第二話(2)
ハンバーガーショップは子供レベル。
わたしだってお母さんと二度も食べにいったことがある。
しかし、牛丼屋さんに来るとは、わたしも大人レベルが高くなったものですね。
ただ、初心者だからカウンター席ではなくテーブル席。
混雑時を避けてもらったから他の客席からのプレッシャーを感じずにすんでいる。
「みなさん、食事の時間を遅らせてくれて、ありがとうございます」
「うららんのためちゃうで。ウサ、食うのトロいから混んでるときはムリなんよ」
「それぐらい平気よ。バカにしないでくれるっ?」
「ははっ、この前、泣きそうな顔をしてたのは誰だっけなあ?」
「あ、あれはタマネギが鼻にしみただけ。子供じゃないんだからっ」
向かいの席で子供っぽく
外見がこんなのだから負けたくないって気持ちはあるのだけれど、ことあるごとにわたしを引っ張っていってくれるのは、実のところお姉さんだなって思っている。
さっきも隠しメニューのツユダクとやらを頼んでいた上級者なのだ。
「どちらにしても、ウサギが混んでるの避けてくれたのはありがたいです。緊張せずにすみました」
「だから、私は泣いてないの、いいわねっ。でも、そうね。また新しい経験ができたこと、お姉さんに感謝するのよ」
ドリル髪を揺らして得意げに胸を張るウサギ。
「うらら、社会の勉強はね、私に任せておけばいいわ。昔はね、シャノンだって教育してみせたんだから」
「へぇー、ウチってウサに教育されたんや」
「そうでしょ。シャノンはね、小学校のとき独りぼっちで浮いていたんだけど、同じクラスになった私と蒼とで、人づきあいってものを教えてあげたのよ」
「うわー、懐かしい話を出してきよったな。はいはい分かった分かった、お姉ちゃんお姉ちゃんやな。あ、すんませーん、追加注文ええですか?」
シャノちゃんはウサギを軽くあしらって、背後にいた店員に声を掛ける。
そんな幼なじみ二人のやりとりに蒼さんが苦笑を浮かべた。
「まあ、許してやってよ。ウサギのお姉ちゃんになりたい病は、幼稚園のときからずっとだしさ」
「そんなに昔から、ですか」
「もーっ。別にお姉ちゃんになりたいんじゃないわ。私がなりたいのはリーダーよ。堂月屋を継ぐものとして恥ずかしくないような、ね」
そう言って胸に手を当て、
お姉さんぶって見せるのはイヤだけど、彼女なりに背負うものがあるんだろう。
ちなみに、彼女の
ただし、「ウサギさん」や「ウサギちゃん」と呼ぶと、「小動物じゃないわっ!」とキーキー小動物っぽく怒りだすので、わたしもウサギと呼んでいる。人を呼び捨てにするのってすごく苦手なのですけどね。
「ああ、お姉ちゃんじゃないな。ウサギはリーダーを目指してるんだもんな」
「ええ、その通りよ。蒼もちゃんと私についてきなさいよ」
「分かってるよ。ま、そういう約束だからな」
堂々とした瞳を向けるウサギに、蒼さんは笑って視線を返す。
はじめの頃、ウサギが社長令嬢と聞いてピンとこなかった。
外見はお嬢様らしいものだが、お金持ちっぽい
靴を必ずそろえて脱ぐ、店員さんにはお礼を言う、ご飯は一粒も残さない。
どれもこれもちょっとしたことだけれど、ウサギは「伝統ある堂月家のものとして当然」と振る舞っていた。
歴史ある何かを背負う重さ。
田舎という、古くから続くものが多い環境に長年いたわたしも、その重圧は少しぐらいなら分かるつもりだ。
そこに立ち向かっていくウサギと、それを支える蒼さん。
そんな幼なじみ二人がすごくほほえましくて、ふっと思い浮かべる。
わたしとハル君の友情が何年も何年も続いたら、どんな幸せな未来が待ってるんだろうか――
「お待たせしましたー」
にやけ顔にならないように妄想していると、店員さんが料理を運んできた。
ウサギがお礼を言って一つずつ受取り、丁寧にテーブルに置いていく。
テーブルの上に並べられる四つの牛丼と、そしてプリン。
プリン?
「このプリン、誰のよ?」
「ウチやで。ほい、ウサお姉ちゃんにプレゼントや。最近、プリンと牛丼を一緒に食べるん流行やしな。知らんの?」
「りゅ、え、それは知ってるわよ。流行よね、牛丼のあとのデザート」
「ん、同時やろ」
メガネに手を当てた真顔のシャノちゃんに、ウサギは目を泳がせながらうなずく。
「そ、そうだったわね。こうして一緒に、いただきます。うん。……うん」
プリン牛丼のスプーンを口にくわえたまま震えるウサギの横で、心の底から幸せそうな澄み切った笑顔を見せるシャノちゃん。
彼女に会うまで、こんなにも優しげで邪悪な笑顔をわたしは知らなかった。
ウサギとシャノちゃんの関係は、実に不思議である。
汗だくになった体育の後に熱々のおしるこをおごってきたり、語学クラスの昼食会で盆栽のモノマネをみんなの前でさせたりするなど、シャノちゃんは数々の悪逆非道の行いを繰り広げている。今回もその一つ。
そんなシャノちゃんに対してウサギは、
「ダマした、わね?」
口の中のものをじっくり噛みしめたのちに飲みこみ、言葉を発した。
「シャノン。いいわよ、許す。だって私はあなたのお姉さんだしね」
「……うん、せやね。やっぱりウサはお姉ちゃんや」
大きくため息をついたウサギに、シャノちゃんはまた優しく笑う。
だけど、今度は笑顔の裏に暗さを感じない。
イタズラを繰り広げるシャノちゃんに、それを真正面から受け止めるウサギ。
この二人の関係は、本当に不思議だ。
友達になったばかりのわたしには分からないけれど、きっとこれまでにいろんなものが積み重なった関係なんだろう。それは、どんなときもウサギと一緒にいて後ろから支える蒼さんを見ても感じる。
理解はまだできないけれど、三人の中心にいるウサギに、やっぱり思ってしまうのだ。
「……すごいですね、ウサギは。わたしはまだまだ勝てそうにないです」
「な、何をいきなり言い出すのよ。当然でしょ。って、そんなに見つめないでよっ」
「いつかは勝ちたいですけど、人間の大きなウサギが、わたしはすごく好きです」
「す、す、すっ!?」
ウサギは一気に顔を赤くして「なんなのもーっ」と、目も合わさずに牛丼をガシガシ食べ始めた。
「ははっ、うららも十分すごいって。その素直っぷりはなかなかないよ」
「せやで。初対面のウチがいきなりドぎつい関西弁で話しかけても、なーんも驚かんかったし。うららん、めっちゃええ子やわ」
シャノちゃんはそう言って横から私の頭をなでてくれた。
素直に見えるのも驚かなかったのも、わたしの頭がトロいだけなので褒められると少し困る。
あと、だんだん髪をなでる手つきがエロくなってきてるのは大変困る。
「ホント、うららはいい子なのよね。だからさあ――」
ウサギの言葉にハッと感じ取った、軽い敵意。
それは、会話がよくない方向に転がっていく気配。
「私、あの男が許せないのよね。うららの告白を断るとか、ありえないわ」
「いいんですよ。もう七尾君の話はいいです。ほら、牛丼食べましょう。おいしいです」
笑顔を作りながらご飯を口に運ぶ。
あの日から、みんなの前ではハル君のことを七尾君と呼ぶようにした。
距離を自然と感じさせる我ながら
「もーっ、話をそらそうってのが丸わかりよ。ホント、まだ気にしてるのバレバレだからね」
「その、わたし、忘れるって決めたんです。それより牛丼おいしいおいしい」
残念ながら緊張であんまり味が感じなくなってきた。ああ、せっかくの初牛丼。
「忘れるって言うならきちんと吹っ切りなさいよ。さっきさ、大教室でキョロキョロ探してたのって、あの男なんでしょ」
噛んでいたご飯を丸ごとゴクリと飲みこんでしまう。
「いや、違います。違いますって」
「ふははっ、嘘つくんヘッタクソやなあ」
「そうよっ! うらら、きちんと吹っ切りなさい」
ウサギはわたしに怒った顔を見せて、言葉を続ける。
「私たち、講義のときアイツの近くにたまたま座ってたんだけどさ、終わった瞬間にサッサと帰ってったのよ。あれって、まるでうららを避けるみたいじゃないのっ」
それはわたしを避けているのではなく、人と関わりたくないってだけ。
弁護したかったけど、何をどこまで言っていいか分からない。
「いや、避けたかどうかは分からないけどな」
蒼さんがハル君をかばってくれる、と思ったが、すぐに眉を寄せた。
「けど、アイツのああいう他人を避けるような態度は好きじゃないな。クラス会にも来なかったし」
「ウチはどうでもええけど、うららんを悲しませるヤツは拷問して処刑やな」
「い、いいですから! いいんです、本当に!」
これが、わたしが抱える目下最大のトラブル。
友達であるウサギたちから、ハル君が敵視されているという事態である。
きっかけは告白した次の日、わたしが「ハルくーん!」と呼びかけたのを無視して走っていった姿を見たせいだ。わたしから一目散に逃げていったハル君は、ウサギたちの間で「イヤなヤツである」と認識されるようになった。
ちなみに、ウサギたちから敵視されていることを打ち明けたときも、ハル君はなにも気にしていなかった。
一生関わらない人からどう思われても別に、とのこと。
さすが無敵ぼっち。
そして、自分のことなのに客観的な立ち位置でわたしの悩みを聞いてくれたハル君は、素っ気なく聞こえるけれど本当は温かい声で、こんなアドバイスをくれた。
私のことなんて、みんなと一緒になって悪く言えばいい、と。
「本当に気にしてませんからね。どうでもいいのですよ、あんな地味男」
「うらら、ムリしなくていいんだぞ」
「ほほぅ地味なとこが好きなんや」
「もーっ、なんとかして吹っ切れさせる方法はないかしらね」
あっれー、まったく嘘が通じない。なぜ、なぜなのか。
まあ、それは考えるまでもなく、わたしの嘘がへたくそだからですね。
自分の会話能力の低さにため息が出て、ただ目を落としてしまう。
嘘で人をダマすのはうれしくないけれど、ごまかせるぐらいの力がほしい。
わたしのせいで、ハル君に迷惑をかけたくない。
もしも、三人の敵対的意識が高まって、ついにはハル君と戦争状態に突入するなんてことになったら――
「そんなに落ちこまないでよ。よっぽど、あの告白のこと引きずってるのね……」
向かいから投げられた声に顔を上げる。
そこには子供みたいな外見だけど、大人なウサギがわたしを見つめていた。
「よし、決めたわ。うらら、週末空けといて」
「……週末、ですか?」
わたしの顔にはたぶん、警戒の色が浮かんでいただろうと思う。
そんなわたしをはげますように、ウサギは力いっぱい笑ってみせた。
「ええ、気分転換に次のレッスン行くわよ」
*
いつもいつも、にぎやかな音とまぶしい光があふれている空間。
遊んでほしいとピカピカ呼びかけるゲーム画面、わーわー歓声をあげながらダンスする二人の少女、真剣な目でゲームの太鼓を叩き続ける男の子たち。
存在するどれもこれもが「楽しい!」って感覚をあたりに振りまいているように見えて、わたしはここが好きだ。
「そ、そ、それでですね。みんなで、行くんです! お洋服を買いに!」
空間にただよう楽しさがうつったのか、ゲームセンターの三階、休憩用のソファーに座りながら、わたしは子供っぽく手をブンブン振り回してしまった。
隣のハル君はそんな恥ずかしいわたしにも、「うん、それいいね」と素っ気ない表情ながらやわらかくうなずいてくれる。
しかも、ざわめきの中でも声が届くように顔を少し近づけて、だ。
「いっぱい勉強できるね、うらら。私はついていってあげられないけど、楽しんでおいでね」
「いいんです。ハル君とはこうして会えるだけでうれしいですから」
思いを口にするだけで、ふわっと幸せな気持ちが広がる。
ウサギたちといるのも楽しいけれど、ハル君といる時間は特別だ。
ハル君も同じように思っていてほしいけど、やっぱりいつもながらのクールな表情で、心の中はまったく読めない。
「ね、ハル君、わたしってどんな服が似合うと思いますか」
「うららはやっぱりワンピースのイメージだけど、そうだな、かわいいから、服装もかわいい感じが似合う……って、うらら。もう少し上品に笑おうよ」
ハッとして口に手を当てる。
かわいいという一言で、気づかぬうちにちょっと変な顔になっていたらしい。
でも、ハル君が耐えきれず笑顔になってくれたのは得した気分だ。
ん、ハル君が笑うってことは、もしかしてとんでもない変顔になってた――いや、深く考えるのは止めておきましょう。
「かわいい感じ、ですか。うーん、わたし、センスがなくて思いつかないです」
「私もそういう服は分からないかな。じゃあ、ネネ
「そうなんですか。あ、そういえば、わたし、
音々さんの私服姿ってどんなのだろう。
そう思いながら何の気なしに、視線を少し離れたスタッフルームの方に向ける。
そのドアの前にいるのは、着ぐるみのクマで、
「あっ! あれ!」
そのクマは小さな女の子たちに取り囲まれていた。
「いいって。助けなくても」
わたしが発した短い言葉で、ハル君はエスパーっぽくすべてを察して首を振った。
女の子たちはだいたいわたしと同じぐらいの背だから中学生ぐらいだろうか。
三人いて、そのうちの一人が乱暴に頭を取ろうとしていたのだ。
「どうせ、あの中身、すごく喜んでるだろうし」
「あ。あー、そうでしょうね」
それなら、止めない方がうれしいんだろう。
ん、いや、止められた方がイヤな気分になってうれしい、のでしょうかね。
よく分からないけど、どう転んでもハッピーな結果になりそうです。
「……そういや、私、昔あんな
「あの子、ですか?」
ハル君がぽつりとこぼした言葉に、視線を巡らせる。
着ぐるみの頭を取ろうとする少女とそれを止めようとしている少女、その横にクールな眼差しで友人たちを眺める少女がいて、その子は――
「メ、メ、メガネ! ハル君、メガネっ子だったんですか?」
「えっ。そこって食いつくとこ? うん、まあ、今もときどきつけるよ」
「みっ、見せて、見せてくだ」「近い!」「さい、見せて、メガネっ子!」
いつの間にかのぞきこんでいたわたしを、ハル君はぐいっと
あああ、申し訳ないです。
わたしは落ち着くために深呼吸をしながら、お、かすかにハル君の香り、もう一度メガネの少女を見る。
上半身は、白いワイシャツにカーディガンで今のハル君もちょうど同じ服装だ。
ただ、ハル君の服は男性向けのデザインで、ブーツや腕時計、カバンなどを男物で固めているせいで、受ける印象が完全に男子のそれになる。
あと、大きく違うのはひだの多い愛らしいスカート。
ハル君は、なぜかほんの少し自らのジーンズに目を落として、すぐにわたしに顔を向ける。
「まあ、昔の話だね。それよりさ、うららって、リボンが似合うんじゃないかな」
「ほあっ!?」
「えっ、どうしたの?」
「あ、いや、その……リボンって、子供っぽくないですかね?」
内心の驚きを隠しながら、ハル君の顔をのぞき見る。
実は大学生になるまで、わたしはリボンを付けていた。
それは、幼稚園の頃からずっとの、長い長い付き合いだった白いリボン。
一昨年亡くなったおばあちゃんが、幼いわたしにくれたプレゼント。
わたしの黒い髪に似合うのだと結んでくれた、お気に入りのもの。
「私は、子供っぽくてもいいって思うけどな。きっとかわいいよ」
「えっ、えへっ、かわいいですかね。えへひっ」
うれしくて笑い声が軽く裏返ってしまった。
しかし、わたしはキリッとした大人びた顔を作り、強く首を振ってみせる。
「な、なにその顔……?」
「ハル君、いいですか。わたしは大人を目指してるのですよ。リボンはそりゃまあ、かわいいかもしれませんが、子供ファッションなんです。大人じゃありません」
「うん、うららの目標だもんな。じゃあ、大人ファッションの服を探さないとね」
「はいっ、大人ファッションです! でも、どんな服なんでしょうね……」
「んじゃ、買うときに店員さんに聞いてみたら?」
なるほど、聞けばいい。
ん、ちょっと待ってくださいね。
「えーと、そもそも、そういうとこだと服ってどう買うんですかね」
ふと頭に浮かんだ疑問に、不安感がじわりと広がる。
わたしの記憶の中にある服屋さんは、お母さんと年二回だけ行く大型ショッピングモールの量販店。そこでの買い方は、気に入った服をレジに持って行くだけ。
しかし、うーん、店員さんと話をするような服屋さんでも、同じようにしていいのだろうか。
「テレビでは見たことあるんですけど、あれって、何を話せばいいんでしょう」
服屋さんの利用方すら分からない。
我ながら情けなくなる社会的経験値のなさだ。
「話すって、そりゃ……。んー、私も、よく分からないかもしれない」
「ハル君もですか!」
「考えてみれば、高校ぐらいから服屋さんって行ってないな」
おお、ハル君にも意外にも子供っぽいところがあるじゃないですか。
思わぬところにいた仲間に目を輝かせてしまう。
「服って基本、取り寄せしてるから。海外のだと個人輸入が安いし」
「……キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」
「い、いや、ネットで頼むだけだから」
「ソレ、ホントー?」
「なんでカタコトなの? ねえ?」
個人輸入。
わたしの貧しい発想力では、あやしい密売人たちの絵しか浮かんでこない。
やっぱりハル君はすごい。うん、改めて憧れ直してしまいます。
初めて会ったときから憧れるほどに自立した雰囲気を感じていた。
でも、こうして一緒にいるようになって真横で見ていると、その大人レベルには驚愕の連続。
当たり前のように株の取引をしてたり、いきなり企業から電話がかかってきたり、実家の会社では取締役の一人だったりする。
ハル君の大学生離れ、激しすぎますね。
「でも、そうなると、どう服を買えばいいのか分かりませんね」
「ごめん。いいアドバイスしてあげられなくて」
わたしを見たハル君は表情をほんのかすかに曇らせる。
不安な思いが隠せずに、顔に出てしまっていたのだろうか。
「いいんです! きっとなんとかなります!」
心配を掛けないよう笑顔で応えたけれど、やっぱり考えてしまう。
わたしは、普通の服屋さんに行くだけで
もしずっと都会で暮らしていたら、それぐらい自然とできたのだろうか。
高校生になるとき、田舎を離れて寮生活をするチャンスがあった。
だけど、わたしは流されるまま、それまで通りの実家暮らしを選択した。
大学も、なにかやりたい勉強があって決めたから目指したのではない。
規模が大きくてレベルの高い大学の推薦が、たまたまあったから決めただけ。
将来の目標もなにも浮かばない、なんとなく過ごしてきた人生。
とりあえず子供じみたところを変えようと決意はしたけれど、普通の人の当たり前のレベルすらままならない。
頭の中を暗い思考がよぎり、視線がふっと足下に落ちこんで――
「なんとかなる。ならなくても、経験になるから大丈夫だよ」
ハル君が目を合わさずにそう言って、わたしの頭に手を載せた。
「……大丈夫」
「うん、大丈夫」
ああ、なんだろうこれは。
たった一言だけで、不安が溶けていく。
ハル君の表情はやっぱりなにひとつ変わらない。
それでも、置かれた手から優しい思いが伝わってきて、じわじわと顔いっぱいに笑みが広がってくる。
「はい、大丈夫ですね。だってわたしには、ハル君がいますから!」
*
この観光都市の入り口となる、十五階建ての巨大な駅ターミナルビル。
多くの店舗が入ったそのビルの前を、無数の観光客が絶え間なく通り過ぎていく。
その群衆の片隅、わたしはただうなだれていた。
うすい雲が広がるだけの、おだやかに晴れた四月下旬の午後。
暖かくなってきた優しい日差しも、髪をふわりとそよがせていく涼しい風も、わたしのようなダメ人間にはもったいないほど心地よくて、さらにがっくりうなだれてしまう。
「遅刻だからっ、もーっ!」
ウサギが赤いドリル髪を揺らして声をあげる。
「ご、ごめんなさい……」
わたしが到着したのは、約束だった日曜午後一時、から三分遅れ。
日曜なら、朝に放送されるアニメを見る習慣があるのできちんと起きる。だから、寝坊で遅刻することはない――と思っていたのに。
昨日緊張であまり眠れなかったわたしは、朝アニメをしっかり見て、気づいたら二度寝していた。
ああ、何をやってるんでしょうか、このダメ人間は。
家を飛び出したわたしが乗ったのは時間ギリギリのバス。
なんとか間に合うかもと思ったけれど、その考えは甘かった。
日曜の駅前は家の近くよりも多い人通りがあって、もう人混みは慣れたという油断のせいでさらに混乱して、コロコロつきカバンを引っ張っている人がたくさんでよけられなくて――って、いいわけを並べるのはダメですね。
理由はただ一つ。わたしが未熟だっただけ。
「遅刻は許されへんで、うららん。なんかお仕置きせななー」
「おいおい、五分遅れてきたお前が言うなよ」
シャノちゃんがうねうねと変態的に手を伸ばしてきたが、その金髪お下げ頭を蒼さんがグッと押さえこんで引き留めてくれた。
「シャノンも遅れてきたし、気にすることないって、うらら。こういうところ慣れてないんだろ」
「蒼、甘やかしちゃダメっ。遅刻は遅刻なんだからね」
「はい、本当にごめんなさい……」
「だから、遅刻したうららには罰を与えるわっ」
怒っているはずなのに、どこかうれしそうな顔でビシッとわたしを指さすウサギ。
他はお行儀がいいんだから、人に指を向けるお嬢様ポーズはやめてほしい。
「うらら、いいかしら?」
「は、はいっ」
なにをされるのか。緊張が全身に走る。
そして、ウサギはにやりと笑った。
「罰として、今日はうららの服、私たちが選んであげるからね!」
それが、ウサギ主催・瀬川うらら着せ替えショーの開始宣言だった――
「……あ、あの、これ、ホントに似合ってますかね?」
疲れと不安感で声が軽く震える。
駅地下にあるショッピングモールで、すでに服屋さんを三件も回り、わたしはもう五回目のお着替えを
おそるおそる試着室から顔を出すと、ウサギにカーテンを一気に引き開けられる。
表に引き出されたわたしは、半袖のワンピース姿。
紺色の生地に白い
見られたくなくて、前屈みで太ももを閉じつつ手で隠すと、真剣な目をしたウサギに背筋をまっすぐただされてしまった。
「うーん、悪くはない、かな。でも、もっとレースの多い服ってどう?」
「レース、それいいな。なら、いっそのことロリータ系で攻めようか」
「ふむぅ、うららって意外に太もも、ぷにっぷにやな」
スッと忍び寄ったシャノちゃんに背後から生足をもまれて、「ほぁ!」と悲鳴を出すと、蒼さんが金髪頭をガッとつかんで身動きを封じてくれた。
スッほぁガッ。流れるような連携コンボである。
「じゃあ、次の店に行くわよ。ほらほら着替えてっ」
ウサギに慌ただしく背中を押されて試着室の中に戻る。
カーテンで仕切られた空間の中、ワンピースを
「こんなに、試着していいんでしょうか……」
「いいのよっ。気に入ったら買うって気持ちがあるならね」
外から聞こえるウサギの声に、釈然としないながらも理解はする。
たしかに、他の多くのお客さんも試着をして確かめてから服を買っていたから、それが普通なのだろう。
今までわたしは、試着というものをサイズを確かめるためにするものだと思っていた。けれど、ちゃんと着て鏡の前に立ち、本当に似合うかどうかを確かめるのが目的であるらしい。
ウサギが引っ張り回してくれたおかげで、だんだんと試着に対しての抵抗感はなくなってきたから、これはきっと成長なんだろう。だけど――
いったん脱いだワンピースを、下着姿のまま自分の身体に当てて鏡を見てみる。
スカートが短いから恥ずかしいけど、色や形はとても好き。
もしも、丈の長いものがあったら着てみたかったな。
小さくため息をつきながら、シワにならないようハンガーにワンピースをかける。
まるで着せ替え人形だ。
楽しみに期待していたお買い物とは、違う。
だけど、ウサギが好意から服を選んでくれるって分かるから、わたしはそれを断ることができない。
ゆっくり見たいって言えば、きっとみんな待ってくれるだろう。
それが分かるのに、空気を壊しそうで言い出すことが怖くてできない。
やっぱり子供だ。
ちゃんと人間関係を築いてこなかったから、こうしたときに言葉が出ない。
「……お待たせしました!」
明るく声をあげて試着室のカーテンを開ける。
気持ちがうまく言えないなら、グッとこらえて笑顔を見せよう。
「ほらっ、さっさと行くわよ。店はあっちみたいね」
スマホを手にウサギがすたすた歩き出す。
「おい、ちょっと待てよ。うらら、まだ靴をはいてないだろ」
「大丈夫です、ほら、はいっ、行きましょう」
急いで靴を
「あー、うららんはええ子や。一方、ウザギは」
「ウザギ!? ウザギって言わないでっ! ほらほら、早く早く」
そう言ってウサギは後ろを振り返ることもなく店を出て、ショッピングモールの通路を急ぎ足で進んで行く。
「なんやウサ。あ、もしかして家で妹ちゃんにイジメられたんかな?」
「えっ、ウサギって妹がいるんですか?」
驚きの声をあげるとウサギが振り返って指を突きつけてきた。
「いるけど、関係ないっ。あんなワガママな子、知らないし!」
「あ、こりゃ、ケンカしてきたっぽいな。ごめんな、うらら。ちょっと八つ当たりが入ってるかも」
歩きながら謝る蒼さんに首を振って応える。
「大丈夫ですよ。それに、わたしが遅刻してきたのが悪いんです」
「なんてええ子やっ。ウサにはウチがお仕置きやっ」
言うなり駆け出して前を行くウサギの後頭部に「てっ!」とチョップし、「何すんのよっ!」と振り返るのにあわせて、死角から前方へ逃げ去っていくシャノちゃん。
彼女はいつもながら、たいへんにフリーダムです。
「もーっ、シャノン、走っちゃダメよ! それから二人はさっさとついてきなさい。まだ、グッとくる服が決まってないんだから!」
ウサギはスマホと周囲に真剣な目を向けて、どこかあせっているような早足でまた歩き出した。
「ホントごめんな。けど、許してやってな」
並んで歩く蒼さんがこっそりと、わたしに向かって手を合わせる。
「実を言うと、アイツさ、ここ数日うららに合う服を考えてたんだ」
「わたしの、服を……ですか?」
「アイツ、何度も何度も雑誌を並べてさ、『これ、うららに似合うかちらー』とか悩んでたんだよ」
「似合うかちら――なんて、私、赤ちゃん語で話さないわよっ!」
前を歩いていたウサギが足を止めて、蒼さんのヘタっぴなモノマネに高周波幼児ボイスでツッこむ。
「それに、余計なこと言わないでくれる? たんにこれは罰ゲームなのっ」
わたしも嘘はあまり得意でないが、そわそわとドリル髪を触りながらあさからさまに視線をそらすウサギもなかなかの低レベルだ。
「どうして、わたしに服を選ぼうってしてくれるんですか?」
「それは、うららのことで責任を感じてるからだろ」
黙ってしまったウサギの代わりに、応える蒼さん。
責任。責任ってなんだろう。
疑問を頭に浮かべて、そこで自分が余計なことを尋ねたことに気づいた。
「いい服を着てさ、今度はちゃんと振り向かせなさいよ」
視線を通路の床に落とし、ウサギがつぶやく。
「あの男はキライだけどさ、うららには幸せになってほしいから。だって、告白させたの、私だし……」
「きっかけはそうですけど、別に気にすることないですよ」
あれは、ウサギがわたしに出した最初のレッスンだった。
人づきあいの経験を得たいと言ったわたしに、お姉さんぶったウサギが勧めたのは恋愛だった。
――特別な誰かと真剣に付き合うのが成長の近道なのよ。
そんなことを得意げに言ったウサギも、横で聞いていた蒼さんもシャノちゃんも、あとで聞いたら恋には無縁だったのだけれど、わたしはそれを真に受けて突っ走ってしまった。
「それに最初から断られるのは分かってましたからね。ダメだって知ってたから、告白してもいいって思えたんです。だから、気にしないでください」
「気にするわっ。私が悪いの。ムリにさせてごめん……」
ウサギらしくない落ちこんだ声に、わたしは強く首を振る。
「謝らないでください。ムリにさせられたんじゃないんですから。わたしが告白したのは、その、七尾君のことホントに好きだったから!」
たしかにきっかけはウサギの言葉から。
でも、わたしのこの気持ちは、ムリに出てきたものじゃない。
本心からハル君が好きになって、だから告白したいって思った。
そこだけは、嘘なんてつきたくない。
「そんな必死な顔で好きだったなんて言われたらさ、私も気にしてしまうかな」
隣の蒼さんがポンと背中を叩いて、はげますように笑いかける。
ああ、失敗した。またごまかせてないじゃないか。
くやしさに手を握りしめてしまう。
軽く流すべきだったのに、自分がどんな表情をしてたのかも分からない。
「もーっ、落ちこまないでよ。すごくかわいい服を見つけてあげるからね、うらら。それで一発逆転よ!」
「そうだな。たぶんだけど、アイツかわいい系に弱いぞ。何となくだけど分かる」
「ふーん、蒼が言うなら確かかもね。じゃあ、やっぱりロリータ系だわ」
わたしのことを思って盛り上がる二人。
その後ろ姿に、思ってしまう。
ハル君のことを話してしまえば、楽になるんじゃないか、と。
打ち明けたところで、ウサギたちがハル君になにかマイナスになるようなことをするとは思えない。わたしとハル君の関係を、「ハル君には内緒で」と話したら、みんな丸く収まるんだろう。
だけど、わたしはしたくない。
隠していることを本人が望んでもいないのに話すなんてイヤだ。
それは、正義感だとかじゃなくて、ただの子供じみたワガママ。
理屈では分かっていても、感情をコントロールできないだけ。
「うらら、絶対かわいいのを選んであげるからねっ」
「あ、はい。でも、ほどほどでお願いします」
一歩後ろをついていきながら、ただ
心の中ではずっと、この場から逃げだしたいという衝動が暴れ続けていた。
入り口に立ったわたしは、そこから一歩が進めなかった。
西洋人形が着てそうな鮮やかな深紅のゴスロリドレス。
見ただけで甘い香りがしそうなピンク地の貴族風ドレス。
黒と白の中二病的な配色が目に痛い大量のレースつきドレス。
奧のカウンターで作業をしている店員さえも純白のロリータ服を身にまとっていた。
ブースで仕切られたその一角は、ロリータファッション専門店。
アニメやマンガの中では見たことがあるけれど、現実では初めてだ。
「おおー、待ってたで。ほらほら、ウサに似合いの服を見つけといたで」
意を決して一歩入った店の中、おだやかな笑みを浮かべたシャノちゃんがいた。
「なによ。今日は私じゃなくて、うららの服を選びに来たんだからね」
「ウサ、着てくれへんの……? ウチな、がんばって選んだんやけど」
「それ、メイド服じゃないのっ。そんなの、リーダーたる私が着るわけないでしょ」
「ごめん……。ウサが着たら、すごいかわいいって思って。でも、イヤやんな……」
「えっ、なに、そんなに落ちこまないでよ。い、いいわよ! 一度だけよっ。うららの服を決めてからね!」
その言葉に、にっこりと笑ってみせるシャノンちゃん。
端から見ているとすごく邪悪な笑顔に見えるのだけれど、ウサギは何も気づいていないのか、「仕方ないわねっ」とため息をついている。
「さあ、どんな服を着せようかなー」
いつもながらのやりとりをするシャノちゃんとウサギを横目に、蒼さんは意外なほど陽気に服を見て回っていた。
ロリータファッションが好きなのだろうか、これだと唯一の常識人の蒼さんにも守ってもらえそうにない。
ああ、今からどんな着せ替えショーが始まるのだろう。
考えるだけでも気が重くなって、一刻も早くここから立ち去りたくなる。
「これなんてどうだ。不思議の国のアリスっぽくってかわいいかな」
「うらら、黒髪がキレイだからモノトーンがいいわ。大人びたかわいさで」
どちらも着たくなんかない。
それが言い出せたら、どんなにいいだろう。
だけど、それは好意なのだ。逃げずに受け止めなければならない。
わたしのために、真剣な顔で服を選んでくれている二人。
その姿を見ていられずに視線をさまよわせてしまう。
まるで、こんなところにいるはずのないハル君の姿を探すように。
「――あっ、これ」
そのとき、瞳が吸いこまれるように、わたしはそれを見つけた。
飾られたドレスの間、装飾品が置かれた棚――
「おお、うららん、それかわええな」
メガネに手を当てたシャノちゃんが横から笑顔でのぞきこむ。
そこにあったのは、大きな白いリボン。
「え、えっと、ちょっと子供っぽいですよ」
そうごまかしてみたけれど、わたしの心臓はトントンと高く音を鳴らしていく。
細部は違うけれど、印象は驚くほどそっくりだ。
小さな頃から何年も何年もつけてきたリボン。
亡くなったおばあちゃんがわたしにくれたリボン。
「へー、かわいいね。うらら、つけてみたら?」
蒼さんの言葉に、わたしは何も言葉が出なかった。
棚に手が伸びてしまいそうになるのを、ただ必死にこらえる。
それは、実家に置いてきた昔の思い出。
子供じみた過去は卒業して、自立した大人になれるようにと。
でも、気になってしまう。
これをつけたら、ハル君はどんな風に思ってくれるだろう?
もしかしたらハル君は、かわいいって笑いながらほめてくれる、
「さすがに子供っぽいでしょ。それだとアイツも――」
「いえ、ハル君は」
気づいてすぐ口を閉ざした。
だが、冷や汗が一瞬で吹き出していた。
わたしの言葉に、ウサギがきょとんとした表情を見せる。
「……ハル君?」
「ハル君って、アイツだよな。七尾ハル」
蒼さんの言葉に、ウサギが表情を険しくする。
「なに、どういうこと? あいつがどうしたのよ?」
「べ、別に」
「別にって顔じゃないわよっ。なによ、そのハル君って」
なんて、なんて言えば。
「うらら、アイツのこと、いつも七尾君って呼んでたわよね」
「そういやずっと最初の方だけ、ハル君って言ってなかったか?」
どうしたらごまかせるのか。
何も思い浮かばず、二人の視線から逃れるように瞳を落とす。
「もーっ、なんとか言いなさい。黙ってたらなにも分からないわ」
ハル君のこと、隠さなきゃ。
「ね、もしかしてだけど、心の中ではずっとハル君って言ってたの?」
でも、どうしたらいい。
分からない。なにも分からない。
「それって、やっぱりずっと吹っ切れてなかったってことでしょ! ねえ――」
「ウサ、いっぺんに聞き過ぎやで」
シャノちゃんに止められたウサギは、力なく視線を落とす。
「ご、ごめん。私、夢中になって、どうしても、その……」
言葉を詰まらせたウサギは、小さく息をついてから、また顔を上げた。
そこにあったのは、ウサギらしいまっすぐな瞳。
「ごめんなさい、うらら。でもね、教えて。私、うららの力になりたいの」
その言葉は嘘偽りなく、わたしを思いやってくれている言葉。
だからこそ、何も考えられなくなる。
「ね、うらら。私に任せて。みんな隠さずに話して、ね?」
音を立てて激しく跳ね続ける心臓。
言葉を発することも、呼吸をすることさえもできなかった。
何もかもを話したくて、何もかもが話せなくて、思考がただ真っ白になり――
「う、うららッ!?」
そして、わたしは耐えきれず、その場から駆けだした。
打ち明けられもしない、ごまかせもしない。
できることは逃げ出すことだけ。
わたしは、どこまで未熟で幼い人間なんだろうか。
――だけど、それでも願う。
ほんの少しでも変われたなら、と。
***
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