第81話 涙の轍

 日本という国は外国人が非常に少ない国だ。東京に住めば少しはいるが、地方都市にはほとんどいない。右を見ても左を見ても日本人ばかりだ。ビザの発給に厳しく、外国人に不慣れで、不寛容で、問題が起きない代わりに着々と高齢化を進め、労働人口の減少と社会保障費の増大、それに起因する不安から消費の縮小という問題を抱えつつある。


 剣は自分が白人に対しておそれとコンプレックスを同時に抱いていることを自覚していた。

 おそらく、鼻高のアメリカ人にコテンパンにされ、あげく原子爆弾の被検体にされ、返す手でチョコを受け取ったのが、そんな歴史を習ったのが要因ではないかと思っている。

 気がつけば身の回りのものは洗練された欧米文化に支配されている。一週間を繰り返して生活するのは神が七日目に休んだからで人々を見れば洋服ばかり、飲食物も、住居も、何もかも。


 アメリカのおかげで日本は高度成長を遂げ、アメリカの思惑通り繁栄する民主主義国家を大いに宣伝した。日本はアメリカの力を様々な形で見た。そして細長い日本は対北朝鮮、対中国の前線基地として南北に伸びてアメリカの盾になる。




 土曜日なのに紺のジャンパースカートの制服を着た金髪の女の子が目の端をかすめた。宝石店の店先にヒアシンスが植えられており、彼女はそこに近づいてショーウィンドウを見上げる。

 どこかで見覚えがあると言うより毎日顔を突き合わせている。マン・ゴーシュだ。


 マット系ワックスで髪を無造作風に固めた大学生ぐらいの男が二人で、マン・ゴーシュを指さして何か話している。そして微笑を湛えマン・ゴーシュに近づいていく。俺はバッグをその辺に投げ捨てると早足でそちらに向かう。

「待った?」

「なんだよお前は……」

 俺は壊れないように注意し、力を加減して抱きしめた。

「俺はこの娘の彼氏だ」

「!? じゃあどうして……」

 打ち震える。俺はじわじわと抱きしめる力を強くした。そうして絞り出る男のにおいを堪能たんのう

 マン・ゴーシュは振り返るといつものように冷ややかな視線を俺に突き立てた。

「さあ、おデートとしゃれ込もうぜ……」

「え……え……?」

 俺は両腕に一人ずつ抱え引きずっていった。


 男はこう、がっしり力を込めて抱きしめられるのがいい。想像したくもないが、大型犬を飼いたがる酔狂な輩の気持ちはこんな感じに違いない。

「何かお目当てのアクセでもあるのか」

「あれ」マン・ゴーシュは指さして。

 目をこらすと灰色の平べったい生き物が硝子ガラスに張り付いていた。

「なんだ。ヤモリか」

「かわいい」

 剣は顔をしかめながらヤモリのやけにひだの多いからだを眺め渡した。

「グロいな」

「かわいい」

 女ってのはこういうときキャーキャー悲鳴を上げる生き物でないのか。それともか弱い女アピールされて俺は完全にだまされていただけで実は案外平気だったりするのか。

 剣は女に対して絶えず不信の念を抱いていた。リハビリだと思って仕方なく、ヴァッフェの指導に当たっている。

 剣は飢餓状態にあった。

「昼飯は食ったか?」

 マン・ゴーシュは首を振る。


 そのままsubwayに寄った。

「野菜多めトースト長めで」

 余り体によくないと理解していながら、パンをカリカリにするのだけはやめられない。

 ベンチを見つけるとそこに腰を据え、二人はえびアボカドをパクついた。マン・ゴーシュは食べるのにひどく時間がかかって、剣が四つ食べる間にまだ半分しか食べていなかった。口は小さく、こういった食べ物にも不慣れな様子だ。

 街行く男達を物色しながら、剣ははらの中で叫びたがっている狂気の虫に絶望していた。この虫とは二年ほどの付き合いになる。やるせない。この虫と戦って打ちひしがれ最近は無気力にかじられるままだ。男に対する性的衝動が抑え込めない。もうぶっちゃけ男なら誰でも良かった。いくら食い物を腹に詰めても満たされることのない飢えだ。


 できることなら。昔のように、女を愛したい。代替物でいいから。

 剣はマン・ゴーシュに目を向けた。

 マン・ゴーシュは普通の中学三年生だった。普通。とてもサッカーをやってるようには見えない。体は小さく、可憐でいつも不機嫌そうにそっぽを向いていた。手入れをしたことがないのだろう、まゆは不揃いで太い。

 空腹をまぎらわそうと口を開く。

「お前さ、うちの連中となんつーか、仲良くできないか」

 細い指は玩具おもちゃのようで、丹念にパンを持つ手が器用にえびの位置を修正する。俺みたいにソースを散々こぼしえびを二匹脱走させてはいない。

 その目がわずかにかげった。ように見えた。

「サッカー続けてくんだったら、コミュ力だって必要不可欠だぞ。腹を割って言いたいことを言えなきゃ連携に支障をきたす。実際、お前からのパスのつながりはひどいもんだ」

 マン・ゴーシュはさびしそうな瞳に剣の姿を映した。口元に力が入って、しわが寄る。


「だってさ。どうせいなくなっちゃうじゃん」

 首を上げ、ぴくっと震えた。瞳孔も口もつられて大きく開く。そうして落ち着かなく収束する。その言葉はきっと予定外のものだった。

「今までだってそうだよ。小学生んときサッカーしてたひとも、中学上がったとたんにやめちゃったりさ、一緒になでしこでやろうねって言ってたのにさ。上のカテゴリー上がれなかったりさ、親の都合もあるしさ、お金もかかるしさ、みんないろんなことあってバラバラなってくんだよ」


「中学上がるとさ、サッカーのゴールは男子が使うから女子がサッカーやる環境なんてないんだよな。女子校ぐらいだろ。どうにかしないといけない。まあ、でも、さ。いいじゃないか。今だけだとしてもさ、友達になれよ」

「つらいじゃん。結局いなくなるのに」

 なんだそりゃ。小学生かよ。

「だから、ね。仲良くすると痛くなるんだよ」

 こいつ、こんなにしゃべるんだな。

 確かにマン・ゴーシュは白人だ。だが、こうして話しているとただの子供でしかない。

「現にさ、フランだっていなくなった! キャプテンなのに」

 ……すまない。それは俺に責任があるかもしれん。

「まあ、俺も努力するよ。みんな一軍に上がれるようにさ。さ、練習いくぞ」

 立ち上がろうとした。マン・ゴーシュは俺のスーツの袖口をつまんだ。

「コーチはさ、いなくならないよね」

「さあな」

 空は不透明に濁っていた。

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