インカナルティオ

唐揚ちきん

プロローグ  

 ――死にたくない。

 病室のベッドの上で横たわる少女は、物心付いてから毎日のように願うその言葉を、胸の内で叫んだ。

 少女にとっては死とはひどく身近なものだった。

 虚弱、とすら表現できない致命的に欠陥のある肉体はいつ死んでもおかしくないほどに脆もろく、儚かった。

 医師曰く、自力では体温が維持できない先天的な疾患に罹っているとのこと。完治の手段はおろか、病室から出る見込みさえ皆無。目を瞑って眠れば、明日には目を覚ますことはないかもしれない。

 両親もとうに助からないと見放してか数年前から病室を訪れなくなっていた。院内の部屋を巡回する看護師でさえ、あからさまにそう長くないと憐憫の籠こもった目で彼女を見ている。

 電気毛布に似た医療器具により、覆われた彼女の身体はその心の内とは裏腹に、ぴくりとも動かすことができなかった。それはまるで訪れることのない春を永遠の冬の中で待ち続けるのと同義であった。

 常に寒気と眩暈めまいに支配されている意識の中、少女はひたすらに願う。

 ――死にたくない。生きたい。

 この病室から飛び出して、温かい太陽の日差しの中で思うがままに身体を動かしてみたい。

それが人生の九割をベッドの上で過ごしてきた少女のたった一つの夢だった。

灯りの消えた個室の病室の天井を落ち窪んだ目で眺めながら、ただただ明日が来ることを恐れて、ひたすらに祈り続ける。

 その時、ふと何処からか声が聞こえた。

『そうまで死にたくないのだな?』

 少女の頭蓋ずがいの奥から響いてくるその声は幻聴にしては酷くしっかりとしていた。

 寒気で朦朧とする彼女は思わずその声に答えるように呟いた。

「死にたくないです……こんな場所で、何一つできないまま、死にたくなんて、ないです……」

『そうか。そうか。ならば、生かしてやろうとも』

 声の主は笑みを交えたような声音でそう返す。それと同時に天井に一点、染みのようなものが生まれた。

 染みは蠢きながら大きくなり、やがて水中の中に落とされた線虫のようにうねり、少女の方へと近付いてくる。

「な、に……?」

『案ずることはない。お前はただ口を開いておればそれでいい』

 うねる一筋の染みが少女の眼前にまで下りてくる。暗闇に慣れていた彼女の瞳にはその姿がはっきりと分かった。

「これ、は……蛇?」

 それは、『目のない小さな蛇』。

 目が潰れているのではなく、眼窩があった場所さえ見て取れない奇形の蛇だった。

 細かく張り付いた鱗はてらてらと一切の光源のない闇の中にも関わらず、滑った光沢をしている。

 少女はその悍おぞましい奇形の蛇を見て、口を噤つぐむ。しかし、頭で響く声はそれを咎めるように囁いた。

『口を開け。生きたいのだろう? それとも、お前の死から逃れたいという想いはその程度ものなのか?』

 ――違う。生きたいという己の意志はこの程度ではない。何と引き換えにしても死にたくなどない。

 一度は引き結んだ口を少しずつ開いていく。すると、宙でうねる眼のない蛇は少女の口内へと滑り込んでいく。

「ぐ……がぁ……」

 舌の上を通り、すぐさま喉奥へと進んでくる異物感に嘔吐おうとしかけるが、声の主はそれを止めさせるように叫ぶ。

『吐き出すな。噛み砕け。咀嚼そしゃくし、嚥下えんげしろ。生きたいのならば、それを喰らえ』

 少女はその声に従い、眼のない蛇を噛み締める。固形物をほどんど食したことのない彼女の顎には凄まじい負担だが、何度も何度も繰り返す。

 舌先に鉄臭い味が広がり、口内の不快感はさらに強まる。

 しかし、少女は己の願いを込め、それを咀嚼した。

 潰れて拉ひしゃげた残骸をどうにか喉の奥に落とす。ほとんど、執念と言っても過言ではなかった。

「これ、で……」

『ああ。これでお前は死から逃れることができる。よくやったな、九地くち縄なわいぶき』

 声の主が少女の名を呼び、笑った。

 少女、いぶきは名を呼ばれたことでハッと意識が覚醒する。

 同時に生まれてからずっと付き纏っていた寒気と眩暈が自分の中から消えていることに気が付いた。

「貴方は、一体……?」

『祈りを捧げた相手すら忘れてしまったのか? 万物が崇拝する存在。即ち――神だ』 


 ***


朝の学校内での喧噪けんそうの中、一人の少年が廊下を歩いていた。男子にしては揉み上げから襟足がやや長く、両耳がすっぽりと隠れるような髪形をしている。

 彼は廊下から自分が所属する教室へと入ると、途端に教室の中の生徒たちは示し合わせたように、嬉しそうに挨拶をする。

「ネズミ君、おはよう!」

「ネズミ。やっぱ、お前が居ないと一日が始まったって気がしねえわ」

「聞いてよ、ネズミ! ビッグニュースだよ、ビッグニュース!」

 立って話していた生徒のほとんどが彼に群がるようにして近付いていく。

『ネズミ』と呼ばれた少年はそんな彼らを慣れた様子で宥なだめた。

「おはよう、皆。今日はいつにも増して元気だね。何かあったのかな?」

 朗らかな笑みを浮かべて、ネズミが尋ねると取り巻いていた男子の一人、吉田がそれに答える。

「転入生がこのクラスに来るんだって。それも女子。噂によると深窓の令嬢らしいぞ!」

「ハハッ。それで皆して興奮してた訳か」

 その質問には吉田よしだではなく、同じように集まっていた女子、末松すえまつが返事をした。

「うん、そうなの。どんな子が来るのかな。お友達になれるといいなあ」

 男子は勿論のこと、女子に至っても楽しそうに転入してくるクラスメイトに想像を巡らせている。その議論の白熱ぶりは普段は騒がず、椅子に座って本を読んでいる物静かな生徒までもがお喋りに興じているほどだ。

 クラスメイト仲が元々いい教室だということもあるが、それ以上に転入生が来るというイベントに皆、胸躍らせている様子だった。

「ネズミだって気になるだろ?」

「まあ、クラス委員長だし、その子がこのクラスに馴染めるかどうかは心配だね」

「ネズミ君が居るなら大丈夫だよ。すごく頼りになるし」

「だな。なんたって、璃々香ちゃんにも頼りにされてるくらいだしな」

 璃々香というのはこのクラスの担任の四芦璃々香よつあしりりかのことだ。新任のため経験が浅く、生徒たちからは先生とは呼ばれず、名前で呼ばれている。

 親しまれていると言えば聞こえはいいが、早い話が生徒に舐められているというのが実情だ。

「駄目だよ、吉田君。四芦先生だってしっかりやる時はやるんだから」

「でも、大抵ネズミ君にアドバイスしてもらったことをそのままやってるだけなんでしょ? この前璃々香ちゃんから聞いたよ」

 ネズミがフォローしようとしたものの、本人から自分の評価を下げていてはどうにもならず、彼は呆れて溜息を吐く。

 そんな他愛もない話をしていると予鈴と共に教室の前の扉が開き、件くだんの四芦が中に入ってくる。

「み、皆さん、おはようございます。今日も一日頑張りましょう!」

 どこか幼さを残した顔立ちに低めの身長。元気に張り切っているというより、緊張して力んでいるように見える挨拶。全身から漂う頼りなさは、初めて一人でお使いに出る小学生に匹敵するほどだ。

 彼女がネズミに目を向けると安堵した様子を見せた後、はにかんだ笑顔を見せた。

「おはよう根津ねづ君。貴方が居るととっても安心できるわ。今日もミスしたらサポートお願いね」

「おはようございます、四芦先生。あの、そういう発言はせめて僕以外の生徒が居ないところで言った方がいいと思いますよ?」

 根津幹彦ねづみきひこ。それが彼の本当の名前だ。彼自身が知人すべてにネズミと呼ばせているために本名で呼ぶ人間は極端に少ない。

 苦笑いを浮かべるネズミだったが、四芦は彼の言葉の真意を測れず、不思議そうに首を傾げた。もはや、生徒からの評価など毛ほども気にしていないらしく、それを理解したネズミは諦めた。

「いや、何でもないです」

「それよりも今日は転入生が来るんだけど……その、なんていうか、ちょっと変わった子だから色々とお世話を焼いてほしいの? いいかしら」

 いつもよりもさらに歯切れの悪い口調の四芦を怪訝に思ったが、ネズミは頷いた。

「はい、構いませんよ。クラス委員長の仕事でもありますから」

「そう。よかった。じゃあ、さっそくホームルームを始めるわね」

 そう言って、四芦は立ち歩いている生徒に着席して静かにするように促すが、案の定興奮状態の彼らは席に着かず、お喋りに花を咲かせたままだった。最終的にはネズミの一声で皆がようやくクラスが静かになり、ホームルームが始まった。

「さて、本日は皆さんに嬉しいニュースがあります」

「知ってるよ、璃々香ちゃん。転入生がこのクラスに来るんだろ?」

「もうとっくの昔からクラスはその話で持ちきりだよ?」

「うう……根津君」

 威厳の欠片もない四芦は助けを求める。

 そういった態度が余計に生徒の生意気な反応を助長させているのだが、彼女はまるで気付ていない。

「こらこら、話の腰を折って先生を困らせちゃ駄目だよ。静粛にね」

 仕方なく、代わりにネズミが注意すると茶々を入れた生徒は言われたとおり素直に黙る。それは教室内でのヒエラルキーが担任教師である四芦よりも、クラス委員長のネズミの方が上だということを如実に表していた。

「どうぞ、続けてください」

 四芦はネズミに感謝の言葉を送った後、咳払いを一つしてから再び話し出す。

「それで今、廊下にその転入生の子が来ています。これから皆さんに紹介しますね。では、どうぞ、入って来て下さい」

四芦の言葉の直後、教室の前方の扉が開かれ、一人の少女が入場する。彼女は教卓の隣まで来ると身体を生徒たちの方へ向けた。

彼女は美しい艶がある髪の上方を両側面から後頭部にかけてまとめ、後ろで一つに結んだハーフアップと呼ばれる髪型、俗に言う『お嬢様結び』をしていた。

瞳が大きく、鼻立ちもはっきりしていて非常に端正な顔をしており、同性から見ても十人中八人が可愛らしいという印象を抱くであろう美貌だった。

身体付きはスレンダーだが、身長もあまり高くないせいか極端に痩せているというイメージはない。

深窓の令嬢という単語をそのまま具現化したような見た目にクラス中の生徒が目を奪われ、言葉を失っていた。

「九地縄さん、自己紹介をお願いします」

「はい。先生」

 透き通るような美しい声は彼女の姿に似つかわしかった。己に見惚れているクラスメイトたちに楚々とした動作で一礼――そして、教卓の上に飛び乗った。

「お初にお目にかかりますわ、皆様方ぁ! わたくし、九地縄いぶきと申します! 好きなものはお肉とリンゴ! 座右の銘は太く短く! 嫌いな殿方は根性なし! この高校に編入する前はずっと病気で入院しておりましたが、今では完全に完治し、このように活力に満ち溢れております! 以後宜しくお願いしますわ!」

 応援団もかくやというほどの力強い声を教室中に轟かせ、腕をまくって小さな力こぶを見せつけながら自己紹介を行った。

 見た目と行動のギャップに脳の処理が追いつかず、生徒たちは唖然とした顔で硬直する。

 四芦だけはどんな生徒か事前に知っているために苦笑いをするだけに留まっていた。

「……? どうなされましたの、皆様方? わたくしの気概、伝わりませんでしたか?」

 静まり返った静寂にいぶきは自身のマッスルポーズの反応が芳しくなかったことを不自然に思い、前列の席のクラスメイトに尋ねるがその問いに答えるには少々衝撃が強かったようで、先ほどとは違う理由で言葉を失っている。

 ただ、その沈黙の中で一人、ネズミだけが拍手をし始めた。それに連れられて、一人また一人と拍手の波が伝播していく。

 クラス中が拍手の音に包まれると、いぶきは満足げに頬を弛めた。

「なるほどね。これは本当に変わってる」

 ネズミだけがその中で含みのある笑みを浮かべ、そう呟いた。

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