第一話 『受肉』
ホームルームの後、本来であればクラスメイトに囲まれ、様々な質問を投げかけられていたはずのいぶきだが、突飛な自己紹介のせいでクラスメイトはどう接していいか分からず、誰一人として話しかけようとする者は居なかった。
朝までの興奮はどこへ行ったのか、あれだけ騒いでいた吉田や末松たちさえ、遠巻きに彼女を眺めているだけだ。
ぽつりと席に座っているいぶきはしばし無言で机を見ていたが、唐突に頭を押さえて仰のけ反り叫ぶ。
「な……何ですの、これは!? どうして誰もわたくしに話しかけてくれませんの!? はっ、もしかするとこれが世に聞く『いじめ』というものでは……?」
「いや、純粋に君がエキセントリックすぎるからどう対応すればいいのか分からないだけだよ」
ネズミが彼女の問いに答えながら、さり気なく彼女の一つ前の席に座った。
「初めまして。僕はクラス委員長をしている根津幹彦。皆からはネズミって呼ばれてるんだ。君も気軽にそう呼んでよ」
にこりと微笑むといぶきはネズミの顔をじっと注視する。
「幹彦さんと仰おっしゃいましたね」
「うん。ネズミでいいよ、九地縄さん」
「その右目……義眼ですの?」
「そうだよ」
ネズミは右の目蓋まぶたを指で軽く持ち上げると、左目とは違う作り物の眼球がより露わになる。いぶきはそれを興味深そうに眺めてからはっと我に返って、頭を下げた。
「申し訳ありません。不躾に眺めてしまいました」
「気にしなくてもいいよ。僕は別にハンディキャップがあることを恥じたりしていないからね」
気さくに答えて、目蓋から指を離すと再び、ネズミは柔らかく微笑んだ。いぶきもそれにつられるように笑みを返しそうになり、思い出したかのように憤慨する。
「今、一瞬忘れそうになりましたけれど、エキセントリックすぎる自己紹介って何ですの!?」
「教卓の上に飛び乗ってマッスルポーズを取りながら自己紹介するなんて斬新すぎるよ。普通はついて行けないって」
「むう。あれはフロント・ダブルバイセップスのポーズを取ることで病弱な女の子というレッテルを払拭するために行ったことなのですが……」
確かに深窓の令嬢というイメージはなくなったが、代わりに奇人変人のレッテルが貼り付けられてしまったことをようやく理解したようでいぶきは額を机に押し付けた。
「まあ、今後の行いで挽回できるさ。何かあったら僕に相談してよ。可能なことならいくらでも手を貸すから」
彼女の肩にぽんと手を置くと、安心させるようにネズミはそう言った。
「ありがとうございます。幹彦さん」
「だから、ネズミでいいって」
一時限目の予鈴と共に席から立ち上がると、自分の席へと彼は戻っていく。そして、彼女の肩に触れた指先を見た。
指先には違和感があった。それも覚えのある感覚。
横目でいぶきを一瞥し、ネズミは僅かに口角を吊り上げた。
――やはり彼女は変わっている。普通・・ではない。
ただそれは四芦が言っていた意味とは違う。彼にしか分からないもう一つの意味合いだ。
***
放課後、ネズミはいぶきを連れ、校舎案内のために校内の階段を上っていた。
いぶきを先導するために少し先に進んでいるネズミは振り返ることなく、彼女に話しかける。
「いやぁ。それにしても凄い身体能力だったね、九地縄さん。百メートル走、十一秒切るなんて全国大会レベルだよ」
「そうなんですの? わたくしはただ生まれて初めて走ったのでタイムなんて気にしていませんでしたわ」
「それは酷いね。君に抜かれた陸上部の三波みなみさん、ショックで泣いてたじゃないか」
三時限目の体育で行なわれた百メートル走で、いぶきは去年の県大会で優勝した三波という女子に二秒近く差を付けてゴールしていた。一年の頃から惜しみない才能を開花させ二年で敵なしと謳うたわれた三波はプライドを粉々に打ち砕かれ、現在早退して寝込んでいる。
「三波さんって、わたくしに『この人の血を調べてください! 血液の代わりにガソリンが流れているはずです!』と言って泣いていた方ですの?」
ドーピングどころか、ロボット扱いされて非常に困惑したことをいぶきは思い出す。授業にも関わらず、何度も彼女から個人的に勝負を挑まれ、いぶきが勝つ度に滝のように涙を流して地面に崩れ落ちるので嫌な意味で記憶に刻まれていた。
「そうそう。その子だよ」
その時、ネズミの背中を見つめながら階段を上っていたいぶきはふとその言葉に引っかかるものを感じたが、それはすぐに次のネズミの言葉に掻き消された。
「あ、見えてきた。あそこが最後の案内場所、屋上への扉だよ」
「わたくし、一度でいいからこういう学校の屋上に来てみたかったんですの! あ……」
先導していたネズミを抜いて、彼女は嬉しそうに屋上の扉に駆け寄るが、そこには大きく『立ち入り禁止』と書かれた張り紙が貼ってあった。
恐らくは危険防止のために屋上は施錠され、一般生徒の立ち入りは禁止されているのだろう。いぶきはそれを見てあからさまに落胆した様子で膝を突いた。
「そんな……わたくしの学校に来られたら絶対にしておきたいことの一つが……」
「諦めるのは早いよ。九地縄さん――これを見て」
ネズミは制服のポケットから鍵をそっと取り出して、見せつけるように掲げた。
「それは……ここの鍵、ですの? なぜ幹彦さんが……はっ、まさか盗みを! この、平成のねずみ小僧っ! 最高ですわ!」
「違うよ。四芦先生に頼んで借りてきてもらったの」
ネズミはまるで正攻法で鍵を拝借したかのように述べるが、四芦に持ち出させただけであり、実際のところ学校側の許可を得ている訳ではなかった。
ネズミは扉を鍵で開けると、扉を開いて恭しく畏かしこまった仕草でいぶきを通す。
「では、お嬢様。最後の校舎案内を始めましょうか」
「ふふっ、幹彦さんたら意外とお茶目ですのね」
ネズミの様子にくすりと笑みを零し、誘われるがままにいぶきは屋上へと足を踏み入れた。
奥のフェンスまで進むと、金網の隙間から校庭が見下ろせた。部活をしている生徒の姿が上から見え、なかなかに壮観な景色が視界に映る。
いぶきの後ろで扉が閉まり、鍵が閉まる音が聞こえた。
「え……? 幹彦さん、鍵までは閉めなくても」
「いや、閉めた方がいいよ。これから起きることを考えると邪魔が入るのは困るからね」
振り返えると同じようにいぶきの方に振り向いたネズミの顔が笑みの形に歪む。今まで見てきた優しげな笑顔とは違う、瞳をまったく細めていない陰のある笑みだ。
怪しげな彼の表情に気圧けおされ、後退あとずさるが、後ろはフェンスのためにこれ以上退くことはできなかった。
「何のつもりですの? 幹彦さん……」
「初めて見た時や君の肩に触れた時に既知感があったんだ。でも、確信したのは君が体育で走っているところを見た時……」
一歩、ネズミの足がいぶきの方に近付く。
「あれは普通の女子高生の身体能力じゃないね。まるでフォームがなってないのに脚力だけであんな速さが出るなんて尋常じゃあない」
また一歩、ネズミがいぶきの傍に近付く。
その時、いぶきは先ほど階段で感じた違和感の正体に気が付いた。
「思い出しました。体育の時間……女子は校庭で陸上でしたが、男子の方は体育館で器械体操のはず……わたくしが走っているところを見ることはできませんわ」
仮に仮病を使って保健室などへ行き、一時的に体育館から抜け出していたとしても三波との会話が聞こえる位置まで近付くことはできないだろう。
だとすれば、彼はどうやっていぶきのことを見聞きしたというのだろうか。
「幹彦さん、貴方は……」
それを尋ねる前に、遮るようにしてネズミの方からいぶきへと話しかけた。
「四芦先生から屋上の鍵を受け取る時に君のことを聞いたよ。八年間も病院で寝たきりだったって話じゃないか。それでつい数週間前に退院? あり得ないね。医学の進歩とかそういうレベルの話じゃない。奇跡そのものだ。……ねえ、九地縄さん」
一瞬で詰められる距離まで近付いたネズミが優しい、しかしどこか暗い声色で問いかけた。
「一体、どうやってその身体能力を得たの? 僕に教えてよ」
「…………っ」
駄目だ――そういぶきは思った。
目の前に居る彼は知っている。超常的な存在により、いぶきが今ここに存在していることを。
いぶきの中で熱くうねった何かが強烈に暴れ回っているのを感じる。今すぐにでも這い出して目の前に居るネズミに襲い掛かろうとしていた。
これ以上話してしまえば、もう取り返しの付かないことになってしまう。
「……逃げて。今すぐここから逃げてください!」
必死に己から飛び出そうとする熱を持った何かを抑え付け、叫ぶ。
しかし、ネズミは逃げるどころか、それを待ち構えているかのようにいぶきを見つめている。
「もう、駄目……」
いぶきの身体を中心に渦巻くように何が姿を現す。
それはアナコンダよりも大きな深緑色の大蛇だった。ただし、その大蛇には眼球がなく、見るからに奇形の姿をしていた。
『知り過ぎたな、人の子よ。お前は生かしては置けない』
眼のない大蛇は人語を当然の如く使い、正面に居るネズミへと飛び掛かる。いぶきが言葉をするよりも早く、巨体を驚くほど俊敏に動かした。
ネズミはそれを見て、邪悪に嗤わらった。
眼のない大蛇がネズミに触れる寸前、大蛇に纏わり付くように五センチほどの毛玉が顕現する。一瞬にして大量の毛玉に覆い尽くされた眼のない大蛇は地に落ちてもがいた。
『なっ!? これは鼠!!』
眼のない大蛇を覆っていた毛玉は大量の鼠ねずみだった。その一匹一匹が血走った眼で大蛇の鱗にその前歯を突き刺し、喰らい付いている。
「ハハッ、ハハハハッ! やっぱりそうか。お前も何かに憑つかれてたんだね」
悪意に淀んだ瞳を細め、口角を限界まで吊り上げて嗤う彼はいぶきには冒涜的に映った。まるで世界中の悪意を集めて、固めたような、悍ましい表情に息を呑む。
一体どのような人生を歩めば、人の笑みはここまで邪悪になるものなのだろうか。
『お前……もしや、九地縄いぶきと同じ、『受肉能力者』か!?』
「へえ、受肉能力のことまで知ってるなんて、博識な化け物だね」
ネズミの見下みくだした視線に眼のない大蛇は纏わり付く鼠を払い除けて、叫んだ。
『巫山戯ふざけるな、人の子風情が! 化け物だと? 神である我に向かって化け物などと呼びおったか!?』
激昂する眼のない大蛇の言葉にネズミは顔を片手で押え、嘲りの笑みを零した。
「神? 神だって? ハハッ。お前、神様なの? これはいい。たくさんの理不尽な化け物を屠ほふってきたけど、流石に神様を殺すのは初めてだよ」
『あくまでも我を嘲弄するか! その死を以って詫びるがいい!!』
鎌首をもたげ、眼のない大蛇は再びネズミに喰らい付こうと襲い掛かる。
だが、地面から湧き出るように現れた大量の鼠がそれを阻んだ。
『鼠などいくら生み出したところで我の敵ではないわ!』
大蛇は現れた鼠たちを丸呑みし、あるいはその長い尾で蹴散らしていった。引きちぎれたネズミの残骸や血液でコンクリートの床が汚れ、戦いの凄まじさを物語っていた。
鼠たちも大蛇に飛び掛かって噛み付き、応戦するもの単体での力量差ははっきりしており、次から次へと鼠は数を減らしていった。
「なるほどね。この程度じゃあ、食い散らかされるか……」
「今の内に早く逃げてください! このままだとじきに幹彦さんも殺されてしまいますわ!」
一刻も早く逃げるようにといぶきは急かすが、ネズミはそれに対してゆっくりと頷くだけで微動だにしない。
眼のない大蛇はそれを見て、彼が己の命を諦めたのだと確信する。本物の爬虫類では発声できない笑い声で喉を震わせる。
『クカカカカ。それでいい。ようやく彼我の差を理解したか。だが、許さぬ。我を愚弄した咎とがは重いぞ? その命を以って償うがいい!』
「確かにこのままだと負けるね。この(・・)まま(・・)、だと」
「だったら早く!」
「なら、今度はさっきの二百倍」
ネズミのその言葉と共に最初に現れた鼠の二百倍の数が屋上に顕現した。屋上の床は見渡すかがり、鼠に覆われ、いぶきやネズミの足元さえも灰色の毛玉で一杯になる。
『馬鹿な!? 矮小な鼠と言えど、この量の命を瞬時に受肉するなど自殺行為に等しい……死ぬ気か、貴様!』
「生憎と僕の許容量はまだまだあるよ。死ぬのはお前一匹だ、ちんけな神様」
歯を剥き出しにしたこの世ならざる邪悪な笑みを浮かべたネズミは言葉なく、己の配下に指示を出す。命令は一つ、目の前に存在する惨めな標的を食らい尽くすこと。
床を覆う鼠の群れは眼のない大蛇を毛玉の海に沈めていく。ぬめるように輝く深緑は、あっという間に灰色で塗り潰された。
――ヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウ。
鼠たちの大合唱の中で姿を隠された眼のない大蛇はネズミに向けて、怨嗟の声を飛ばした。
『許さぬ。許さぬぞ、人の子……否、根津幹彦。必ず真の力を取り戻した暁には貴様を地獄の苦しみを与えた後に喰ろうてやる!』
無数の鼠たちに喰いちぎられ、文字通りその身を削り取られながらも微塵も衰えぬ怒りをネズミへと向ける。
その憎悪に満ちた叫びに侮蔑の視線と嘲笑の声で答えた。
「いいねえ。口だけの蛇さんにしちゃ、上出来の啖呵だ。じゃあ、真の力とやらを取り戻したお前をまた食べてあげるよ」
『忘れるな、お前はこのヤルダバオートの名において必ず殺してやる!!』
「そっちこそ忘れないでね。お前は鼠のおやつだってことを」
やがて鼠に集られた大蛇のシルエットはあっという間に小さくなり、最後には影も形も残さず消滅した。役目を終えた鼠たちはお互いにお互いを喰らい合い、最後の一匹になると己の身体を齧って、息絶える。
ネズミはそれをつまらなそうな顔で眺めた後、屋上に残っているいぶきへと視線を移した。彼女は一連の光景を見ている間に腰を抜かしたようで、膝を突いて座っていた。
いぶきに向けて手を差し出すが、彼女は後ろのフェンスを掴み、自力で立ち上がる。
「幹彦さん。あのネズミさんを使ってわたくしのブルマ姿を盗撮していたんですのね……不潔ですわ」
「酷い言い草だね。まあ、間違っちゃいないけど」
気丈な言動をする彼女だったが、今起きた惨状のせいか多少顔色が悪くなっていた。ネズミはそれを気遣うのはかえって無礼だと思い、尋ねる。
「ヤルダバオートとかいうあの蛇風情の話、聞かせてもらえる?」
「……そうですわね。もう、ここまで関わってしまった以上、今更遅いですし、いいですわ。すべてお話ししましょう」
***
流石に屋上で長い時間を過ごす訳にもいかないので、二人は鍵を四芦に返却した後、近くのファーストフード屋に入店した。
ラックドネルドというドネルケバブ専門の店はそこそこ人もおり、ネズミたちはそれぞれチーズケバブとジャンボダブルチーズケバブ、コーラ二つを買ってから二階に上がった。
席に座ると「いただきますわ」と一声上げるといぶきはさっそく、包みを開いてジャンボダブルチーズケバブに齧り付く。熱々に蕩けたチーズと肉汁が彼女の小さな口の端から垂れたが、当人は気にせず口の周りとテーブルを汚し続けた。
「さっきまで青い顔してた癖によくそんなに食べられるね」
「逆ですわ。こうやって食べることで体力を回復していますの」
リスのように頬を膨らませ、Lサイズのコーラの蓋を外して豪快に飲む。お淑やかそうな外観からは想像も付かない食べっぷりだ。
「汚い食べ方。チンパンジーの方が行儀がいいんじゃないの?」
「ワイルドと言ってくださいまし。こういうファーストフードを食すことが入院時代の夢の一つだったんですの!」
「夢叶って良かったね。チンパンちゃん」
Mサイズのコーラをストローで啜りながら、ネズミは冷めた目でいぶきを眺めた。
綺麗に完食すると舌なめずりで口の周りをなめ取ったいぶきが話し出す。
「幹彦さんって随分毒舌なんですのね。そっちが本性だったんですの?」
「そうだよ。馬鹿どもには話の分かる優等生で通ってるけど、目的のための顔でしかないからね」
「目的?」
「さっきみたいに人智を凌駕した程度でいい気になって支配者面してる化け物どもを踏みにじること」
ネズミの左目が反抗的な色を帯びて光る。その言葉には字面以上に強い感情が籠められているようにいぶきは感じた。
「さて、じゃあ話を戻そうか。最初から話してくれる?」
その感情を打ち消すかのように一度目を閉じた彼はいぶきに話を促した。
彼女はこくりと頷いてから語り始める。
「まず世界には闇があり、神は光あれと……」
「創世記から語り出す馬鹿が居るか! どこまで戻ってんの。要点だけ語れ」
「なかなか鋭い突っ込みしますのね、幹彦さん」
意外なネズミの一面に関心しつつもこれ以上冗談を言うと本気で怒られると思い、真面目に語り出した。
いぶき曰く、あのヤルダバオートと名乗る存在は邪神なのだと言う。形なき精神体だった邪神は生と死の狭間に居たが、彼は生の世界を常に欲していた。そして、とうとう自身が生の世界に顕現する方法を見つけた。
それが受肉能力。生きながら死に直面した強い精神を持つ、ごく僅かな人間だけが手に入れることのできる力。
だが、受肉できる生命はその能力者と波長の合ったものでなければならない。気が遠くなるような時間を掛け、邪神はとうとう己の波長に合う受肉能力者を見つけた。
それが九地縄いぶき、彼女自身だ。邪神は寝た切りだったいぶきに肉体の健康を約束する代わりに己をこの世界に顕現させるように誓わせた。
「健康になったわたくしは毎日が幸福でしたわ。けれど、毎晩夢の中で邪神がこの世界に降臨した後の光景が見えるんですの……ビルを砕き、大勢の人を呑み込む邪神とそれを眺めることしかできない自分の姿が……」
その時になっていぶきは自分がしてしまった契約がとても恐ろしいものだということに気が付いた。契約を破棄するべきだと思ったが、もし今契約を破棄されれば死ぬ寸前だった彼女の命は間違いなく途切れるだろう。
その時、いぶきは心に決めた。
邪神の復活の日の前日まで精一杯生きた後に自ら命を絶ち、邪神の顕現を阻止すると。
そこまで話し終えたいぶきは自嘲気味に微笑んだ。
「最低ですわよね。わたくしは自分が生きるために今もこうして自分以外の人の命を危険に晒している。どうぞ、蔑んでくださって結構ですわ」
話を聞いたネズミはすっかり冷めてしまったチーズケバブの包みを開き、噛み付いた。
一口食べた後、視線をケバブに向けて一言。
「別に」
「別に……とはどういうことでしょうか……?」
「そのままの意味だよ。別にどうでもいいってこと。知らないよ、そんなこと」
冷えて硬くなってしまったラム肉を嚙みちぎる。
ネズミにとってはいぶきの事情など興味もない。彼はただ、己の存在こそがルールだと当然の如く思っている超常的な存在を叩き潰し、嘲弄することを行動の目的にしている。
高潔な意志や大層な哲学を持った英雄などではないのだ。むしろ、死を厭いとういぶきの思考の方がまだ共感できる。
しかし、いぶきは彼の反応に納得がいっていないようで椅子から立ち上がり、声を荒げた。
「どうしてそんなことが言えるんですの!? わたくしの行動は身勝手で軽率で、最低のものですわ! それなのに……」
彼女は内心、ずっと誰かに糾弾してほしかった。ふざけている時も、思い切り身体を動かしている時も、いつだって幸福を感じる裏で己の行いを否定してくれる存在を欲していたのだ。
しかし、誰かに喋れば先ほどのように邪神の標的にされてしまう。故に誰にも話せない罪悪感を胸に秘めながら必死自分を偽るためにお道化ていた。
だからこそ、秘密を知ったネズミには自分を断罪して欲しかったのだ。
「心底下らないからに決まってるでしょ。懺悔がしたいなら神父にでもしてなよ。それであと何日であの蛇公は復活するの?」
残りのケバブを平らげるとネズミはコーラを啜り、いぶきの懺悔を一蹴する。
あまりに無関心な応答に一瞬苛立ちが募ったが、彼の言い分にも一理あると思い直した。
「……今日を入れてあと三日ですわ」
「それは行幸。僕は待つのが好きじゃないんだ。九地縄……いや、長いからいぶきでいいか」
カップの蓋を開けて、底の方に残っていたコーラをすべて飲み干すとにやりと不敵な笑顔を浮かべた。
「いぶき。くれぐれも復活の日まで勝手に自殺なんてするなよ。あの盲目蛇野郎は僕が踏みにじって殺すんだから」
「いくら何でも、あの邪神を倒せる訳……」
「倒せるじゃない、『倒す』んだよ。だから――それまで死なないで。分かったね?」
ネズミは断言した。必ず、邪神を倒すといぶきに胸を張って答えた。
その力強い言葉に思わず、彼女は頷いていた。
「分かりましたわ……」
ラックドネルドから出ると、ネズミはいぶきの手のひらにぽんと何かを手渡した。
「はい。これ、プレゼント」
「え? わたくしに? あ、ありがとうございます! って、これは……」
異性から初めてもらう贈り物に少し喜んだのも束の間、彼女の手のひらに置かれたのは一匹の鼠。受肉能力でネズミが生み出した産物だった。
「は、反応に困りますわね」
投げ捨てたりするほどの拒絶感はないものの、毛並みもぼさぼさで眼球の血走った鼠はどう贔屓目に見ても可愛い小動物には分類できそうにない。
――ヂュウ。
おまけに自分の何倍もの大きさの大蛇を食べ尽した姿を見ていた身としては恐ろしさの方が感じられた。
「別にペットにしろ、なんて言ってないよ。そいつは監視役。そいつが見聞きした情報は僕にも共有できるからね。いぶきが勝手に自殺したりしないように、危険が起きたらすぐに僕に分かる」
「……信用されてませんわね、わたくし」
「信用するほどお前のこと知らないし、知るつもりもないからね。じゃあ、気を付けてお帰り下さいな、お嬢様」
用は済んだとばかりに踵きびすを返して帰ろうとするネズミ。
そんなネズミを見て、いぶきは急に彼の都合に振り回されてばかりの自分に腹が立った。
「ちょっとお待ちください、幹彦さん」
呼び止められたネズミは面倒臭そうに振り返る。
「何? まさか、家まで送ってけなんて言わないよね?」
「いえ、違いますわ。明日の放課後の時間、わたくしに下さいまし」
「……どういうこと?」
いぶきの意味が読めず、ネズミは怪訝そうな表情を浮かべる。
そんな彼にいぶきは人差し指を突き付けて、こう言った。
「鈍いですわね。『デートをしましょう』と言っているのですわ!」
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