第113話 サウジ戦②
「なしのつぶてですね。前より反応が悪くなってるかも……」
苦笑いを片手におっさんAが事務室に戻ってきた。
おっさんAはちょくちょく外出して『ソトマワリ』とかいう所に行っている。そしていつも苦しそうな疲れた顔で戻ってくる。俺に黙ってきっと何か美味しいものを腹がはち切れるほど食べているに違いない。いや、美男子との逢瀬を重ねているのかも。恋の病って奴だ。
俺はいらいらした。
「コーチ。ちょっといいかしら」
レイピアが廊下の片隅にちょこんと立っていた。
トップチームに上げなかった選手に、どんな顔をしていいのだろう。
「護岸工事が終わりましたわ。もし日曜日お暇でしたらお越し遊ばせ?」
そういえばエビ餃子をごちそうしてくれるとかいう話になってたんだっけ。ああ、そいつには俺は逆らえないんだ。
9月3日朝。俺はレイピアの家に出向いた。
異世界転生したような気分になる。塀の中は余りに浮世離れしている。城門の前でどうしたものかと思案していると門が上がってゴシックロリータなワンピを着たレイピアが飛び出てきた。
「ご覧になって。コーチのために川を造りましたの。本物のよりはずいぶん小さいですけど」
!?
せせらぎの。水が流れる音が聞こえる。前、来たときにあった目がくらむような石畳の庭園を割って蛇行する水路が掘られていた。
俺は目を
顔を上げると、使用人達がせっせとテーブルを運んできて餃子鍋やらボウルやらを運んできた。俺は呆然とレイピアに訊ねる。
「どうして川まで造る必要があったんだ……」
レイピアはぱっちりした二重の目を大きく開いた。
「え!? だってコーチがおっしゃいましたわ。『うちでは川から造るんだ』、と……」
「いや。riverじゃなくskinだ」
「……。ああ、川じゃなく皮でしたのね……」
「川」言ってみる。
「皮」レイピアも。
言われてみると
使用人達は川からエビをすくい上げ、淀みなく調理を始めた。強力粉と薄力粉を捏ねてもちもちの皮も作っていく。
やがて焼き上がったエビ餃子は気が遠くなるほど美味だった。カリカリの焦げ目を噛んでいるとき、どうしようもない幸せを感じる。ごま油と中華だしの風味にため息が漏れた。
「まあ、大きな生け
レイピアは微笑む。
練習を終え、ピッチのあちこちに
刀は悲痛な顔で顔を赤くしたり青くしたりしていた。
「大丈夫?」
刀のふくらはぎにぷっくり膨れたところがある。刀は人差し指でそこをポリポリ掻いた。爪を押し当て爪の跡を付ける。角度を変えてもう一度。十字に
「うむ、蚊に
刀は怪我に強い選手だ。少々痛くても我慢してしまう。そんな刀が目をつぶって顔を歪めている。
「そんなにかゆいのか」
俺は声を掛けてみた。
「ああ……其、蚊にはちと弱くての」
「ちょっと来い」
俺は刀を連れてクラブハウスに入った。給湯室に象印の電気ポットがある。スプーンをその中に突っ込んで、卵を取り出した。水で少し冷ます。
「熱いが我慢してくれ」
狙いを定め、卵の尖った方を患部に押し当てた。
「あ……! うッ……! キヒィ!」
刀はうめいた。
「なんか……エロい」
後ろから手裏剣の声がする。頃合いを見て卵を離した。
「どうだ」
刀は夢から覚めたような顔をして廊下にへたり込んでいたが急に立ち上がる。
「おお、
「薬なんて要らない。熱を加えれば痒みは治まる」
「あのさ、どうして蚊はわざわざ痒くするの? 痒くするから嫌われるのに」
手裏剣の質問。
「蚊だってわざわざ嫌われようとなんてしてないさ。痒くしようとしてるのは人間の方だ。
パンチを食らうと痛い。どうして痛くなるかというと身体にとって悪いことだからだ。被害者に警告を与えてるんだ。
蚊も同じだよ」
「ヴェン、今日PC貸して」
「ああ。どうぞ」
フランはヴェンティラトゥールの机に腰掛け、剣が立てたサーバーにつなぐ。やがて、講義が始まった。
「日本がサウジと戦う前に、オーストラリアとタイの試合があった。シュート数は45対8。ボール支配率はオーストラリアが75%だ。オーストラリアがホームで2対1で勝利。グループBの2位になるために3点差以上付けたかったがかろうじて勝っただけ」
「どうしてオーストラリアはパスサッカーになったんだろ」
と、ショーテル。
「アメリカにアメリカンフットボールがあるのと同様、オーストラリアにはオーストラリアンフットボールがある。ラグビーも人気だ。サッカーは
「でも、向いてない」
「そうだ。
オーストラリアはせめて戦術を使い分けるべきだ。タイも日本同様、いやそれ以上に空中戦に難を抱えるチーム。もっとシンプルにクロスを放り込んだ方がいい。
日本のためにも良くない。W杯出場権というのは死に物狂いで戦って獲得すべきものだ。強い相手と戦ってこそ成長のヒントは得られる。アジア諸国ももっと強くなって欲しい。
ともかく、サウジは日本に勝たなければいけなくなった。
W杯のいいところは国籍でチームが決まることだ。
国民性、特徴がチームに現れ、
この試合、サウジはセットプレーで何度も日本をフリーにした。ここがサウジの弱点だ。しかし日本は決めきれない。
本田はひどかった。試合勘の問題だとハリルは言うが既に衰えているのかもしれない。だとしたらもう代表に選ばれるべきではない。
だが、一つ言いたいこともある。何度も言っているがサイドで本田を使う意味などない。そして、岡崎は1トップで輝く選手ではない。シャドーだ。そしてむしろ守備で力を発揮する。
これより至る結論は明らかだ。本田と岡崎はポジションが逆だ。ザックの遺産だと言われるのが嫌なのだろうか、ハリルは
特にポゼッション指向の相手には嫌がられるはずだ。岡崎はハリルの好むカウンターに有用なピースなのだがどうもハリルに評価されていない。
本田は大迫の控えになるだろう。そうして原口は右サイドに回って貰えばかなり戦えるはずだ。
ハリルは日本人には
フランス語だ! たったそれだけのことで、マン・ゴーシュは心
「だがどうだろう、ハリルもやっぱり足りていない。
サウジもUAEも、守備は手を抜く。暑いからだ。36℃のピッチで走り回っていれば足が止まるに決まってる。だからリトリートしてほとんどプレスはかけない。
だがハリルは普段通りのサッカーを指示した。サウジの方が二日休養が長かったにも関わらずだ。
ハリルはアウェーのサウジ戦で疲れ果てたオーストラリアと対戦しても何も感じなかったのだろう。日本はUAE戦同様、後半に足が止まり、サウジのスピードに骨を折った。
光明もある。代表の水に慣れたのだろう、井手口は際だって素晴らしかった。身体能力に優れ、暑さにも関わらず走り続け、タッチは柔らかく、ガンバ産らしいテクニックも見せた。いい意味で日本人ぽくない。黒人のしなやかさを持っている。
海外に出るべきだ。
審判に工作された様子もなく、公正だった。W杯予選は実に低いハードルになった」
「工作って何だ?」
クリスの質問。
「お前だって小学校んときにやっただろ」
「やった! 呪いの人形作った!」
「今、日本のサッカーファンの脳裏にはオーストラリア戦の残像がこびりついている。
確かに快勝だった。ベストの選択をしたと言っていい。ただし、自縄自縛のオーストラリアにショートカウンターがハマっただけだ。
この残像は11月以降、次第にぼやけていくだろう。
ショートカウンターを狙うと中盤は前進してDFラインとの間にスペースができる。だからDFも前進する。ボールを取り切れないと相手にカウンターのチャンスを与える。
強い相手は日本の狙いを察知して、ボールを取られないように工夫するはずだ。かといってリトリートすればクロスを浴びる。相変わらず吉田の相方に高さがない。専守防衛に努めるなら思い切って植田を起用したほうがいいかもしれない。
ハリルは一年契約を結んでそれを更新している。『自分にはもっと年俸も条件もいいオファーが来てたんだ!』とか言ったらしいが、年俸を上げて欲しいのだろう」
「パスサッカーとショートカウンターの両立はできないのですか?」
と、フラン。
「両立はできる。だが簡単ではない。
オーストラリア戦、ショートカウンターの遂行のために山口、井手口、長谷部を中盤に起用している。この3人だからこのサッカーが成り立った。
ただ、この中盤でパスを回しても玄妙な物にはならない。創造性が足りない。
IHの2人を香川と柴崎にすればメリハリの効いたテクニカルなサッカーになるだろう。ただ、相手CHに対する圧力は弱まる。
つまり、起用する選手によって適したサッカーは異なる。
日本代表が全員アフリカ人だったら、まずカウンターを狙っていくべきだ。でも日本人なんだ。
イビチャ・オシムは日本代表監督就任会見でこんなことを言っている。
一番最初にやらなければならないことは、現在の日本代表チームを日本化させることです。日本代表が、本来持っている力を引き出すことが必要だと思います。そして初心に帰ることが大切だと思います。そうすれば日本人選手が本来持っているクオリティ、力を出してくれるんじゃないかと思います。ですから、初心に帰っていただいて『日本らしいサッカーをしよう』ということです。
JリーグはDAZNと10年2000億円の契約を結んだ。これは日本だけではとても回収できる金額ではない。Jリーグを観たい他国の需要が必要だ。
パフォームグループは見返りがある投資だと判断した。Jリーグはテクニカルで面白いんだ。
オシムの中で、日本人の特長は規律だったように思う。でも、俺は技術と集団性もそこに加えたい。そいつを博覧会であるW杯で披露すべきだと思うんだ。そしてそれこそが世界と伍すために必要なことだ。自分たちはヘタクソだからと守備的なサッカーを目指すのは日本の武器を捨てることに他ならない。何のストロングポイントもなしに勝ち抜けるわけないんだから。それぞれの国が自分の国に適したサッカーを指向すべきだ」
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