第11話 【2】ー7

 不自然なほどに無難な世間話しか話されない夕食を済ませた後、俺はリビングの隅でぐったりとしていた。

 からかわれらならまだしも、放置されるのが一番辛い。また一つ黒歴史を作ってしまった俺は部屋の隅で自分の心の修復作業に没頭していたのだった。

「ひとまず、当面必要となるものは揃ったみたいね」

 母さんは、朱花とともに今日購入してきた物を確認しているようだ。

 自分以外の女性が家にいるのが嬉しいのか、母さんはとても熱心に朱花の世話を焼いている。先ほども夕飯の片付けをしながら二人で楽し気に話をしていた。

「そういえば、今日は一日中二人きりだったわけだけど……どうだった、朱花ちゃん? 祐人と一緒に居てみて」

 本人がいる前でその評価を訊くなど、母さんも人が悪い。

「そうですね……まだ祐人さんのことが完全にわかったわけではありませんが、良い人だとは思います」

 俺のどの辺りを見て「良い人」だと思ったのか訊いてみたいが、面と向かって尋ねる度胸もないので大人しく二人の話に耳を傾ける。

「あら、そうなの。てっきり祐人に対して失望したのかと思ったわ」

 驚きとからかいが入り混じった表情で母さんが言う。

 母さんのその言い草は否定したいものだったが、自分も朱花からの好感度は高くないと思っていたので何とも言い難い。

「いえ、祐人さんには良くしてもらっていますし……それに、祐人さんは私のことでも真剣に考えてくれますから」

 母さんの前で話す朱花は作った笑顔を浮かべているが、しかしその声色は堅いものではなく、どこか優しさが感じられるものだった。

「あらあら、意外と上手くいってるみたいね。良かったわ、祐人が迷惑をかけないか心配だったから」

 本当に心配だったらしく、母さんはほっとしたという顔をしている。

 そんなにも俺は信用が無かったのか。

「大丈夫だよ、母さん。一応年長者としての振る舞いは忘れてないから」

 朱花に対する俺の印象は、昨日は「接するにも気を遣う美少女」だったが、今日で「手のかかる妹」に変わった。そのため俺も朱花に対しては「面倒を見なければ」と思ってしまうので、そうそうないがしろにはしない。

「当たり前よ。それに朱花ちゃんはお客さんなんだから、祐人は丁重におもてなしないとダメよ」

「わかってるって」

 親子の会話の横で、朱花はどういう表情をすべきか迷っている。

 まだこの家に来てから一日しか経っていないので、身の置き所がわかっていないのだろう。

「そういえば気になってたんだけどさ。朱花の料理と母さんの料理の味って似てると思うんだけど、昨日味付けとかも教えてもらったのか?」

 できるだけ朱花も会話に参加できるように、朱花と母さん二人に関係する話題を提供する。

 問い自体は朱花に向けたものだったが、狙い通り二人から答えが返ってきた。

「いえ、千紗ちささんから料理を習ったことはありませんが……たしかに私も、作り方が似ていると思いました」

 朱花に思い当たるところはないようだが、母さんには料理が似ている理由がわかったらしい。

「ああ、それは同じレシピを習ったからじゃないかしら。朱花ちゃんは香織かおりから料理を習ったんじゃない?」

 聞き覚えの無い名前が出てきたが、どうやら朱花の関係者らしい。朱花は母さんの言葉に頷き、肯定の意を示す。

「そうよね、なぎが料理を教えられるわけないし……」

「……えーと、横からごめんだけど、香織さんとか凪さんって誰?」

 朱花の関係者ということは与沢家の人間なのだろうので、だいたいは想像がつくが、念のために訊いておくことにする。

「香織は与沢家のメイドよ。凪は、朱花ちゃんのお母さんね」

 どこか懐かしむような声で母さんがそう教えてくれる。

 朱花の実家には現在彼女の母親と家政婦しかいないらしいので、その二人が凪さんと香織さんということか。

「香織には私が料理を教えたのよ。だから、朱花ちゃんは間接的に私の料理を習ったってわけね」

 母さんが与沢家のメイドに料理を教えていたという事実に意外感を抱いたが、それだけ与沢家と母さんは関係を密にしていたということだろう。

「香織さんが千沙さんから教えを受けていたとは知りませんでした」

 朱花が驚いたような表情を見せているのは新鮮だったが、事情を知っている自分としては違和感しかなかった。

「懐かしいわね……あのちんちくりんだった香織が教える立場になってるというのは、なかなか感慨深いものがあるわ……」

 母さんが昔のことを話す姿は珍しい。

 俺の家には父親がいない。俺が思い出すことができる記憶全て探っても父さんとの思い出は無いので、おそらくは俺が物心つく前に亡くなったのだろう。なので自分は父さんの顔を仏壇に飾られた写真でしか見たことがない。

 母さんからは「事故で亡くなった」、と聞いていたが、母さんの話し振りを見るにそれが真実ではないことはわかった。おそらくはただならぬ理由があるのだろう。それに気づいていた俺は、物心がつく前の話は極力尋ねないことにしていた。

「香織さんは立派な方になられましたよ。彼女がいなければ与沢家がまわらないほどです」

 だが今日の母さんの姿を見るに、昔の出来事を語ることを嫌悪しているわけではないようだ。朱花とは本当に楽しそうに与沢家の人々との思い出を語り合っている。

 こんなことならば、もっと自分も母さんから話を聞いておくべきだった。そうしていたならば、朱花や悪魔のことも早い内から知ることができたかもしれない。

 ——しかし予想以上に盛り上がってるな。

 自分から提供した話題であるが、もはや自分の入っていけないほどに二人の話には花が咲いていた。主に話されることが朱花の地元の話なので、それを知らぬ自分では話に加わることができない。

 そもそもが、朱花が話す機会を作ってあげたいという気持ちで話始めたことなのでこれで良いのだが、自分はやることがなくなってしまった。

「……風呂でも入るか」

 手持ち無沙汰になった俺は、楽しそうな声が響くリビングから退散した。



 ***



 ようやく今日という日が終わった、そう感じながら与沢朱花は風呂場へと向かった。

 葛見家に来てからまだ二日しか経っていないが、一日一日がとても長く感じる。今までとは全く異なる環境での生活なので、そう感じてもおかしいことではない。そう感じられるほどこの二日間が充実していたということなので良いことだと朱花自身思うのだが、しかし長い一日は彼女に戸惑いを与えることも多かった。

今日一日で最も朱花の心を惑わせたのは、悪魔の襲撃を受けたことではなく、それによって祐人が傷ついてしまったことだ。自分がついていながら、祐人に手傷を負わせてしまうなど言語道断。今回は強化魔法による治癒能力の強化により彼の傷を癒すことはできたが、これからはそもそも彼が狙われないように注意しなければならない。

もう二度と、彼を傷つけさせない。

朱花の母親は祐人を契約候補として紹介したが、しかし朱花本人はそうは思っていなかった。最悪、彼と契約は結べなくとも良い。朱花が葛見家に訪れた理由は、今度こそ彼を守るためなのだから。

そのために魔法の訓練をし、武術まで習得した。感情が希薄なため、魔力量はどうにもならなかったが、代わりに魔力消費を最小に抑えながら通有魔法を使うことができるように特訓した。

未だ小悪魔であるが、正式契約を結んでいない悪魔相手ならば戦いで負けない自信が朱花にはあった。もし祐人と契約していたケンフェルト家の悪魔が再び襲撃を仕掛けてこようと、完膚かんぷなきまでに叩きのめしてやろう、と意気込む。

――このときの朱花には、自身でも気づいていないことが二つあった。

まず、祐人のことになると自分の感情が強くなるということ。感情的になどなるはずがない朱花は、心の内とはいえ「完膚なきまでに叩きのめす」などという野蛮な言葉は使わなかっただろう。しかし祐人が傷つけられたことを思い出し、珍しく感情的になっていた。

そしてもう一つは、彼女が自分の思考に没頭していたということである。感情的になっていたこともあり、朱花は周囲の状況に意識を向けることができなかった。

であるので彼女は、まだ風呂上がりの祐人が身体を拭いていることに気がつかず、洗面所兼脱衣所の扉を開けてしまったのだ。

「…………え、朱花?」

 ちょうど髪の水滴を拭っていた祐人は両腕を上げており、図らずも自身の裸体を余すことなく朱花に見せてしまうこととなってしまった。

「…………あ、祐人さん」

 あまりにも突然の出来事であったため、両者ともに思考が停止し、その場に立ち尽くしてしまった。

 朱花は直前まで祐人のことについて思いふけっていたため、突如その本人と顔を合わせてしまったことで思考が混乱してしまっている。特にその相手が全裸であるため、混乱は熾烈しれつを極める。

 対する祐人は、妄想によりエロハプニングへの対応はシミュレート済みである。特に朱花が家に来てからというもの、エロハプニングが起きないかと期待と一抹の緊張を常に抱いていた。しかし今回のケースは、自分の裸が見られるというものである。想定とは立場が異なるため、祐人の思考も混乱している。

 そのような個人的事情もあり、一刻というには長い時間の中二人は静止していた。

 二人が動いたのは、朱花の視線が祐人の顔から下の方に動いたときである。

「おおおおおおおおお!!! 何やってんだ!?」

 祐人は急いで後ろを向くと同時に局部をタオルで隠す。

「……!? す、すみません……」

 朱花もようやく正気を取り戻し、開け放っていた洗面所の扉を勢いよく閉める。

 思考回路が正常に動き始めたことを確認し、朱花は背後で慌てるような音を立てている祐人に改めて謝罪をする。

「すみません、祐人さんが入っていることも確認せずに開けてしまいました……」

 祐人が風呂場に向かったとき朱花は千沙と会話していたので、彼が入浴したことを知らなかったということもある。

 だがこの件の原因は考えに集中していた自身にあると朱花は考えていた。

「い、いや、まあ朱花が謝るほどのことではないんだけど……。むしろ、こんな汚い男の裸を見せてこっちが申し訳ない……」

 祐人は祐人で彼に非があるわけではないのにも関わらず、朱花のような純粋な少女の視界に男の裸を入れてしまったことを反省していた。特に、朱花が祐人の男の部分を見たことは視線で彼にもわかったので、それについて罪悪感を覚えている。

「いえ、それは平気なので大丈夫です。まあ、祐人さんの身体つきが大分変わられていたので少し驚きましたが」

 朱花が戸惑った理由は、祐人について考えを巡らせていた最中に彼本人に出会ってしまったからである。朱花としては、他人の裸を見ようが自分の裸を見られようが恥ずかしいとも不快だとも感じることはない。

 ただ、幼い頃に見た祐人の裸と今のそれとは大きく違っていたので、それについては意識を奪われてしまった。

「……ん? 朱花は幼い頃の俺を知ってるのか?」

 祐人は覚えていないが、朱花と彼は幼馴染である。知っているどころか、小学校に上がるまでのほとんど時間をともに過ごしていたほどの仲である。

「はい。祐人さんは以前私の家の隣に住んでおられましたから。幼少期の祐人さんのことならよく存じております」

 十年以上も前のことなので流石に細部まで思い出すことはできないが、それでも朱花は多くのことを覚えていた。あの頃の記憶を失ってはいけない、という意識があったこともそれを手伝っている。

「えっ? 俺って引っ越してたのか。全然知らなかったな」

 祐人は逆に小学校に上がる前の思い出が無いため、自分が引っ越した事実すら覚えていなかった。

「そうですよ。だから、私はある程度祐人さんのことは知っていました」

 先ほどまで千沙とともに思い出話をしていたこともあり、朱花は当時の記憶を呼び起こす。

 懐かしい、という感情こそ湧き上がってこないものの、その思い出が自分にとって大切なものであることはわかる。

「……自分の家のことでも、知らないこととか忘れてることがいっぱいあるんだな」

 朱花と扉を挟んだ向こう側で、寝間着を着ながら祐人が呟く。

 彼の場合、忘れたというより記憶が無いと言った方が正しいのだが、朱花はそのことを口にはしない。

「そういえばさっき母さんと色々話してたけど、あのことは話してないよな?」

 祐人の言う「あのこと」とは、今日悪魔に襲撃されたことである。

 これは彼と朱花が買い物から帰宅してすぐに決めたことだ。千沙は悪魔のことを知っているどころか、悪魔である朱花よりも詳しい。しかし、だからといって当事者ではない千沙に心配をかけたくないという祐人の希望により、この件については千沙に報告しないことにしていたのだ。

 祐人は朱花が約束を破るとは思っていなかったが、しかし朱花はどこか抜けているところがあることと、千沙が勘の鋭い女性であるため隠そうにも隠し切れない可能性があることを考慮し朱花に確認をした。だがそれは杞憂に終わったようだ。

「でも本当にいいんですか? 千沙さんなら良い解決法を提案してくれそうな気がするのですが」

 朱花の母親をはじめとして、何十年も多くの悪魔と関わってきた千沙ならば妙案を生んでくれそうだと朱花は考えたが、しかしそれを強い口調で祐人は否定した。

「いや、母さんの気を煩わせたくはない。これは俺たちで解決しよう」

 祐人は祐人なりに思うところがあるのだろう、とだけ朱花は考え、それ以上この件については話さなかった。

 ただ、祐人のように感情のこもった言葉を口にできるのは、彼女としては少し羨ましい。

「はい。とりあえずは明日から頑張りましょう」

 朱花がそう言うと同時に、洗面所の扉が開かれ中から祐人が出てきた。

「そうだな。また明日」

 そう言うと、祐人は千沙にも就寝の挨拶をするため再びリビングに向かう。

 祐人の姿がリビングに消えたのを見届けてから、朱花は洗面所にて脱衣を始める。

 洗面台と洗濯機、そしてタオルの収納スペースにより空間の多くを占める狭い部屋で、身体をよじらせながら朱花は服を脱いでいく。その衣擦れの音だけで祐人ならば興奮を最高潮まで高められるだろう状況に、もちろん朱花は何の感慨もなく脱衣を終えた。

 浴室の扉を開けようと手をかけたとき、ふと視界の端に映った鏡に視線を向ける。

 朱花の一糸纏まとわぬ姿はまぶしいばかりに白く、くびれる部分とふくらむ部分がはっきりとしたものであった。まだ発展途上と思わせる若々しい身体であるが、すでにその身体は十分に女性的であり、あでやかですらある。小柄であるため少女らしさが目立つ朱花であったが、その裸身は間違いなく世の男を惹きつけるだけの美しさがある。

「……むぅ」

 だが、改めて自分の裸身を眺めた朱花の感想は「やはり祐人の身体とは全く異なる」、というものだった。

 朱花は幼い頃に父親が他界してしまったため、男性の裸体を見る機会など無かった。彼女が最後に見た異性の裸身は、たびたびともに入浴していた祐人のものぐらいだ。

 であるので、男性と女性の身体の違いには、小さくではあるが驚きを覚えていた。

 鏡で見た自分の身体は、全体的に柔らかそうという印象を抱く。武術の鍛錬のため鍛えてはいたが、悪魔は強化魔法があるため筋肉をつける必要はない。だから彼女の身体はその力強さの割に筋肉は無かった。かといって脂肪がつきすぎているわけではないので、これはこれでいいと朱花本人は考えている。

 だが、祐人の身体は違った。彼は運動が特別得意ではないと朱花は聞いていたが、その身体は贅肉ぜいにくが少なくひきしまっており、胸板も薄くはなかった。鍛え込まれた身体、というわけではなかったが、朱花から見ればその身体つきからは力強さが感じられた。

「やはり祐人さんも男性、ということでしょうか」

 この家に来てからたびたび呟くようになった朱花の独り言が、狭い洗面所に響く。

 祐人の下半身については彼の名誉のため記憶から消去するように努力し、今度は自身の裸身について朱花は考えを巡らせる。

 朱花が一つ気になっていたことは、自分の身体のバランスが悪いのではないか、ということであった。

 昨日祐人の部屋で見た本には、身長も高く身体も美しい上、女性らしい部分の肉付きも良い女性が多く載っていた。

 だが自分の身体はどうだろう。運動しているので身体つき自体は美しいと言える。しかし、身長の低さに対し胸が大きすぎるのではないかと朱花は感じていた。これは、スタイルの良い女性とは到底かけ離れているのではないだろうか、というのが朱花の懸念だった。

 朱花が小柄であるのはとある魔法の代償なので、これについては仕方がないと自身でも考えている。だが、なぜ胸も小さくならなかったのだろうかという疑問は残る。せっかくならば、この脂肪の塊も小さくしてくれれば良かったのに、と朱花は考えずにはいられなかった。

 朱花の身体は今のままでも十分魅力的であるのだが、しかし自分の肉体を客観視することなど朱花にはできないため、それに気づくことはない。

「まあ考えても仕方のないこと、か」

 祐人の存じぬところで、図らずも朱花に初めてのコンプレックスを抱かせることとなる。

 朱花は一人で出かける機会に、体形の整え方について書かれた女性誌でも購入しようと密かに心に決めた。

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