Ⅱ
Ⅱ 咲かない桜の木
浦田貴博(ウラタタカヒロ)は、貧乏な家庭に生まれた男の子だった。
貴博が生まれる前まではそれなりに裕福だったのだが、生まれると同時に父親が事業に失敗し、多額の借金を抱えた。
職を失った父親と、専業主婦だった母親。そして、新しい家族の貴博。二人から三人になった浦田家の家庭は、明るいものとは言い難かった。
貴博の養育費の問題もあり、一軒家からアパートへの引っ越しを余儀なくされ、ほどなくして父親は給料のあまり良くない職業に就き、母親はパート勤めを始めるようになった。
生まれたばかりの貴博はというと、完全に相手にされていなかった。
三歳までは両親に大切に育てられていたのだが、以降は両親の仕事が忙しくなり、息子への愛着も尽きたのか、家で置いてけぼりをくらう毎日だった。
誰もいない家に、夜の遅い晩飯。絶えない夫婦喧嘩。貴博の心はいつしか、この環境に同調するように、とても大人しくなっていった。
泣けば仕事疲れの父親に怒鳴られ、おもらしをすれば母親に頭を叩かれる。それなら、事を荒立てないように、両親に関わらないようにしよう。
それがわずか五歳に達した貴博の、無意識の自衛手段だった。
貴博自身は、特にこの家庭内の事情に関しては、何も不満は無かった。食事の味も記憶が残っている頃からはずっと不味かったし、両親の喧嘩など日常茶飯事。他の家庭の子供を知らない貴博にとっては、それが自分の世界の全てだった。だから、置かれた環境に疑問も不満も抱かなかった。両親も辛い生活ながらも、現状にはある程度は納得していた。貴博の家庭は、微妙なバランスを保っているように思えた。
しかし、それは実際には薄氷の道だった。貴博は平静を装っているが、貴博の自衛は内へ内へと抑えていくものであり、不の感情が体内に着実に貯まっていた。抑圧された感情は、いつの日かタガが外れて暴発してしまうだろう。貴博は言わば、秘めたる爆弾のような存在だった。
だが、貴博は小学二年生になったが、ストレスが貯まる様子は一向に無かった。むしろ、以前よりも肉体的、精神的にはるかに安らいでいる。前までの無干渉な貴博とは、明らかに違っていた。
それは全て、ハルガのおかげだった。
「ハルガ、おはよう!」
タカヒロがいつもの空き地に行くと、いつもと同じようにハルガが迎えてくれた。
「おはよう。今日も元気だな、タカヒロは」
「うん!」
タカヒロは、にっこりと笑った。
ハルガと初めて会ったときも、この空き地だった。立派な家が建ち並ぶ中で、ぽつんと開けた原っぱ。あまり大きく無いその場所には、なぜか一本だけ歳を取った桜の木が生えていた。
その木の側に、いつもハルガがいる。いつ、どんなときに行っても待ってくれている。
タカヒロには、それがとても嬉しかった。親に相手にされていないこともあるが、それ以上に遊び相手が出来たからだ。
「ハルガ、今日はなにをしてあそぶ?」
「タカヒロも元気が一杯みたいだし、かけっこをしよう」
ハルガはそう言うと、端っこの塀と反対側の塀を指さした。タカヒロは走るのが速いわけではないが、ハルガが同じぐらいの速さなので、競い合う楽しさが好きだった。
二人でスタート地点の塀に行く。ハルガが、落ちていた木の棒で、地面に一本線を引いた。これがスタートの線だ。
タカヒロは、線ギリギリの所に前足をくっつけると、後ろ足にぐっと力を入れた。学校の授業で習った、スタートダッシュ。ハルガも隣に並んで、手をぎゅっと握りしめている。
「今日は負けないからな」
「おれだって負けないよ」
お互いに顔を見合いながら、にかっと笑う。同じ高さで交わる目線。
そして、ハルガが突然叫んだ。
「スタート!」
「あ、いきなりなんてずるいぞ!」
ハルガは不意を突いて、宣言と同時に走り出した。出遅れたタカヒロは、必死に後を追う。
しかし、ハルガの作戦も虚しく、真ん中辺りでタカヒロがハルガを抜いた。慌てたハルガは、さらに拳を強く握りしめるが、距離がどんどん開いていく。
タカヒロがゴールの塀に手を突いた二秒後に、ハルガが息を切らして到着した。タカヒロがここぞとばかりに得意顔になる。
「ハルガ、足おそくなった?」
「あんたが速くなったんでしょ……はぁ」
ハルガは、足を投げ出して草の上に座り込んだ。それを見て、同じように隣に座る。春の風が、とても気持ちいい。
「子供って、成長が早いな。このままだと、近いうちに身長も抜かれるのかな……ああ、いやだいやだ」
「ハルガはせがのびないの?」
タカヒロが尋ねると、ハルガは真顔で頷いた。
「そっか」
このとき、ハルガの顔が少し寂しそうに見えた。でも、なんでだろうと思う前に、面白い物が目に入った。
「あ、あの雲、ハルガににてる」
「全然似てない。どこが似てるっていうんだ」
年下のタカヒロに負けたのが悔しいのか、ハルガは不機嫌そうに頬を膨らましていた。だが、タカヒロは気にしない、もとい気が付かないで曇り空を指さした。
「ほら、灰色が同じ」
「……まあ、ね」
タカヒロが言ったのは、ハルガの容姿のことだった。
同じ小学校の友達とは全く違う、灰色のショートカットの髪の毛と、瞳。服も灰色で、インディアンが着ているようなポンチョのような格好だ。それら全てが、タカヒロの目には曇り空のような暗い印象を受けた。
でも、そんな見た目はどうでもよかった。タカヒロは知っている。ハルガは暗い存在ではないと。むしろ、春のような明るさを感じていた。
「……もう一回、勝負するよ。今度は、負けないからな」
ハルガがそう言って立ち上がると、タカヒロもつられて飛び起きた。
「うん、こんどもおれが勝つから」
タカヒロはへへっと笑って、鼻の頭を人差し指で擦った。するとハルガが、タカヒロの頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「いいや、私が勝つ」
「いいや、おれが勝つ」
そうして、二人は日が暮れるまで、小さな原っぱの中を走り回っていた。
遊ぶのに夢中になっていて、気が付いたら夕方だった。
疲れた体を休めるために、夕焼けを眺めながら二人で草原に寝転んでいると、隣の家のおじさんが、窓から何かぶつぶつ言っているのが聞こえた。
「まったく、なんだってあのガキはこんな場所で一人で遊んでるんだ。うるさくてかなわん」
窓を閉める音がした。タカヒロは、少しだけ体を起こして、ハルガの顔を見た。
「なんでハルガは、大人の人から見えないの?」
「……前にも聞いたことを聞くのは失礼だよ、タカヒロ」
「あ、ごめんなさい」
ぎゅっと、目を瞑った。怒られたとき、家では必ずといっていいほど頭をぶたれていたからだ。体を震わせながら待っていると、ハルガの手が頭を触れた。でも、痛みはない。柔らかい感触だった。
「タカヒロの家庭の事情は知ってる。でも、私はタカヒロを決して殴ったりなんかしない。だから、安心して」
ハルガの声が聞こえる。タカヒロはここでやっと、頭を撫でられていることが分かった。
「私はね、妖精だから大人には見えないんだ」
その言葉をはじめに、ハルガから教えてもらったことを、ゆっくりと思い出した。
ハルガが妖精であること。
だから子供にしか見えないこと。
この土地の妖精だから、ここから出られないこと。
そして、この桜の木の妖精じゃないの、と訊いて、それは絶対に無い、“この土地の妖精だ”、と笑って答えられたことも覚えていた。
いつの間にか、ハルガの手が離れていた。タカヒロが顔を上げると、ハルガは目を細めて微笑んでいた。
「……だから、家での嫌なことは、全部ここで吐き出していきな。そうすれば、楽しい生活ができるよ」
「うん!」
それからしばらくして、タカヒロは家に帰った。ハルガとはいつもと同じように、空き地の中で別れた。
タカヒロの住んでいるアパートは、ハルガのいる空き地からはあまり遠くない。すぐにタカヒロは、『福寿草荘』と看板に書かれたアパートの前に着いた。そして入口の門を開けて、一〇三号室まで行き、玄関の窓から自分の家の中を見た。電気は、全部消えている。やっぱり、まだ誰も帰っていないみたいだ。
もう一度空き地に行こうかな、と思いながら、仕方無く玄関の鍵を外して、扉を開けた。
真っ暗だった。
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