第111話 天王山前夜

「馬の耳に念仏」

「猫に小判」

「犬に論語」

「兎に祭文」

「豚に真珠」

「ホモに美女」

「美女がどこにいんのよ」

 モーニングスターは手厳しいな。そう言う彼女だって結構可愛いと思うんだけど。ショーテルは靴紐を結びながら悩んでみる。

「うーん……。あ、ほら。マン・ゴーシュはいい線行ってると思わない? うん。美少女と言っていいでしょ」

 ククリは指さす。


 この日、GKコーチのうつぎとフィジカルコーチのこん、トレーナーの雲母きららが合流、全スタッフが揃った。

 マン・ゴーシュはいつになく真剣な顔で、ちょうどピッチに現れた剣に詰め寄った。

「あのさ! ずっと、待ってるんだけど!」

 剣は限られた時間でどんなことを話そうか悩んでいるところであり、マン・ゴーシュの襲来は非常に迷惑だった。

「待ってる?」

「コーチさ、あたしの彼氏なんだよね?」

 剣は力が抜け、両腕をだらんと下げてマン・ゴーシュを眺めた。

「なぜそうなる」

「言ったじゃん。あたしは俺の彼女だって。それなのにさ! 毎週毎週取っ替え引っ替えいろんな娘とデートしてさ! 一体どういうことなの?」

 虫の声が晩夏を告げていた。少しずつ暑さも和らいでいる。

 ああ、土曜日は大変だった。まさかこの歳で色鬼、高鬼、影踏み、ケイドロのフルコースを体験する羽目になるなんて。対戦相手はすばしっこさに定評のあり過ぎるクリスで大変ひどい目に遭った。

「俺がそんなこと言うわけねえだろ」

 けんもほろろにマン・ゴーシュを突き放し、きびすを返した。


「あちゃあ、振られたかな」

 残念な気持ちと安堵する気持ちがない交ぜになって手裏剣を締め付ける。

「ねえククリ。今期のおすすめは?」

 ショーテルはマイペースだ。

「プリンセス・プリンシパルは今年一番の出来だねえ。あとはノラと皇女と野良猫ハートかなあ。地獄少女も悪くないけど……どうしてあんなに作画がひどいんだ」


 夜九時。俺は冷蔵庫の中身を思い出しながらクラブハウスを出た。

「おつかれさま、です」

 紺のタイトスカートに紺のジャケット、白のインナーはVネックで自慢の胸の谷間をこれ見よがしに晒している。

「いい加減、しつこい」

「今日は、また新しい企画をご紹介させて頂ければと」

 俺は大股に家路を急ぐ。後から女はハイヒールの靴音高く駆けて着いてきた。

 剣にぶら下がろうとする者は沢山いた。ところがどうしたことか急激に減って今はこの女だけになっている。

「自伝を書きましょう! 剣さんの過去を知りたい人は日本中にゴマンといますよ?」

 香水の匂いは甘ったるく、嗅覚だけでなく味覚までおかしくなりそう。俺は水を飲みたくなってスーパーに入った。カゴを左手に引っかける。

「金メダルまでの軌跡、日本人は知りたくてうずうずしています。加えてサッカーの指導者を目指すに至った経緯! これはドラマティックですよ!」

 いろはすのももを手に取り、ついでに夏野菜とエビをカゴに放り込む。あっと、オリーブオイルも。

 日本人はエビが好きだ。俺は毎日エビを食べる。

「ああ、美味しそう。私も食べたいなー」

 会計を済ませ、スーパーを出ると剣は人影のない路地を選んで入った。暗い道を進む。と、突然剣は振り返って。

「……犯すぞ。性の裏技ってのを教えてやる」

 と、いつにも増して低い声で呟いた。

「宜しくお願いします」

 剣は顔をぽとり、弛緩しかんさせた。そして「興が醒めた」と呟くと歩き出した。

 

 女はもう後を追わなかった。

 ここまでかな。

 剣の豹変に驚いて、足がすくんでしまった、そんな感じを演出してお開きにしよう。あんまり悪い印象になると今後、脈が無くなる。

 それにしても難敵だ。ここまでして落ちなかった男は初めて。

 下手な嘘をつくにしたってさ。どうしてあんなに嫌そうな顔してるのよ。……なんかショック。



 八月三十日。

 いつものメンバーでPCを通じた剣の講義。

「前にコーチは今回のW杯は予選敗退したほうがいいって言ったけど、その気持ちは変わらねえか?」

 カットラスの質問。

「うーん……。少し気持ちは変わったな。ハリルも最初期のような縦ポンを多用するような指示は控えめになった。そんなサッカーやってたらUAEにも負ける。それでも速い攻撃を推奨しているようだけどな。

 

 日本がW杯に行けなかったときは様々な意味で大損失になる。でも日本のサッカーファンが心から悔いて、ハリルみたいな監督を起用するのは絶対に止めようという認識が生まれたなら、日本にとって大きな財産になる。

 

 俺は誤解していたことがあって、UAEにもまだ予選突破の可能性があるようだ。昨夜、サウジがUAEに負けた。これによって日本はオーストラリア戦に負けても最終節、引き分けで通過が決まる。

 となれば余計に悔やまれるのがアウェーのオーストラリア戦だ。オーストラリアはジッダでサウジと2-2の死闘を演じた後、オーストラリアに戻ってきてから日本と対戦した。コンディションは明らかに劣悪だった。相手は疲れて動けなかったにも関わらずハリルは引き分けで満足してしまった。あそこで勝っていれば連敗しても今後2試合合計4点差付けられなければ突破が決まっていた。もったいないことをしたと思う。

 オーストラリアは明日、フレッシュな状態で日本と戦える。ホームとは言え楽な試合にはならない。


 長谷部の復帰でアンカーを任せられそうなのは吉報だ。長友も間に合いそうで、大迫は微妙。スタメンは各紙バラバラで、予想が付かない。日本が選手層が厚くなったことを実感させられる。

 システムは特にサプライズなく、4-1-2-3か4-2-3-1だろう。


 ポイントはオーストラリアの出方だ。現在のオーストラリアはパスサッカーを指向している。だが、今回はアウェーで日本はパスサッカーに慣れている。そして日本は競り合いに弱い。もし監督がフース・ヒディングだったら以上を理由にハイボールを放り込んでくるだろう。ガツガツ来られたら日本は嫌がる。

 

 まあ、少なくともラグビーよりは勝機がある。スタメンだが、4-1-2-3なら柴崎を推したい。

 柴崎は日本で一番汎用性のある選手だ。ゲームメイクが一番の武器だが競り合いもいとわず守備にも身体を張り、シュートもうまい。日本の陣容ならIHインサイドハーフに適任だ。

 そもそもアギーレが使うようになった柴崎をなぜ今まで招集しなかったのか。少なくともベンチには入れておきたい選手だ。ついでに言えばマスクも甘い」


 手裏剣は天井を見上げて嘆息した。

 本当に剣は、男が好きなんだなあ。


「そして左サイド。勝たなければならない試合なので是非、乾を起用して貰いたい。今、日本で違いをつくれる選手といえば彼だろう。更に右サイドを久保にすれば攻撃力は更に上がる。

 ただし、守備に回ったときに不安は残る。点は取られるかもしれないがそれ以上に取って勝ちたい。それで押し込まれるようならもう仕方がないだろう。

 プレッシングラインをどこに設定するかは考えどころだ。ハリルはリトリートを好むが……。引き分けには何の意味もないので当然前から行くべきだ。攻め倒して打ち合いを狙いたい。

 サウジは既に試合を終えており休養十分でホームで日本を迎え撃つ。対して日本は中四日。オーストラリア戦で決めるべきだ」

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