第107話 魔法使い

「ちょっと待ってくれ。俺にはC級ライセンスしかない。JFAに申請しても通らないだろう」

「次の監督が決まるまでの暫定措置です。問題ないでしょう」

 また……話題作りか。

 俺が積み重ねてきたテニスが、こんな形で消費されようとしている。

 いや。

 利用できる者はすれば良いんだ。自分の力が監督足りうるかどうか、実際に見て貰おう。

「やろう」

 声がうわずった。

「なでしこリーグは現在、夏休みです。試合は来月からになります」

 おっさんAが受話器を持ち上げ内線を押すと、「今すぐ来て下さい」と告げた。

 やがて、30代半ばほどの細マッチョな男が現れた。

「小野です。ヴァッフェの助監督をしています。話は聞きました」

 おっさんBが援護射撃。

「親会社も業績が悪化していましてね。ヴァッフェ存続の危機です。何卒なにとぞお力添えいただきたい」

 泣きそうなおっさんBが下を向いて声を絞り出す。なかなかの役者だ。


 要は勝てってことだろ?

「では。剣さんこちらへ」

 小野に着いていくと映像分析室に入っていった。それなりに使用感のあるPCと一世代前のTVがあるだけの簡素な部屋だ。俺はここを使ったことがない。

 小野はDVDディスクを差し出す。

「今年に入ってからのうちの試合映像です。お持ち帰り下さい。月曜日以降、分析と試合のシミュレーション、試合計画を行っていきます。よろしいですか?」

 対戦相手の分析などしたことがなかった。


 8月6日。プリンセスリーグ最終節を快勝で終える。俺はかいがいしくマッサージ師として働く。手裏剣は俺が力を込める度に気持ち悪い声を出して身悶みもだえした。変な奴だ。

「監督……解任だって」

 廊下に出ると、うちの選手達がスマホを片手に騒いでいる。足に力が入らない。なんだかふわふわする。

 じきに屍肉を漁る獣の目をした記者達がやってきて、今しつらえたばかりの会見場に入っていった。

 

 パパット・ライスは鳴り物入りでヴァッフェにやってきた。1年目で昇格を果たした手腕は高く評価され、さすがライスだとの評判が紙面を躍った。

 通訳を伴って太り果てたライスとおっさんBが会見場に入ると、剣は隠れるように外から聞き耳を立てた。


 ライスは成績不振による解任ではないことを強調した。癌は完治したものの新たに糖尿病を煩っており、やむを得ない理由による辞任だと告げた。なにやらマイクが妙な音を拾っている。どうやらライスは記者会見中もおにぎりを頬張っているらしい。

 そして、新しい指揮官は未定だとおっさんBが付け加えた。



 剣はクラブハウスを出た。行ったこともないようなさびれた空き地が今日の待ち合わせ場所だ。


「お待ちしていたわ」

 目深まぶかにフードを被ったスタッフが闇の中に沈んでいる。声を掛けられなきゃ気づかないところだ。


 住宅街の一画。人影もなく、野良猫が足早に隠れる。

「今宵はわらわの儀式に参加していただくわ」

「俺は変身するぞ。お前もそろそろ大人になれ」

「まあ素敵! 貴公も黒魔術が使えるのね! 同志じゃない!」

「そうだな。俺もお前もただのヒトだ」

わらわは違うわ。そこな一介の霊長類とは構造が違う……」

 剣は不意にスタッフの首根っこを掴むとぐいっと自分の眼前に引き寄せた。スタッフは目をそらす。

「お前な、キャラ作りが甘いよ。よくボロが出てる」

 スタッフは無表情に剣を見上げた。

「お前さ、自分の胸がコンプレックスなんだろ。だからそんな厚着をして隠そうとしてる。そんなキャラを演じてな。いくら猫背になっても隠し切れてないぞ」

 スタッフは唇を結んだ。


 少し、スタッフが心の整理をするのに時間を要した。

「仕方ないじゃない!」

 スタッフの声質が変わった。

「あのね。おっぱいが大きいだけでね、男の人って私がエロいとか言うんだよ? 人格まで決めつけるの。ひどいと思わない?」

「そんなアホはほっとけ」

「肩もこるし揺れると痛いし何よりね、重いんだよ? 500mlペットボトルを1本ずつぶらさげてるようなものなの」

「テニスでもいたな。その選手は手術して小さくしていた」

「真剣に悩んでるのにね。人に話すと不満風自慢だって言うの! ねえ! あたしの気持ちわかる?」

「わからん」

 スタッフは小さくため息をついた。

「練習が足りないんだよ。結局脂肪なんだからハードにやれば筋肉に変えられる」

「……わかった」

「それにな。大きい胸はお前が健康的な人間であることの証でもある。そんな胸が好きな男もいるだろう」

「……コーチは?」

「……好きだよ」過去形だけど。

 スタッフはゆっくりとゆっくりと緊張を解いた。口元を緩ませる。小さくジャンプして俺に抱きつく。


 空き地にはスタッフがしつらえた仰々しい儀式の準備がしてあった。そいつを片して帰途につく。

 剣は声にならない声を上げ、足を止めた。

 夜になると暑さを避けて犬の散歩をする変態が道という道を闊歩する。現在最も被害甚大な公害だ。一匹の大型犬が飼い主に歩調を合わせやってくる。人間にこびへつらう下種げすな獣。

 スタッフははしゃいだ。

「あれ、ブルドッグスじゃん、ブルドッグスじゃね?」

「コリーだよ」

 俺は冷静に答えた。

 見よあの長い鼻を。あんなに鼻が長けりゃ下が見えないだろう。なんと醜悪で不便な構造だ。早く絶滅しろ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る