第17話 それでも、否応なしに針は回る

 あいつら、俺を殺す気かよ。

 俺は一旦乗船したがまた、海に潜る。

 

 深い。息が続かない。底が見えない。

 部屋は雑誌のバックナンバーやDVDにうずもれた。

 今はなき、週刊サッカーマガジンのジャックティベールの文に感電し、欧州チャンピオンズリーグの熱闘に火傷し、日本の敗戦に凍てついた。

 まあ、木村和司や城彰二の余りに寡黙な上にレベルの低い解説に呆れることもあったが。

 これほど目を酷使したことはない。目薬に頼り、メグスリノキ茶をすすり、目を温め、ツボを押し、マッサージをした。

 俺はまだボールの魔力から逃れられない。


 今日は練習場への道のりがひたすら長く感じた。サングラスをかけ直す。

 人波をかき分け、俺はく。酸素が、足りない。

 ああ、俺はダメになる。

 欠陥品じゃないか。


 例えば、スキーやらスノボやらに行ってみるがいい。

 そして、リフトに乗ってみるがいい。みんな大変お行儀よく座っている。

 こんなの、異常だ。


 突風が吹いたらどうする。ちょっと居住いずまいを正しただけで、落ちちまうかもしれない。

 お前ら、怖かねえのか? 

 おかしいよ。

 お前らあれだ。リフトを信用しすぎてる。異常が起きて落とされるかもしれねえのに。

 それに何より。

 俺みたいなのが気が狂って落ちちまったらどうする。

 臆病な奴は震えが止まらなくなるかもだぜ?


 人間の理性は凄いと思う。

 太るからいけない! って思えば、我慢ができる!

 殺したらいけない! って思えば、我慢ができる!

 ほら、見ろよ見ろよ。大通りは、今日も諸人 《もろびと》大挙してお無防備なお背中をお晒しになっておられる。

 いきなりそのケツにむしゃぶりつきたくなるんだ!


 俺は、我慢が、できるのか?

 ああ、俺はダメになる。

 誰か俺を救ってください。

 


 おっさんAもBも変わりなかった。特にかれることもない。逆に俺はボーゼンとした。

 フランベルジュは本当に器用な奴だ。今日は珍しくタイムカードを押す。

 それにしても誘惑が多い職場だ。ここの男達は無防備すぎる。 


 ランスは眼帯をしていた。俺は駆け寄る。

「どうだった?」

「まったく問題はない。こんなもの、取ってしまって構わないのだが」

 優しい奴だな。

「よおし、まずは昨日の反省をしたい。ミーティングルームに行こう」


 若者は柔らかい。ゆえにすぐ凹む。しかし柔軟ゆえに反発する力も兼ね備える。一晩泣けば、悔しさは、後悔は、今日の活力に変換される。

「お前らは皆、この先サッカーで食っていくことを志望していると思う。だがこの世界は甘くない。かつてサッカーは男のスポーツだった。今でもそうかもしれない。世界各国でサッカーは女に憎まれている。男どもは自分よりサッカーに夢中になってしまう」

 みんな笑った。そしてちょっと嬉しい。さあ突き落としてやる。

「率直に言えば女子サッカーのレベルは男子と比べてとんでもなく低い。なでしこJAPANはそのへんの高校のサッカー部に勝てない。女子はソフトテニス、バスケ、バレーなどに優秀な人材が流れ、サッカー部は圧倒的に数が少ない。サッカーをしたくても環境がないのが現状だ。高校の女子サッカー部員は日本に一万人強しかいない。俺は190センチあるが女子バレーチームに入っても足を引っ張るだけだろう。だが、女子サッカーチームに入れるならなでしこに選ばれるほど活躍するだろう。現状、サッカーだけで十分な収入を得ている者なんてほんの一握り。世界のクラブチームからオファーが来るようじゃないとダメだ」

 厳しいことを厳しく言った。

「ククリ、今朝は何を食べた?」

「セルです」

「要はネパールのドーナツだな。マン・ゴーシュは?」

「……とんがりコーン」

「要はハウス食品が製造するスナック菓子だな。よおしとりあえずお前ら、金輪際スナック菓子は禁止だ」

 お口あんぐり唖然呆然、の顔が俺の前にバリエーション豊かに取り揃えられた。中でもマン・ゴーシュは初めてメデューサに出会った時、人がどんな表情をするのかを俺に身をていして教えてくれた。

「中田英寿という旅人を知っているな? 彼は昔、フットボーラーだった。若いとき、22、23歳の頃は輝かしい活躍を見せた。だがえらく選手寿命は短かった」

 俺はゆっくりと歩いてがたがた震えるマン・ゴーシュの前でかがみ、顔をのぞき込んだ。

「中田は偏食家だった。主食はスナック菓子。スナック菓子に含まれる酸化した油は、体内で分解しづらく、肝臓に負担を掛ける。お前らの体の一つ一つの細胞はお前らが食べたものから構成されることを忘れるな。朝は毎日果物を食え。ヨーロッパのことわざに『朝の果物は金、昼は銀、夜は銅』というものがある。果物はブドウ糖で活力を与えてくれる。果物は毒素を排出し体を洗浄してくれる力がある。朝、食べればその日を通して毒物が出て行く。お肌にもいいぞ」

 弓とレイピアのまぶたがくいっと上がった。フランベルジュはまゆ一つ動かさず、メモを取る。

「間食にはアーモンドをおすすめする。できれば生アーモンドかアーモンドミルクがいい。素焼きアーモンドという名前で売られている物は油が酸化しており、味も落ちる。生アーモンドは通販で手に入る。生アーモンドはフライパンでその日食べる分だける。軽く塩を振ってもいい。これも美容にいいぞ。寝る前にはココアだ。安眠効果があり、ポリフェノールが豊富。ネスレのミロなんかは加えてカルシウム、鉄、ビタミンB1、B2も摂れるのでモアベターだ。明くる日の勉学もはかどるだろう。お前らは率直に言って、可愛い。きれいでいて欲しいからこそ、食生活にも気を配って欲しい」

  

 この人は平気でこういうことを言う。こっ恥ずかしくないのだろうか。何か下心があってこんなことを言ってるんだろうか。手裏剣は小さくうなった。

 油断できない。気持ち悪い。

 あたし達は、この変態に狙われている。


「時は戻せない。人生をやり直すことはできない。お前らには、今、十代のうちにしかできないことがたくさんある。一日たりとも無駄にはするな。汗をかかずに成功などあり得ない。だが、遊ぶときは全力で楽しめ。今、生きている一秒一秒が本当に貴重なんだ」

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