第59話 新生活

 事務室に戻って来ると、おっさんAとBは揃って雄熊に子供を殺された母熊の顔をしていた。口を開けたまま天井に何かとてもいいものでもあるのだろう、焦点の合わない目をさまよわせている。


「エロスさん……ライス監督がひどくご立腹だよ」

 おっさんBはアニマルゾンビかと見まごうほどやつれた顔でエロスにとろんとした目を向けた。

「フラン、今までのツケ、きれいさっぱり払っていきましたよ」

 比較するとおっさんAはどくイモムシぐらいの穏やかな顔だ。今回の一件で悟りの一つや二つでも開いたのだろう。


「ツケ……って、あいつに借金させてたのか?」

「基本的な会費はうちで持ちましたよ。でも遠征費や合宿費までは契約に入ってなかったんでね、うちで立て替えていたんですよ」

「そんな端金はしたがねどうして払ってやらなかったんだよ!」

「さすがに何から何までこっち持ちというのは……。せめてこれくらいはフランのほうで払って貰おうと、当時随分配慮して契約を設定した憶えがあります。うちだって全然余裕はないもので……」


 あんなところに暮らすフランを取り巻く環境はどんなものなのだろう。

 俺はすぐに事務室を出るとフランのアパートに向かった。

 二階に灯りが点いている部屋は見当たらなかった。

「フラン!」

 返事はない。

 それにしても東京に、こんなひどい賃貸物件があるのか驚くほどひどい家だ。

「また今日も騒々しいね」

 母屋の方から足を引き摺りながら大家が出てきた。

「あの娘なら今日、滞納していた家賃をまとめて払ってここを引き払ったよ」




「おかえりなさい!」

 けたたましくクラッカーが鳴り、紙テープの嵐がフランを襲った。玄関の両脇ではソリッドとオー・ド・ヴィが紙吹雪を投げている。

 おかえりなさい? フランは目をしばたたかせた。

 玄関ホールから階段に至るまでぎっしりと何十名かの女子がすし詰めになって、フランに歓迎と好奇と憧憬と畏怖の目を向けていた。


「たっ……ただいま」

 次々と花が咲くように、選手達は顔をほころばせた。そして何か歌を歌う、歌番組などまったく観ないフランにはまったく何の歌か判らなかったが、とにかく気持ちは伝わってきた。

「明後日はクリスマスパーティーを兼ねてフランの歓迎会だよ」


「わたしが君のパートナー、ヴェンティラトゥールだ。よろしく」

 フランの手を握る。

 フランが案内された部屋はベッドが二つあった。どうやら二人部屋のようだ。

 まるでホテルみたい。フランの胸は躍る。

「その緑色の布は何だい?」

「これは風呂敷という非常にコンパクトなバッグです」

 フランは小さな荷物をあてがわれたクローゼットに収めると風呂敷をたたむ。

「おお、そいつは古風で可愛らしいね」

 英語の教科書の会話みたいに奇妙な会話だ、とフランは苦笑した。

「明後日は仮装パーティーなんだ。夕食の前に衣装の下見に行こうじゃないか」

 二人は沢山の寮生にぶつかりながら廊下を駆けた。だってヴェンティラトゥールが走るものだからフランもついてくしかない。


「どれがいいかな」

 衣装部屋にたどり着くとヴェンティラトゥールは股間から馬の首と前足と生え、下半身は馬の足と尾が付いて着ると馬に乗った感じになるコスチュームや死神のスタンド、ケーキのコスプレ……えとせとら。様々なものを引っ張り出してきた。


「これ可愛い」

 フランはサンタガールの衣装を手に取る。

「なんだいそうかいそおいうガーリィなのがお好みかい?」

「あ」

 フランは真紅のドレスと大きな石のついたティアラの前でぴたり、動かなくなった。

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