第二話(3)
――どうやったら変われるか。
変わる方法が思いつかない。
わたしなんかには変われない。
だけど、変わりたい。
なら、どうやったら変われるか――
ループする思考に脳内を
眼前に現れた光景に、わたしはその足を止める。
ショッピングモールから必死に駆け上がって地上の大通りに出て、そこから――どう歩いたんだろう。
いつしかわたしは橋の手前にいた。
歩いてきた大通りから伸びる、数十メートルもの長い橋。
その
北から南へと流れる、この街で一番大きな川。
ここは観光都市で、規模の割にはビルが少なくて緑も多いから、街の中にいても圧迫感で息苦しくなることはない。
それでも、こうして遠くまで見渡せる眺めは、無意識のうちに入っていた肩の力をふっと抜いてくれる。
それはきっと故郷に似た景色を求める気持ちが、わたしの心の奥底にあるからだろう。
橋のたもとから誘われるように
河川敷には若々しい緑の芝生が広がっていて、キャッチボールをしたり、犬の散歩をしたり、ひなたぼっこをしたりと、日曜を思い思いに楽しむ人たちがいた。
その芝生の横には黒土の通り道が伸び、その向こうは川へと続く
土の感触を味わいながら道を歩き、川の流れへ目を落とす。
上流の
その風は、どこまでたどり着けるんだろうか。
通り過ぎていった風の
引きのばした綿アメのような雲が遠い空を
視線を向けた川下の方角は南。
その遠い先にあるのが、わたしのずっと住んでいた村。
「……ちっとも、成長できてないですね」
故郷の村を瞳の奥に浮かべて、思わず独り言がこぼれていた。
こうして街に出てきたのに、変われたところがなにも思い当たらない。
生まれ育った村落には、同世代の子はいなかった。少し年上のお姉さんがいたけれど、わたしが小学生になる頃には高校で寮生活をはじめて会えなくなった。
まわりにいたのは大人の人たちばかりで、しかも、わたしは距離を置かれていた。
村落の名前は
その一帯を七百年以上も前に開拓したのはわたしの祖先らしい。
そんな古くさい伝承のせいで、村では瀬川家の一員は特別扱いを受けていた。
幼いわたしが道を歩くだけで、ご老人たちからは丁重な挨拶をされ、年上のお姉さんからは改まったお辞儀をされる。
わたしはいつも「瀬川家の
敬われるべきなのは遠い祖先で、わたしは何もしていない。
莫大な財産や強大な権力があるわけでもなく、ただ受け継がれるのは瀬川という名前だけ。
祖父はわたしの産まれる前に、父は一歳の時に亡くなっていて、収入は母だけに頼っていたから、別に裕福な暮らしなんてしていなかった。
だからわたしは、家にこもってはピアノばかり弾いていた。
わたしのことを大切にしてくれる村の人たちは好きだったけど、同時に苦手だった。
母はいつも遅くまで働いていたから、高二までは祖母とばかり話していた。
そして、一昨年の冬に祖母が亡くなってからは、過ごした時間の大半が一人きり。
――何をしていたんでしょうね、わたしは。
まともな人間なら当然しておくべき経験を、いくつもいくつも逃して。
そしてまた、今も成長できないでいる。
情けないほど未熟なわたしのままで。
あちらこちらでいろんな人が楽しげに笑いさざめく、昼下がりの河川敷。
通り道の端で水面を見つめたまま、わたしはただ立ち止まっていた。
落としていた視線の先にはゆるやかに流れていく川。
水面から続く
兄妹だろうか、前方の黒土の道には笑顔で駆けていく小さな男の子と女の子。
そして瞳を上げれば、ほんの少しだけ白を溶かしたような、薄い青の空。
飛びこんでくるおだやかで心地のいい世界の姿に、胸が締めあげられる。
また視線を落としそうになって、だけど、必死に前を向く。
何一つ変われていない。
だけど、変わりたいんだ。
この川沿いの道を北へ歩けば、わたしの部屋のある繁華街の近くまでたどり着く。
遠い田舎を背にして、川上へ。今の自分がいるべき場所に戻ろう。
どうすればいいのか分からないけど、前に進むしかない。
考えて、考えて、歩みを止めないように――
足を踏み出して前方を見つめたわたしは、そこで気づいた。
視線の先にはわたしの住む家があって、それから――ハル君の住むところも。
ハル君は今、どうしているんだろう。
そんなことをただ思うだけで、心が少しおだやかな心地に包まれる。
そうだ。
たしかに、わたしはまだ変われていない。
だけど、こんなに特別だと思える友達ができたのは、初めてで。
そのことが、わたしを少しでも変えてくれたらいい。
大きく息を吸って、また黙々と足を進めていく。
考えなければ。
こんなことで、みんなと別れたくなんかない。
ハル君も大切で、ウサギも蒼さんもシャノちゃんも大切な友達。
招いてしまった現状を、ほんのわずかでも変えられる方法を探しながら、わたしはただひたすらに歩き続けた。
*
振り返ってくれたら、うまく笑おう。
そう考えていたわたしは、その目にどう映ったのだろうか。
「……うらら」
わたしを目に留めたハル君は、小さくつぶやき、そこから黙ってしまう。
川沿いを進んで、たどり着いたのはいつものゲームセンターの三階。
ゲームをしていたハル君の少し離れた後ろで、振り向くのを待っていた。
「やっぱり、失敗しちゃいました」
「うん」
ゲームの台から歩み寄ってきたハル君は、いつになく戸惑った表情を見せる。
「うらら、あのさ」
ハル君はそこで言葉を詰まらせ、首を振った。
「ごめん、ダメだ。こういうときって、どう言えばいいのか分からない」
「いえ、大丈夫ですからね。そんなに心配しなくても、大丈夫――」
不意に、わたしの右手をハル君の両手が包みこむ。
そのときやっと、いつの間にか手を固く握りしめていたことに気づいた。
「うん、うらら。大丈夫。私、話を聞くからさ。もう大丈夫だよ」
ハル君のあたたかな手に、閉じた手がゆっくり開かれていく。
耐えきれず鼻の奥が痛くなり、こらえていた涙を一粒だけ落としてしまった。
「ハル君、ありがとうございます。実はわたしも話を聞いてほしくって、ここに――くふふっ、なんですか、その顔」
思わず途中で吹き出してしまった。
きっと励まそうとしてくれているんだろう。
ハル君は
自然に笑えばかわいいのに、愛想笑いはホントにひどいです。
「そんなに変かな……。慣れないから、練習したんだけど……」
「練習!? 練習、見たいです!」
「イヤ」
即答だった。
前にもこんなやりとりをしたことがあるなあと思って視線を向ける。
ハル君も同じことを考えたのだろうか、二人して目が合って笑ってしまった。
そう。作ったのより、その笑顔が好きなんです。
「こないだもさ、ほら、あの私と似た格好の女の子、覚えてる?」
「あ、メガネの子ですね。メガネっ子ハル君」
「その子にいきなり話しかけられたんだ。ゲーム、上手ですねって」
「で、ハル君はなんて応えたんですか」
わたしの問いかけにハル君は、少し目をそらす。
「無視した」
ヒドい!
「いや、分かってるから。そんな顔しないでって。でもさ、なんて言えばいいか分からなくってさ」
「ありがとう、うれしいよ――とかですかね?」
「ああ、そんな感じか。なるほどね」
そう言って深くため息をつくハル君。
「ダメだなあ、私、そういうのってずっと無視してきたからさ。突然に声とか掛けられたら困るんだよな」
そう言われれば、突然のアクシデントはハル君の弱点かもしれない。
わたしがはじめてハル君に声を掛けたときもそう。何かよく分からないまま、ハル君はわたしの勢いに飲まれて校舎裏までついてきてくれた。
「ちょっと前までは、みんな無視すればいいって思ってたんだけどね。これ、うららのせいだから」
「えっ」
「うららといると、だんだん変えられてしまうんだって。なんか、普通の人づきあいも練習しないとって思えてきたし」
「あっ、ご、ごめんなさい」
「ううん。いいんだ。……その、いつかうららの役に立つかなって思うと、えっと、ちょっとうれしいから」
瞳をそらしたハル君は、きっと照れてくれているんだろう。
こんな未熟で幼いわたしが、すごく大人なハル君を変えられることだってある。
その事実にふわっと心があたたまって、そして、決意がはっきりと固まる。
――だったら、わたしも変わらなければ。
「ハル君、お願いがあります。今日あったことを聞いてほしいんです」
わたしはバカだけど、でも考えるのはやめちゃダメだ。
「そして、一緒にしてほしい作戦があるんです」
*
「わたし、気持ちをちゃんと吹っ切るために、もう一度、ハル君に告白します」
翌朝の大学で、ウサギたちにそう宣言した。
昨日、動揺して逃げてしまったことを謝り、ハル君と呼んだのは本心が出てしまったからだと説明し、この恋に決着をつけたいという決意を伝えた。
嘘だらけのわたしの言葉を、三人はなんの疑う様子もなく信じてくれた。
とくにウサギは、ずっと彼女らしくない不安な表情を浮かべながら、まるで祈るように何度も応援をしてくれた。
その午後にわたしたち全員がそろう語学クラスがあり、そこでハル君はいつもより少しだけ遅く教室を出た。
わたしはその後を追いかけ、あのはじめての日をなぞるように、ハル君の手を引いて校舎の裏へと走っていく。
すべて打ち合わせどおりだった。
ケヤキの並木の下、わたしとハル君は見つめ合い、言葉を交わすフリをする。
三人はのぞき見を楽しむような性格じゃないけど、ウサギが心配のあまり見にくる可能性はあった。
演技を終えると、ハル君はすぐに歩き出して大学から帰っていく。
わたしは六十秒だけその場で数えてから、教室に戻った。
「みなさん。やっぱり、わたしダメでした」
ウサギと蒼さんとシャノちゃんは、教室で待っていてくれていた。
「でも、吹っ切れましたからね、もう大丈夫です!」
「……そうみたいね」
わたしの目を見てうなずいたウサギは、今日はじめて笑顔を見せてくれた。
「うん、そうね。結果なんていいわ。やっとおしまいねっ」
「ともかく、おつかれさま」
「がんばったな、うららん」
横から蒼さんに頭をなでられ、シャノちゃんに抱きしめられる。
これでおしまい。
ひとりでごまかそうとしていたときとは違う、ハル君と二人で作った嘘。
そう思うと不思議なほど安心感がこみ上げてくれる。
「もーっ。そうよ、その笑顔が見たかったんだからね!」
今のわたしはきちんと笑えているんだろう。
ウサギも赤い髪を揺らしながら、いつもの自信にあふれた表情を見せる。
「ほんまにうららんもウサも、元気出てよかったでー。うんうん」
「ほっ!?」
「おい、どこ触ってんだよ」
どこって、抱きしめられたまま変態的に
蒼さんに引きはがされたシャノちゃんは、純朴としか言いようのない澄んだほほえみをわたしに投げかけて言った。「おおきに」と。
いつもの関係に戻れたのはいいんですが、シャノちゃんだけはなんとかならないでしょうかね。そろそろ警察につきだすべきでしょうか。
「うらら、本当にごめんね。あー、恋愛の話なんて、もうこりごりだわ」
「ははっ、お姉さんぶってそんな話を持ち出すからだよ。経験もないくせにさ」
「なによっ、蒼だって経験ないくせに」
「ん、私にはウサギっていう永遠の恋人がいるからな」
「はいはい。分かったわよ。恋人ね」
「ウチも別にええわ。だって、ウチにはかわいいウサっていう……オモチャがおる」
「オモチャじゃないっ! もーっ、あんたはうららに抱きついてればいいの!」
「承知」
「いや、許可するのわたしですよね。ほぁっ、し、しませんよ許可」
組みつこうとするシャノちゃんから必死に逃れて、蒼さんの陰に隠れる。
「うららん、蒼ちゃんを信用しすぎたらアカンで。油断したとこ、食べられるで」
「なに言ってんだよ。そんなことするわけないだろ。な?」
さわやかに笑う蒼さんは本当に紳士的で、わたしも信頼をこめてうなずく。
「でもまあ、これで恋愛に関しては、うららの方がちょっとお姉さんだな」
わたしの髪をポンとなでた蒼さんの言葉に、ウサギは軽く頬を膨らませた。
「ちょ、ちょっとだけよっ。……でも、うん、うららはがんばったと思う」
まっすぐな目をしたウサギに褒められて、心の奥の深いところがズキリと痛む。
憧れたハル君に、自分のことを特別だと思ってほしい。
そんな気持ちを恋だと思ったのだけれど、それはただの勘違い。
ハル君が女性なんだと気づいたあとも、気持ちは何一つ変わらなかった。
だからわたしは、恋愛なんて何も経験していないのだ。
「ありがとうございます。でも、フラれただけですけどね」
「ううん、がんばったのよ。自信を持って」
そう言ってはげますように笑ってくれたウサギ。
なんとかごまかせて問題はなくなったけど、嘘はもう使いたくない。
そんな風に考えてしまうのは、心がまだ子供だからなんだろう。
これは誰も傷つかない嘘なのだ。
そんな嘘を何度も重ねていけば、きっとわたしは成長していける。
それからわたしたちは、三十分以上も教室で話しこんでしまった。
日曜日にひどい別れ方をしたことが、たぶんわたしだけでなく、ウサギたちの心にも影を落としていたのだと思う。
重圧が消えたようにわたしたちは話し続け、ちょっとしたことでもたくさん笑い合った。
話題は主にわたしの昔話。
これまで恋愛なんて縁遠い生活をしていたって話からどんどん広がって、そこからみんなには田舎のことをいっぱい聴いてもらえた。
わたしはしあわせな人間だ。
うまくいかないと逃げ出して、どうにかしようと嘘でごまかして、そんな人間なのに、みんな一緒にいて笑ってくれる。
ウサギ、蒼さん、シャノちゃん。三人と離れることなくいられて、それが涙が出そうなほどにうれしい。
田舎のことを話しながら、ふっと思った。
いつかウサギたちを、わたしの産まれた場所に案内したいと。
行くなら夏だろうか。名物ってほどではないけれど、故郷の村を含めた田舎の町で大きな夏祭りがある。あとは、我が家から少し歩いた
「――だいぶ話しちゃったわね、そろそろ行きましょうか」
しあわせな余韻に
時間を確認しようとスマホを出すと、メールの受信表示が目に入る。
発信者はハル君。終わったらゲームセンターで会おうって約束していたのだけど、なかなか来ないから心配しているのかもしれない。
気づかれないよう、教室のドアへ歩き出した三人の後ろでこっそりと見る。
受信は今から二十分ほど前。話に夢中で気づいていなかった。
『ゲーセン着いたら待ってて。ヘッドホンを忘れてきた』
あれれ、わたしと違ってきちんとしたハル君が忘れ物は珍しい。
そうは見えなかったけど、さっきの演技のとき緊張していたせいで忘れ――
すっと血の気が引く。
そこで、気づいた。
ヘッドホンを忘れたハル君が、取りに来る場所は、ここだ。
早く返信を、いや、早く立ち去るべき?
「もーっ、うらら、早く行くわよ」
スマホを手に固まったわたしに声が投げられる。
顔を上げると、先頭を歩きながら手を振るウサギ。
視線をわたしに投げたまま、教室の出入り口へ後ろ向きに進み、
ドアに手を掛ける、その直前で――向こう側から開けられた。
***
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