第106話 打診

 中、高、全学年の生徒が夏休みになった。

 エレメント横浜ユースに在籍する選手が次々とグラウンドに飛び出していくのをフランは窓から頬杖を突いて眺めていた。

 フランはトレーニングを嫌だと思ったことはなかった。毎日毎日、ボールが自分の言うことをを聞いてくれるのが、自分の体に筋肉が張り付いていくのが、喜びだった。

 夏休み、朝食前、昼前、夕方と3部練習が課された。勉強の時間も準備され、外出して遊びほうける暇はない。

 でも、みんな仲間がいたからそれほど苦ではなかった。


 フランは横浜の私立中高一貫校に編入していた。そこにはクラウンエーテルが通っていた。藍色の瞳とギリシャ人にしては華奢な体を持つこの高校二年生は人なつっこく、すぐに友達になった。

「何やってるの」

 午後、クラウンエーテルがフランの部屋にやってきた。

「今のうちにね、やれることはやっときたいの」

 また遠征ということになれば学業に支障が出るかもしれない。オーバートレーニング症候群が完治したら思いっきりサッカーに打ち込めるように、2学期の予習を進めておく。

 ふと、フランは振り返る。

「そういえば勉強してるの見たことないね」

 クラウンエーテルは返還義務のない奨学金を貰っている。期末考査はずっと学年一位だという。寮でも散々もてはやされたのでみんな知っている。

 クラウンエーテルは唇を結んでいたが口を開いた。

「フランちゃんには教えておこうかな。わたしね、直観像記憶を持ってるの」

「何それ」

「一目見たものを、その絵のまま、記憶しておけるのよ」

「便利そう」

「ほとんどの科目って暗記でなんとかなるのよ。国語ぐらいかな、苦戦するの。数学も本質じゃなく、解き方自体を暗記してしまえば良い。つまりチャート式でいける。憶えたくないものまで憶えてしまうから不便なことも多いけどね」



「いいかげんに脱げ!」

 剣は叫んだ。

 スタッフは日陰に寝そべっていた。焦点の定まらない目で剣を捉えると細く笑う。

「何も存ぜぬというのはに幸福よな」

 夕方、人の体は自然と体温が上がるようにできている。中でもスタッフの真っ黒なローブは太陽光をがっちり吸収し、所々に汗染みをつくっていた。大きく隆起した胸に汗が溜まってしとど濡れそぼっている。

わらわまといし『沼田ぬた打つ涅衣』はこの俗界の天使らの産み落とす聖霊を抱いて封じておる。貴公、妾が夜な夜な空を飛び交い命を賭す天使との闘争をいたずらにせよと?」

「練習のクオリティーが落ちるんだよ。その汗臭い服でお前のキャリアを犠牲にするつもりか?」

 不意にスタッフが目を大きく開いた。

「貴公、日曜の夜は空いていて?」

「どうしてだ」

「妾の荷を貴公にも背負ってもらおうと思ってな」 


「コーチ」

 振り返るとレイピアだった。

「今、家が工事中なのですが、コーチの家に泊めてくださらない?」

「無理だ」

 俺の家に泊まった者などいない。……ああ、フランがいたか。

「冗談ですわ」

 レイピアは笑って見せた。

 選手達がめいめい水分補給をしている。そろそろ再開しよう。

 ククリがやってきた。

「最近、暑くてさ。食欲ないんだよね」

「体重×2gのたんぱく質は毎日欠かすなよ」

「……うん。頑張る」

 クリスが割って入る。

「あーたーしはぁ、よわざかな毎日食べてるぞ」

「おー食え食え」

 そしてランス。

「我が輩は納豆なる物に挑戦してみたのだが、臭いはともかくエグみが気になって難儀しておる」

「大豆の品種をよく見ることだな。北海道のユキシズカ、宮城のミヤギシロメなんかが食べやすい。未発酵の大豆はあまり食べるなよ? 大豆は腐らせないと体に悪い」


 剣が事務室に帰ると、今日も深刻な顔でモニターを眺めていたおっさんAがおっさんBとぱっと顔を見合わせた。剣は眉をひそめる。

「話があるのですが、いいですか?」

「ああ」

 二人とも、顔がこわばっている。

 別室に移動。

「ライス監督を解任します。それで、次の監督が決まるまで、暫定的に剣さんにヴァッフェトップチームの指揮を執っていただきたいのです」

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