第58話 フランベルジュ奪還作戦 後編

 耳の冷たさにぴりぴりと痛みを覚える。 

 暮口荘 201号室。

 見上げると、二階の一室だけカーテン越しに赤く電球色の光が漏れている。裏手に回ってみた。


 階段を見て、身がすくんだ。

 錆び付いていて半分折れかかっている。俺なんかが乗ったら折れそうだ。

「おーい、フラン」

 俺に反応してどこからか犬の声が響いた。


 蝶番ちょうつがいが、キイィィィィと音を立て、二階のドアが開く。

「深夜に叫ばないで下さい。何かご用ですか」

 ひどく弱々しい声だった。ジャージを着たフランが出てくる。たぶん、顔はいつものように怒りを表している。

「どうして移籍する」

「わたくしはアスリート。なら、より自分を評価してくれるチームところに行くのは当然のことです」


 そうだな。

 そうだ。

 気がつくと、自分に理がない。

 俺は俺の利害だけのために動いている。

 俺の駒が奪われるのを恐れている。


 俺に、お前の人生を変える権利はあるだろうか。


「行くな」

「ステップアップしたいのです」

「俺の元に居ろ。俺がお前を育ててやる」

「ご存じないんですか? エレメントには名伯楽と噂に高い原子時計監督がいるんですよ」

「俺が……」

「もうね、サインしてしまったんです。無理なんですよ」

「誰だい!? こんな夜更けに」

 聞き覚えのある声。さっきの電話の相手だ。

 俺はそっとその場を離れ、物陰に隠れた。


 そうか。もう、契約が成立しちまってるんだな。

 真っ暗だ。月も見えない。雨の冷たさに打ちひしがれる。

 俺が、悪いのか?

 階段は二階に向かう大家に不快そうなうなり声を上げた。

 

 しばらくして大家は文句を言い続ける階段を降りていった。

 さて。

 そのとき、ドア越しにフランの嗚咽の声が聞こえた。泣き止むのを待っていようと思ったが、止まらない。

 俺の、せいか?


 どれくらいっただろうか。

 フランの拳が延々と俺をぶん殴り続ける。

 肩をふるわせながらどこかに歩き出した。




 刀は叫んだ。

「フランベルジュ殿が……脱藩!?」

 普段、誰よりも早く来て練習の準備をしていたフランの姿が今日は見えない。

「サッカーを止めるのか? 浪人か? 何処いずこかに仕官する気か?」

「それが……エレメントにもう決まってるみたいぁ」

 弓はすっかり湿気ている。

「えれめんと……猛者もさが集っておると聞くな……」

「そりゃあもうもっさもさだよぁ! もっさもさぁ!」

「では、いずれまみえることになろうな」

「その前に弓達が一軍トップチームに上がれるかわかんないけどねぁ! フランちゃんはだいじょぶだろうけどぁ!」


 ブレザー姿のフランは唐突に現れた。いつものように学校から直接来たのだろう。

 普段から、少し近寄りがたい雰囲気はあった。如才じょさいなく超然とした、チーム最年少のキャプテンだった。


 足早に事務室に入る。

「今まで、ありがとうございました。わたくしがここに在籍していたことを誇りに思ってもらえるように、頑張ります」

 薔薇バラ。頭を下げた。

 どんな言葉を掛けていいかわからなかった。おっさんBがもごもごと口惜しさやら未練やらを並べ立てる。


 てきぱきとロッカーの中身を片付け、振り返ると、部屋いっぱいに選手達が集まっていた。ランスが花束とさっき慌ててみんなして書き添えた色紙を抱え、微笑をつくっていた。だが眉尻が下がっている。

 嘘の下手なランス。うれしい嘘。

「君を止められなかったのは悔しい」

「そうです。わたくしはゴールを決めるまで走り続けます」

 先輩。後輩。

 流涕滂沱。

 フランは年上だろうと容赦なく叱り飛ばした。それに対する反感は、フランのプレーに一蹴された。

 今になって、ようやくわかった。

 フランは、その人に良くなって欲しいから、叱るのだ。憎くてやってるわけじゃない。趣味で怒鳴っているわけじゃない。叱るのが楽しいわけじゃない。

               

 くしゃくしゃになった顔を整えると、フランはクラブハウスを出た。

 すっと、まぶたが上がる。

 剣が、そこにつっ立っていた。

 フランは歩みを止めない。その横を通り過ぎる。

 剣は微動だにしない。

 振り返らなかった。


 どんな言葉を掛けていいかわからなかった。手札にはオールドウィローもケルピーもない。

 だったら、沈黙がいいのではないかと考えた。

 きっと俺の気持ちはわかってくれる。はずだ。

 でも、そう。フランは。

「お前さ、俺にサッカー教えるって約束したじゃないか」

 剣の言葉を聞く者は誰も居ない。


 やがて剣はクラブハウスに戻った。練習場に出る。モーニングスターとククリが寄ってきた。

「フランとのお別れは済んだ?」

 モーニングスターは剣の顔をのぞき込む。

「ああ」

 ククリは口をとがらせて。「で? 連絡先とか教えて貰った?」

「いや」

 モーニングスターはため息をついた。首にかかったロザリオがちらと光を照り返す。

「どうして?」

 モーニングスターは目を見開く。

「どうしてって何だよ」

「やっぱりそうか」

 ククリの目が沈む。

「あのな。フランはコーチのことが好きだったんだよ?」

 モーニングスターの言葉は最初、日本語に聞こえなかった。

 ねーよ。ありえない。

「そうでもなきゃあんなに熱心にコーチんとこ行かないでしょ? フランちゃんほどの選手が試合に出してもらえないのおかしいし、もうとっくにここヴァッフェ出て行ってたはず」

「どっかで選択肢間違えてたんだよねえ」

 おそらく、ククリは乙女ゲー的感覚で現実を生きている。俺はずううううっと選択肢を間違い続けていたのだろう。

「いや……だってさ、あいつ、俺のこと大嫌いって、言ってたぞ……」

 モーニングスターは右手を頭についてぶんぶん首を振った。

「知らなかったのか? フランベルジュってひねくれものなんだぜ?」

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