第11話 魔人③
「なんとかするから」
何ものも恐れていないかのような表情で彼は言った。
意識が覚醒したのはほんの数分前だった。彼とクリストファーが腕と腹を斬り、少しばかりの会話を交わしていたのを、私は腕の錠前をツルで解きながら見ていた。
走り出したかった。けど、気持ちが前に前に出過ぎて、カギを外すというとても単純な作業にも手間取る始末だった。
こんなに気持ちが急いたのは久しぶりだった。
声が出なくなってから、自分の気持ちが相手に伝わらないことが多くなった。その当時は、大した障害ではないだろうと思っていたけれど、声というものに含まれる情報量を私は侮っていた。
伝わらない。何も伝わらない。私の考えていることを他人は一縷も汲み取れない。気持ちはどんどんとすれ違い、距離は離れ、心は離れ――
一向に声を取り戻す目途も立たず、だんだんと思っていることや考えていることを表現しなくなった。やがて、考えること自体が面倒になって、すべてのことが億劫になって。
ならいっそやめてしまおうと、ある時に決めた。
すると、いつしか――自分が何を考えているのかがわからなくなっていた。
でも、仕事柄それでもいいと思った。
クリーパーが現れても、エクセリアが現れても、慌てたり、怖がったりする必要はないと割り切れるのは都合がよかった。どんな危機的な状況にも動じない、いつも冷静沈着に任務を遂行する悠月さんのような女性になろうとした。
だけど、彼と出会ってから自分の気持ちがより一層わからなくなった。
慌てるでもない。怖がるでもない。怒りでもない。喜びでもない。悲しいでもない。
何故か――冷静ではいられない。
一体、私はどうしてしまったのだろう。
彼がお遣い任務中の車内でアイリスにからかわれていた時、彼が和葉とデートをしたと聞いた時、それ以外の彼と彼女たちに関することのすべてで、私は冷静でいられなかった。
そして、彼が手話を見せてくれた時も私は……。
自分の中で順調に回っていたはずの歯車が、知らないうちに少しずつ噛み合わなくなっていって、しまいには外れて……あの時私は、そう、久しぶりに――心が躍るのを感じた。
彼の拘束布に細工を施した時だって、今思えば冷静な判断とは言えなかったように思う。結果的に、間違いではなかったのかもしれないけれど。
彼が介入する時は、いつも私は冷静ではいられない。
彼のことになると、いつも私は冷静ではいられない。
だから――彼が腕を失い、床に倒れた時、私は彼が敵対組織のメンバーであるという認識が頭の片隅に浮かんでいたにもかかわらず、走り出し、声にならぬ声を上げ、大粒の涙を流した。
灰崎ソラは死ぬ。
その結末がどうしても受け入れられず、自分の身さえ危ういこの状況でも、なりふり構わず泣きじゃくってしまった。
――なのに、あなたと来たら……。
「……?」
彼のあまりに場にそぐわない発言に理解が遅れた。今にも死にそうな状態なのに、彼はそんなことはまるで気にも掛けていないかのように私の頬を撫でた。撫でたと呼ぶにはあまりに弱々しい、動きで彼の手は触れていた。
無論、その手はすぐに止まり、頬から肩を流れ、胸をほんのわずかにかすめながら自身の腹へと落下した。目を閉じ、呼吸も止まり、けれど斬り落とされた腕からは血が溢れる。
灰崎ソラは死ぬ。
それは揺るぎない事実だった。
「――――ッ!!」
止まった。私の与えた種子は、それぞれの生命反応を教えてくれる。その種子から明確な停止信号が放たれている。彼の死を告げている。
「もしかして……ソラ、死んだの? ねえ……なずな、ねえってば!」
「……」
和葉が私の肩を掴み揺さぶる。私は彼の死を言葉にすることもできず、その死体をずるずると地面に落とした。その私の行動に和葉は目を見開き、ぐっと歯を食いしばった。
その瞬間、耳元で鐘を打つような轟音が鳴り響いた。
「二人とも、ソラさんの死を無駄にしないでください」
アイリスの展開した楯が、体当たりしてきたクリーパーを跳ね返していた。私と和葉は揃って、気丈に振る舞うアイリスを見つめた。愛を失ったエクセリアは、ソラの死にまるで興味を示すこともなく、続けざまに襲い来るクリーパーを弾き飛ばした。
でも、私は感じ取っていた。私の中の種子は、敏感に反応していた。アイリス自身も、決して平静ではないということを。
「わかってるわよ、そんなこと……わかってるに決まってんでしょうがッ!」
和葉が牙を剥いて敵を見据え、両腕だけを素早く変異させると、隙間なく体毛の生えた野生の腕を振り上げた。背中の傷はまだ塞がっておらず、変異の瞬間わずかに血が噴き出した。
二人が着々と臨戦態勢を整える中、私は依然として立ち上がることさえできなかった。ずっと地面に膝を突いたまま、彼の死体に目を落としていた。その時、
「――ッ?」
不意に首筋に信号が流れる。それはとても近い場所から送られたもので、少なくとも悠月さんや竜胆さんからでないのは判断できた。でも、アイリスの送ったものでもなく、和葉の送ったものでもない。群れを成して襲い掛かってくるクリーパーの相手をすることに精いっぱいで、私に信号を送る余裕なんてないはずだから。
――じゃあ、誰が……。
「……? ……?」
信号は断続的に、かつ徐々に間隔を短くさせながら送られてくる。それは電流のような痺れを伴い、最初は私だけに届いていたものが、しまいにはアイリスや和葉にまで届けられ始めた。
「な、なに? この音……」
和葉が立ち止まり、額を隠す。流れてくる電流とともにノイズ音が混ざり、嫌悪感を誘発する。
「なずな……これは……ッ!」
アイリスは首筋を手で覆い、意識をも奪われかねない強烈な圧力にその場に屈み込んだ。
信号はとめどなく膨張し、痛みや不快な音となって私たちを呑み込む。留まることを知らない電流が暴風のように全身を駆け巡り、
しかし――信号は唐突に止まった。
一転して静寂の訪れた倉庫の中で、今度は周囲を囲っていたクリーパーが声を上げる。さっきまで私たちを本能のまま襲っていた獣たちは、そのすべてが月に向かって一心不乱に鳴き始めた。まるで何かを呼んでいるかのように、獣たちは不細工な合唱を繰り返す。
その不可解な現象に気を取られていた私は、自分の手元で起こるより大きな異変にすぐには気付けなかった。
「……?」
私の腕に染み付いていた血液がまるで魂を宿すように蠢き、列をなして、私の手からこぼれていた。それは帰巣本能を持つ生物のように、また地面の上に溜まっていた血液までもが同様に、こぞってある一点を目指し収束していた。
それは――灰崎ソラの死体を目指して動き出していた。
彼の身体に回帰しようとする血液の群れは、身体を覆い隠すように分厚い膜を創り出す。そうして彼の死体全体を包み込んだかと思うと、真っ赤だったはずの血液は一瞬にして黒く濁った。この現象が何を意味するか、私はどこかで見聞きし、知っていた。そのはずなのに、目の前で起きるこれがその現象と一致するものだとは、咄嗟に思いつかなかった。だから反応が遅れた。
「なずな! 危ない!」「離れてください!」
横から入った和葉に抱き締められ、後ろから叫んだアイリスが楯を使い、視界は強制的に遮られた。
楯の向こうで鳴る水風船が弾ける柔らかい音と同時に、土砂降りの雨音が強く楯を打った。それらの音は長く続くことはなく、数秒もしないうちにすぐに止んだ。私は和葉の細い腕の中から顔を出し、先にある楯が自動扉のように左右に分かれる光景をただ一心に見つめ続けた。やがて、開かれたその先にいたのは……、
「な、なに……こいつ……」
「……クリーパー……なので、しょうか……」
「……」
私たちの目と鼻の先に、真っ黒に変色した大男が厚い壁のごとく立ちはだかっていた。
身長は軽く二メートルを超えている。黒い肌に見えたものは、深海の淵を思わせる闇が全身を薄く覆っているためで、湯気が立つように表面にゆらゆらたち込めている。
顔も同様に真っ黒く、深紅に染まった両目だけが、矢じりのように煌々と輝いていた。背中からは大蛇のような太い触手が六本生え、それぞれが生きているかのように不規則に波を打っている。
どこかクリーパーと酷似しているけれど、アイリスのようにすぐに結論付けられないほどに、その存在は異様過ぎた。
私たちがクリーパーと呼称するのは、四足で這い回り、尖った牙と鋭い爪を持つ獣型。しかし、目の前にいるこれは二本足で立ち、凶器らしい凶器も持たず、触手を除けばまるで人間のような出で立ちをしている。それはさながらエコーが呼称していたヒトガタと呼ぶにふさわしい形状だった。
「……」
ヒトガタはその場に立ち尽くしたまま、私たち三人と群がるクリーパーたちを順繰りに見回し、おもむろに天井を見上げた。そして――
「――ッ!!」
雷鳴のようにこだまする咆哮に私は耳を押さえた。ぞっと全身の毛が粟立ち、肌がびりびりと痺れるように振動する。皮膚から噴き出した汗が、その場で根こそぎ蒸発していく。
倉庫の鉄筋が軋む音を立て、コンクリートで固められた地面が捲れ上がる。
その咆哮に心の奥底から恐怖が滲み出した。
鳴き終えたヒトガタはゆっくりと前傾姿勢を取り、背後に控える六本の触手を広げた。途端に触手の先端が尖り、ドリルのように捩じれ上がる。その触手の動きは私の能力――禁断の果実を真似たようにも見えた。
ヒトガタからじっくりと漂い始めた敵意。そのすべては周囲のクリーパーたちに向けられる。黒曜石を思わせる牙を剥き出しにし、タイミングを計るように身体を揺すっている。
その明らかな戦闘意思にクリーパー側も黙ってはいなかった。
先手を取ったのは、ヒトガタの近くにいた五体のクリーパーだった。彼らは四方から一斉に、まったく同じタイミングでヒトガタへと跳び掛かった。その俊敏な動きは目で追うだけでも困難で、私はまばたきのうちに、五体を見失った。
しかし――それを迎え撃つヒトガタの動きは、それらを遥かに凌駕していた。
その後の出来事は、とても現実とは思えない凄惨なものだった。
ヒトガタは跳び掛かった五体に弾丸のごとく触手を伸ばし、それぞれを串刺しにすると、残った一本を水中を泳ぐ魚のようになびかせ、首をまとめて斬り飛ばした。
その一瞬のことに、残りのクリーパーたちも反応し、頭上と地上の二手から一気にヒトガタへと集中する。
対して、ヒトガタは背に生えていた触手を身体から分離し、それぞれを歪んだ球形に変化させた。けれどそれも束の間、球体は正方形の分厚い板状に変化し、襲い来るクリーパーを、数分前のアイリスよろしく弾き返した。
続けざま接近した一体を、岩石のように巨大化した拳で殴り、頭蓋骨を粉砕する。
その隙を突き、背後から忍び寄ったクリーパーが右腕に噛み付く。しかし、ヒトガタは半分以上も食い込んだ牙など気にする素振りも見せず、首根っこを鷲掴みにし引き剥がすと、別個体に投げつけ、重なったところを触手で一度に突き通した。
バラバラと闇は崩れ、ヒトガタの触手からは大量の液体が滴った。
あまりに一方的な殺戮に、私は目を背けた。肩を抱き、震える身体を必死になだめる。
同じクリーパー同士のはずなのに、まるで別次元の生き物が争っているように見える。それはためらいの一切ない、元が人間だったとは思えないほどの残虐さに満ち溢れ、さして力のない私はただ狩られるのを待つだけのちっぽけな存在に過ぎない。
絶対的な存在を前に、本能が脅えきってしまっている。
「アイリス! なずな! こっち!」
その殺戮の中、いち早く隠れ場所を見つけた和葉が物陰から手を振った。それに気付いたアイリスは、膝を突いたまま動けなくなっていた私の肩を抱き、持ち上げるように物陰へと導く。
「……もう、半分もいません」
アイリスの言うとおり、動かなくなったクリーパーは霧となって消滅し、その数は見る見るうちに減少していった。やがて、明らかなレベルの違いにクリーパーたちも攻撃することをやめ、互いを見回しながらじりじりと後退する。
けれど、ヒトガタは戦意を喪失した彼らにも容赦することなく触手を振り上げた。
暴威を振るい、力の限り暴れ回り、なお殺戮は止まることを知らない。獣から噴き出した黒い血液を身体中に浴びながらも、一心不乱に暴れる。
やがて、最後の一体を狩り終えたヒトガタは、まるで闘いの終わりを告げるかのように割れんばかりの咆哮を上げる。
だけど――それはまだ始まりに過ぎなかった。
なにもヒトガタが私たちに襲い掛かってきたという話ではない。かといって逃亡し、他の人間を襲い始めたという話でもない。
ヒトガタは――自らの触手で、自らの肉体を攻撃し始めたのだ。
背後から伸びた触手は弧を描いて何度も何度も自らの腹を抉り、貫く。その度、黒い血液が噴き出し、皮膚が剥がれ散る。両手は頭を掴み、まるで苦悶するかのように振り乱す。
そして、上がる咆哮。泣き叫ぶがごとく倉庫一面に声を響かせ、止まることなく身体を傷つけ続ける。
「ねえ……あれって……あれってソラなの?」
青ざめた和葉が、半信半疑で問い掛ける。私は判断も付かず、首を横に振った。
「おそらくあれは……」
その最中、表情を硬くするアイリスが口を開いた。
「ソラさんの……二つ目の能力」
「二つ目? ど、どういうことよ、それ!」
「当初わたくしたちは、ソラさんは旅客機墜落の際、《記憶》を奪われ、エクセリアになったと思っていました。ですが、共鳴事件を機にそれが間違いであったことがわかりました。能力は《笑うこと》を代償に得たもので、《記憶》は単に事故の後遺症として失われたもの。エクセリアとは関係ないとされた。ですが、やはりソラさんはあの墜落事故で《記憶》を奪われていたのではないでしょうか」
『――それは説明になっていない』
「つまり、彼は二度死んでいるのです。一度目の死で《笑うこと》を奪われた。しかし、二度目の死の間際、おそらく旅客機内でそれを取り返し、そして二度目の死を迎えた」
自分の考えを順を追って整理しながら、彼女は言葉を並べる。
「《記憶》を奪われた代わりに得たものがあの力です。それを裏付けるように墜落後の彼の身体には全快現象が発生していました。室長やソラさん自身もこの考えに否定的でしたが、今ここに至ってわたくしは自説が正しいという確信を得ました」
「《笑顔》を奪われてコピーする力を手に入れて、《記憶》を奪われて手に入れたのが、あれ?」
『――ありえない』
そんなことありえるはずがない。一度死ぬだけでもおかしなことなのに、まして二度死ぬなんて。しかもその結果手に入れた力が、あんな化け物だなんて。
あまりに暴力的で、あまりに残虐で、あまりに残忍で。
――あれがソラなわけがない。
「ありえないなんて、誰が言い切れるのですか。わたくしたちの存在そのものがありえないことだらけなのに、二度死ぬことがありえないと、どうして言い切れますか?」
「……」「……それは」
そのアイリスの言葉に私も和葉も声を失った。その瞬間――
『――……ダ、ズ……ル』
通信が入る。この場の誰でもないその濁りきった信号は、はっきりとした意識を持って送られてきた。
『――タ……ズケ、ル』
「……ッ!?」
通信に混ざって、毒々しい感情が流れ込んでくる。複数の混ざり合った感情がせめぎ合い、争い、濁流となって私を襲う。
だけど、流れ込む感情の中に、わずかな温かさを感じる。
『――マ、モ……マモ、ル』
それは昔どこかで感じたことのある温かさだったのだけれど、その昔がいつのことだったのか、すぐに思い出すことができなかった。
目の前では依然として自傷行為を続けるヒトガタがいて、そのほとばしる残虐性はこの世界の悪意すべてを集めても足りないくらいのもの。にも関わらず、それに反する温かさは、私の勘違いなどではなく、間違いなくそこに存在する。
『――助ける』
それに気が付いた時、身体が動いた。その時の私は理由や理屈なんて考えるよりも先に、行動せずにはいられなかった。相手にどんな畏怖を感じようとも、どんなに恐怖を抱こうとも、足を動かさないわけにはいかなかった。
冷静じゃない。それが却って、たった一つの答えを導き出す。
私が冷静でいられない時、いつだってそこには彼がいる。
「な、なずな! 助けるって、まさかあいつのこと!? バカなことやめなさいよ! あれはもうソラじゃない、クリーパーよ! 殺されちゃう!」
『――違う、クリーパーじゃない……あれはソラ。間違いない。だから、助ける』
恐怖に震える身体を奮起し、私は立ち上がった。祈るように両手を組み、震えを止める。
方法はない。今人知を超えてしまったソラを止める方法は、まったく見当もつかない。ただ、何かせずにはいられない。
私は一歩を踏み出した。その時、
「なずな!」
背後からアイリスが呼び止めた。
「彼を助けてください! あなたなら彼を助けられる。きっと何か方法があるはずです。だから、だから彼を止めてください! 死なせないでください!」
そして今度は朗らかに笑みを浮かべた。
「もし、無事に彼を助けることができたなら、わたくしがとびっきりおいしいクッキーを焼きます。それをみんなで食べましょう!」
その言葉に私は頷く。一方でアイリスの隣で座ったままの和葉が目に止まった。彼女は表情を曇らせた。
「あたしは……」
喉を詰まらせる。
「あたしも……信じたい。だけど、ごめん。身体が……もう動かない。血、流し過ぎた……」
響いてくる彼女の感情は、とても悲しみに満ちていた。何とかしたいけど、何もできない。気持ちは逸っているのに、身体がついてこない。そのジレンマが重く圧し掛かっているのがわかる。わかってしまう。
『――あなたは充分に戦った』
だから私は彼女を決して責めない。
『――アイリス、和葉を看てて……あとは私がやる』
今彼を止められるのは私しかいない。
これまで和葉もアイリスも何度も敵と相対し、倒してきた。だけど私は、オペレーターとして安全なビルの中にいた。まるで傍観者のように見守ることしかしてこなかった。一度彼とともに出動したことがあったけれど、あれも一年ぶりの実戦だった。
今日ここに来て、まだ無傷であるのは私ぐらいだ。ならば、私がやるべきだ。
何より――彼を助けたいから。
私はヒトガタと向かい合う。その瞬間、ヒトガタの目が私を捉えた。しかし、私は怯むことなく、一歩を踏み出す。全身からツルを伸ばし、身体の表面を包み込む。
作戦が必要。どうにか近づいて、彼を元に戻す方法を考えなければいけない。
そもそも彼は、なぜ自傷行為をしているのだろうか。クリーパーを一掃した時は、滑らかに、一切の迷いを見せない手際の良さだった。なのに、今は迷いなんて言葉では足りないほど、混乱し、苦痛に悶えているように見える。
敵がいなくなったのに、どうして彼は止まらないのか……。
その時、あることに気が付いた。それは濁りきった通信に混じった声。彼が発した悲痛な声。あの時の声は何かの言葉を成していた。つまり彼は何かを伝えようとしていた。
彼は何を伝えようとしていたのか――
「――っ!」
答えは単純なものだった。
彼はあの時、『助ける』と言った。『守る』と言った。つまり彼にはまだ理性が残っている。獣のような残虐性を備えていても、人間としての部分がまだ残されている。
もしそうなら、この自傷行為は私たちを守るために必要なことと仮説が立てられる。
敵は彼の中にいる。
獣の残虐性は私たちを殺そうと働き、人間の理性が私たちを守ろうとしている。ただ暴走を続けるあの身体は簡単には抑え込めない。だから自分の身体を傷付け、行動不能に追い込むことで無理矢理に止めようとしている。
まだ灰崎ソラがそこに存在するのなら、彼を助けることも可能かもしれない。
なら今私がすべきことは、彼の理性を呼び起こすこと。より強く、より近い場所で。
『――ソラ、聞こえる?』
だから私は語り掛ける。彼の意識を呼び戻すために、想いを言葉にする。
それは私にとって最も苦手なこと。けれど、今はそれだけが彼を取り戻す可能性を秘めているのだから、苦手なんて言っていられない。
『――あなたに伝えたいことがある』
やがて、互いの距離が一〇メートルを切った瞬間、ヒトガタは唐突に動きを見せた。自傷を続けていた触手の三本が方向を変え、私に襲い掛かった。鞭のようにしなった触手は一直線に首を狙う。
「――ッ!」
衝撃。かろうじてツルを首に巻き付け、防御壁を作る。同時に四方の柱、梁、地面にツルを張り付け、全身を固定する。それでも全身を打った衝撃は計り知れず、意識が途切れかけた。
ただ、気持ちだけが動いていた。
『――私はあなたに感謝している』
立て続けに襲い来る触手をツルで絡め取る。三本を完全に無力化し、再度彼へと足を動かす。これぐらいで諦めるつもりはない。さらにツルの数を増やし、すべてを使って彼の動きを封じ込め、自傷行為をやめさせる。
歩を進め、近づき。歩を進め、近づき。
『――あなたのおかげでメンバーの笑顔が増えた。毎日が楽しくなった』
ヒトガタは新たに触手を生やし、弾丸のような一撃を放つ。刹那の内に行われたことに、私の反応はわずかに遅れ、一本が私の脇腹を引っ掻いた。
身体がよろめく。痛みに膝が折れ、一瞬の熱が腹部に広がる。だけど、私は足を止めることはなく――止めることはできず、ヒトガタを見つめた。
『――私には……あなたが必要』
「ヴヴヴ、ヴヴヴオオオオオオ―――――ッッ!!」
雄叫びがこだまする。倍にまで増えた触手を振り回し、小さな嵐となって暴れ回る。
それは私を襲うと同時に自らも巻き込み、さっきまでの自傷など序の口だったと言わんばかりに攻撃を激化させる。互いの肉は削がれ、床に散った血液が混じり合う。ツルを使っても攻撃を防ぎ切ることはできず、確実に、着実に私の体力は失われる。
『――あなたが、敵でも……構わない。私は……あなたを、助ける。なにが……なんでも……』
そう思いをぶつけた途端、触手の一本が倉庫の梁を穿った。直後、支えを失った倉庫は軋み上がり、大きく傾いた。
大量の鉄材が降り注ぐ。私は咄嗟にツルを頭上に展開し、ガードを固めた。しかし、手負いの私が出したツルは少なく、圧し掛からんとする鉄材に、それは容易くへし折られた。落下する残骸に私は咄嗟にしゃがみ込み、思わず目を閉じた。
避けきれない。この鉄の山から逃れることはできない。これを浴びてしまえば、私の身体なんてひとたまりもない。跡形も残らない。あと三メートルもない距離だったのに、あと少しが届かなかった。
私は結局誰も助けられない――
「――ッ?」
鉄同士がぶつかり合う耳障りな音が響く。その予想と異なった衝撃に、恐る恐る目を開けると、頭上には……、
「行ってくださいなずな! 足を止めないでください!」
アイリスの鋼鉄処女が私の頭上を取り囲んでいた。それは鉄材を押し退け、私を守った。
「お願いです! 諦めないでください! 彼を助けてください!」
その声に振り向けば、アイリスと和葉が強く私を見つめていた。二人の瞳に宿った思いが、切れ掛けていた私の心を押した。
私は巻き起こる嵐に乱れた髪を直し、また足を踏み出す。
彼の自傷行為はなおも激しさを増し、飛び散る血液は倉庫一面を黒く染め上げる。早くしないと彼が死んでしまう。
『――私たちにはあなたが必要』
『――ヴナ、グナ、グ、ク、クルナアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!』
その瞬間、ビシッと脳内で炸裂音が響いた。すると叫び声は止まり、一瞬の静寂が耳鳴りを起こす。
くるみが壊れた。彼の身体の崩壊にくるみが耐え切れなかったんだ。
結果、彼と私の繋がりは途絶えた。彼に語り掛けることができなくなった。
「っ!」
まだ終わったわけじゃない。彼と私を直接繋げれば、くるみ以上に強力な意思の伝達ができる。
だけど、もう一メートルもないのに、爆風を身にまとった彼に手が届かない。彼の触手は目にも止まらぬ速度でしなり、まるで壁のように立ちはだかる。私もツルを伸ばすけれど、しなる触手に応戦することに手一杯で、彼に意思を伝えるなんて夢のまた夢。
私は歯を食いしばる。
もう手は一つしかないと思った。とても無謀な方法だけれど、確実な方法がたった一つだけ残されている。
私は伸ばしていた腕を下げた。その動きにヒトガタが即座に反応する。
周囲を暴れ回っていた複数の触手が一つにまとまり、先端が捻じれ上がる。鋭い槍となった触手はヒトガタの周りを素早く旋回し、勢いを付け――
「――ッ!!」
激痛が全身を駆け巡った。
数分前に感じた何十倍も、何百倍もの痛みが電撃のごとく脳を通過し、かつてない痛みの奔流に意識が遠退いた。喉の奥を熱いものが駆け抜け、しかしそれもつかの間、凍りつくような寒気が足先から立ち上る。
ヒトガタの太い触手が私の腹部を貫通した。
だけど、それは私の望んだ結果だった。
私は途切れかけた意識をフル回転させ、お腹を通り抜けた触手を掴んだ。さらに両手に力を込め、触手の表面と内部の両方に根を伸ばす。その根は触手を急速に伝い、彼本体に到達する。
――通信が回復する。
『――聞い、て』
私が意識を流し込むと、激化していたヒトガタの動きがぴたりと止まった。その隙を突き、私は触手をより深く体内に押し込めながら彼に近づく。
そして、密着するように私は彼の腰に抱き付いた。
『――負け……ないで……』
白んでいく景色。遠退く感覚。けれど、より強い願い。
『――私が、そばに、いる』
その言葉は選ばずとも自然と出てきた。
『――私は……オペレーター、今は、あな、たを……サポートするのが……役目……』
その言葉はいつかをなぞるようだった。
『――だから、心配しないで……あなたは、強い人だから』
その言葉はまるで私の心を映しているようだった。
瞬間、ぐらりとヒトガタの身体が揺れる。全身から生えていた触手は霧散し、お腹の支えを失った私はたまらず彼に身体を預けた。
その私を――ヒトガタが受け止めた。
ヒトガタの黒い両手が私の肩を支えた。それは感情のない反射的な動作のようではあったけれど、しかしそれをもって私は任務の終了を確信する。
安堵感が心を満たす、一方で全身の感覚が無に溶けていく。
「はあ……はあ……」
力ない呼吸を繰り返す。でも、肺は充分に膨らまず、どこかから空気の抜ける音がする。
死を覚悟した。
一度目は事故だった。乗っていたバスが事故に遭い、友達も一緒に死んだ。そして私だけがエクセリアになった。友達をなくした悲しさに私は毎日毎日泣いて、もうこんな悲しみを誰かが背負うことがないようにと、特戦で仕事をすることを選んだ。
今度は一人で死ぬ。でも不思議と悲しくはなかった。
感情が薄れているからなどではない。今私の心にあるのは、まぎれもない達成感。彼を助けることできた。彼を助けたことで、彼と特戦のみんなに悲しみが降り掛かることはない。誰も悲しむことはない。
「……はあ」
私はゆっくりと瞼を閉じた。
この最後の任務を果たせてよかった。もう死ぬのも怖くない。だけど……せめてこれだけは言おう。
ソラ、私はあなたのことが――
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