第10話 魔人②
「てめえは人殺しなんだ、今さら償えると思ってんじゃねえぞ、ソラッ!!」
大鎌を振り抜きながらクリストファーは怒号を飛ばす。俺は身体を倒しながらそれを回避し、すかさず斜めに斬り返す。大木のように重みのある鎌を振り抜いた彼には、その反動から絶対に避けられない。
だが――勝利を確信するにはまだ早い。
その一撃は脇から伸びた別の鎌によって阻まれた。
「能力は変わらずッスね!」
俺は横入りしたそれを言葉とともに弾き返す。
しかし、俺がコピーした無情なる共犯者は、個々が完全に分離した劣化版しか創れない。それぞれが独自に思考し、他の自分と呼吸を合わせることは不可能。
つまり――劣化した彼の能力だけでは勝ち目はない。
勝ち目があるとすれば、それは三人娘の中にある。俺にはあの三人がついている。
二人目のクリストファーは、再び二人目の俺との闘いに戻った。本体はというと――
「まだだ! もっと俺を楽しませろッ!」
左腕一本で鎌を振るい、独楽のように回転したかと思うと、次には右腕の拳が飛んでくる。それを避ければ、次には首根っこを落とさんばかりの上段蹴りが頬をかすめる。
正直、クリストファーの馬鹿力は、一発でも喰らえば立つこともままならなくなるだろう。昔っからこいつは、剛腕に物言わせていた。
「ウアアアアアッ!!」
骨を砕く激痛とともにスーツは引き裂き、俺は右腕を異形のものへ変異させる。黒々と体毛の生え揃った腕でクリストファーの拳を掴み取り、同時に左腕で刀と鎌を振り、甲高い音を響かせる。
拮抗。がりがりと重なり合った牙が鳴る。
「グッ」
ゴリラの腕を持ってしても押し負ける。慣れない能力だから存分に力を発揮できないとしても、この腕力にさえ一歩も引かないとは。
掴んだ腕を振り回し、逃げるようにクリストファーを投げ飛ばす。軽々と宙を舞った男は地面に鎌を刺し、全身にブレーキを掛け着地した。
「腑抜けちまったな、まったくよお! てめえの実力はこんなもんじゃねえだろッ!」
刃の先で何度もコンクリートを掻きながら接近する。俺は変異させた右腕から一本のツルを伸ばした。
「元々エコーでの生き方に納得なんてしてなかった!」
クリストファーの頭上を縦横に走る梁にツルを投げ飛ばし、きつく巻き付ける。
「オオオォォ―――ッ!!」
ゴリラの腕力で一気に腕を引き下げ、天井ごとクリストファーに落下させる。
崩落した鉄材はけたたましい音を立て、粉塵が天高く舞い上げる。普通の人間ならばひとたまりもないだろう。だが辺りに意識を向ければ、他四人の闘いはまだ順調に、残念ながら順調に繰り広げられていた。
「てめえのこと案外気に入ってたんだぜ」
巻き上がった瓦礫の中から殺人鬼が姿を現す。
「余計なことを言わねえ、仲間みたいに擦り寄ってもこねえ。腕は立つ、仕事も速え。他の奴らはどうにも気に食わねえのが多いからな」
走り込み、跳躍したクリストファーは圧し掛かるように鎌を振り下ろす。俺は咄嗟に右に回避行動を取り、コンクリートを穿った鎌を横薙ぎに払いのける。その一閃は大鎌を後方へ弾くが、クリストファーはまったく動じることなく、身体を捻り再度襲い掛かる。
「だってのに、裏切るなら……殺すしかねえよなあ!!」
上方から降る鎌を、かろうじて刀で受け留める。再度拮抗する。顔が近づく。
「殺すのはやぶさかじゃねえぜ! てめえとは一度本気でやってみてえと思ってたからなあ! それに組織のためにも、お前は生かしておけねえ!」
一気に鎌を引くクリストファー。刃は、まるでレールの上を走るように刀の上を滑り、研ぎ澄まされた刃が断頭台のごとく首に迫る。
咄嗟に刀の先端を分解し、流れ着いた刃と首の間に挟み込んだ。
甲高い音が鳴った。首を護った鋼鉄処女が悲鳴を上げる。危なかった。あと髪の毛一本でも判断が遅れていたら、胴体と永久におさらばするところだった。と動揺する俺の目の前で――
「チッ! 一勝一敗か」
クリストファーが舌打ちした。見ると、三竦みの闘いは、俺たちを除いたそれぞれで決着がつき、それぞれの勝者が新たに闘いを開始していた。
無情なる共犯者は、その分身体が死ぬと復活するまでに数分間のインターバルを必要とする。いずれ復活するものだから、分身体が死ぬこと自体は何の問題もない。
あるとすれば――インターバルが何分間なのかということだ。
能力の持ち主であるクリストファーにはそれがわかる。鎌の先端で散ったバラ。それがまた咲き誇った時が可能の合図になるからだ。しかし、所詮コピーの俺にはそんな至れり尽くせりな合図を持たない。合図を知るため、常にクリストファーのバラを見続けるなんてのは、この息つく暇もない闘いの中じゃ無理な話だろう。
合図のあるクリストファーと合図のない俺。両者には再度分身を生み出すタイミングに致命的な差が生まれる。その一瞬の遅れがこの勝負の趨勢を左右する。
――早く決着を付けなくちゃならない。
首に巻いた鋼をほどき、小さな楯を形成すると、未だ首元で止まる鎌を強く弾き返す。思いがけない反動にクリストファーの身体が仰け反った。続けざま楯を回転させ、手裏剣のように投げつける。それは体勢を崩すクリストファーの肩をかすめた。さらに黒鋼を操作し、男の身体を連続的に攻撃する。
しかし、すべてが通るわけじゃない。多少の傷はお構いなしと言わんばかりに、クリストファーは致命傷になる攻撃のみを的確に見極め、躱していく。無論、そうなることは俺自身充分にわかっていた。
だから――次の一手に出る。
「てめえ! くだらねえことしてんじゃねえぞ」
数瞬、クリストファーの動きが止まる。男の足首には、青々としたツルが巻き付いた。いつぞやなずなにやられた技だが、まさかこんなところで活用することになろうとは。
クリストファーはしつこく絡み付くツルを鎌で刈り取る。しかし、同時に上空から飛来した黒鋼がクリストファーの頬をかすめた。
鮮血が飛ぶ。頬から流れた一筋の線が顎を伝い滴る。
「ちまちまと……イライラする戦い方だな。エコー抜けて得たのはこんなもんかッ!」
袖で血を拭い、鎌の石突で何度もアスファルトを突く。苛立たしげに怒りを露わにする。
次の瞬間、クリストファーは鎌を肩に担ぎ、軽い助走とともに跳び掛かってきた。俺は手裏剣となって飛んでいた黒鋼を即座に集め、刀を組み直すと迎撃態勢を取る。
衝撃。
同時に俺は足を振り上げ、クリストファーの脇腹を蹴り付ける。わずかによろめいたクリストファーは、しかし回転するように身体を翻し、水平に鎌を振り回す。
「あのハイジャックの最後」
細かな連撃の最中、クリストファーは鷹のような眼光で俺を睨み付けた。
「《箱》使って脱出しなきゃならねえって時に、てめえが俺に向かって微笑みやがった。そん時は何が起きたのか理解できなかったが、きっと近いうちにとんでもねえ何かが起こる予感だけはした。まさかこういう最後になるなんてなあ、思いもしなかったがな!」
「――ングッ!!」
無理やりに距離を詰め、得物をかち合わせた男は大きく頭を振りかぶり、馬鹿みたいに固い額を俺の額にぶつけた。それのみならず、ふらついた俺の腹に回し蹴りを食らわす。堪らず距離を取る。
「俺だってこんな結末を望んだわけじゃないッスよ」
可能ならば、争うことなく場を収めたかった。でも、機内で笑顔を取り戻してしまったように、墜落の衝撃で記憶を失ってしまったように、すべて望んだ通りにことが進むなんて、そうそうないんだと思う。
俺たちエクセリアはそういう存在なんだ。神から力を与えられた俺たちは、否が応でも争わずにはいられない。それは時にクリーパーであったり、時にエクセリアであったり、そして時にただの人であったり……。この力がある限り、争いの輪の中から逃れることはできない。
――それがエクセリアに課せられた運命なのだから。
俺は変異で袖がぼろぼろになったジャケットを脱ぎ捨てた。
「……ふう」
息をつく。
このままじゃまずい。鎌の先では、散っていた花が蕾となって芽吹いている。生花でもないあの金の花が咲いた瞬間、クリストファーは分身が可能になる。一気に戦況が傾く。
「オオオォォッ!!」
間合いを詰め、上段に構えた刀を振り下ろす。間髪入れず連撃を浴びせる。
縦に、横に。斬って、突いて、切り返して。
上段、中段、下段。
あらゆる方向から、手を休めることなく斬り続ける。ここで手を止めたら間に合わない。
だが、余裕を失った刀がクリストファーに届くことはなかった。それらすべては易々と受け止められた。
「お互い手の内が読めるってのは、さすがにつまらねえかあ!? てめえ、花が咲く前に決着つけようとしてんだろッ!?」
甲高い音を鳴らす武器たちにも負けんばかりの大声で吠え立てる。
「誰だって不利にはなりたくないッスからね!」
「そりゃごもっともだ! だが、残念だったな。この勝負は俺の勝ちだ!」
鍔迫り合いの最中、クリストファーは鎌の柄と刃を使って俺の刀を強く固定した。
「てめえが俺の能力をよく知っているのと同じように、俺もてめえの能力はよーく知ってんだぜ、相棒おおおぉぉ!!」
「あっ!」
クリストファーが鎌を上方へ引き上げる。それに引っ張られ、刀が俺の手から離れた。
「てめえの能力は刀が蓄えた記憶と、てめえの記憶した名前が一致して初めて発動する! それは刀とてめえが触れ合っていなければ維持することはできない! つまり、てめえと刀を離しちまえば、てめえはただの人間と変わらねえ!」
高々と飛んだ刀は鈍い音を立て、天井に深く突き刺さった。
それを合図に遠くで戦闘を繰り広げていた俺の分身体が消滅する。そして、その相手をしていたクリストファーの分身体がこちらへと向きを変え、走り出した。さらに時を同じくして、大鎌に新たなバラが咲き、上方から三人目が降り掛かった。
三対一。武器はなし。敗北確定。
「さあ、これで終わりにしようぜ! 相棒おおお!」
前後と上からの挟撃。三つの鎌が容赦なく振り抜かれる。
三人のクリストファーはそれぞれに勝利を顔に浮かべ、俺自身もきっと敗北が顔に出ていただろう。
今までの俺なら―― エコーにいた時の俺だったなら――
全員の視界に、一条の光が煌めいた。月明かりを反射するそれは、目にも止まらぬ速さで倉庫を飛び抜け、一直線にクリストファー本体の胸部に吸い込まれた。
「なッ!? こいつぁ……」
不意の反動にクリストファーの身体が揺れる。クリストファーの胸に鋼色のツバメが深々と突き刺さっていた。生命力を感じないその鳥は、ダーツの矢のごとく刺さったまま微動だにしない。
それを見とめた俺は、すぐさま両脇に分身体を出現させ、背後と上から飛び込んだ二人の敵を蹴り上げた。続けて本体に突き立つツバメを引き抜き、瞬時に短剣を造り出す。
二本の刀と一本の短剣。俺たち三人は一斉に得物を振り抜き、一方で体勢を立て直したクリストファーが大鎌を振るった。
「オオオオォォォ―――ッ!!」
「ふざけんなあああああぁぁぁ――――ッ!!」
決着の時だった。すべてが一瞬の出来事だった。
夜の世界は静かで、ただ月の明かりだけが眩しかった。
風が吹く音も、虫のなく声も、埠頭の波の音も、すべてが闘いの決着を見守っているかのようだった。
決着の時だった。
「ああ……痛えな、ったく」
クリストファーが愚痴をこぼす。その腹からは血が噴き出していた。そして――
「それはこっちのセリフッスよ……」
俺の肘から先は床に転がっていた。
俺たちは互いに肩を預け、支え合いながら立っていた。俺たちが持つ三本の武器はクリストファーの腹を深く貫き、、クリストファーの薙いだ鎌は、左に立つ俺の胴体と俺自身の左肘から先を綺麗さっぱり斬り落とし、止まっていた。
すべての分身体が消失する。
それぞれの一撃がそれぞれの致命傷となり、それは事実上の引き分けを意味していた。
「……知る限り、てめえの能力に、変化はない……はず……」
死に際は近い。俺もクリストファーもここから生き残る術を持っていないだろう。とはいえ、人ならぬ生命力を持つ俺たちには、答え合わせをする時間が与えられていた。
「……あんたは傲慢過ぎなんですよ」
話しながら、俺は腕から生やしたツルで傷口を何重にも塞ぐ。これで少しでも延命できればと思った。がんじがらめに縛ったのち、乾き始めた口を開いた。
「俺が、あんたの能力をよく知っているのと同様に、あんたも……俺の能力を……よく知っている。ということを俺はよく理解していた。なら……俺の刀を奪いに来ることも予測がつく」
そう言って、俺は右手首に巻いたアクセサリーを見せる。それは黒く小さな欠片を幾重にも連ねたものだった。
「常に、刀の一部が触れるようにした、のか……」
その解答に、俺は頷いた。
「エコーに、いたままじゃあ、できねえ……戦い方だなあ……」
クリストファーの力が抜ける。俺の身に掛かる重みが増した。男はため息をついた。
「まったく、戦いってのは楽しいなあ……楽し過ぎる。特にソラ……てめえと戦ってる時が一番面白え。戦ってた時が一番面白え……」
まるで過去を思い出すように男は目を閉じた。
「……そう、ッスね」
クリストファーとは何度も模擬戦を繰り返した。修行のためであったり、時には本気の殺し合いであったり。程度の差はあれど、数え切れぬほどの回数をこなしてきた。勝敗については思い出せないが、俺にも彼との戦いは楽しかったという感覚が残っている。
「アアアアァァァッ!!」
突如クリストファーが喉を裂かんばかりに叫び声を上げた。その口からは血がほとばしり、俺の頬をどす黒く染める。見ると、男の両目から透明の雫がこぼれた。
「もっと闘いてえ! もっとてめえと殺し合いがしてえ! もっともっとてめえと旅がしてえ……なんでこんなことになっちまったかなあ! てめえはどうして人の言うことを聞けねえのかなあ! なんで、俺はてめえみたいな面倒な奴に構ってるんだろうなあ!!」
男は倉庫中に響き渡る声で慟哭し、唐突に、ああそうか、と得心した。その瞬間、再度男の身体から力が抜けた。
クリストファーは清々しい表情で自説を述べた。
「そうか……俺はてめえと……友達に、なりたかったんだ」
「……え?」
その発言には、さすがに驚かざるを得なかった。
わざとらしく『相棒』というワードを多用する男だが、俺の記憶にある限り、わざとでも『友達』というワードを使うのを聞いたことがない。もし、その言葉を口にするとすれば、それは彼が《友情》を取り返した時以外にはありえない。
《神》から奪い返した時以外にありえない。
「こんな感覚は、初めてだ……これが友情ってんだな、知らねえこともあるもんだ……なんで……今さら、思い出しちまうんだか……、知らねえまま……死に、たかった……」
「……」
クリストファーは奪われたものを奪い返した。しかしそれは死の間際、すでに回復も再生も適わない今この場面になって果たされてしまった。
これは幸せなことなのだろうか、不幸せなことなのだろうか。
何年も奪い返したいと願ってやまなかった感情をやっと奪い返したのに、それを充分に実感する時間はもはや残されていない。せっかく取り戻したのに、せっかく完全な存在に戻ったのに、彼はもう――死ぬ。
――こんな結末が不幸以外のなんだって言うんだ。
「なあ……ソラ」
すでに男の声はかすれ、呼気との区別がつかないほどだった。
もう時間はない。たとえそれがわかっていても、きっと彼はそれを言わずにはいられなかったのだろう。震える口を懸命に開く。
「今さら……虫のいい話だがよぉ……俺と、友達になってくれねえか……」
ぼたぼたと流れ出る血液に床は大きな池を形作る。だんだんと空気が冷めていく。
「……ははっ」
本当に虫のいい話だと思った。散々人のことを馬鹿にしてきたくせに、これまで散々人を殺して、いろんな人の人生を奪ってきたくせに、何を今さら友達だ。図々しい。
敵同士だと言って今の今まで殺し合っていたのに、俺の仲間を傷付けて、結果的に俺の手で死のうとしているのに、なのにどうしてこのタイミングでそんな言葉を口にできるのか。やはりこの男は狂人で、その精神は俺や特戦のメンバーとは相容れないところに存在している。
だけど、彼と同じ人殺しである俺に、彼を責める資格はないのかもしれない。
「何言ってるんスか……」
だったら――
「俺とクリスはとっくの昔から……親友だったでしょ」
だったら、一つくらい救いがあったっていいじゃないか。
馬鹿な神に背負わされたこんな理不尽で絶望的な運命なのだから、一個くらいいいことがあっても悪くないだろう。これが救いになるかわからないけれど、クリストファーにとっては何よりも必要な言葉に違いない。
というかそんな慰めみたいな考えを抱く以前に、エコーのメンバーとして、それがたとえビジネスの関係で、互いに一度たりとも友情なんてものを意識していなかったとしても、クリストファーと三年間も行動を共にした俺はもう充分に――親友なのだろう。
「……なるほどな」
俺の返答を聞いたクリストファーは天井を仰ぎ、まるで晴天を見るかのような笑顔を浮かべた。
「嘘でも嬉しいぜ、相棒」
そして――彼は肩を引き摺るようにしながら、地面へと向かって行った。その肉体はクリーパーの消滅と違わず、地面に着く間もなく闇の中に溶けていく。
クリストファーの亡き骸は、木の葉が吹くように消えてなくなった。そうして支えを失った俺は、崩れる砂の城がごとく血だまりの上にうつ伏せに倒れた。
ばしゃりと血だまりに沈む俺も、もはや手遅れだった。止血はしたが、ごっそり持って行かれた左腕をカバーするには至らなかったようだ。
「まあ……みんなのこと守れたし……それでオッケーッス、よ、ね……」
自然と声が出ていた。断末魔の叫びには少々情けないもんだったけど、まあ俺らしいと言えば俺らしい言葉だった気もする。
――さて、これで終わ……あれ? なんだこの感覚……。
『――ソラッ!』
脳内に声が響く。かと言ってもはや動くこともままならずにいると、身体を抱えられ、仰向けに返される。温かい手が触れる。
『――ソラッ! ソラッ!』
「なずな、さん……」
『――ソラ、ソラ、ソラ』
大粒の涙を流すなずなは、言葉さえも奪われてしまったかのように、その二文字だけを延々と叫び続けていた。真珠のような涙が俺のシャツを何度も叩き、じわりじわりと沁み込んでいく。
俺は残っている右腕を彼女の頬に添え、溢れる雫を拭き取った。彼女は血と涙に染まった俺のシャツに顔を埋めた。その傍らで和葉の声が響いた。
「なずなッ! 泣いてる場合じゃない! 周りッ!!」
和葉の叫びに呼応するように、ガラスを砕く音が周囲にこだまする。気付けば、俺、なずな、和葉、アイリスの周囲には大量のキューブが浮かび、そのすべての表面には蜘蛛の巣に似た亀裂が走っていた。
それらは特大の破砕音を鳴らすと粉々に砕け散り、中から成体のクリーパーを吐き出した。獣たちは梁の上、柱の間、ドラム缶の影から次々と顔を出し、そのすべてが濃密な闇を漂わせながら俺たちに牙を剥いていた。
「軽く見積もっても二〇体はいますね……」
「こんな数……ありえない……」
三枚の楯を造るアイリスの声は震え、かろうじて片膝を突く和葉と背中合わせに臨戦態勢を取る。四人は一塊になり、周囲に出現したクリーパーに相対した。
「彼が捕獲した……死んだから……箱、壊れた」
この絶望的な状況で、平然と口から出てきた。死に掛けているせいもあるだろう、もはや下手に焦ることもない。
いや――この状況で俺が焦らないのは、焦る必要がないと本能的にわかってしまっているからに他ならない。
今まで感じたことのない感覚だった。死という絶対的な存在が差し迫るこの状況で、だけど死なんて、ひどく些細なものでしかないような裏返った感覚に包まれる。
高揚感でもない。優越感でもない。勇気だの希望だの、そんな安っぽいものでもない。ましてや傲慢でもない。
けど――わかる。本能が教えてくれる。
俺はこの状況を恐れる必要がないということを。
「大丈夫ッスよ……」
なずなの頬に手を当てたまま微笑んだ。
「怖がらないで……全部、俺が――」
――なんとかするから。
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