第121話 霧雨

 9月11日。スタメンは休養日オフ、他のメンバーは負荷強めの練習で汗を流した。

 家に戻ると録画してあった試合を確認する。

「……ひでえアナウンサーだなあ」

 下田恒幸や倉敷保雄、柄沢晃弘、曽根優とまでは言わないまでもさ。これはないなあ。

 解説も。野口幸司、戸田和幸、都並敏史、アナウンサーを凍らせて楽しむなら早野宏史なんかを呼べとまでは言わないけどさ、なんだかなあ。

 メールが来た。『グラディウスはアキレス腱断裂。全治半年はかかるでしょう』

 クジャスローロリスに慰めてもらいに行く。

 腹が減った。でも食欲がわかない。


 俺の仕事は増えた。明くる日、小野と試合の反省、そしてエレメント横浜の分析に励む。

 時々、俺は放心した。

 勝てるイメージが湧かない。

 フランは試合に出ていない。しかし、横浜は意に介さずゲームを支配し勝利を積み重ねる。

 以前、エレメントの下部組織と戦った。それから一年近く経過し、そのときのメンツは更に成長し、元のメンバーと融合して非の打ち所のないサッカーを見せていた。

 良質のパスは選手と選手を繋いで化学反応を生む。パスとパスの連鎖による突破は知性を要し、しかしサッカーの魅力を昇華させる。


 原子時計が羨ましかった。

 美しくて、強いサッカー。

 ずるい。二つを兼ね備えるなんて。 

「剣さん、あなたには指導力が必要ですよ。必要なときには選手を叱らなければならない。現状、あなたはテニス時代のカリスマ性でっているに過ぎません」

 小野に心底むかついた。


 子供んときは、めちゃくちゃ叱られた。怒鳴られた。殴られた。

 だから俺は人を叱るのが嫌だった。抵抗がある。

 どうすりゃいいのよ。


 ピッチに出る。

 うつぎが選手の状態に合わせウォーミングアップをさせている。それが終わると俺の番。


「日曜の試合、浜松は自分たちの反則を取られると審判にしつこく食い下がった。カットラス、どうしてか解るか?」

「判定をくつがえそうとしてるんだろ」

「そんなことはまず起こらない。簡単に判定を覆してしまったらどこのチームも猛抗議を始めるからな。ゲームの進行に支障をきたす。


 審判だって人間だ。 

 さっきのジャッジは正しかっただろうか。

 後でホームチームのサポーターに悪口を言われるんじゃないだろうか。

 心が揺れる。

 

 性善説を信じてはいけない。審判に抗議しない者は謙虚だから甘くジャッジしてくれるに違いない、などと考えてもまず叶わない。

 審判は目の前のプレーを正しくさばくだけで精一杯だ。


 審判には激しく抗議して、圧力を掛けるべきだ。審判はお前の何もかもを見ていない。主張できるところはしておかないとチームのためにならない。蹴られたら必要以上に騒げ。黙ってたら次にはもっと強く削られる。自分の身を守るためだ。

 

 攻撃時、ボックスの中では時にわざと倒れるのも有効。相手が掴んだり押そうとしていたらPKがもらえる。

 前の試合、ヴァイオリンはうまくランスにぶつかり転んでPKを取った。そのときランスは立ちっぱなしだった。

 あれはお前が倒したようにも見える。ああいうときはDFは合わせて転ばなければならない。


 物語フィクションでは因果応報が起こることが多い。悪いことをした奴には罰が下る。しかし現実はそうなるとは限らない」


僭越せんえつながら申し上げる。あのときヴァイオリンはそこまで強く我がはいにぶつかったわけではない。なのにどうして我が輩は転ばねばならぬ」

「印象が悪いんだよ。実際、反則を取られた。またPKを取られるかもしれない」

「であれば甘受するのみ。我が輩の行動規範に欺瞞の項はござらぬ」

「お前からPKを取るのは簡単だとスカウティングされるかもしれない」

 俺は一旦、ランスに背を向けた。

「もしかしたらサッカーは演技力さえ必要だ。俺に舞台経験があれば演技の指導をしたいぐらいだ。相手に倒されたようにどうやって見せるか、研究が必要だ」

「我々はそこまでして勝たねばならぬのか? そこまでして得る勝利にどんな意味があろう?」


 テニスをやっているとき、俺はただ勝つことだけを考えていればよかった。

 サッカーは、スポーツマンシップについても考えなければならない。

 サッカーは肉体的接触を認めている。技術で勝てなくても、相手にダメージを与えれば戦える。やり返されるというリスクも負うが。

 

 自分の生徒が、相手と交錯して苦痛に顔を歪める光景は、筆舌に尽くしがたいものがあった。骨がきしむ音が聞こえるようだった。

「勝つために、俺たちはここにいるんだ……」

 そうなのか? 

 1982年W杯、セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコ……ブラジル黄金の中盤カルテット。1974年W杯、ヨハン・クライフを中心に創造したオランダ代表時計仕掛けのオレンジのトータルフットボール。他にも枚挙にいとまなく。

 優勝しなくても、語り草になる芸術的なサッカーはある。

 ただしそんなサッカーはたびたび強靱なフィジカルに踏みつぶされ、一敗地にまみる。

「フェアなプレーをしたからと言ってそこをたたえる人は少ない。それよりも勝利を優先すべきだ。お前に矜持きょうじがあるのは解るが。


 浜松はイエローカードを一枚しか貰っていない。日曜だって別に浜松が特に荒いプレーをしたという訳ではない。

 お前らはクリーンだった。でもそれじゃ勝てるものも勝てない」

 女は闘争心に乏しい。争うことに向いてない。

 ははっ。

 まるで悪役じゃないか。



 雨が降る。

 その日、俺はクラブハウスに戻らず、練習場のボールに座って地面を見つめていた。

 選手はみんな帰っただろう。もうブリーフまでぐっしょり濡れそぼる。

 剣は立ち上がった。ゆっくり歩き出す。

 

 ひっそりと、物置の前で雨宿りをしている者がいた。

「お体にさわりますよ」

「ああ……」

 錫杖だ。

 錫杖は今日からグラディウスの穴を埋める形でトップチームの練習に参加していた。次の試合、守備的に行かざるを得ない。CBを昇格させた。

 剣はあっと口を開けた。

 錫杖はふっと俺の腰に手を回し、抱きついた。

「何の真似だ」

「申し上げたとおりでございます。体に触ると」

 錫杖は目を瞑って俺の腹に顔を押し当てる。じわり、水滴にまみれた。


「剣様は、色即是空しきそくぜくうという言葉を御存知かしら」

「なんか仏教的な感じで聞いたことがあるな」

「般若心経の中の句でございます。色、すなわちこれ、空。色はこの世界に存在する全ての物事を表します。空は何もないと言う意味。ですから、すべての事象はなべて実態のないものだ。という意味になります。転じて『どちらでもいいことなので、ああだこうだと、うじうじ頭を悩ませず、こだわりなく物事を見つめなさい』と解釈されています」

 普段、ほとんど口を開かないがどうして、口を開けば結構うるさくしゃんしゃんと喋るじゃないか。

 剣は少し、笑った。

「ありがとう。さっさと帰れ」


 拙僧は、世を捨てた身。

 でも、まだ拙僧の中に女の部分が残っていることを今、知った。


 こだわり、なく、か。

「ちょうどその辺で用があったんで、寄っちゃいました!」

 またこの編集者、来やがったのか。いつ出てくるとも知れないのにこんな時間まで傘さして待ってやがる。

 俺は構わず歩き出した。ピンヒールの音がついてくる。いつものように走ろうかとも思ったが逃げてるみたいでそれはそれで嫌だ。

 雨は小降りになった。

「……そう、だ」

 俺は振り返った。

「お前さ、スポーツ新聞に記事を載せられないか?」

「お前じゃなくて、小砂羽こさわって呼んで?」

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