『裏腹』

矢口晃

第1話 『裏腹』

 たぶん、私は疲れていた。残業続きの毎日で、毎日の疲労の蓄積がピークにたっする金曜の深夜。自宅マンションに着くなり崩れるようにしてソファの上に腰を下したまま、私はしばらく、何もかんがえないまま真っ暗な部屋のなかのどこかを眺めていた。

 しんどかった。くたくただった。通勤用の鞄を下しても、両肩にはまるで何十キロもの重りが載ったように重かった。スーツを脱ぐのも億劫だった。できればこのまま、何十時間も、途方もない眠りの中に吸い込まれてしまいたかった。

 その時、たぶん私はいつも以上に疲れていた。思考回路も半分停止した状態だった。だから何気なく机の上に置いた携帯を手にした時、まるで何かに誘われるようにあんな奴にダイヤルしてしまったんだ。

 呼び出し音が鳴っている間、私はすでに後悔を始めていた。どうしてあんな奴に電話なんか掛けてしまったのだと自分の行いを悔やんでいた。

 でも、かけてしまってからではもう遅かった。たとえ今すぐに電話を切っても、相手の携帯には私の番号が残る。こんな深夜に私から電話をかけてしまったことが、あいつの携帯に記録として残る。

 観念した。相手が出るのを、仕方なく待った。

「何? どうした? こんな時間に」

 あっけらかんとしたあいつの声が、受話口を通して聞こえて来た。私は今更何をしゃべったらいいのか、戸惑った。

「ううん。何でもないの、別に。……何してたかなあって思って」

「そう。別に何もしてないよ。テレビ見ながらビール飲んでた」

 そういう奴の受話器越しには、テレビから流れるスポーツニュースが、控え目な音量で聞こえていた。

 彼とは三年間付き合っていた。結婚まで約束していた。

 けれどもほんの些細なことが原因で、二人の感情が微妙にすれ違い始めた。

 何が原因だったのか、それさえも今では思い出せないような、そんなちっぽけな原因で。

 最初はいつもと同じ喧嘩だろうと、私も彼もたかをくくっていた。どうせ二、三日もすれば元通りの仲に戻るだろうと軽く見ていた。

 けれどもなぜか、その時だけは違った。簡単に戻るだろうと思っていた糸のほつれは、なかなか元に戻らなかった。それどころかだんだん裂け目が大きく割れて、修復不能になってしまった。

 結婚を意識するようになってから、確かに私の彼に対する見方は変わった。ただいて安らげればいい、ただいて楽しければいいという、今までのようなただの恋人関係では安心できなかった。それまでは気づいてもそれほど気にしなかったちょっとした目の動き、さりげない手のしぐさ、言葉遣い、癖……そんな細々としたものまでもが急に私の目にとまりだしてきて、それらのいくつかが私の神経を逆なでするようになった。

「ちょっと、それやめてよ」

 つい感情を露わに、そんな冷たい言葉を投げかけてしまうこともあった。

「いいじゃないか、これぐらい」

 彼はしばらくはそう反発するだけだった。しかし次第に、時がたつにつれ、

「お前だって、そうするじゃないか」

 というようなことを言うようになった。

 ただ反発されているだけのうちは、まだよかった。それはよくある喧嘩で収めることができた。でも、私に釣られるようにして彼まで私への不満を口にするようになると、もうお互いの溝は深まるばかりだった。

「ごめんね」

「うん。いいよ。こっちこそ悪かったな」

 恋人時代なら、そんな簡単なやりとりでどうにでも修復できた二人の関係は、日を追うごとにぎくしゃくとしたものに変わっていってしまった。以前なら気にも留めなかったはずの軽い冗談さえ冗談に聞こえず、しばしば二人の喧嘩の火種となった。

 恋人に求めるものと、結婚相手に求めるものとは、こんなにまで違ったのだ。私の本能が求める、恋人に持っていてもらいたいものと、結婚相手に持っていてもらいたいものとは、こんなにもかけ離れていたのだ。多少の不満や理想との相違はあったとしても、好きで付き合った人となら、結婚してもこの先何年でも添い続けられるだろうというかつての私の考え方の甘さに、私は自分ながら失望した。

「もういいわ。別れましょう」

 そう切り出したのは、たぶん私の方からだったと思う。彼も別段それに不服を示さなかった。私のわがまま放題振りに、彼も愛想を尽かしていたのだろう。

 そして、私と彼は、半年前に分かれた。お互い新しい道へ歩み出す決心をした。

 別れて清々した、というのはたぶん私の強がりだっただろう。一人ぼっちのマンションに帰ってくることが、最初の内はたまらなくさびしかった。せめてもの慰めにとネコでも飼おうと思ったが、マンションの管理人に相談したところ、

「うちはペット禁止なのでだめです」

 との答えだった。

 自分で選んだ道だ。自ら招いた苦境だ。私は一人で耐える決心をした。でもどうしても悲しさに耐えられそうになくなったとき、タイミングよく彼からメールや電話が入ったりした。

「何してるかな、と思って」

 深夜、電話機越しに聞こえる彼の声に、私は思わず泣きそうになった。

「ごめんね。もう絶対あなたを傷つけるようなこと言わない。だから帰ってきて」

 もしそう口にすることができたのならば、私はどれだけ救われたかもしれない。

 でも、だめだった。私の心はねじれていた。今さら彼に心の素顔を見せることができなかった。強がりの上に、強がりを上塗りした。

 彼が気にしてくれている。別れた後でも、ちゃんと私のことを気にかけてくれている。その安心が、私を多少強気にさせたのかもしれない。それくらい、私は彼に依存していたのだ。

 彼なしでは、生きられない自分になっていたのだ。

 本当は人一倍弱いくせに、彼といるから強い自分を演じることができた。本当は人一倍寂しがり屋のくせに、彼になら安心してつっぱねることもできた。

 そんな私のわがままを全部受け止めてくれていたのは、彼だったのだ。

 それなのに。それなのに。

 どうしようもなくもどかしい時間がどれくらいか過ぎると、次第に彼からの連絡も少なくなった。私は毎日ベッドの中で携帯を握りしめ、彼からの連絡を夜遅くまで待っていた。マナーモードにしてある携帯がバイブすると、私ははっとして、夢中で携帯を開いた。ただの友達からのメールだったりすると、返信する気にもなれなかった。

 失って得るものは大きい。失ってから気付くものは、それ以上に大きい。彼にもう一度迎えに来てほしいと思いながら、素直になれない自分を、私は絞め殺してやりたいとさえ思った。

 少しお酒を飲んで上機嫌になっていたらしく、彼はまるで昔の彼と変わらないような気やすさで私に声をかけてきた。

「初めてだな、あれ以来。お前から電話してくるなんて」

「そう? そうだったかしら」

 本当のことを言われてしまって、私は狼狽を悟られないように必死だった。

「元気でやってるか?」

「うん。こっちは、まあ……」

 嫌いになったはずの人の声が、妙に私に生気を与えるのをうすうす感じた。

「また、残業で疲れてるんじゃないのか?」

「……うん。……ううん」

 強がり。意地っ張り。

 弱さ。脆さ。

 全部自分だ。泣きたくなる。

「今帰ったのか? もう一時過ぎだぞ」

「……まあ、週末だから」

 泣きたい。泣きたい。

 泣けない。なぜ?

 彼の笑顔がすぐそこに見える。彼の囁くような声が、心に痛いほど響いてくる。

「俺、お前に振られた後でも、色々と努力してるぞ」

「……」

 例えば? 聞けばいいのに。聞きたいんでしょう?

 彼は黙った私に話を続ける。

「お前が嫌がっていた甘口のカレーだって、俺我慢して食うようになったんだぞ。ははははは」

 彼の屈託のない笑い声が私の胸を熱くする。

 逢いたい。今すぐにでも彼のもとに行きたい。

「お前が嫌がっていたトイレの便座だって、俺毎回使った後に下ろしておくようにしてるんだぞ。便座が上がっていたらすぐに使えないからいや、トイレから出る時におろしてよ、ってお前が言うもんだから」

 彼は昔の優しい彼に戻っていた。私のどんなわがままも受け止めてくれる彼に戻っていた。

「なんであんなことでお前が火の玉みたいに怒っていたのか、正直まだ理解できないけどさ」

 彼がビールを口に含み、それが喉を下りていく音がリアルに聞こえた。

「なにもあんなにまでカンカン怒らなくたっていいんじゃないのって、今も思うけどさ」

 テレビの音は、すでになかった。私は彼の声に、神経を集中して耳を傾けていた。

 彼が昔のように私に話しかけてくれることが、この上ない救いだった。携帯を、私は両手で握りしめた。

「でも、お前が嫌だって言うなら、俺なるべく直そうと思ってるよ。俺ができる限りのことならね。だからさ――」

 彼がぐいっとビールをあおった。私は彼の言葉の続きを待った。

 ビールを飲み終えた彼の声が、再び受話口に帰って来た。彼の発する次の言葉を、私は固唾を飲みながら緊張して待った。

「だから、お前も少しは痩せたら?」

 その後、彼の高らかな笑い声がしばらく聞こえた。

「ひっ、ひっ」

 笑いをこらえるように彼は喉を鳴らしながら、

「だってさ、お前、俺と最初に会った頃より、ふた回りも大きくなっちゃっただろう?」

 そしてまた、高らかな笑い。

 私が何も反応しないことに気を留めたのか、彼が続けて言い足した。

「まあ、冗談、冗談」

「ばかじゃない」

 ぼそりと吐き出す私の言葉に、彼は

「えっ」

 と聞き返したなり言葉を留めた。

 一瞬にして感情を抑えられなくなってしまった私は、酔っ払った彼に敵意をむき出しにしながら言葉を浴びせた。

「相変わらず無駄な努力続けてるのね。馬鹿じゃない。余計なお世話よ」

「おい」

 態度の急変した私の言葉を、慌てて彼が遮ろうとした。

 しかし、暴走する私の感情は、すでに私にもどうすることも出来なかった。

 私は言った。泣きながら言った。声だけでは相手に悟られないように、目から涙を流しながらも、強い口調で最後まで言った。

「なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないわけ? 口から腐敗臭のする人からそんなこと言われたくないわよ。今日なんで私が電話したかなんて、どうせあんたにはわからないでしょう」

「……なんだよ?」

 酔いが醒めすっかり素に戻った彼が、落ち着いた声で私に聞いた。

 私の中で、破綻している私がいた。私は暴れ回る猛獣で、かつその猛獣に手を焼いて拱いている猛獣使いだった。

 私は暴走した。どこへ行ってしまうのか、自分でもwからなかった。

 ただ、感情だけが突っ走った。口を通じて、言葉になった。

「ふん。馬鹿。考えればわかるでしょう? あんたなんか一生結婚相手見つかんないでしょうね。早く実家に帰ってお母さんに撫で撫でしてもらったら?」

 一気に言い終わると、私はパタリと携帯を閉じた。

 無音の部屋が、そこにあった。

 どろどろになった感情が、私の中で渦を巻いていた。

 なんで、電話なんかしてしまったのだろう。

 私は信じられないほどの絶望と後悔のどん底で我も忘れて泣き声を上げながら、彼からの折り返しの電話をひたすらに祈った。

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『裏腹』 矢口晃 @yaguti

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