり温かくて、気持ちよかった。
「もうすこし、ここにいていい?」
ハルガは驚いたが、少ししてから頷いた。
「うん。 ……これから本降りだし、もう少しだけここにいてもいいぞ」
空から雨が降り注ぐ中、空色水玉模様の傘を差した二人が、並んで雨宿りをしていた。
その後、雨はずっと小降りだった。
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