第142話 帰宅

「ぬわぁ~ん。疲れたもぉぉん。三浦きつかったっすね今日は。なんでこんなきついんですかね、もう。やめたくなりますよ、部活ぅ」

 長い一日だった。まるで半年ほど過ぎたように感じる。

 生ぬるい風が身を包む。三浦は迎えに来ない。

 俺は自分の家に侵入。カーテンが音を立ててはためいている。徐々に闇に目が慣れた。 

 なんだ来たのかと言う顔をして三浦があくびをする。その隣にフランが浜に打ち上げられたマグロみたいに俺を見上げている。

 復讐に来たのだ。と俺は直感的に悟った。

「足は……」

「最近ね。わたくし、おかしいのよ」

「俺に比べりゃ、いつだってお前はまともだ」

「男の人の声を聞くと、あなたの声に聞こえるの。人の気配がすると、あなたがそこにいるような気がする。いつでもどこでも、あなたがそこにいるような気がするの」

「俺はお前の右足を壊すように指示をした」

「当然ね。あなたは勝とうとしたんだから。そして実際に勝った。それだけだわ」

 俺は這いつくばってフランの右足にすがりついた。膝にはごついサポーターが巻かれ、ふくらはぎそして足首を固めている。

「診断は?」

「今、わたくしが何を考えていると思う? 嬉しいのよ! あなたに触られて!」

 剣は大きく息をした。胸が一束のつまようじで突かれてるみたいに痛い。


「ボックス内でPKをもらおうと演技して転ぶ人をダイバーと呼ぶことがある。卑怯者というイメージがあるが必要に迫られて、という側面もある。

 高いレベルになるほどDFはアタッカーを止めるためにできることはなんでもする。特にスペイン語圏の連中は汚い手も平気で使う。黙っていたら今日のお前のようにやられたい放題。


 だから彼らは演技をする。そうしないとどんなエグいタックルを受けるか判らないからだ。DFにハードなタックルはカードやFKフリーキックのリスクがあることを認識させる。そうやって一流のアタッカーは自分の身を守っている。


 お前はむしろ逆だった。激しく削られても、倒れまいと踏ん張って耐えた。顔色一つ変えなかった。これではDFにリスクはない。容赦なく削られる。もしお前がPKを貰っていればうちに勝ち目はなかった。


 いいか、フラン。

 お前が嫌う、姑息だとか、卑劣だとかそういう問題じゃないんだ。

 お前のキャリアを一日でも延ばすために、ファールを貰え。我慢しても何もいいことはない。


 もし。

 99年シドニー五輪アジア地区一次予選フィリピン戦、19歳の小野伸二が凶悪な背後からのスライディングタックルを受けず、左膝靭帯断裂にならなかったら。

 どんな輝かしい人生を送っただろう。


 一つの怪我が、人生を変える。


 たくさんのフットボーラーが、骨身を削られて、損傷していく。肉体は消耗品だ。天才が、次々と暴力の前に屈しピッチを去っていく。怪我を一つ重ねるたびに筋骨の可動域は減り身体能力が衰え、悪循環を引き起こす」


 悪魔の化身が悪いことしちゃいけません、と説いている。なんてつまらないコメディ!

 でももう、選手を削れなんて指示はこりごり。

「わかったわ。もう、我慢しない」


 ランプに明かりがともる。もう、帰さないと。どこで着替えてきたのだろう。ふわっとした白ブラウスにピンクのチュールスカート、頭にはプリザーブドフラワーのコサージュというフェミニンな装い。俺の腕にのたうつフランの指がこそばゆい。

「お前には、おそらく俺より相応しい男がいるはずだ。釣り合ってない」俺はフランにはきつく当たった。すがりつくような瞳を避けようとして。「俺を嫌いになってくれないか」

「わたくしは、貴方に出逢うために生まれてきたの」

「俺は、お前に出逢わないために生まれてきた」

 じゃあもう生きてる意味ないのか。フランの目には力がある。まばたきもせず俺を子猫の目で捉える。

「嫌い……大嫌い」

 少しはこたえたようでよかった。

「今日は負けて良かったわ」

 俺は首を持ち上げ、フランの顔をのぞき込んだ。

「報道で知ったの。指導者を辞めるかもしれなかったんですって? 

 また……あなたの指揮するヴァッフェと戦いたい」

 が、げんなりしてまた寝そべる。もっと中学生らしいところを見せてくれっつーの。

「今日はいい試合だった。……そうだ。ねえ! わたくしにもちゅーしなさいよ!」

 やっぱ、違うな。フランは俺の家ではちょっとおませさんではあるが普通の中学生だ。

 そのギャップに、ペースを乱される。 

 彼女の吐息が鼻先にかかる。


 お前は、俺をゆるすっていうのか?


「俺が、お前をもっと早くトップチームにあげていたら、お前は移籍しなかったのかな。まあ、今お前が貰っている給料、そして環境にはかなわないだろうが」

 フランはそんな仮定の話はしたくなかった。今を否定したくなかったからだ。

「わたくしはただ、お金が欲しいの」

 こいつはわざとこんなことを言う。俺に思い悩まないように、後悔しないようにうながす。ずっとフランを見てきたから、解る。

 どうして俺は15歳に気をつかわれているのだ。

「知っていた。

 お前がすぐにでも一軍で通用することは知っていた。

 でも、俺はお前を放したくなかった」

「ねえ、どうしてサッシに鍵を掛けないの?」

「フラン」

 フランは窓の外を見ていた。そこには茫洋とした、のっぺりとした闇がただ寝そべっているだけだ。

 

 絶望する。

 正直に言えば。

 俺はこの女を尊敬している。

 天井を見上げた。そしてフランにぬかづく。

 もうこれ以上みじめになれない。悪役は疲れる。俺はか弱くみすぼらしいネズミ。

 愕然呆然悄然。

 俺の負けだ。


「今日から俺は、お前のものだ」

 自分に言い聞かせる。

「どういう意味?」

 フランの目は大きく開いて。

 俺は体を持ち上げ、フランの体にすがりついた。

「お前のことが好きだったんだよ……」

 三浦がバリバリ爪とぎをする。


「うれしい……うれしいよぉ……」

 号泣するほどうれしいって、どんな感じだろう。

 置いてけぼり。

 俺はそんな歓喜に酔ったことがない。いつもおなかがすいている。

 フランはわんわん泣き出した。俺はサッシを閉める。

 ああ、やっちまった。……面倒なことに、なった。


 これは贖罪しょくざい。そしてつぐない。お前の慰めになるのなら。


 自分が、怖かった。

 自分が変化していくのが、怖かった。

 フランに惹かれていく自分が、怖かった。 

 生物の本能に収束していく自分が、怖かった。


 俺の中の人間の部分が、こいつの、この俊英の遺伝子を欲している。だからかれる。でも。心にトゲがある。それは少しずつ鋭さを増して。ひどく俺を引っ掻くのだ。



「三浦さ、夜中腹減んないすか?」 

 前に、あなたは言ったわ。女という生き物は感情的だって。

 おそらくそれは正しい。確かにあふれてつらいときもあるけれど。

 いいえ。

 つらささえ、うれしいのよ。 

「ですよね。この辺にぃ、うまいラーメン屋の屋台来てるらしいんすよ」

 知ってる? 世界中の女子が夜ごとどんなに寂しい思いをしているか。

「行きませんか? 行きましょうよ」

 男って。かわいそう。

 悲しみも、怒りも、楽しさも、喜びも、愛しさも。

                       鈍感。

「じゃけん夜行きましょうね」

 ああ、剣がわたくしの腕の中。ゾクゾクする。生きてきて、良かった。

 むさぼるようなキス。

「ちょっと歯当たんよ~」

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