第10話 【2】ー6

 葛見くずみ家は、平屋建ての小さな一軒家である。

 俺と母さんが二人暮らしするために借りた家なので、小さいとはいえ一軒家なので十分な広さはある。個人的に気に入っているのが、自分専用の部屋があることだ。

 ――間取りとしては、玄関扉を開けばリビングまで続く廊下が目に入り、その廊下の左手に俺の部屋、そしてその隣には風呂場が存在する。俺の部屋の向かい側には物置、風呂場の向かい側にはトイレがあり、以上が廊下に面する部屋である。

 リビングに入るとそこにあるのはテレビと炬燵こたつ机、そして仏壇くらいのものである。リビングは寝室も兼ねているのであまり物を置くことができず、今までたいした家具が無かったが、今日は新しく朱花の本棚が追加されることとなった。

 リビングの隣の部屋は、食卓の置かれたキッチンである。自分は料理をしないので、この家でキッチンを使うのは母さんぐらいのものだ。

 しかし現在そのキッチンには、エプロンを身に着けた朱花しゅかが立っている。

 実家から持ってきたらしい灰色のエプロンは、シンプルではあるものの彼女の落ち着いた雰囲気と合っており、高潔ささえ感じられる。そのような印象を抱かせるエプロンだが、ウエストでくくられた黒いリボンが朱花のくびれを強調し、V字に開いた胸元により彼女の首の辺りが露出されているため女性の色っぽさも表れている。Iラインタイプのエプロンであるため上品さが増すのは当然だが、ここまで身体の輪郭が露わになる形だと官能的でさえある。

 俺の好きそうなゲームでは裸エプロンが頻繁に登場するが、そのとき身に着けられるのはAラインタイプのエプロンが多い。なので自分は密かにAラインエプロンに対する憧れがあったが、こうして見るとIラインエプロンも悪くない。

 そのように、リビングでテレビを視聴するフリをしながら朱花の料理姿をちらちらと覗き見ていると、突然朱花が振り返った。

「お待たせしました。料理ができたので準備しますね」

 買い物から帰った後、俺と朱花は襲撃してきた悪魔の対策について話し合った。その話し合いの中で一つの方針を打ち立てたが、それを行動に移すのは明日からである。

 なので話が終わると俺は特にやることがなくなり、朱花が家事をやる中ただ無為に過ごすだけであった。

「ああ、ちょうどいい時間だな。もうすぐ母さん帰って来るってさ」

 高校入学を機に、母さんに購入してもらった二つ折り式携帯電話の画面を朱花に見せる。

「では千紗ちささんの分ももう準備しちゃいますね」

 母さんは葛見家の稼ぎ頭なので、遅い時間まで仕事をしていることが多い。どれだけ早くとも帰宅するのは20時頃だ。

 今までは母さんが帰宅してから料理していたので、俺が夕飯にありつけるのは21時頃であった。しかし、母さんがいない間は家事をすると朱花が申して出てくれたため、葛見家の家事事情は劇的に変わろうとしていた。

 今日俺がだらだらしている間に朱花は洗濯物を畳み、買ってきた物を整理し、風呂の準備をした後料理までしている。俺も家事を多少は手伝っていたが、朱花ほど家事がこなせるわけではない。なので彼女の存在が早くもありがたく感じられた。

「俺も手伝うよ」

 今日の夕飯はカレイの煮付けのようだ。朱花が料理をしているときからその匂いがリビングまで届いていたので、俺の空きっ腹はたいそう刺激されていた。本当なら今すぐにでも食したいところなのだが、母さんの帰宅まではぐっと堪えなければならない。

祐人ゆうとさん、一つお尋ねしたいことがあるのですが……」

 料理を盛り付けていた朱花が、言葉を詰まらせながら口を開く。

 何か言いにくいことでもあるのだろうか、と疑問に思いながら返事をすると、朱花はこう言い放った。

「私は、家ではもっと露出の多い服装の方が良いでしょうか?」

「……朱花、お前はなぜすぐにそういう発想をするんだ?」

 突如変態的な発言をする朱花に慣れてしまい、もはや驚きもしない。おそらくは、俺の持っている書籍に影響でもされたのだろう。

「いえ、祐人さんはそういう服装が好きなのではないかと思いまして……少しでも祐人さんと心の距離を縮めたかったんです」

 俺と仲良くなりたいと思ってくれることはありがたいが、そこから『露出』という思考に繋げるのは止めていただきたい。

 俺は「わからないことがあれば何でも訊いてくれ」という旨のことを過去に朱花に言った。だが質問される内容がエロ方面ばかりというのは大変遺憾である。

「朱花……お前には金言をくれてやろう」

 恥ずかしさを隠すあまりか、尊大な言葉遣いになりつつ朱花を食卓の椅子に座らせる。

 雰囲気の変わった俺の様子に気圧されているのか、いつも以上に朱花はおとなしくしている。

「いいか、朱花。もはやお前が恥ずかしいことを平気で口走ることにはもはや言及しない。だが、お前は一つ大きな間違いをしている」

 恥ずかしいことを言っている、という自覚が無かった朱花はその言葉に顔色を変える。しかし注目すべき点はそこではないという俺の台詞から、静かにその続きに耳を傾ける。

「女性が露出を増やせば、たしかに男性は喜ぶだろう。俺だって喜ぶ。だが、露出ってのは安易にしてはいけない行為なんだ」

 いつになく真剣な俺の声に、朱花は今にも正座しそうな態度を取っている。

「わかりやすい例を挙げてやろう。朱花、ミロのヴィーナスって彫刻は知ってるか?」

「……はい。たしか、両腕が欠けている像ですよね」

 ミロのヴィーナスは、古代ギリシアに製作された女神像である。現在もルーヴル美術館に展示されている至宝の一つであるが、しかしその両腕は残念ながら欠けてしまっている。

「そうだ。ミロのヴィーナスはそのプロポーションの黄金比が美しいと讃えられている。しかし! 彼女が美しいのはそれだけが理由じゃないんだ!」

 熱のこもった俺の声がキッチンに響き渡る。未だに盛りつけの完了していないカレイの煮付けが、どこか寂し気に見えるのは気のせいだと信じよう。

「彼女には両腕が無い。だから人々は彼女の両腕がどんな形であったのか夢想しなければならない。どんな形だろうか、何かを手に握っていたのだろうか、と」

 俺が何を言っているのか理解できないが、精一杯理解しようと努める朱花の表情は見ていてどこか心が和むが、今は彼女に教えなければならないことがあるので和んでいる場合ではない。

「人々はその想像力により、ヴィーナス像を美化してしまうんだ。だからこそ、ミロのヴィーナスは見た目以上に美しく思われ、不完全だからこそ人の心を動かす」

 自分の話す、ミロのヴィーナスの両腕の話は有名なものである。だが、俺が伝えたいことはこれからだ。

「露出、ってのも同じなんだ。ただ見せればいいってもんじゃない。男は服の下に広がる女体の神秘を夢想することにより、よりその女性を美しいと感じる」

 これは全世界に発信したい俺の持論である。

 他の例では、女性の下着がある。最初から女性のパンツが見えている状態では、男性にさしたる性的興奮は発生しないだろう。だが、スカートという見えそうで見えない領域に守られることにより、パンツは無限の可能性を秘める。見えないからこそ、男性はスカート中を夢想することができ、それにより尋常ではない性的興奮を覚えるのだ。

 これが俺の掲げる『ミロのヴィーナス理論』である。この理論があるため、自分は盗撮や見せパンというものが理論が理解できない。見えないからこそ愉しいというのに、それを見るなど言語道断。人間としても変態としても格が知れる。

「だから、朱花も安易に露出してはいけないぞ」

 一通り主張したいことを言い終えた俺はえも言えぬ満足感を抱く。

 だが、余韻が過ぎ去り冷静になった後、自分を猛烈な後悔が襲った。

 ――何言ってんだ、俺は。自分の説に熱中する余り、とんでもない変態発言をしているじゃないか。

 時すでに遅く、俺の変態演説を聞き終えた朱花は無言を貫いている。感情の希薄な彼女ですら、俺の変態性に引いてしまったのだろうか――。

 そう思い、さらに反省の色を濃くする自分だったが、当の朱花は当の朱花は感心したような声を出した。

「……今のお話は、私のような者では半分も理解できませんでしたが、祐人さんが露出に並々ならぬ思いを抱いておられることはわかりましたし、その熱意には驚かされました」

 どうやら朱花は必死に俺の言葉を飲み込もうとしていたから黙り込んでいたようだ。

 このような内容に感心の念を示す朱花の純粋さを危うく思うが、それよりも軽蔑されなかったことに安心感を抱いてしまう。

「そ、そうだろ? 俺も色々と考えているんだよ」

 冷や汗が止まらない中で虚勢をはる自分。よくわからないが俺はとてつもなく深いことを考えているのだと勘違いをしてしまった朱花の尊敬の眼差しが、俺の良心に突き刺さる。

「はい。私も服装には気をつけます」

 朱花の質問は、なぜか「露出に気をつける」という結論に落ち着いてしまったが、これから彼女に改めて話すのも疲れるのでこのままにしておくことにする。

「そうだぞ。よりよい露出を心がけるんだぞ」

 露出の先駆者か何かのような助言を年下の女の子に送るという謎の図が出来上がってしまった。

 自分でも何を言っているのか理解できないが、朱花が大きく頷いているので良しとしよう。

「――えーと、とりあえず、ただいまと言っておこうかしら」

 首が折れるのではなかろうかという速度で俺が声のする方へ振り向くと、リビングには帰宅したばかりの母さんが立っていた。

「おかえりなさい、千紗さんが」

 家の主の帰還に対し、朱花は深々と頭を下げる。

 対する俺は、呆れたような表情をしている母さんを、ただただ冷や汗をかきながら見ることしかできなかった。

「や、やあ、母さん。いつ帰ってたの?」

 母さんに先ほどの演説を聞かれたのだろうということは察することができる。問題は、どこから聞かれていたのか、ということだ。

「そうね……祐人が『金言をくれてやろう』って言ったあたりに帰ってきたわ」

 全部聞かれてるじゃないですか……。

 絶望とともに、俺は夕飯を食べることとなった。

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