ふるふるはとうげのしらべ ―上森昴と私と殺人者―
榎木ユウ
彼と私と車の神様
第1話 彼氏と友達と私
──夏の早朝、午前五時。
小岩井 万菜美は絶望していた。
絶望なんて言葉を生まれて早二十年、まさかこんな若い身空で使うことになろうとは……と、ぼんやり思ってしまう余裕はあったが、それでも絶望していた。
いや、切望に近いかもしれない。
誰か嘘だと言ってくれ。
切にそう願いながらも、彼女は目前の光景をもう一度確認する。
「あ、いや、これは違うんだ、万菜美!」
旅館の布団の中、その焦った声の何と白々しい事か。
「うー……、田上君?」
布団の中から伸びてくる白い手の、何と厭らしい事か。
これは何の悲劇、否、喜劇だ。
自分の彼氏と、自分の友人(女)と三人で旅行に行こう――なんて提案を、彼氏とラブラブ花畑の頭で承諾したのが間違いだった。
友人が酔うととんでもなくだらしない女だということも、今までの彼女の体験談から、分かっていた筈だったのだ。
だけど、自分の彼氏と友人を根底から信頼していた万菜美は、そこに起こり得る危機をすっかり見過ごしていた。見過ごすというより、思いもしなかった。
昨晩一緒に寝ていたはずの彼氏が、隣にいなかった。
風呂に行ったのかとも思ったが、こんな早朝から行くような質ではない。
探しがてら友人の部屋に行けば、不用心なことに鍵が開いており、中に入ってみればこの体たらく。
傍から見れば喜劇。
しかし、当事者からしてみれば、悲劇以外の何でもない。
布団の中でおそらく全裸であろう友人と、自分の恋人。その理由を考えるのも厭わしい。
万菜美は冷えていく身体を感じながら、蔑ずむように二人を見下ろすと、絶対零度の声で呟いた。
「死ね!」
そしてそのままの勢いで、友人の部屋を飛び出し、自分の部屋に戻ると急いで服を着替えて、旅館を飛び出した。
チェックアウトの代金なんてあの二人に払わせればいい。
どうしようもなく頭の中は混乱していたし、あの瞬間に感じた痛みと憤りと悔しさは、言葉で表せようもなく、ただ、旅館からひたすら道を降りていく。
彼氏の借りたレンタカーになど、もう乗りたくもない。
この山間の温泉街から、ふもとの駅まで帰る手段と言えば徒歩でしかなかったが、それでも構わないと思えた。
(もう二度と顔も見たくない!)
大好きだった彼と、大好きだった友達は、この瞬間にこの世で最も大嫌いな人間になった。
そして、その勢いのまま飛び出したこの出来事が、万菜美の運命を思いもかけない方へと転がしていく。
まだ早朝の道を、一人、憤りながら歩く彼女の横を、白い軽自動車が通過する。
しかし、通過したと思ったら、そのトラックは赤いブレーキランプを光らせて止まった。
万菜美がイライラしつつも、その横を通り過ぎようとしたとき、
「乗ってく?」と声が掛かった。
軽自動車の中には一人の若い男が運転していた。軽自動車に乗るにはずいぶん狭苦しそうな、がっしりとした体格の男は、万菜美を面白そうに見ている。
「こんな早い時間に宿の方から来たってことは駅に行くんだろう? 俺、駅まで車だから、乗せていくよ?」
がっしりとした体格には似合わない、平安顔めいたあっさりした容貌の男は、その貌に見合ったのほほんとした口調で万菜美にそう声をかけた。年の頃は、万菜美より五歳ほど上の二十代半ばに見える。
普段の万菜美なら、あまりの怪しさに無視を決め込むだろうが、今回はそんなことはしなかった。しなくていい要因があったからだ。
(うわ、可愛い……)
思わず息を飲みたくなるほど可愛らしい顔立ちの男の子が、後部座席に座ってこちらを見ていたのだ。七歳位だろうか。小学生になったかならないか位の年齢の男の子は、白いシャツを着て、ちょこんとそこに座っていた。
万菜美と目があうと、にこり、と可愛らしい笑みを浮かべて、その可愛らしさに、万菜美は自分の中にあった憤りやら怒りやらが、綺麗に霧散するのを感じる。
「おじさん、怪しい人じゃないから乗ってきな」
運転席の男は自らをそう称してそう言うと、首からぶら下げた写真付きの社員証を見せてくる。そこには、見慣れない社名と、上森 昴という名前が書かれていた。上森というのが男の名字らしかった。
「家が温泉街なんだけど、職場はふもとの駅から電車でいかないと駄目なところでね、いつも早朝出勤なんだわ。だからたまに旅館の人に頼まれて、早朝出のお客さんを乗せていったりもする」
砕けた話し方に嘘くささはない。察するに後ろの少年も、何かのお稽古事などで朝早くにふもとの町に降りるのだろう。
案外、若くは見えたが上森の息子なのかもしれない。
「それじゃ……、お言葉に甘えます」
子供が乗っている安心感から、万菜美はすんなりとその車に乗せてもらうことにした。
「いいよいいよ、遠慮なく乗って」
助手席を促されて乗り込む。万菜美は中の二人を見ながら、
「少しの間、よろしくお願いします」
と頭を下げた。
上森はニコニコとしながら、
「こっちこそ、若い女の子を乗せられて、役得だから」
と言って、車を再び発進させた。
「女の子、一人旅?」
差し障りのない会話のつもりだったのだろう。上森がそう問いかけてきたので、万菜美は苦笑しつつ、
「いえ、友人と来てたんですけど、喧嘩しちゃって……」
と言葉を濁す。
まさか子供の前で、友人が彼氏と寝てたなんて言えるほど、万菜美も浅慮ではない。
上森は、おそらく何かを察したのだろう。まあ、万菜美に起こった出来事を全て察したというわけではなく、単純に彼氏と喧嘩して出てきたとしか思っていないのは、上森の笑い方で分かる。
「若いなぁ」
と懐かしそうに呟かれたので、万菜美は上森に尋ねる。
「上森さんはお幾つなんですか?」
「ん、俺、三十歳」
(十歳も違うのか!)
それなら後部座席に男の子がいてもおかしくないかもしれない。
男の子はミラーで確認すると、何がそんなに嬉しいのか、ニコニコとしながらこちらを静かに見ている。
万菜美は鏡越しにその子に微笑みながら、上森と会話を続ける。
「若く見えますよ。二十五歳位に見えました」
「え、本当? それは嬉しいかも!」
がっしりとした体格が威圧感を醸さないのは、上森のその砕けた口調と、平安面に近い顔立ちのせいだろう。第一印象はアンバランスだと思ったが、こうして狭い車の中で話していると、とてもバランスのとれた人間に見えてくるから不思議だ。
(それに、なんだか凄く気分が落ち着く……)
芳香剤の類は見当たらないのだが、車内に満ちている清々しい森の匂いが、万菜美の気分をとても落ち着かせる。
浮気されたことは散々だったが、元々何となく予感はしていたのだ。彼氏は誠実そうに見えたが、主に自分の方の要因で。
ふう、と吐いてしまったため息に、運転席の男は
「戻ろうか?」
と聞いてきた。
意味が分からず、小首を傾げて彼の方を見れば、男はこちらを見ずに答えてくれる。
「友達って彼氏なんでしょう? 喧嘩しちゃってムキになって出てきちゃったとかじゃなくて?」
「う……正解です」
「ははは。じゃあ、とりあえず謝っちゃえば相手も機嫌直してくれるよ」
男女間の可愛らしい口喧嘩だと思ったのだろう。空回りする男の助言がいっそ痛い。
万菜美は唇を噛みしめながら、言葉を漏らす。
「朝起きたら彼氏が隣で寝てなくて、探しに行ったら私の女友達の部屋で寝てました。それでも私、謝る必要ありますか?」
大人げないとは分かっていたが、どうにも我慢出来なくてそう言ってしまった。
後ろに子供がいるのに──というのに。
「私、男運、悪いんですよ」
思わず漏らしてしまったのは何故だったのか。
どうせこれっきりだと思ってしまったからなのか、それともこの車の中の雰囲気がそうさせるのか。
上森は「そうなの?」と意外そうに聞き返してくる。
「初めて付き合ったのは大学入る直前で、バイト先のコンビニに来てくれるサラリーマンの人。声かけられて、浮かれちゃって付き合ったら、実は奥さんがいて──」
「うわ、初っ端からヘビーだね」
(やだ、なんで私、こんなこと話してるんだか……)
別に自分の男遍歴など言うつもりはなかったのに、まるで誰かに促されるかのように口から言葉が出てしまう。
流石に、後部座席に子供がいるのに……と思ったのだが、ミラーで見た後部席の男の子はニコニコしながら、何も言わずにそこにいる。上森も止めたりしないのだから、あいまいに話せば、ぼかせるだろう。そう判断して、万菜美は続きを話す。
「それから二十歳になる今まで、六人付き合ったんですが、皆、浮気性だったり、ギャンブル依存だったり、DVだったりして、悉く三か月も経たずに別れちゃって。今回は誠実な人だと思ったら……一緒に旅館に来た友達と……」
(やば……、思い出したら情けなくて涙でてきた……)
布団の中で仲良く裸で寝ていただろう彼氏と友人を思い出し、先ほどまでは怒りが胸を占めていたのに、今はただ、ただ、裏切られた悲しさが胸にじわじわと滲んでくる。思わずうつむいて、精一杯こらえつつも鼻をすすると、ポンポン、と頭を軽く叩かれた。
運転しながら、片手で上森が万菜美の頭を撫でてくれたのだ。
いきなりこんな話をしたにも関わらず、上森の返す言葉は優しい。
「まだ若いんだから、そんなこともあるよ」
と、何でもないことのように言われてしまって、あまりの軽さに思わず苦笑いを万菜美は浮かべてしまう。
他人事だと思って。
そう感じたが、今はそのあっさり感が有難い。
万菜美にとってはヘビーな出来事ばかりだったが、他人からしてみればどうでもいいようなことに思える。そのことが、少しだけ気持ちを軽くさせる。
そんな些細なことにいつまでも拘っていても仕方がない、そう思わせてくれるような気がして。
まあ、浮気現場を目撃して直ぐにそんな気持ちまで持ち上げられるわけはなかったが。
「それに、たまたま今回までがそうなのであって、次に知り合う男性は凄い素敵な人かもしれないじゃん? そうしたら、今まで知り合った輩は、その人に会うための準備だったって思えばいいんだよ」
「準備、ですか?」
「そ。しんどい体験も、つらいことも、その人に会うための準備。最愛の人と一緒に生きてくっていうのは、きっと今、君が誰かと過ごしていくよりも大変なことがあるかもしれない。その時、最愛の人を救えない人間になるんじゃなくて、最愛の人を支えられる人間になるための準備だって思えば、気が楽じゃない?」
(あいつらが準備……)
脳裏に付き合ってきた恋人たちを思い返すが、直ぐに万菜美は顔をしかめる。
「それじゃ、こんな体験ばっかりしてる私の最愛の人って、本当に禄でもない男ってことになりそうなんですけど……」
これから付き合う相手が、浮気性でギャンブル狂いで、暴力男だったら本気で救われない。
ガクリとうなだれると、「違う違う」と上森が否定する。
「例えば君の最愛の人が、君と付き合う前に、彼女の浮気で傷を負っていたりしたら、君はその傷みを共感できるんじゃない? そんな些細なことでいいんだよ。相手を分かってあげられたり、癒してあげられたりするのって、結局、自分が強くないと出来ないと、もう三十路のおじさんは思うわけだ。だから、まだ二十歳の君は、これからもっといろんな経験を積んで、最愛の人を、大切に出来る人間になれたら、それは素敵なことだと思わない?」
(最愛の人を、大切に出来る人間……)
上森の言葉は目から鱗だった。
もし、この散々な男運のお蔭で、これから出会う最愛の人がどんな傷を負っていても癒してあげられたら、それはちょっとどころじゃなく素敵なことのように思えた。
自分ばかりが傷ついているのではなくて、これから出会う誰かも傷ついているかもしれない。そう考えられる上森を、万菜美はこの短時間ではあったが、凄い人だと思った。
「……なんか、凄く、胸にきました……」
そう、呟くと、上森は恥ずかしそうに「ははは」と声をあげて笑ってごまかした。
「いつも説教臭いって仲間内にはいわれるんだよね。どうもこの車に乗ってるとさ、皆、なんでか知らないけど自分のこと話してくるんだよね。だから、つい、そういうの聞いてたらアドバイスじゃないけど、なんか声かけてあげたくなっちゃうんだよなぁ」
「あぁ、なんだかそれ分かります。私もこんなこと、話すつもりなかったんですよ。後ろにお子──……」
さんがいるのに、と続けようとした瞬間、ガタン、と突然車が弾んだ。
「?」
ガタン、ガタン、と運転席側前方のタイヤが歪んでいる感覚に、上森が「うわぁ……」と言いながら、車を比較的広い道路脇の路側帯に寄せた。
上森が運転席から降りたので、万菜美も降りてタイヤを確認すると、見事にタイヤがパンクしていた。
「うわ。最悪」
上森がガクリと肩を項垂れる。それから万菜美を見て、
「ここからなら歩いていった方が、俺がスペアタイヤつけるより早いかも」
と言った。万菜美は時計を確認する。ちょうど時計は五時半を指していた。確かに歩いていけば始発には間に合うだろうが、焦って帰る必要もない。万菜美は上森に笑いかけながら、「手伝いますよ」と返した。
「いいアドバイスいただけましたから、アドバイス料にサポートさせてください。大したこと、できないかもしけないけど」
「いや、俺も恥ずかしいことにスペアタイヤなんてつけるの初めてだから、結構時間かかるよ?」
「いいですよ。それより上森さんこそ仕事大丈夫なんですか?」
万菜美がそう問いかければ、上森は「あー」と呻いてから、
「今日、掃除当番なんだよなぁ……」
と小さくぼやいた。
「いつもはもう三十分、遅いんだよ。月一の掃除当番だから早く家でたっつうのに……」
「きっと、いいことありますよ」
「そうかぁ?」
「そうですよ!」
二人して顔を見合わせて、思わず、笑いあってしまう。
少しの間、一緒の車に乗っていただけなのに、何となく出来た気安い雰囲気に、自然と笑顔が零れた。それは上森も同じだったのだろう。
「じゃ、手伝って貰おうかな」
「はい!」
元気よく万菜美は返事をし、二人でスペアタイヤの交換を、軽自動車の説明書を見ながら必死にやった。どこにスペアタイヤが隠れているのかと思えば、きちんと格納される場所があることを初めて知って、二人で驚いたりしながら交換した。
結局、駅についたのは六時を少し回ったところだった。始発は既に出発してしまった時間で、次の電車までは三十分以上、待つようだった。
上森は月極であろう駅前の駐車場に車を停めた。
「どうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ、楽しかったよ」
「君もありがとうね」
万菜美は後部座席に向かってそう話しかける。
車中でずっとニコニコして、一言も発さなかった男の子は、その時、初めて万菜美に声をかける。
「気に入った。助けてやる」
「え……?」
透き通るような、子供には相応しくない声だった。凛とした鈴の音のような硬質な声に戸惑ったが、万菜美よりも上森のほうが戸惑った風に声を上げる。
「えっと……、誰に話しかけてんの?」
「え?」
僅かに引きつった顔の上森を見て、それから後部座席を再び見た万菜美は唖然とした顔で、後部座席を凝視した。
そこには誰もいなかった。先ほどまでいた筈の白い着物の男の子は、跡形もなくいなくなっていた。狭い軽自動車、当然あの一瞬に隠れるところなどない。
今度こそ、万菜美は彼氏の浮気現場でも上げなかった小さな悲鳴をあげた。
本日一回目の悲鳴は小さなものではあったが、まさか今日という日が、とんでもない一日になろうとは、この時の万菜美は思いもしなかった。
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