第4話こんな淑女は望んでない!
翌朝、俺とガルジーナさんは駅の近くにあるバス停へと向かっていた。彼女は昨日買ったばかりのデニム生地のハーフパンツと白い半袖のシャツを着ている。元々スタイルがいいからか、道行く人たちは皆彼女に目を奪われているようだった。
彼女は鼻歌を歌いながらてくてくと俺の隣を歩いている。まだこの街に来て日が浅いということもあってか、興味深そうに周囲をきょろきょろと見渡していた。
幸いにも今日は天気がいい。見通しもよく、気温もちょうどいい、絶好の散歩日和だ。大学が終わったら周辺を案内してあげるのもいいかもしれない。
などと思っていると、前方に駅が見えてきた。まだバスは来ていないようで、バス停には大学生と思わしき人たちが集まっている。俺はガルジーナさんにふっと視線を寄越し、それから最後尾へと並ぶ。
「それにしても、全然大阪と違うなぁ。流石は東京、都会やな」
「大阪も都会だと思うんですけど?」
「ウチは結構寂れたところにおったからな」
肩をすくめてみせるガルジーナさん。まだこの人のことも断片的にしか知らない。急ぐ必要はないと思うが、いずれはそこについても聞いていかなければいけないな。
――と、不意に目の前の列が動く。見れば、すでにバスは到着していた。慌てて俺は前の人の後を追い、バスに乗車する。ガルジーナさんもそれに続いた。
結構席には余裕がある。俺たちは窓際の先に陣取った。
ガルジーナさんは通路側に座り、それからチラリと前方に視線を寄越す。
「何分くらい?」
「大体、十分くらいですよ」
今の時刻が八時二十分なので、遅刻するということはないだろう。
バスは一瞬だけ鈍い動き出しをしたかと思うと、それから次第にペースを上げて学校へ向かっていった。ガルジーナさんはとても嬉しそうに頬を綻ばせている。もし、今彼女に耳が生えていたらそれを絶えず動かしていたことだろう。
徐々に景色が流れていく中で、多くの物が視界に映っていく。最近出来たばっかりの定食屋や、人で賑わうコンビニなど、それらにもガルジーナさんは興味津々のようだった。
それからしばらくすると、俺の通っている鶴翼大学(かくよくだいがく)が見えてくる。歴史は浅い私立の学校だが、結構いい所だと俺は思っている。授業はキチンとやってくれるし、何より活気に満ち溢れている。それが一番だ。
やがてバスは停留所に到着。生徒たちがあらかた降りていった後で、俺とガルジーナさんはバスから降りた。
「おぉ、ええところやん!」
ガルジーナさんは正門の前に来るなりそう叫ぶ。嬉しいのはわかるけど、できるならもっと声を潜めてほしい。色んな人たちからの好奇の視線を受けて、俺は消えてしまいたくなった。
一方で、ガルジーナさんは意気揚々とキャンパス内に足を踏み入れていく。流石に梅雨時ということもあって校門付近の桜は散ってしまっているが、それでも初めて足を踏み入れる大学に彼女は感動しているようだった。
俺は彼女に微笑を向けつつ、校舎の方へと足を向ける。
「こっちですよ、ガルジーナさん」
「おぉ、ありがとな」
彼女はニッコリと笑い俺の横をついてくる。その間も周囲に視線をやるのは忘れない。気に入ってくれたようで何よりだ。
と、それから数分もすると大学で一番大きな棟にやってきた。一限目はまずここで行われる。俺は彼女を一回の大教室まで案内した。すでにそこには生徒たちがまばらに座っている。
俺たちは比較的後ろの窓際の席へと腰を下ろした。俺は鞄から教科書類を取り出し、彼女にも見えるように広げる。ちなみに一限目の授業は心理学。これは自由選択で興味があったから取ったものだ。
「中々面白そうやな」
教科書をじぃっと見つめるガルジーナさんはとても真剣そうな目つきをしていた。
と、そこでようやく教授が入ってくる。今年で六十歳になるというのにまだまだエネルギッシュな男の先生だ。彼は背筋をぴんと伸ばしたまま教壇に立つ。それを受け、俺とガルジーナさんも姿勢を良くした。
数秒おいて、チャイムの音が鳴り響く。こうして、一限目が始まった。
それから一時間後。まだ授業は続いている。だが、教室内にいる生徒たちのほとんどは内職をしていたり、机にうつ伏せになって居眠りをしていた。
……そう。この先生はいい人だし、元気もあるのだが授業内容は異常につまらないのだ。話し方のリズム、とでもいうのだろうか?
興味深いことを話しているはずなのに、眠気を誘発する能力を彼は持っているのだ。それに抗うことは、よほどの精神力を持っていなければ不可能である。それに負けたのが、俺の周囲にいる生徒たちだ。
俺は何度も目を擦りながらかろうじて意識を保っていた。
一方でガルジーナさんはというと……人一倍熱心にルーズリーフに授業内容をかき込んでいた。
前々から思っていたことだったが、この人は口調は荒いし、強引だし、やることなすこと滅茶苦茶だけど芯は通っている真面目な人だ。任侠映画の登場人物のように、義理と人情だけは忘れない。
彼女は何度も興味深そうに頷いていた。俺も負けじとノートに書き込むものの、やはり眠気には抗いがたい。瞼が次第に落ちてきた。
「ふわぁ……いてっ!」
不意に右足のつま先に鋭い痛みが走り、俺はくぐもった声を漏らした。見れば、ガルジーナさんが俺の足を踏みつけている。彼女は少しだけ厳しい目つきで俺の目を見据えた。
「寝たらあかん。ちゃんとしとき」
いや、それはわかりましたけど、眠気を覚ますならもっとソフトなやり方でお願いしたかったです。まぁ、ピンヒールじゃなくてスニーカーだったからよかったけど。
俺は目尻に浮かんだ涙を拭って黒板の方を見やる。すっかり頭は冴えていて、自然とペンを走らせる腕も速くなっていった。
それからしばらくすると、再びチャイムの音が鳴り響く。この授業では出欠をとらない。全てがテスト次第だそうだが、この状況を見るに単位を落とすものは後を絶たないだろう。俺は苦笑しつつ、腰を上げた。
ガルジーナさんは満足げに背伸びをする。
「いやぁ~大学の勉強はおもろいな! 高校と全然違うやん!」
ガルジーナさんは非常におっさんくさい掛け声を言って立ち上がるなり、教室の外へと向かう。俺も机の上に散らばっていた教科書類を片付けてからその後を追った。
彼女はしきりに頷いている。
「う~ん、なるほどなぁ。やっぱり、自分の好きな分野を選べるってのは大学の強みやな。高校やと、やることが決められとって自分のしたいことはできんもん」
「ガルジーナさんはどんなのが好きだったんです?」
「ウチか? そうやなぁ……国語とか、歴史が好きやったな。図書館にはよく行っとったし、歴史上の人物とか調べるのも……って、なんや、その意外そうな顔」
いや、だってそうでしょ! この人、絶対『好きな教科は体育!』って言いそうじゃん!
もしくは『一番好きな時間は昼食の時間!』とかも言ってそうじゃん!
予想外の答えが返ってきたことに俺は驚きを隠せなかった。いかにも脳筋系の人に見えるのに、意外と文学少女だったとは……。
唖然とする俺を軽く小突いてからガルジーナさんはふっとため息をついた。
「まぁ、ええけどな。にしても、忍。あんた寝るのは感心せんで?」
ガルジーナさんは諭すように続ける。
「あんたの家族が大事なお金払っとるんや。無駄にしたらあかん」
「……ぐうの音も出ません」
正論を言われて俺は黙り込む。が、ガルジーナさんは静かに淡い笑みを浮かべて肩をすくめた。
「で? 次はどこに行くん?」
「あぁ、こっちですよ」
俺は一旦外に出て右の方に見えるぼろい建物を指さす。なんでも、この学校ができて以来一度もリフォームされていないらしい。そのせいで色々とガタがきている。だが、残念ながら二限目の授業がある場所はあそこだ。
俺はガルジーナさんをそこまでエスコートする。中も外観にそぐわずボロッちい。クモの巣が張っているし、壁はところどころひび割れている。俺たちは今にも崩れ落ちてしまいそうなレベルの螺旋階段を上って二階の小さな教室に足を踏み入れる。そこには俺たち以外に生徒はいない。もう始業間近であるのに対してだ。
別にこれは履修している生徒が俺しかいないというわけではない。ただ、この授業は必修科目ではなく、自由選択科目だ。しかも、定期的に行われるテスト――教科書を読めば満点をとれるレベル――をクリアすれば単位は確定という非常に楽なものときている。そのせいで他の生徒たちは来ないし、一方で毎回出席する俺は先生と妙に懇意になってしまっているのも事実である。
俺は定位置である一番手前に陣取り、ガルジーナさんはその横に着いた。と同時、チャイムが鳴り響く。だが、先生はまだ訪れない。ガルジーナさんは小さく首を傾げていた。
見かねて、俺は解説を入れる。
「この先生、家が遠いらしいんですよ。だから、いつも少しだけ遅れるんです」
「なるほどな。このルーズさも大学ならではやな」
カラカラと笑うガルジーナさんに俺もつられて笑みを返す。
と、そこでバンッとドアが勢いよく開いた。そこから中年の男性教授がやってくる。眼鏡をかけた穏やかな雰囲気の人だ。大抵のことは笑って許してくれるし、機嫌がいい時は食事にも誘ってくれる。
教授は俺を見て微笑み、その隣にいるガルジーナさんを見つめて首を捻った。
「あれ? 君は? 忍くんの知り合い?」
「あ……」
と、俺はそこまで言いかけて口を紡ぐ。この状況を、どう説明したらいいだろう。流石に全てを包み隠さず話すわけにはいかないし……。
などと思っていると、ガルジーナさんはすっくと立ち上がって彼の方に歩み寄り、これまで見たことがないくらいお淑やかな調子で述べる。
「はじめまして、忍くんの遠い親戚の角谷(かどや)ガルジーナと申します。今は訳あって彼の家に居候させてもらっていて、弟同然の彼が学校でどんなことをやっているのか見に来たんです」
ガルジーナさんは完璧ともいえる対応をしながら微笑を湛えていた。その様相に俺はただただ息を呑むばかりである。
普段使っているような関西弁は鳴りを潜めているし、何よりどこか気品を感じさせる所作だった。
ってか、苗字『角谷』って言うんですね! 今知りましたよ!
よくよく考えればあの人ハーフだったな……人間と幻獣のだけど。
内心呟く俺をよそに、教授はニッコリと笑みを返す。
「やぁ、はじめまして。僕は一之瀬洋二(いちのせようじ)。この民俗学を担当しているものだよ」
「民俗学! 私、歴史好きなんですよ!」
「本当かい!? 若い子が興味を持ってくれるのは嬉しいなぁ」
教授はまんざらでもなさそうに頬を掻いていた。一方でガルジーナさんは目をキラキラと輝かせている。先ほど歴史が好きだと言っていたし、だとすればこの願いは願ったり叶ったりだったのだろう。
教授は依然として嬉しそうにしながらチョークを取った。
「よし、それじゃ授業を始めよう! 今日はちょっとだけ張り切ってやらなくちゃね!」
こうして、いつもより密な授業が幕を開けた。
それから数時間後。
「いやぁ~楽しかったな!」
俺の横を歩くガルジーナさんはとても満足そうにしていた。あの授業でもずっと真面目にノートをとっていたし、気に入ってくれたようで何よりである。
俺たちは談笑しながら学生食堂の方へと向かっていく。すでにそこでは生徒たちの列ができていた。最後尾に並ぶなり、ガルジーナさんは静かに問いかけてきた。
「ここって美味いん?」
「それなりに美味しいですよ。安いですし」
そう。この学食は安いことで有名だ。味も専門店には劣るものの、十分食べられるレベルだと思う。俺たちは談笑しながら列の移動に合わせて前に進む。気づけば、券売機は間近に迫っていた。
「何食べますか?」
ガルジーナさんは生徒たちの脇からひょっこりと顔を覗かせ、それからひょいっと肩をすくめてみせた。
「何でもええわ。忍は何食べたいん?」
「俺は……唐揚げ定食か野菜炒め定食で迷ってるんですよね」
「それなら、ウチが唐揚げ定食頼む。で、半分分けたるわ」
「あ、ありがとうございます」
ガルジーナさんはいたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。まぁ、どうせ俺の財布から消えるのであれだが、気遣いだけは受け取っておこう。
やがて自分たちの番になり、俺は宣言通り二つの定食の食券を入手し、それから給仕のおばちゃんたちがいるところまでトレイを持って進む。
「はい、どうぞ」
「あんがと」
彼女は俺から受け取った食券を受け取るなり、ちょうど米をお椀によそおうとしていた給仕のおばちゃんに微笑みかけた。
「おばちゃん、ウチの大盛りで頼むで!」
「あいよ。若いってのはいいねぇ」
「いやいや、おばちゃんも十分若いやろ!」
給仕のおばちゃんは豪快に笑い、ガルジーナさんの持っていた食券を受け取ってお椀にご飯を注ぐ。これまで俺が見たことがないくらいの山盛りだった。ともすれば、某日本昔話に出てきそうなほどである。
それから他の皿を受け取ったガルジーナさんはほくほく顔で俺の隣に並んだ。彼女はドヤ顔のままグッとサムズアップをしてみせる。
「やったわ。ええな、気前のいいおばちゃんや」
「……すごいですね」
俺は素直に感心した。この人、意外にハイスペックかもしれない。先ほども教授には咄嗟の対応をしていたし、何より初対面の人とも分け隔てなく接することができている。これはもはや彼女の才能といっても過言ではないだろう。
近くの席に腰掛けた彼女はチラリと壁に立てかけてある時計の方に目をやる。
「次はいつ授業あるん?」
「四限目ですけど……あれ?」
俺はスマホをポケットから取り出してスケジュールの確認をしようとする。と、そこでようやく友人からのメールが届いていることに気が付いた。その内容は……四限目の授業が休講になったという連絡だった。どうやら、教授が風邪をひいたらしい。俺はスマホをしまって彼女に向きなおった。
「本当なら四限目まであったんですけど、休みになったみたいです」
すると、ガルジーナさんはわずかながら悲しそうに目を伏せた。
俺はそんな彼女を安心させるかのように優しく微笑む。
「……どうせ今日はこの後の予定もありませんから、学校でも見て回りますか?」
「ええの?」
「もちろん。で、学校をあらかた見終ったら周辺を散策しましょうよ。ガルジーナさんもここのことを知っておいた方がいいですし」
「そうやな。ありがとな。何から何まで」
「別にいいですよ。俺が好きでやっていることですし」
ガルジーナさんは不意に口元をニィッと歪め、俺の方に身を乗り出してきた。
「お礼は後でキチンとしたるからな? ウチの身体で」
刹那、周囲の空気が一瞬で凍り、生徒たちの視線が俺たちへと向く。中には露骨に不機嫌そうな顔をしていたり、舌打ちをしているものまで見えた。
ガルジーナさん……頼むから教授に接していた時のままでいて下さい。
俺は心底楽しそうに笑っている彼女を見ながら、切にそう思った。
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