第2話

 夜が明け、ライゴールの首都である、ゴーラにも朝日が差し込む。昨夜とはうって変わり、輝くばかりに青く高い空を、朝日に染められた雲が流れてゆく。

 何もかもが、雨に流されてしまったかのような街角に、ジークとケインは立っていた。ケインがぽつりと言う。

「お迎えが来たぞ」

 ジークはぼんやりと、頷いた。ジークとケインの前にやって来た男は、灰色のマントを身に纏った、地味な男である。ただ、目付きの鋭さが、男の職業をものがたっているようだ。

 男はケインの前に立つと言った。

「あんたが、ケインか?」

 ケインは頷く。ジークは欠伸をした。2足で立ったトドを思わす仕草である。

「おれは、ミル。黒い炎団のものだ」

 そう言って、一瞬印章を見せる。炎を形どった、黒い紋章が見えた。闇だけを見つめてきたかのような、男の瞳がケインとジークを写す。ミルがどう思ったのかは、その表情からは読み取れない。

「行こうか、ミルさん。あんたとこの、お頭に会わせてもらえるんだったな」

 ケインの言葉に、ミルは黙って頷く。そして歩きだした。

 冬眠から目覚めた熊のように、のそのそ歩くジークの臑を、ケインは素早く蹴飛ばした。

「いいかげん、目を覚ましたらどうだ」

「ああ、悪いな、昨日の酒が残ってるようでな」

 ジークはぼやきながら、頭の後ろを叩く。ケインは諦めたように、ため息をついた。ミルという男は、二人の話しが聞こえているだろうが、無視して歩いていく。

 ミルはゴーラの下街のほうへと、入り込んで行った。朝だけに、人影は疎らであるが、麻薬の夢の中を漂っているような男や、妖魔の血が流れているふうな娼婦が、けだるげに水タバコを吸引しているのを見かける。おそらく昨日の夜ここで殺されたものがいたとしても、その血は雨で流されてしまっているだろう。

 2時間ほど、その迷路のような下街を歩いた後、ミルは、とある建物の地下へと続く階段を、下っていった。その壁には、邪神グーヌの僕の姿や、東方の名も定かではない、性愛の神の淫らな姿が描かれている。

 ケインとジークは、その半神半獣たちの戯れる姿を描いた壁画を見ながら、地下へと降りていった。ミルは扉を開き、薄暗い部屋へ入る。ケインたちも後に続いた。

 白い布で仕切られた向こうへミルは声を掛ける。

「二人をつれて来ました」

「ああ、こっちへこい」

 布の向こうは思ったより広い部屋であった。部屋の中央は一段低くなっており、食物と壷のおかれた低いテーブルが置かれている。そのテーブルの向こう側に背が高く、体つきの逞しい男がいた。男はクッションの上に胡座をかいて、座っている。

どうやらその男が首領らしい。

 部屋の周囲は、布で覆われており、その奥に人が潜んでいる気配をケインは感じた。ミルは後ろにさがり、姿を消す。ケイン達は、男の前に立つ。

「私が黒い炎団の首領、ゲールだ。腰をおろしたまえ」

 思ったより若い男である。肌は浅黒く、髪も黒い。顔の彫りは深く、顔立ちは結構整っており、二枚目だ。目もとは、盗賊の首領とは思えないほど、涼しげであったが、豊かな口髭をはやしている口元は、皮肉っぽく歪められていた。

 ゲールは値踏みするように、目の前に腰をおろした二人を見る。微かに笑みを含んだ目もとからは、何を考えているのか、読み取れない。

「ラハンの弟子といったね、君たちは」ゲールはよく通る美声で言った。盗賊には、似合わない声だ。

「ラハンの弟子はおれじゃない。こいつだ」

 ケインに小突かれたジークは、愛想よく笑う。

「まかしてくれ。オーラの闘竜と、さしでやっても負けない。実力はラハン以上だ」

 ジークは粒らな瞳をキラキラさせて、言った。

「東方の二十七の都市で、武闘会に出場し、すべて優勝した。あんたは好運だよ、ゲールさん。なにせ、地上最強の男が味方につくんだ」

「生憎と私は、言葉を信用できなくてね、」

 ゲールの言葉と同時に、ゲールの後ろの布がゆれ、3人の男が現れた。3人とも、黒い革の鎧を身につけ、長剣を手にしている。

 ジークは丸まると太った顔に、愛くるしいといってもいいような笑みを浮かべ、困惑したように肩を竦めた。

「ゲールさん、どういうことです?」

「実力を目に見せてくれ。彼らを相手に」

 ジークは本当に困ったというように、丸顔を歪める。

「ゲールさん、私はあなたの部下を傷つけたくない。困りましたね」

「構いませんよ」ゲールは、涼しげに言った。「彼らには、あなた達を殺すように指示した。あなたが彼らを殺してもいいですよ」

 急に、ジークの目が鋭くなり、口元に不逞ぶてしい笑みが浮かんだ。

「あんた、殺していいと、言ったな」

 ジークの口調は楽しげですらあった。ケインが小声で素早く言う。

「殺すなよ」

「心配ないって、ケイン」

 心配ないとはどういう意味かと思ったときには、ジークが立ち上がっていた。 3人の男たちは、ゲールの左側から回り込んで来る。ジークは、3人の前に立った。

 3人の男達は、長身の男を中心に、残りの二人が左右に展開する。

 3人とも構えは自己流であったが、人を斬り馴れているようだ。特に中心にいる長身の男は、それなりに剣の技を学んだことがあるらしく、構えが様になっている。

 ジークは左半身を前に出し、包帯を巻いた左手を腰のあたりで曲げ、ゆっくりと揺らし始めた。右手は、顎の下に構えている。ほぼ直角に曲げた左手を振り子のように揺らしながら、ジークはフットワークを使う。

 3人の男達は、丸腰のジークにかえって警戒しているようだ。正面の長身の男は左手で、片刃の剣を下段に構えている。左右の男達は、両刃の剣を突く体勢で、構えていた。

 ゲールは座ったままのケインに声をかける。

「君は、見ているだけのつもりかい」

 ケインは少し口を歪めて、言った。

「まあ、やつが調子にのりすぎたら、後ろから尻をけって止めますから、ご心配なく」

 ゲールは戸惑ったようにケインを見たが、視線をジークのほうへ戻す。ジークは左手を揺らしながら、楽しげにいった。

「こいよ、こっちはいつでもいいぜ」

 ジークは、粒らな瞳を輝かせてあどけない笑みをみせる。

「恐いかい、丸腰の相手が」

 正面の長身の男が動いた。裂帛の気合いと共に、下段から剣をきり上げる。素早く激しい踏み込みであった。

 突風のように、剣がジークの顔を掠めて上方へ振り抜けられる。いわゆる見せ太刀であった。一太刀目を相手に見切らせておいて、二撃目で初めて間合いに入る。

 一撃目をかわしたと思い、攻撃に入ろうとした所を斬る手であった。

 しかし、長身の男の手は、ジークに読まれている。上方へ抜けた剣は、刃を返して上段よりジークの頭上へ向かった。ジークはその剣に向かい、退かずに、間合いを詰める。包帯を巻いた左手が、疾風のように動いた。

 キン、と甲高い音が響き、長身の男の剣がへし折られる。剣をへし折ったジークの左拳は、そのまま長身の男の顎へ叩き込まれた。

 カウンターで拳を受けた男は、跳ね飛ばされる。仰向けに、床にダウンした。と、同時に左右の男達が、ジークに向かって剣を突く。避けようのないタイミングと、スピードだった。

 左右の男達は、その時、信じられないものを見た。ジークの丸いでっぷりした体が、軽々と宙を跳んだのだ。ジークの巨体は空中で一捻りし、さらに一回転する。

 左右の男たちの剣は、宙を斬った。

 ジークは、仰向けに倒れている男の腹の上に、着地する。男の絶叫が響き渡った。

 ケインが顔を、しかめる。

「内臓をやったな。一撃目で殺してやったほうがよかった。楽には死ねんぞ」

 ジークは男の体から降り、その体を蹴飛ばして残りの男達の前に転がす。二人の男は、身を折って苦悶する仲間が足もとにいるせいで、踏み込みが止まった。 ジークはその隙に、左手の包帯をとる。そこに現れたのは、闇であった。漆黒の闇、星のない夜空のような闇が左手の形をとって姿を現す。

「あれは、」ゲールが呆然と呟く。「黒砂掌か。そんな……」

 残った男達は、苦悶する仲間を跨ぎ越え、ジークの前に立つ。ジークは再び左半身の体勢をとり、黒い左手を振り子のように揺らしていた。

「待て!」

 ゲールの制止よりも一瞬早く、二人の男達は、踏み込んでいた。その時、ジークの左手が黒い鞭のようにしなり、疾しる。

 二人の剣は二本共、へし折られた。ぬばたまの闇が凝縮したような左手は、鉄の剣を木刀のように楽々とへし折る。ジークは、楽しそうに舌なめずりした。

「さて、」

「調子にのるな、ジーク」

「そこまでだ!ラハンの弟子」

 ケインとゲールが同時に叫び、ジークの動きが止まる。部屋の周囲の布が揺れ、十人以上の剣を持った男達が現れた。ゲールは立ち上がり、男達の間へ入る。  

 3人の男達が、ゲールの前へ出る。男達は、火砲を持っていた。雷管式の、オーラ製の火砲らしい。長さは、五十センチほど、口径は三センチほどだ。

 陶器の榴散弾を発射するタイプで、陶器の砲の中に尖った鉄のかけらを詰め込んだものが炸裂し、命中すれば人の頭を粉々にするくらいのパワーがある。男達は火砲を片手で保持していた。

「楽しそうな玩具を、持ってるね」

 ジークは、子供のように無邪気に笑って言った。

「射ってごらんよ。ただし、射つなら必ず頭を狙いなよ。それ以外の場所に当たれば、あんたたち死ぬよ」

 ジークはそういうと、左手を揺らす。黒い死神の鎌のように、左手が揺れる。火砲を持った男達の間に、微かな動揺が走った。ゲールは、命ずる。

「射て!」

 ゲールが叫ぶと同時に、座ったままのケインの右手が素早く動く。何かが空を裂く音がした。

「うっ」

「つうっ」

 火砲を持った男達の呻き声と共に、三本の指が木から落ちた芋虫のように、床へ転がった。男達の引き金に掛けられていた指が、鋭利な刃物で切断されている。火砲の銃把が血に塗れた。

「こんな所でそんなもの、ぶっぱなしてほしくないね」

 ケインの軽く挙げた右手の先で、何かが光った。それは氷のように透明な、剣である。透明な剣の中で閉じこめられた光が、七色に輝き、あたかも清流が日差しを浴びて煌めくように反射した。それは三日月型をした、刃渡り二十センチほどの剣である。その一方の端にはエルフの紡いだ絹糸がつけられており、糸はケインの上着の袖口の中へと続いていた。

 ゲールが呻くように言った。

「水晶剣……、あんた西方のユンクの弟子なのか?」

 水晶製の剣、それは武器というにはあまりに華奢で、かつ清冽な美しさを備えている。ユンクは、その剣を使った剣術を開発した西方一の剣士であり、ケインの師であった。

 ケインは苦笑する。

「よく知っているな。物知り博士か、あんた?」

 ケインは水晶によって造られた、透明の三日月型の剣を、袖口にある鞘へ納めた。水晶剣は、隠密性の高い武器である。肉眼では捕らえにくい透明の剣を飛ばし、細くて丈夫なエルフの絹糸で操るという術を知る者は、少ない。

ゲールは、片手をあげる。まわりの男達は、剣を納めた。傷を負った者は、奥へ退がる。

「あんた達を、本物と認めよう。ケインとジーク。あんた達となら、ナイトフレイムの宮殿へ行くことができそうだ」

 ジークはケラケラ笑った。

「始めっからいってんじゃん。おれは地上最強だって。ま、いいよ。お宝の話しようか」

 そういうと、ジークはどっかりと腰をおろした。ゲールはその前に腰をおろし、改めてジークの左手を見る。

 まるで日差しの下の影が、実体と入れ替わったかのような左手を、ジークはテーブルに置いていた。ゲールが尋ねる。

「それにしても、どうやったら、そんな手ができるんだ?」

「この大陸の東南のほう、クメンとバグダッシュの間のあたりの密林地帯には、黒砂蟲というやつがいる」

 黒砂は鋼鉄以上の硬度を持つ、特殊な黒い金属の砂鉄である。その砂鉄の中には、黒砂蟲というスライム状のごく小さな虫が棲んでいた。その蚤よりも小さな虫は、柔らかい体表を外敵から守るため、黒砂を使って殻を造る。

 この黒砂蟲は、動物の体にへばりつき、その血肉を喰らう。そして、黒砂蟲は一匹々は小さな虫だが、集団になると擬態を行う習性をもつ。すなわち、動物の体の一部分を喰らうと、その喰った部分の擬態を行うわけである。

 例えば、足を喰らえば足を、手を喰えば手をといった具合に。そして、その擬態を行った器官を、黒砂の殻で覆う。ジークの左手のように。

 黒砂掌は、黒砂蟲の擬態を利用したわけである。あえて自らの血肉を黒砂蟲に食わせ、その腕を黒砂で固めるのだ。

 黒砂掌がガントレットを腕につけるのと違うのは、血肉を鉄に置き換えるのと同じことである為、余計な重さが腕に加わらないということである。また、腕の組成そのものを替えてしまうので、どんなに強力な打撃を行っても、拳を骨折することはありえない。

「自分の血肉を虫に喰わせる時、どんな気分だと思う?その痛みといったら気が狂いそうになるぜ。肉を食いちぎられる痛みで夜も眠れねぇ。そいつが、一か月以上続く」

 実際、黒砂掌を学ぶ途中で多くのものが、発狂し挫折する。

「恐ろしいものだな、ラハンの技とは」

 ジークとケインは苦笑した。黒砂掌はラハン流の防御の技である。ラハンの奥技は右手にあった。左手は右手を生かすための、補助である。

「そんなことよりだ、ゲールさん」

 ケインが言った。

「あんたナイトフレイム宮殿という廃虚に侵入する為に、腕のたつ人間を探していたらしいが、なぜ廃虚なんかに侵入するのに腕のたつ人間がいるんだ」

「ナイトフレイム宮殿は、厳密にいうと廃虚ではない。あそこは、魔族達に守られているという噂だ」

「魔族だと?」

 ケインが眉間に、しわをよせる。

「まさか。こんな北方の僻地に魔族なぞ」

「おれたち、魔族と戦うわけ?すげぇじゃん」

 半信半疑のケインに対して、ジークは楽しげに笑った。

「私も信じている訳ではない。しかし、相当に手ごわい連中が棲んでいるようだ何しろ、相当経験を積んだ戦士の冒険家ですら、生きて還ってはこなかった。あんた達なら相手が、魔族であってもな」

「お宝は山分けでいこうぜ、ゲールさんよ」

 ジークは相手が魔族であっても、本当に問題にしていないようだ。ゲールは陽気に笑ってみせた。

「いいだろう。我々で見つかった財宝を、それぞれ三分の一づつ分けるということで、手を打とう。前祝いだ。好きなだけ飲み喰いしてくれ。出発は明日の朝だ」

 ゲールが言い終わる前に、ジークはテーブルの上の食物に、食いついていた。

(本当に相手が魔族なら)ケインは魔族に関する、乏しい知識で考えた。(おれの命も、明日までということだな)ようするに、考えてもむだということだ。ケインは憂鬱げにため息をつく。ジークが、ニコニコしながら言った。

「これ旨いぜ、ケイン。喰ってみろよ」

 ケインはもう一度、ため息をついた。


 ジゼルの城の背後の山は、ノースブレイド山と呼ばれている。その山の西側の複雑に入り組んだ渓谷の一つを、ロキとフレヤは登っていた。

 渓谷を登りきった所に、平地が広がっていた。ロキはそこで、足を止める。そこには、天に向かって枝葉を伸ばす針葉樹の間に、巨大な石の柱が、聳えていた。 フレヤもロキの後ろに、足を止めた。蔦が絡まる石柱は、円環を作っている。地面の草も、石柱の形作った円に沿って、色が変わっているようだ。

「何かの廃虚か?」

 フレヤの問に、ロキは頷いた。

「昔、この山は魔族に支配されていた。人間は魔族に要求され、ここに生け贄を差し出したのだよ。いうなれば、太古の神殿の後さ。そして、魔族の住処の入り口でもある」

 フレヤは石柱の輪の中へ、入っていった。輪の中心は窪んでおり、岩地がむき出しになっている。

「魔族が支配しているのは、大陸の南西部のアルケミアと聞いている。こんな北の地に魔族の地があるとはな」

 フレヤの言葉に、ロキは少し笑みをみせた。

「記憶を失っている、おまえが知らないのは、無理もないか。かつて魔族はこの大陸すべてを支配していた。初代エリウス・アレクサンドラ・アルクスル大王が魔族の王と約定を結び、中原を人間が支配すると決まった時、魔族達は、ほうぼうへ散らばった」

 ロキは遠い目をして、言葉を続けた。

「魔族の大半は南西へ行き、アルケミアを建国した。一部の魔族は東や北へ向かった。北へ向かった魔族、クレプスキュール族はここ、ノースブレイド山の地下にナイトフレイム宮殿を築き、住処とした。今は外界との接触を絶ち、夢の中で暮らしているようだが」

 ロキは肩を竦め、フレヤを見る。

「昔とはいえ、たかが、三千年ほど前のことだよ。ナイトフレイム宮殿が築かれたのは。まぁ、そのころおまえはもう、記憶を封印し眠りについていたのだろうがな」

 フレヤは首を振る。

「思い出せないな、何も。それにしても脆弱な人間に、魔族が中原の支配を譲るとは、奇妙なことがあったものだ」

「いずれ思いださせてやるよ。今は、クレプスキュールの神官に会うのが先だ」 ロキは石柱の円環の中心へと、入り込む。そこでしゃがむと、地面のどこかを押した。

 地の底で、何かが動く。そして、円環の中心がゆっくりと、地面の中へ沈んでいった。その後に現れたのは、暗い地下への入り口である。

「行くぞ、フレヤ」

 漆黒のマントを靡かせ、ロキは闇に溶け込むように、地下へ下って行く。フレヤはその後に続き、純白の姿を闇へ沈めていった。


 地下へ向かう階段は螺旋状に捩れながら、下へ下へと続いている。まるで古代の王の墳墓の中のように、空気は淀み、退廃した闇がすべてを支配していた。

 目を覆われたような闇の中を、黒衣のロキは躊躇うこともなく、下ってゆく。あたかも巨大な獣の胎内奥深く、入り込んでゆくようだ。頭上に、大きな重量を感じる。

「深いな」フレヤの言葉に、ロキは軽く応えた。

「なに、もうすぐだ」

 フレヤは地下へ進につれ、空気の流れを感じ始めた。確かにロキの言うとおり、どこかへ出ることになるらしい。

 果てしなく続くかと思われた螺旋階段は、唐突に終着点を迎えた。最下部には、真っ直ぐなトンネルが開けている。どこからか微かな光が入りこんでおり、大聖堂の内部を思わせる、壮大なトンネルを見ることができた。

 フレヤの純白の姿は薄闇の中で、輝いているかのようだ。フレヤは、冥界に降りた大天使のような姿で、トンネルの中を歩む。地の底から霞が舞い上がるように、埃がたつ。闇にとけ込んだ黒い影のようなロキが、フレヤに声をかける。

「こっちだ。フレヤ」

 トンネルの床は微かに傾斜しており、上方へ向かっている。先に進むにつれ、傾斜はしだいに急になり、トンネルは狭まっていった。光はトンネルの先から、来るらしい。

 ロキはその光に向かって、狭まってゆく道を進んだ。やがてトンネルがフレヤの背丈ぐらいまで狭まった時、二人は群青の空の下へ出た。

 頭上には、気の遠くなるような深い青の空が、弧を描いている。天上世界のように、蒼ざめた清浄な光がそこから地上へと、降り注いでいた。青い空は地上に近づくにつれ、深みが薄らいでゆき、地上付近では南海の海の水のような、透明感のある青に変わっている。

「フレヤ、あれがナイトフレイム宮殿だ」

 冥界の案内者のような、ロキの、黒衣に包まれた左手の指し示す先は、この地底世界の中心部であった。その、群青の空の下の、大地の中心には黒い巨大な建造物が、聳えている。

 その建物は、地上のいかなる建物とも似ていない。その姿は、あたかも漆黒の火焔が天上に向かって、燃え盛っているかのようだ。

 まるで、自然の巨石のような曲線を多用した、黒曜石のように輝く壁は、複雑な幾重にも入り組んだ螺旋を描き、天へと伸びている。それはまさに、群青の空の下に、黒く輝く炎であった。

 白衣のフレヤの足元から、ナイトフレイム宮殿に向かい、一本の白い道が続いている。その両脇の地面は、広大な湿地帯のようであった。

「さて、行くか」

 ロキがフレヤに声をかけ、湿地帯の中央を走る道に、足を踏み出す。黒衣のロキに導かれる、純白のマントのフレヤの姿は、冥界を死神に導かれる死者のようにも見えた。

 湿地帯は、黒く淀んでいる。頭上に広がる群青の空の光は、地上の光と異なり、全てを幻想的に蒼ざめさせているた。湿地帯の表面も青白い光が散乱していたが、その奥は、濁った血のように黒く静かにゆらいでいる。

 突然、水面が割れ、巨大な盲目の蛇のようなものが、目の前を横切った。それは直径1メートルはありそうな胴体でアーチを描き、水面に波紋を造り、水底へと帰ってゆく。

 思わず剣に手をかけたフレヤを、ロキが止める。湿地は揺らぎ、波が白い道を濡らした。

「心配するな。我々に危害を加えるような、生き物ではない」

 フレヤは剣から手を離す。ロキが宥めるように、言った。

「かつて、善神ヌースと、邪神グーヌが地上の覇権を争い、幾億年もの長き戦いを繰り広げる前、ああした生き物達が地上を支配していた。原初の黄金の林檎の光が地上を満たしていた時代、そのころの生き物だよ。ヌースとグーヌの戦いには決着がつかず、どちらも地上から手を退くこととなり、地上は魔族の支配下に置かれた。そして魔族が地下へ下った時、原初の生き物もそれに従ったということだ」

 フレヤは改めて、湿地帯を見渡してみる。そこは、始めは静まり返った世界に思えたが、よく見ると様々な物が蠢いていた。

 時折、球体の胴に、細く長い両性類の手足をつけた小さな生き物が、地表の様子を窺い、水底へ帰ってゆく。広がる湿地帯は、大きな生き物が泳いでいるらしく、一瞬小島のような背中を水面に見せたかと思うと、波紋だけを残し姿を消す。

「なるほど」

 フレヤは、どこか物憂げに呟いた。

「ここは、魔族たちの郷愁に基づいて造られた世界なのか」

 ロキは、皮肉な笑みをみせる。

「そうさ。原初の混沌とした時代。いかなる神も共存をゆるされた時代。それを懐かしんで造られた世界だよ」

 フレヤは微笑んで、言った。

「魔族が人間に、中原を譲った理由が判る気がするな」

 ロキは頷く。

「もうすぐ、その魔族と会える。先へ行こう、地上に残った最後の巨人よ」

 宮殿付近の湿地帯には、白銀の枝葉を持った植物が生えている。それらの植物は、ゼリー状の透明の皮膜に、覆われていた。

 その水辺に浮いたあぶくのような植物の間を、白い道は通っている。その白い道は、黒い巨石のような宮殿の門に遮られていた。

 ロキがその巨大な門を押す。音もなく、その巨大な門は左右に開いた。門の向こうには、黒い通路が口を開けている。ロキは冥界へ続く洞窟のような通路へ、足を踏みいれた。フレヤがその後に続く。

「これは珍しい。この宮殿に訪れる者がいるとは」

 通路の奥から声がし、白い影が現れた。その影は、白衣を身につけた、魔族の男である。

 魔族の男は夜の闇のような漆黒の肌に、輝く夜明けの太陽を思わす黄金色の髪と瞳を持っていた。その微かにつり上がった目はアーモンド型であり、耳は先が尖っている。

 闇の中で輝く黄金の髪と瞳を別にすれば、その姿はダークエルフ(ドロウ族)と大差はない。ただその長身の体は、ドロウ族の痩せた体と対照的に逞しく、真夜中に昇った太陽のごとく輝く黄金色の瞳は、ドロウ族にはない強烈な生命力を感じさせる。

 何よりその身に纏ついた邪悪さは、ドロウ族とは比較にならなかった。美しく微笑んだ口元には、残忍さを漂わせ、涼しげな目の奥には、殺戮への欲望が潜んでいる。

 人間であれば恐怖で身が竦んだであろうが、ロキは平然と近づく。魔族の男に声をかけた。

「ヴァーハイムのロキだ。祭司長クラウス殿に会いに来た」

「おお、そなたが王国の守護者にして、黄金の林檎の番人と呼ばれるロキ殿か。私はエリス、クラウス様は今、眠りに就いて居られる。私が、その間の代理人としてこの宮殿を預かっている。ところで、後ろにおられるのは、まさか…」

 フレヤは闇を貫くように青く輝く瞳で、魔族の男エリスを見つめた。

「私はフレヤ。ロキと共に、黄金の林檎の探索を行うこととなった者だ」

「これはフレヤ殿、お久しゅうございます」

 フレヤは怪訝そうにエリスを見る。ロキが説明した。

「フレヤは目覚めたものの、記憶の封印が解けていない」

「そうですか。閉ざされた記憶が、甦ったわけでは無かったのですね」

 エリスは手を広げ、言った。

「とにかく、中へお入り下さい。そこで用件をお聞きしましょう」

 エリスはそういうと、通路の奥へ向かって歩みだす。ロキとフレヤが後に続いた。


 宮殿の内部はビロードのように滑らかな黒い布で壁が覆われており、血のように紅いカーペットが床に敷き詰められている。所々に淡い光を放つ照明が、付けられていた。

 曲がりくねった回廊を抜け、エリスは部屋にフレヤ達を招き入れる。その部屋は漆黒の材木で造られた、テーブルとソファが置かれていた。

 壁にハタペストリが掛けられている。左の壁には、金色に輝く朝日の昇る夜明けの風景を描いたタペストリが、右の壁には真紅の残照が空を焦がし大地が紅くそまる夕暮れの風景を描いたタペストリが。

 そして正面の壁には暗い紺碧の大空に、宝石のような星々が煌めく夜の風景が描かれている。大地には漆黒の炎のようなナイトフレイム宮殿が、描かれていた。

 エリスは、ソファに腰を降ろす。暗い紺碧の夜空のタペストリの前で、黄金色に瞳を輝かせながら、エリスは言った。

「さて、我が主、クラウス様に用とは何でしょうか」

 エリスの前に腰を降ろした、ロキが質問する。フレヤは立ったままだ。

「かつて、暗黒王ガルンが、アルクスル大王国との約定を破り中原を制覇した時、この宮殿にも訪れたはずだが」

「ええ、ほんの四百年ほど前のことですか。よく憶えていますとも」

「その時、黄金の林檎を携えていたと聞いている」

「その通りです。ガルン殿がクラウス様に会いにこられた時、宮殿じゅうが金色の光につつまれたように思いましたよ。それは、目映いばかりに強力なエネルギーでした」

「ガルンは、黄金の林檎をそのまま持ち帰ったのだな、その時」

「ええ」

「その後、エリウスⅢ世と魔導師ラフレールがガルンを倒した後、ガルンの持っていたはずの黄金の林檎はなぜか失われた。伝え聞くところでは、ラフレールがここに持ち込み、クラウス殿に預けたことになっている」

 エリスは首を傾げた。

「ラフレールは確かにここへ来ました。しかし、黄金の林檎を持っていたとは」

「判らないか」

「クラウス様に聞くしか無いでしょう」

「クラウス殿は、いつ目覚める?」

「もうすぐ。最近、地上からの干渉が多くて、この地の底に潜んでいる神、ゴラースが蠢いています。クラウス殿に、鎮めていただかねば」

 エリスはどこか、狡猾そうな笑みを浮かべている。エリスは、フレヤに視線を投げかけた。

「ところで、フレヤ殿は封印をクラウス様に解いていただくために、ここへ来られたのですか?」

 フレヤは怪訝な顔をする。

「どういう意味だ?」

 エリスの替わりに、ロキが応えた。

「三千年前、お前の記憶を封印し、永久氷土のなかにお前を埋めたのがクラウス殿だ」

 フレヤは不思議なものを見るように、ロキを見た。

「数年前、隕石がライゴールに墜ち、氷土が溶けた。そしてお前が目覚めた訳だが、クラウスの封印は解けていない」

「なぜ封印なぞ?」

「お前が望んだことだ、フレヤ。お前がそう決め、クラウス殿に頼んだ」

 ロキはフレヤを見つめる。

「どうする、フレヤ。クラウスに頼み、封印を解くか?」

 フレヤはもの思いに耽る顔になった。群青の夜空を描いたタペストリの前で、純白のマントに身を包んだフレヤは、サファイアのような瞳を宙にさまよわす。

「判らない。どうすべきか、私には判らない」


「私が十四歳の時のことだ」

 ジゼルが言った。そこは、ジゼルの城のテラスである。眼下には、ゴーラの街を見おろすことができた。

 黒衣の男装姿のジゼルの前には、煤色のマントを身に付け、微かな笑みを瞳に浮かべた、ブラックソウルが腰掛けている。そして、その背後に、ひっそりと影が佇むように、ドルーズとクリスが立っていた。

「私の父を裏切って殺した叔父、テリウスを殺したのは。私は、復讐を遂げた時、叔父の返り血を全身に浴びながら、思ったものだよ。今後、自分の人生の中で、これ以上の快感を得ることは、あるまいと」

 ブラックソウルは喉の奥で、静かに笑い言った。

「復讐は、かくも甘やかなるものか」

 ジゼルは、我が意を得たというように頷き、微笑む。

「仇の心臓を、我が剣で刺し貫いた時、私の頭の中で銀色に輝く炎が燃え上がった。

私の視界は白く霞み、手足は血を失い、頭の中がとても熱かった。心臓は、荒野を駆ける狼のように速く打ち、世界が我が足もとにひれ伏したように感じたものだよ」

 ブラックソウルの目の奥には、確かな理解がある。ジゼルはそれを感じたのか、穏やかな笑みをみせた。

「以来、何度も戦ったが、戦闘を行っている僅かな間だけ、あの時の快感を思い出すことが、できる。私は、その追憶の中にだけ生きる女だ」

 ブラックソウルは何も言わなかったが、その表情は黙っているだけで、自分の心の中の思いを打ち明けずにはいられなくなるような、そんな笑みが浮かべられていた。

「北方の蛮族の伝説の天上世界ヴァルハラでは、戦闘が永遠に続くという。たとえその肉体を引き裂かれ、細切れにされようとも、夜明けと共に新しい肉体とともに甦り、戦闘を続けられるという。私が欲しいのは、それだよ。ブラックソウル殿」

 ブラックソウルは楽しげに、言った。

「ヴァルハラを地上に実現する為に、邪神ゴラースを目覚めさせると言われるのか」

 ジゼルは哄笑した。その笑いは、猛々しく、瞳は凶暴な光に満ちている。

「どうする。オーラの間者殿。本国へ報告するか」

 緊張した空気が流れる。ブラックソウルの答によっては、この場で血が流されるはずであった。しかし、ブラックソウルは楽しげな表情で、言った。

「この件に、私は全責任を負わされている。オーラに報告する必要などありません。好きになされるがいい。しかし、ゴラースを目覚めさせれるとは、思いませんな」

 ジゼルは苛立たしげに、ブラックソウルを、そしてドルーズを見た。ドルーズの美しい黒い瞳には、なんの表情も浮かべられていない。ブラックソウルは続けた。

「まず、ナイトフレイム宮殿の最深部へ赴き、手で封印を破壊せねば無理でしょう。あなたの魔導師はラフレール以来の天才らしいが、魔力だけでは、できないこともあります」

ジゼルは黙ってしまった。ブラックソウルはジゼルがやはり、ナイトフレイム宮殿へ潜入することを考えていると、確信を得る。

「私の望みを言いましょう、ジゼル殿。私はナイトフレイムへ行きたい。それを認めていただけるのなら、あなたの魔導師殿をナイトフレイムの最深部まで、お連れしますよ」

 ジゼルは、不機嫌そうに、ブラックソウルを見る。

「何が望みだ、ブラックソウル殿」

「私は」

 ブラックソウルは夢みるように、言った。

「伝説を確かめたいだけですよ。黄金の林檎がナイトフレイム宮殿にあるという伝説をね」

 ジゼルは、苦笑した。それはそのまま、高笑いへと変わって行く。

「アルクスル大王国の王家は、そなた達の国オーラの擁するクリスタル家と、西のトラウスの擁するアレクサンドラ家に分裂していると聞く。黄金の林檎は、王家の象徴。それを持つものが、正当な王家を自称できる。そなたの望みは、それか?」

 ブラックソウルは面倒くさそうに、口を歪める。

「黄金の林檎がこの城の地下、ナイトフレイム宮殿にあるか、そこからですよ、ジゼル殿。あった後のことは、見つけてから、考えます」

 ジゼルの瞳は、ブラックソウルを刺し貫くように、見つめている。ジゼルはふと、目を逸らす。

「いいだろう。この地下へ、堕落した魔族どもの巣窟へ行くのを許可してやる。我が魔導師、ドルーズとクリスを連れてであればな」

 ジゼルは、残忍な笑みをみせた。

「黄金の林檎は必ず持ち帰れよ。私も是非、伝説の大王国の象徴を見てみたい」

 ブラックソウルは嘲るような目の光を、穏やかな微笑みで隠して言った。

「努力しましょう」


「この先だな、ナイトフレイム宮殿は」

 革の防具に身を固めた、ゲールが呟く。そこは、ノースブレイド山の地下通路であった。丁度、ジゼルの城と反対側の北面に、その地下通路の入り口がある。

「やれやれ、ようやくかよ」

 ジークがぼやいた。その完全な暗闇の地下通路は、ゴブリンやオークの彷徨く剣呑な場所である。そこを、ゲールにジークとケイン、それにジークの配下の剣士二人が加わって、ここまでやってきた。

 ゲールの配下の剣士は、中々の腕前である。呪法の心得もあるらしく、彼らの革の鎧は善神ヌースの加護を受けており、邪悪な闇の生き物を遠ざける力を持っていた。迷路のような地下通路の中で、たまたま出会った闇の生き物達も、ほとんど彼らの手で、葬られている。

 ゲールの持つ古文書の地図を頼りに、ここまで来た彼らだが、相当奥深い地下に来ていることは、確かであった。地下深い所には、闇の生き物すらおらず、まるで墳墓の地下へ入り込んでしまったようだ。

 松明を翳し、先頭をすすむゲールの前に、真っ直ぐ下へ向かう階段があった。

「ここを、下りきったところに宮殿の入り口がある」

 ゲールとジークは、ほっとため息をついた。どんなところであろうと、この地下通路よりはまし、といった気分になっている。ほとんど変化のない単調な闇は、ジークとケインの神経を滅入らせていた。二人のゲールの部下は、終始無表情である為、なにを考えているかよく判らない。元々、東洋系の人種である彼らの表情は、読みにくかったが。

 ゲールは明白に、緊張しているようだ。この先に、宝物が眠っているというよりも、未知の世界に踏み込むことに、精神を高ぶらせているらしい。

 うんざりするほど、長い階段を下りきった所に、その魔像があった。壁にレリーフで描かれており、獣頭人身で翼を持ったその姿は、邪神ゴラースのようだ。

「これが、入り口だ」

 ゲールは緊張で、掠れた声で言った。そのゴラースの頭部に手を触れ、押す。奥深い所で何かが響き、ゆっくりと扉が開いた。

「こいつは、…」

 ケインは感心して呟く。そこは、大きな礼拝堂のようだ。巨大な柱が並び、見た事もない、奇形の神々の像が並んでいる。どこからか、微かな照明が入っており、薄い光があたりを照らしていた。

 すべては、黒い大理石のような素材で造られており、あたかも闇が実体をもったような建造物である。ジーク達は、ゆっくり歩き始めた。天井はとても高く、ドーム状になっている。松明を消すと、ジーク達は、正面の扉へ向かった。

「何者だ」

 突然、柱の影から白い僧衣をつけた者が二人、姿を現す。ゲールが呻く。

「魔族が、やはり…」

 その二人は、紛れもなく魔族であった。その言葉には、どこか古風な訛がある。

 輝くばかりの金髪の下の顔からすると、女性のようであった。漆黒の肌の、その魔族の女たちは、地上のどのような貴族の子女も及ばないような、気高い美貌の持ち主である。

 その美しい金色の瞳は、蔑みをあらわにゲール達へ向けられていた。十メートルほどの距離を置いて、立ち止まる。

「家畜か」

「こんな所へ迷い込むとな」

 二人は、錫杖を手にしている。それを構えた。ゲールの配下の剣士達が、片刃の剣を抜く。

 ケインは、奇妙な波動を感じた。それは、魔族の女達から発せられる精神波らしい。まるで、精神の奥底の暗闇を、のぞき込まれるようだ。

 しだいに、ケインの不安が増大していく。それは、魔族の発する瘴気のような、精神波によるものらしい。胃の底に鈍痛が産まれ、全身に疲労感が広まってゆく。

 あたかも、空気そのものが液体のような重みを持ち、体を覆っているようだ。

 隣のジークも同じらしく、体を動かし調子をつかもうとしている。剣を抜いた二人は、さらに大きなプレッシャーを感じているらしく、剣の切っ先が震えていた。

 地下通路で闇の者達を相手にした時には、無かったことだ。

 魔族の女達は、大輪の黒薔薇のごとき美貌に笑みを浮かべ、侮蔑をはらんだ声で言った。

「おいで、哀れな生け贄たち」

「久しぶりに、生きのいい生命を味あわせておくれ」

 魔族の放つ精神波が極限に高まり、どす黒い恐怖が、嵐の夜の暗雲のように、ケインの心を覆った。ジークが呻くのが聞こえる。

 二人の剣士は、悲鳴のような雄叫びを迸らせ、切りかかっていった。魔族の女達は、舞うように動き、手にした錫杖で剣をあっさりへし折る。

 剣士達は、抵抗する術もなく、魔族の女に捕らえられた。二人とも膝まづき、その喉もとに手を掛けられる。

 ぞっとするような違和感に、ケインの体は総毛立った。まるで自分の目の前が、異質の空間となってしまったかのようだ。

 魔族の女達は、その歪んだガラスの中のような、異様な空間の中で、二人の剣士を抱いている。二人の男の肌が急速に、死人の肌の色へ変わっていくのが判った。

 剣士たちが床へ投げ出された時には、その肌は完全に土気色となっていた。その顔はミイラのように、窶れている。

 魔族の女達は、毒をはらんだ黒い花のように、艶やかに笑った。その笑みは、死んだ剣士達の生命を吸い取った為か、生き生きと美しく輝いている。

 女達が近づく。ケインは脳裏に水晶の輝きを思い浮かべ、精神の統一をはかる。

 恐怖を追いやり、手足に力を取り戻さねばならない。

 頭の中を、清浄な光が貫く。意識のスペクトルが変化し始める。闇のような恐怖を、和らげるのにケインは成功した。手足に再び生きた血が通い始め、動けるようになる。隣のジークも、ステップを踏んでいた。精神統一により、魔族の瘴気をはねのけたらしい。

「ようやく、おれ達にふさわしい相手が、出てきたじゃねぇか」

 ジークが、楽しげにいった。ケインはそれが強がりだけではないと感じ、苦笑する。

(脳天気にもほどがあるぜ)

 しかし、その脳天気さは、多少心強くもあった。ジークは左手の包帯を、外す。

 漆黒の闇に包まれた左腕が、姿を現す。

 ジークはいつもの左半身を前に出し、黒い左手を振り子のように揺らすスタイルで、魔族の女と向かい合った。滑るようにスムーズなフットワークで、間合いをつめる。白衣の女は、金色に輝く瞳で、ジークを見つめた。その瞳の奥で、邪悪な精神波が、揺らめいている。

 目に見えぬ波動が、津波のようにジークを襲う。見ているケインのほうが、吐き気と目眩を感じた。当のジークはつぶらな瞳に、笑みを浮かべたままだ。

「黒いお肌がセクーシーだぜ、ベイビ」

 ジークの膚は蒼ざめ、肉体は衰弱しはじめているようだが、減らず口はそのままただった。魔族は、暗い笑みをみせる。

「家畜は生きのいいほうが、旨い」

 ケインは横に動き、もう一人の魔族の女を牽制する。背後でゲールが背中の荷物から、火砲を出す気配を感じた。ただ、準備には多少手間取る。

(こういうのは、苦手だな)

 ケインはもう一人の魔族と向かい合いながら、心の中で呟く。ケインの技は、暗殺の技である。普通であれば、ジークが正面に立ち、後方からバックアップするのが、ケインの役割であった。ただ、この女達は、ジーク一人では荷がかちすぎる。

 ケインは、間合いを測りながら、魔族の女に近づく。

(一撃できめるしかない)

 ケインの技は不可視であるがゆえに、有効である。見切られれば、それまでであった。正面から向かい合えば、一撃目をかわせば見切られてしまう。

 3メートル、そこが確実に決められる距離であった。ただ、近づくにつれ、邪悪な精神波動は強力になってゆく。どこまで耐えれるか、疑問であった。

(いずれにせよ、やるしかない)


 一方、ジークのほうは、軽くステップを踏みながら魔族の前に立っている。まだ、自分の間合いに入り込む、タイミングが掴めていない。

 魔族の女が持つのは、杖である。剣であれば、動きはおのずから限られていた。

斬るか、突くしか無い。

 しかし、杖であれば、足を払うことができる。槍のように、突くこともできる。

メイスのような打撃系の武器のように、叩くこともできる。

 しかも、杖であれば、両端で攻撃ができる。一方の攻撃をかわしても、もう一端の攻撃を受けることになる。

 ジークとしては、間合いに入りにくい。魔族の女としては、待つ構えのようだ。

 ネズミをなぶる、ネコのような気持ちなのだろう。

(えい、いっちまえ)

 待てば、体力の衰弱してゆくジークが不利だ。ジークは杖の間合いに飛び込む。

 杖がジークの頭部めがけて、左側から襲う。

 ジークは素早く踏み込み、鞭のようにしなる黒い拳を、放った。杖がへし折れる。

 ジークは、自分の間合いに飛び込んだ。

(いける!)

 ジークは、黒い疾風のような手刀を、魔族の女の胸へ突き立てた。確かな手ごたえがあり、指の根元もで胸の中央へ食い込む。

 魔族の女は、慈母のような笑みをみせた。

「素敵だわ、お前は。魂の底まで貪ってあげる」

 ジークの全身を真冬のような悪寒がはしり、左手をひこうとした。しかし、その左腕は、魔族の女に捕まれている。

 ジークは獣のように、咆哮した。右足が跳ね上がり、魔族の女の側頭を襲う。巨大な棍棒のように、ジークの右足は魔族の女の頭を薙いだ。

 女は倒れ、ジークは一回転し、距離をとる。左腕が痺れていた。全身が吹雪の中に晒されたように、冷えきっている。

(氷でできてるのかよ、この姉ぇちゃん)

 ジークは再び距離を取り、フットワークを使う。魔族の女は当然のように、立ち上がる。人間の女であれば、さっきの蹴りで頭蓋骨を砕かれたはずだ。

 白い僧衣の胸元は、真紅の血で染められている。魔族の女は僧衣を裂き、黒い肢体を露にした。美の化身のごとき、裸体である。撓んだ黒い果実のような乳房、金色に輝く下腹の繁み、野生の獣のごとき、生気と緊張感の張りつめた両足の筋肉、それらがジークの目の前に晒された。

 胸に刻まれた、赤い亀裂は、ジークの目の前で癒えて行く。瞬きする間に、その傷は消え去った。魔族の女は、僧衣で血を拭う。血を拭った後には、一点の傷もない、完璧な肉体があった。

(さすがに手ごわい)

 ジークは呼吸を整え、さらに奥深いところにある力を、呼び覚まそうとしていた。

 ここまでくれば、ラハン流格闘術の、奥義を使うしかない。つまり、ジークは、右手を使う決心をした。

(本気になるしか、ないな)


 ケインは、間合いを測る。魔族の女はゆっくり近づいて来た。ケインは心の中でイメージを描く。自分の間合いに想像の糸を張り、その糸を右腕につなげる。魔族の女が糸に触れた時、ケインの右手が動くように。

 魔族の女が、想像の糸に触れた。ケインの意識を越えたところで、肉体が動き、不可視の水晶剣が空気を裂く。

(とった)

 ケインは確かに、魔族の女の体を縦に斬った。しかし、女は突然ケインの目の前に出現する。

「うぁああ」

 ケインは絶叫し、後ろへ跳んだ。ケインの斬ったのは、残像である。本当の魔族の女は、想像もつかない速度で透明の剣をかわし、間合いを詰めて来た。

 ケインはエルフの絹糸を操り、二撃目、三撃目を繰り出す。杖が旋風のように宙を舞い、透明の剣を跳ね飛ばした。

 杖が足を払いにくる。ケインは後ろへ跳び、再び間合いをとった。魔族の女も足を止める。その金色の髪が、赤く染まっていた。袖で、額に垂れてきた血を拭う。

 ケインの一撃目は、完全にかわされたわけでは、無かったらしい。

(しかし、もうだめだな)

 ケインの攻撃は、見切られた。次に間合いに入ってきた時は、かわされる。

(奥の手を使うか)

 ケインは、左手を、ケインの本当の利き腕である、左手を動かす。今度かわされれば、後がなかった。魔族の女の頭の傷は、もう塞がったようだ。そして、女は一歩踏み出す。


 魔族の女は、漆黒の美神のような裸体で、ジークへ一歩近づく。ジークは再び踏み込んだ。黒い閃光と化した、手刀が飛ぶ。今度は、体にふれる前に、魔族の女が左手を掴む。

「貴様、」

 女は呻いた。ジークの左手は、剣のような形に形状を変化させていた。

 手のひらは、細長くなり、その先端は魔族の女の左胸を貫いている。

 ジークの左腕は、黒砂蟲が擬態をとっているにすぎない。その形態がどのようなものになるかは、ジークの意志しだいである。ジークは自らの意志で、黒砂蟲を操ることができた。虫達は、ジークの腕を流れる微弱な神経電流を感じとり、形態を変化させる。そして、その技を利用し、今魔族の女の心臓を貫いたのだ。

 心臓を貫かれた女は、魔族とはいえさすがに動きを止める。ジークは女にさらに近づき、その腹へ拳をあてた。

 ジークが、無言の気合いを放つ。拳は10センチたらずの距離から、魔族の女の腹へあたった。その瞬間、真紅の爆発がおこった。

 魔族の女が、苦痛の呻き声をあげる。腹部には、子供が通り抜けられるだけの穴が開いていた。白い臓物がとぐろを巻き、地面に垂れる。足元には、赤い肉と血でできた、水たまりがあった。

 体の血肉の、三分の一を失い、心臓を貫かれた女は、その場に崩れ墜ちる。ジークは、後ろに下がった。左手はもとにもどり、人間の手の形状をしている。

 ジークの額は、汗で光っていた。後ろからゲールが、声をかける。

「なんだ、今のは」

「意身術だ」

 ラハン流格闘術の奥義は、意をもって身を御し、意をもって無敵とすと言われた。

すなわち、不随意筋も含めたすべての筋肉を意志の力でコントロールし、身体の持つ全ての力をある一点に集中するのである。

 ジークは100キロを越える、自分の身体の全ての力を右腕にのせた。魔族の女の体は、その衝撃にたえられなかったのだ。

 その右腕による、一撃必殺の技を極意とするラハン流格闘術も弱点がある。極度の精神集中を必要とする意身術は、攻撃の前に一瞬の空白を産む。その瞬間、相手の攻撃を防ぐ為、左腕を鍛えあげるのだ。

 ジークは膝をついた。全ての力を出し切った、代償である。


 ケインは、左手を振った。今度は、魔族の女も動きを完全に見切っている。しかし、誤算があった。今度の剣はさっきより速い。

 魔族の女は、身体の移動だけでかわしきれず、杖で三日月型の剣をはじこうとした。しかし、その剣は杖ごと魔族の女の体を斬る。

 魔族の女の額から胸元、そして下腹に向かい、紅い線が走った。斬られながらも、女は前へでる。ケインの両腕が交差した。

 右手に操られる剣が腹を裂き、左手に操られる剣が足を薙いだ。女の膝から上の体が、滑るように前へ出る。切断された足を後ろに残し、女の体が地に落ちた。そして、上半身から、十文字に血が迸り出る。

 ケインは後ろに跳んで、血を避けた。足を失った女は、腹を抑える。抑えた脇から臓物が、はみ出していく。女は自らの血だまりの中へ、沈んでいった。

 ケインの左手に持たれている剣は、形状は右手で操っているものと同一であるが、色が違う。その剣は夜の海の色のように、暗かった。それは通常の水晶の倍の硬度を持つといわれる、闇水晶で造られている。

 その太陽の沈んだ後の、赤く黒い残照に焼かれる空のような色を持つ剣は、透明な水晶剣よりもさらに薄く、さらに鋭い。その闇水晶の剣は鉄の鎧すら、切断することができた。ただ、それを操るには、肉体の限界を越えたスピードが必要である。

 ケインがその師である、ユンクに学んだ無意識の想念を通じ、身体を操る術によってはじめて闇水晶の剣を操ることが、可能となる。ケインの右腕は、激しく痛みを訴えていた。ユンクの技は、肉体が持つ耐性を越えた速度を要求する。度々繰り返せば、ケインの右腕は筋肉が切れ、一生使いものにならなくなってしまう。それだけの、負荷を要求する技なのだ。

 ケインは両手の剣を袖内に納めると、ジークへ声を掛けた。

「そっちも片づいたか?」

「ああ、楽勝よ」

 ジークは荒い息をしながら、言った。

「おい」

 ゲールが怯びえた声をだす。

「やつら、大したダメージうけてないんじゃないか?」

「冗談だろ…」

 そういったジークは、信じられないものを見た。腹を吹き飛ばされた魔族の女の体は、急速に修復されつつある。腹にあいた穴の中へ、再び臓物は戻ってゆき、穴の回りの筋肉はそれ自体が独立した生き物のように蠢き、穴を塞ごうとしていた。

 もう一人の魔族の女も、切断された足を傷口にあて、再び繋ごうとしている。そしてなにより、魔族達の目は、明白に力を失っていない。憎悪に燃え、金色の炎のように輝いている。

 そして二人の魔族は再び立ち上がった。血塗れの傷口は塞がりきっていないが、もとに戻るのは時間の問題と思われる。

 ケインは、目の前が暗くなるのを感じた。これで復活されては、打つ手がない。

「くそっ」

 ゲールは、30ミリ口径の火砲を、肩付けする。6連の輪胴型弾倉が、付けられていた。ゲールは引き金を引く。

 轟音が二回響き、榴散弾が発射された。二発とも、まだ十分に動くことのできない魔族の顔面に、命中する。

 魔族の頭部が破裂し、真っ赤な飛沫がとぶ。再び魔族は、血の中へ倒れた。幾度か体が痙攣する。

「やったか?」

 ケインが期待を込めて呟いた言葉を裏切るように、顔を失った女達は再び立ち上がろうと、動きだす。

「こりゃあ、残る手は一つしかないな」

 ジークが呟き、ケインが問いかける。

「なんだよ、そりゃ」

「とりあえず、ここから逃げよう」

「もっともだ」

 ケイン達は、部屋の奥へ走り、扉を開くと、回廊へ飛び出した。真紅のカーペットの敷き詰められた廊下を、走り抜ける。

 幾度か、角を曲がるうちに、方向感覚が無くなってきた。ケイン達は、十字路で立ち止まる。

 通路の天井は、とても高い。所々に、光輝く照明がある。それは、人間の女性の頭部を、模して造られていた。夢見るように瞑目した女性の頭の彫像が、目映い光を放っている。

 ジークがその一つに、近づく。熱はあまり感じられないが、光はけっこう強い。

「光石だよ、それは」

 ゲールが声をかける。

「一種の鉱物生命体だね。半永久的に輝き続ける、古代の生き物だ。おれも見るのは初めてだが」

「そんなことより、」

 ケインが言った。

「どちらへ行くんだ、おれたち?このナイトフレイムの地図は、持ってないのか」

 ゲールは、肩を竦める。

「財宝は、下層部にあるとしか聞いてない。下りの階段を探そう」

「できれば、」

 ケインはうんざりした顔で言った。

「魔族は、さっきの連中だけであってほしいな」

「気配が感じられないところをみると、そう沢山いるわけでもあるまい」

 ゲールはどちらかといえば、期待するように言った。

「まあ、要領は判ったじゃん」

 ジークが気楽に言う。

「戦闘力を奪って、2・3発打ち込む。そして、ずらかる。簡単さ」

 ケインは、ため息をついた。ジークの言う通り、今度あったら、さっきと同じことをするしかない。

「行くか」

 ケインが声をかけ、3人は歩きだす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る