第2話こんな姉御は望んでない!
それから数時間後。昔の昭和のドラマのように夕日に向かって走る大学生の姿があった。
というか、それが俺だ。
すでに息を切らしており、肩も上下させている。視界は歪んでいるし、手足はもう動かすのがやっとでフォームもバラバラだ。喉がからからに乾いてもう喋る気力すらない。
そんな俺の後ろをついてくるのは、一匹のウサギ……正確に言うなら、ウサギの姿になったガルジーナさんだ。彼女はその姿のままこちらに檄を飛ばす。
「おらぁ! しっかり走らんかい! このヘタレ!」
周りに人がいないのが幸いだ。もしいたら、ウサギに追い回されるアホな大学生と思われていたことだろう。俺は目尻に涙を浮かべながら必死に足を動かしていた。
ふと、ガルジーナさんが声を上げた。
「よっしゃ、ええで。とりあえず今日はこれで終わりや」
俺は力なくその場でうなだれた。ガルジーナさんはそんな俺の顔を下から覗きこんでくる。黒くて丸い瞳が俺の目を見据えた。
「ほんとに体力ないなぁ。それでも男か?」
「いや……いきなり十キロ走らされる身にもなってくださいよ」
「あんなの準備運動や」
人間と幻獣ではどうも考え方が違うらしい。今のが準備運動ならば、俺はこれからどのような仕打ちを受けるのだろうか?
だが、その考えは杞憂に終わる。ガルジーナさんは家のある方へと体を向けた。
「まぁ、今日はここら辺で勘弁しといたる。それに、ウチも汚れてしもうたしな」
確かに、雨が上がったばかりで地面は大変ぬかるんでいた。そのせいで俺のズボンの裾もびしゃびしゃだ。ガルジーナさんの美しい金色の毛にもところどころ泥がついている。やはり女性は身だしなみにも気を遣うのだろう。彼女は嫌そうに体を捩っていた。
俺は姿勢を正し、胸を撫で下ろす。まだ心臓が痛いが、一応大丈夫そうだ。俺はガルジーナさんと並んで家の方へと歩いていく。
ふと、ガルジーナさんが俺の方を見てきた。
「まぁ、あれやな。明日からはもっとビシバシいくで?」
「勘弁してくださいよ……明日も朝から学校あるんですから」
「あ? 学校? なんや、学生かいな、自分」
「ええ、そうですよ。大学生です」
ガルジーナさんは何度か頷いた後で、再び問いかけてきた。
「今いくつ?」
「十八ですけど」
「若っ! ウチより二つも下やないか!」
「えっ!? ガルジーナさん二十歳!?」
俺の言葉に彼女も驚いたようで、額から一本の長い角が出現する。
「そうやで? あ、もしかして若く見えたん?」
言いつつ、人化するガルジーナさん。言っておくが、彼女は何も身に纏っていない。生まれたままの姿でまたもポーズを決めだした。
俺は慌てて周囲を見渡しながら自分の着ていたジャージの上を彼女に押しつける。
「ちょっ!? 危ないですよ! こんなところで人化したら!」
「ええやん、固いこと言わんと」
彼女はジャージを羽織りながら口をとがらせる。いや、女性なんだからそこは気にしましょうよ。まぁ、ウサギの時は全裸で駆けまわってましたけど。
嘆息する俺をよそに、ガルジーナさんはひとり楽しげにクスクスと笑いだした。
「にしても、嬉しいこと言ってくれるやん? そうかぁ……若く見えたか……」
「……本当に二十歳なんですよね?」
「当たり前や。まだまだピチピチやで」
にしては、言葉のセンスがところどころ古い気がする。大阪のおばちゃん風だ。
たぶん、言ったら殺されるので黙っておく。沈黙は金とはこのことだ。
住宅街まで来たところで、ガルジーナさんがポツリと呟いた。
「そや。ウチまだ洋服持ってないねん」
「……はい」
つまり、買えということだろう。彼女は思惑通りにいったことが嬉しいのかニマニマと笑みを作っていた。かと思うと――いきなりこちらの腕に抱きついてきた。
「サービスや。どや? 嬉しいやろ?」
チラリと見れば、彼女の豊満な胸は俺の腕に押し付けられて潰れていた。しかもそれだけじゃない。彼女が身に纏っているのは俺のジャージだけだ。当然彼女の体温やら柔らかさやらがダイレクトに伝わってきて、俺は顔を真っ赤にしてしまう。
その様を見て、ガルジーナさんはにやにやといやらしい笑みを作った。
「やっぱり童貞か」
「言わないでくださいよ!」
彼女は含み笑いをしながらことさら面白そうに俺の腕に体を押し付けてくる。引き離そうとしても、流石は幻獣。すごい力だ。逆にこちらの腕が持っていかれそうになる。
俺は黙ってされるがままになった。
しばらくすると、俺の住んでいるアパートが見えてくる。その近くには、コンビニやスーパー、それから洋服屋までが並んでいる。俺は彼女の方にチラリと視線をやった。
「とりあえず、洋服屋でいいですか?」
「ええで、ほんまありがとうな!」
ギュッと力強いハグをしてくれるガルジーナさんに苦笑を返しつつ、俺は洋服屋に足を踏み入れた。そこは全国チェーンの服屋だ。品ぞろえも豊富で、俺もよく利用している。
ガルジーナさんは真っ先に下着のコーナーに向かっていった。俺はその後ろをやや俯きながら歩いていく。彼女はそんな俺を不思議そうに見つめていた。
「どうしてそんな俯いとるん? もしかして、あまり金ないんか?」
「いや、そうじゃなくてですね……その……女性向け下着のコーナーに行くって結構恥ずかしくて」
俺の言を、ガルジーナさんは鼻で笑った。
「何言っとんねん。恥ずかしいことなんかないやろ?」
「だ、だって……女性向けの売り場ですよ? 男がいてもいいのかなって」
彼女は嘆息しながら呆れたように額を押さえ、フルフルと首を振った。
「じゃあ聞くけど、ウチが男性向けの下着コーナーにおったら変か?」
「それは……変だとは思いませんけど」
「せやろが。それと一緒や。大体、そんな小さいこと気にする奴おらへん。第一、今はウチがおるやろ? 他の人たちも『女の子の買い物に付き合ってる』くらいにしか思わへんよ」
……破天荒な人だと思っていたけど意外としっかりしているな。それに、頼りがいがある。つい姐さんとか呼びたくなってしまった。
などと思っていると、彼女はキョトンと首を傾げてみせた。
「どうした? 鳩が豆鉄砲喰らったような顔しとるけど」
「いや、ちょっと考えごとを」
彼女は「ふぅん」と言って返し、それから俺の持っている籠に大量の下着を投入した。思わず目を剥く俺に対して、彼女は自分のいる棚をちょいちょいと指差してみせる。
「安心しぃ。セール品や」
確かに彼女が今いれたのは三つで千円の超安物だ。それならよかった。今日はあまり持ち合わせがないので大量に買われると少しばかり困る。
それからもガルジーナさんは着る服を籠に入れていく。だが、そのどれもがセール品ばかりだった。こちらに気を遣ってくれているらしい。意外にいい所もあるじゃないか。
会計を済ませた外に出たところで、ガルジーナさんはぐ~っと背伸びをしてみせた。すでに空は快晴だ。彼女は気持ちよさそうに目を細めながら天を仰ぐ。
「ええ天気や。やっぱりお天道さまが見えとるのが一番やな」
「それにしても、どうして雨の中あんなところにいたんですか?」
彼女は意味ありげにうんうんと頷きながら答える。
「まぁ、それには深い理由があってな。言ったやろ? 一家が離散したって」
言ってましたね。笑いながら。
彼女は遠い目をしながら続ける。
「まぁ、しばらくは大阪に住んどったんやけど、東京の方に親戚がおるって聞いてとりあえずそっちに身を寄せようとしたら、もう引っ越しとってな。危うく路頭に迷うところやったわ! で、この姿やと色々まずいやろ? やから、ウサギの姿で庇護欲を誘っとったわけや」
確かに人の姿だと何かと制限がかけられる。警察に見つかったら身元を調べられてしまうし、それに彼女は女性だ。東京には怖い人たちもたくさんいる。まぁ、ガルジーナさんなら殴って追い返せそうではあるが。
というか、この人は……。
「あの、ガルジーナさん?」
「なんや?」
「どうして笑っていられるんですか?」
それはさっきからずっと思っていることだった。別に彼女が笑い上戸だから、というわけでもないだろう。それこそ、自分の人生がめちゃくちゃになったというのに、それでもどうして笑っていられるのかが疑問だった。
彼女は頬をポリポリと掻きながら静かに口を開いた。
「そうやな。まぁ、そう思われるのも当然か。でもな、ええ事教えといたる。お姉さんからのアドバイスや」
彼女は、満面の笑みを浮かべながら自分の人差し指を俺の方にズィッと突き出してくる。
「人生な、笑ったもん勝ちや。楽しんだもん勝ちや。確かにな、人生色々ある。辛いこともたくさんある。けどな、楽しいことってのは辛いことと違って自分で作れるんやで」
「え?」
首を傾げる俺をよそに、彼女はまるで舞台女優のように両腕を広げてみせた。
「楽しいことを作るのは簡単や。ただ楽しめばええ。自分で楽しめるように演出すればええんや。そういうことやで」
そこまで言ったところで、ガルジーナさんは盛大なくしゃみをした。彼女は鼻をすすりながら首を振る。
「あ~……にしても今日は疲れたわ。はよ風呂に入りたいわ」
「じゃあ、帰ったらすぐに風呂を沸かしますよ」
「おぉ、あんがとな。ほんま、感謝しとるで?」
ガルジーナさんはニパッと笑い、再びこちらに抱きついてくる。
……この人、普通にいい人なんだよな。ただ、ちょっと口が悪いけど。
やがて家に着いたところで、俺はすぐさま風呂場へと向かった。まだ風呂のお湯は入れていないが、シャワーは使える。俺はガルジーナさんに向かって口を開いた。
「ガルジーナさん。とりあえず、シャワーで体を温めたらどうです?」
「そうするわ」
彼女は買ってきた洋服類を持って風呂場へと入ってくる。と、そこでまたいやらしい笑みを浮かべ、やや前かがみになって胸元を強調してきた。
「一緒に入るか?」
「入りませんよ!」
やっぱり、この人は苦手だ。
俺は顔を真っ赤にしながら風呂場を後にした。
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