第105話 新宿の夜 後編

「面白い試合ってどんな試合だろう?」 

「んー、両チーム共に高い闘争心インテンシティを持っていることが前提で。


 僕の中ではスリリングな試合ですね。両チームがラインを上げて、プレスを掛け合って揉みくちゃになってる試合なんかは大概面白いですね。スルーパスが通れば即決定機。激しい戦闘と間断ない折衝が至る所で行われ、感情がたかぶります」

「なるほど。ではエレメントの試合は……」

 原子時計は口元を歪めた。

「そうなんですよね。相手にリトリートされちゃう」

「それは、エレメントが強過ぎるから。そりゃあリトリートするしかないだろう」

 原子時計は体をのけぞらせて笑った。手錠の両手も景気よく上がる。ちょっとオーバーだ。

「ペップ時代のバルサもそうだったと思う。バルサが、繋いで、繋いで……。で、当時の意見を見ると、『退屈なサッカー』って言ってる人も散見される」

 原子時計は苦笑いしながら耳を塞ごうとした。しかし自縄自縛。片方の耳しか塞げない。やべえ、可愛い。

「価値観……の問題だとは思います。

 僕たちはパスを蹴るときは意図を持つように心がけています」

「好みの問題もあるが、パスの陰影エスプリを観ようとしない、観ていない連中もいるだろう。そんな輩からするとつまらないと感じるのも仕方ない」


「いや、それは美意識の問題で、別にパスサッカーだけしか認めないとか価値があるって訳でもないでしょう。単に趣味の問題です。我々は趣味でパスサッカーをやっている、それだけの話です。ただ、チームごとに、キャラ付けというか、個性あるサッカーをしたほうが、面白いじゃないですか。


 パスワークだけで知性や驚きを感じられるような、そんなサッカーを観せたい。観せなきゃ。

 

 ピッチは広いですからね。全体も、個人も観なければならない。僕も目と脳がもっと欲しいなと度々思います。剣さんはサッカーを観るとき、どこを重点的に観ますか?」

「選手全員の思考、駆け引き、そして、陣形、だな」

 原子時計はかん高い声を上げた。

「全員! ……ですか?」

 どんな脳をしてるんだろう。原子時計は呆れかえった。

「もうすぐ世界陸上始まるけど、あんなん何も面白くない。まだ飛び回ってる蝿でも眺めてた方がまし。


 俺も昔は陸上の大会に駆り出された。自分が走る分にはまあ楽しかったがね。それなりに褒められたし。ただ。

 走る、跳ぶ、投げる! それは手段であってそれ自体を見せられてもつまらん。駆け引きの要素が少なすぎる。ついでに言えば陸上トラックのおかげでサッカー界も大変迷惑している。世界陸上ってのは興奮した織田裕二がどんなおもしろコメントを吐き出すか見るところであってそれ以上の魅力はない」

 原子時計は息が苦しくなって大きく口を開けた。そんなにものをはっきり言って、トゲが体に刺さらないのかな。と、少し心配になる。



 黙っているのに我慢できなくなった陽子が口を開いた。

「あ、でもわたし好きですよ。種馬って競技」

「たぶん、それ、種目別跳馬ちょうばです」

「それそれ、略して種馬。原子時計、これでも昔はお盛んでね。『横浜の種馬』って異名で呼ばれていたの」

「そんな風評が広まったら僕なんか直ちにクビですよ……」

 原子時計は首を振って人の目を気にした。そして陽子の半開きの目は包帯の中から鋭く剣を捉える。取り残された陽子は寂しくてお酒をしこたま飲んでいたようだ。

「剣さんの憧れる人ってだ~れ?」

「そうですね……。やっぱり僕は王道を征く、フレディ・マーキュリーですか」

「セーラー・マーキュリー?」

 喉が渇く。冷や汗をかく。剣は口をぱくぱく開いて陽子の顔を眺めた。隣の原子時計はあさっての方を向いている。

 剣は陽子を指さした。

「じゃあ、その包帯はなんだ」

「ミイラのコスプレよ! 素敵でしょ?」

「いや、あの……どうもすいません。スタッフ間でのケンカが激しくて……陽子さんはこの通り怪我が絶えないんです」

 原子時計がどうしたことか何度も何度も頭を下げた。祖先は赤べこかもしれない。

 一度話し出すと陽子は止まらなかった。なるほどこうやって馬鹿なこと言って選手を笑わせているんだな。俺には無理な芸当だ。

「その手錠には、どういう意味があるんだ」

 赤べこの頭を陽子はギブスでボコボコ殴る。目を回している原子時計に代わって陽子が答えた。

「これね、うちが強すぎるから、自戒の意味を込めて自分を縛ってるんですって! おかしいでしょ、頭が」

「いや、そりゃあね、これだけ選手に恵まれていたら、勝たなくちゃいけませんよ」

「ドMなのか?」

「そうなんでしょうね。ですがこのままだと殺されてしまいます。……今日はそろそろお開きにしましょうか」


「最後に。南アフリカW杯での日本の戦術について見解を聞きたい」

「日本代表はW杯レベルにないということを再認識した上で、岡田監督はリトリートを前提に組み立てました。


 行き着いたのはモウリーニョ政権下、2004-05シーズンから2006-07シーズンのチェルシーの採った戦術です。監督就任と同時に当時としてはかなり高額の47億円でドログバを引き抜き、キープレイヤーにしました。両SHサイドハーフは俊足のJジョー・コール、ダフ、ロッベンの中から二人を起用します。


 モウリーニョの戦い方はリスクを極力回避するものでした。ドログバ一人前線に残してリトリートです。リトリートするとどうしても攻撃の枚数が足らず、攻めの形が作りづらくなります。

 チェルシーがボールを奪うと前線のドログバに当てます。ドログバは強靱なフィジカルと高い知性で二人以上のDFを相手にボールをキープ。簡単に言ってのけましたがこんな芸当、ドログバ以外には無理です。

 

 その間に両サイドからSHサイドハーフがスプリント。全力疾走するアタッカーをマークするのは非常に難しいものです。また、ラインブレイクも容易たやすい。ドログバからパスが通れば、守備陣はパニックです。日本はドログバ役を本田が、両サイドには松井と大久保という闘える選手を置いて守備力を強化、簡単には点を取られないチームをつくりました」


「ブラジルW杯ギリシャ戦、勝てるチャンスはあったはずだ。何か取るべき手段があったなら教えてくれないか」

「ドイツW杯オーストラリア戦、ヒディング監督はフィジカルに欠点がある宮本恒靖に巨漢のヴィドゥカを、敏捷性に劣る中澤佑二にスピードスターのキューウェルを当てました。攻撃ではこのようなミスマッチ能力のギャップをつくることが大事です。この試みは功を奏し、損傷激しい宮本は終盤に動きが鈍りオーストラリアは逆転劇を演じました。

 

 逆の例を示しましょう。南アフリカW杯カメルーン戦、カメルーンのストロングポイントはサミュエル・エトオでした。エトオは右サイドに配され、スピードを活かした突破を期待されました。それに対し岡田監督が当てたのが長友です。長友もスピードが特長の選手、見事にエトオを封じ南アフリカは右サイドからの攻撃を諦め陣形を変更せざるを得ませんでした。ミスマッチ能力のギャップが生じなかった好例です。内田篤人はネイマールには善戦しましたが、ベンゼマを当てられるとボロボロにされました。吉田麻也はネイマールの前では一本のコーンに過ぎませんでした。


 余談ですが、南アフリカW杯は審判の判定基準が非常に厳しく、筋力に劣る日本にとって有利に働きました。手で押したり、掴んだりするとすぐに笛が吹かれ、カメルーンはこの判定基準にとても苛立ち、最後まで苦しみました。普通の基準であれば日本に勝機はなかったでしょうね。


 ブラジルW杯ギリシャ戦、私は柿谷曜一朗の起用を予想していました。しかし起用されたのはコートジボアール戦に続いて大迫。確かにギリシャのセットプレーは脅威で背の高い選手を起用したかったのは解るのですがギリシャが一人少なくなり完全にリトリートして引き分け狙いになってからもなかなか柿谷は起用されませんでした。


 ギリシャは体格に恵まれています。その守備を破るには高さのある大迫より柿谷の持つ創造性が有用だったと思います。ギリシャ守備陣は大迫より高い。大迫に競り勝つのは難しくなかったでしょう。しかし柿谷が地上戦を挑んだらどうだったか。

 僕は可能性はあったと見ています。彼にはファンタジーがありますから。ギリシャ守備陣の対応力ではすべては止めきれないと思います。退場者が出た時点ですぐに柿谷を起用して欲しかった。

 柿谷なら、ミスマッチ能力のギャップをつくれたはずです」



 店を出ると原子時計は振り返って。

「正直に申し上げると、今日は剣さんに叱られると思っていました。フランベルジュを負傷させてしまいましたからね」

 いや、たぶん……俺のせいなんだそれ。

 陽子が続く。

「今、我々が懸命に治療に当たっています。きっと以前のようにサッカーができるようにします!」


 そうだ。これで良かったのだ。

 剣はそう思い込むことにした。幸せなような切ないような悲しいような気がして、浅く頭を下げた。

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