第9話 魔人①
「任務外の僕の登用は別料金だから……と言いたいところなんだけど、今回の支払いは特別にあの女の首で許してあげるよ」
馬鹿みたいに物騒なことを言いながら、包帯の少女――ユン・アンフェイはあたしを顎で指示した。
午後一〇時〇八分。港区東京湾岸沿い。今は使われなくなった倉庫の中。
一辺五〇メートルほどの巨大な灰色の空間は、伽藍堂のようでどこかうら寂しく寒々しい。入り口や建て付けの甘い窓のサッシから針のような風が吹き込み、コンクリートで塗られた床と幾本の柱を撫でていく。
場を照らすのは、煌々と照りつける満月と鈍く明滅する蛍光灯だけ。ほの暗い倉庫は、あたしの気分をより一層寒くする。
そしてあたしの目の前には――フードを被る黒コートの姿が二つ。
一つはユン・アンフェイ。もう一つはクリストファー・ランドストン。
暗闇にも消えてしまいそうな黒い外套を纏った二人は、倉庫の一画を陣取り、あたしたちを特別気にすることもなく、話し合いを続けていた。
なずなを見つけるのは、そう難しいことじゃなかった。あたしたちが吞み込んだなずなのくるみは、少しだけ互いの位置が認識できるようになっている。そこにあたしの変異が有する嗅覚を併せれば、目を瞑ってでもできることだった。
二人の脇にある柱には、天井から下がった鎖を腕に巻き付けたなずながいる。気を失っているみたいで、さっきから微動だにせず、生きているのかもちょっと怪しい。あの子大丈夫かしら?
「ソラを誘き寄せるため、ってのはお前にも利があると思うんだがなあ。まあいいか、お前と金のやり取りをするのは、こっちが恐ろしいしな。それに今はどうも――」
人を殺したい気分だ、とクリストファーは邪悪な笑みを浮かべた。そのセリフに気をよくしたのか、ユンは何度も頷いた。
「何だか……今僕は初めてきみに共感できた気がするね。そうだ! 今日はとても気分がいいから僕も手伝ってあげるよ。もちろん、これもサービスだ」
「んなもん、いらねえよ。大体、戦う技もねえお前に何ができるってんだ? 邪魔だ。帰ってろ」
「きみはもう少し、言葉を選ぶことを学んだほうがいい。まあ、それができないことは僕も重々承知しているけどね。わかったよ、今回はきみに任せるとしよう」
そう言いながら、彼女は眼前に身体をまるごと包み込みそうなほど、巨大なキューブを出現させる。
「必ず連れ帰ってきてくれよ、クリス。僕はいい成果を期待している。そして……さようなら、御形和葉」
あたしに流し目を寄せた生意気な少女は、ゆっくりとそのキューブへと消えていった。
「好き放題言ってくれるよなあ……ったく。あいつが相棒じゃなくてよかったぜ」
一人残されたクリストファーは肩に掛けた大鎌を一振りし、空いた手で頭を覆っていたフードを外した。流れ出た長い金髪が月明かりを反射している。ちょいうらやま。
「まあ、いずれソラも来るだろ。それまで時間潰しと行こうや」
「あいにくだけど、あいつ牢屋の中だからいつまで経っても来ないわよ」
エメラルドグリーンの瞳を睨み返しながら、あたしはぱきぱきと指の骨を鳴らす。そのあたしの言葉に男はわざとらしく驚いた。
「ああ、そりゃそうか! いや、もちろん知っていたさ! なにせあいつは俺たちエコーの仲間なんだもんなあ!」
倉庫中にこだまする高笑いを上げながら、男は髪を掻き上げた。そりゃもう、完璧あからさまな挑発だったわけだけど、あたしの血管を切れさせるには効果覿面だった。
「あんた、ほんっとむかつく!」
全身に力を込め、体組織全部にくまなく働き掛ける。血から、骨から、指の先、毛の一本に至るまで想像を神経に巡らせる。ピリピリと電流が走り、毛という毛が総毛立つ。
できる限り凶暴で、凶悪で、最凶の生物を思い描く。腕も足も顔も、すべてを戦うためだけに特化させる。見た目なんてもう気にしない。あたしがイメージするのは、
「おいおい、そりゃまた随分と珍獣じゃねえか」
刃の付け根に飾られた金のバラを触りながら嬉々として男は笑んだ。
――言わんとしているところはわかるわね、だってそれくらいおかしな格好してるもの。
両脚は斑点を持つチーターを模し、胴体は硬質のシロサイを選ぶ。両腕には腕力特化でホッキョクグマを採用し、頭にはライオンの鬣をなびかせ、尾は長く蛇を飼う。
「覚悟しなさいよ、この殺人鬼がッ!!」
各部ぶつ切りのキマイラへと変貌したあたしは、その口に並ぶ牙を月明かりに光らせた。
正直、一度に複数の変異を行ったのは、これが人生初の試みだった。どことなくポテンシャルを下げちゃってる気もするけれど、それはエクセリアの強靭な筋力とバランス感覚で補正する。手段をとやかく言っている場合じゃない。今はやるしかないんだから。
「遅れてしまって申し訳ございません。わたくしも戦います」
今にも飛び出さんばかりのあたしの肩に、ようやくご到着のアイリスの手が乗った。彼女は小さく漏れる吐息を整えながら、あたしの逆立った体毛を撫で付ける。
「クリストファー・ランドストンの能力は分身。ならば、わたくしと和葉の二人でお相手をするのが筋でしょう」
言いながら彼女の服が剥がれ落ち、周囲を黒鋼が舞い始めた。それは瞬時に三枚の楯を造り出し、身体の周りを人工衛星のように一定の周回軌道で漂う。それぞれの楯が持つ三辺の縁は研ぎ澄まされ、鋭利に整えられている。
「どうやら俺の能力を御所望みたいだな」
クリストファーは鎌をバトンのごとく軽々と回転させ、肩に担いだ。
「じゃあお望み通り、友情を酌み交わそうじゃねえかッ!」
あたしよりも獣らしく天に向けて高らかと吠え立てる。
直後男の影が揺れた。画質の悪いテレビのように影がぶれ、振れ幅は次第に大きくなる。金色のバラの花弁が男の周囲を舞い、
やがて――一つの存在は二つに分離する。
「「さあ、始めようぜっ!!」」
反響する二人の声にあたしの鋭敏な感覚器官が反応する。
内側から沸き上がる恐怖。尖りに尖った動物の本能がクリストファーのことを恐れていた。たぶん、あたしの全力でもこの男に勝てないということがわかってしまう。うん、確かにこの男はあたしが今まで相手にしてきたゴロツキとは一味も二味も違うんだよね。
だけど――だからってここで引くことはできない。
「てえええ、やあああぁぁぁああぁあぁぁぁぁ」
後ろ足で思いっきり地を蹴り、あたしは男の鎌に飛び込んだ。同時にアイリスの楯が動き、もう一人の男を強襲する。
「「ハッハア!! いい動きだぜ、てめえら」」
そう言いながらも二人のクリストファーは、あたしたちの初撃を易々と受け止めた。直後、眼前のクリストファーは、巧みに鎌を振り回し、あたしの巨体を突き放した。
「アイリスッ! そっちの任せる!」
一人相手も手に負えず、たまらず声を張り上げる。こんな巨体を軽々と押し返すなんて、どんな馬鹿力よ! と、あたしが気を散らしていると――
「よそ見してる場合じゃねえ、ぞッ!!」
目にも止まらぬ速さで男は接近する。金髪をなびかせたクリストファーが水平に鎌を振った。
「ふんぬッ!」
刃の振れる寸前で身体を屈める。鎌は頭上わずか数センチをかすめ、はらりと散った鬣が視界を横切った。あたしは前傾姿勢のまま、すかさず蛇の尾を伸ばし、鎌の柄をしかと噛ませた。
一瞬の膠着。だけど、両手で鎌を握るクリストファーに対し、あたしの凶暴な両腕は驚くほどに自由だった。
「んだこらあああぁぁぁぁああぁぁああああぁぁぁ」
高々と掲げたホッキョクグマの腕を振り下ろす。
ごんッ、と肉が潰れるような音が鳴り、男の身体が宙を舞った。あたしは間髪入れず、飛んだ男の身体を追い掛け、地に触れるのも待つことなく、拳の連打を浴びせ掛ける。
勝てる。このままこいつが動かなくなるまで拳を振り続ければ、あたしでも勝てる。
地面の上に倒れるクリストファーを太鼓を打つように殴り続ける。上から覆い被さるように、圧し掛かるように怒りをぶちまける。
――でも、それは長くは続かなかった。
「え?」
突如目の前でバラの花びらが散った。見れば、大鎌の先端を飾った彫刻の一つが粉々に砕け散っていた。
「「「思い込みってのは、恐ろしいよなあ。俺がいつ二人にしかなれないなんて言ったんだよ、なあ!!」」」
声がさらに反響した。二つではなく――三つに。
その声の一つはあたしの真後ろ――息も触れるほどの至近距離から届けられた。
「――――ッ!?」
右肩から左腰に掛けて違和感が走り抜けた。全身の力が抜ける。
血が滴っていた。何故か変異を維持することができず、次第に生身へと戻っていく。身体を支えているのも難しく、あたしは片膝を突いた。
――ああ、そうか……切られたんだ、あたし。
シロサイと化したあたしの堅い背をクリストファーの大鎌が引き裂いていた。
「あ、あ……」
痛みはない。でも、感覚と実体が伴わない。
迂闊だった。もっとちゃんと考えるんだった。最初、クリストファーが握る大鎌には三つのバラが付いていた。さっき二人に分裂した時、三つが二つに……バラの花が散るのを見た。そして今、花がまた一つ減り、クリストファーは三人になった。
つまり――バラの数はクリストファーが分裂できる人の数。
「「案外あっけないもんだな。ゴスロリちゃんのほうがまだ手ごたえがありそうだぞ」」
二人の男が侮蔑を込めて、顔を覗き込む。うち一人があたしの首に鎌をあてがう。
「くッ」
――やだ、負けたくない。こんなところで死ぬなんて……いや。
あたしの力じゃこの男には勝てない。あたしじゃ特戦を護れない。
このままじゃ……このままじゃ、あたしの大切な居場所が壊されちゃう……。
「「自らの弱さを悔いるんだな、珍獣ちゃんっ!」」
そして――男は断頭台のごとく鎌を振り落す。
「ん?」
しかし、クリストファーはギリギリでその手を止めた。首筋に微かに触れた刃からわずかに血が滴った。
二人、否三人の男が顔を上げる。全員の見つめる一点を、あたしもまた見つめる。
倉庫の入り口に一つの影が浮かんだ。
それは確固とした足取りでこちらに近づき、やがて蛍光灯の下に姿を現す。
「知っていた。もちろん知っていた。お前がここに来ることはよくわかっていたぞ、ソラ」
喪服のような黒いスーツ。深淵のような黒い瞳。ピンと張った高い背。癖の強いうねった髪と腰に下がった深緑の鞘。まだ大学四年生程度の歳なのに、その表情には若々しさがちっとも感じられない。険しくて、深刻で、どこか悲しさに満ちていて……。
「……ソ、ラ」
そこに立つ青年に、まるですがるようにあたしは腕を伸ばした。震える足を突き、立ち上がりながら、あたしはソラに助けを求めた。
胸が高鳴るのを感じた。心が躍っているのが自分でもはっきりとわかってしまった。
――きっとソラならこの状況をどうにかしてくれる。あたしたちを助けてくれる。
その確信だけがあたしを勇気づけてくれた。それはきっと立ち上がることもできないはずの脚に計り知れない力を与えてくれていた。
ゆっくりとこちらに歩み寄るソラは、あたしの伸ばす手を取り……、
「あ……え?」
だけど、それは当然裏切られることになった。
だって、彼は――敵なのだから。
「けほっ、けほっ!」
不意の衝撃に息を詰まらせる。彼が腕を掴んだ瞬間、目まぐるしい速度で視界が回転し、気が付いた時には灰色の天井を眺めていた。合気道なのか何なのか、あたしの身体は大ゴマのごとく回り、地面に背中を打ちつけていた。
「和葉っ!」
鎌を弾いたアイリスが駆け寄り、ソラとすれ違いながら倒れるあたしを抱き上げた。
「大丈夫ですか!?」
「……、…………、」
声が出ない。出そうとしてるのに出て来てくれない。
すべてが終わったような気がした。今度こそ徹底的に、完膚なきまでに敗北が決定した。一縷の望みって奴が今決定的に断たれた。
ソラはあたしたち二人に一瞥をくれることもなく、クリストファーの隣に立ち、ようやくこちらに振り返った。
「はははっ! 絶望ってのはいいもんだな! いい表情をしているぞ、珍獣ちゃんよお!」
それに気をよくした殺人鬼が笑う。男は軽々と鎌を振り回しながら一人にまとまった。
「なあ、ソラ。お前はどっちの女を殺したい?」
問われたソラは何も言わずあたしとアイリス、そして眠ったままのなずなに視線を配る。
あたしたちを見ているようで、まったく見ていない。視線には何も感じない。
やがてぐるりと一周させた彼は、その重い口をわずかに開いた。
「俺は……誰も殺さない」
「へ?」
あまりに意外な一言にやっと声が出る。同時にその言葉は、クリストファーの反感を買うことになった。
「ああん? お前今なんつった?」
殺人鬼は味方にさえ敵意ある視線を送る。その刺すような眼光に、無関係のあたしの背筋が凍りついた。だけど、それにまったく怯むことなく、ソラは真意を語った。
「鈴代悠月と話をする機会があった」
「鈴代? あぁ、その名前は知っているぞ。こいつらのボスの名だ。だが、それに何の関係がある」
「そこで取引をした。片脚がなかろうが、あれでも彼女は特殊戦略室のトップだからな。本気で殺し合ったら、病み上がりの俺もただじゃすまないだろう。合理的に考えた結果、折衷案を提示することにした」
刀を持たない右手をポケットにしまいながら、彼は嘆息した。
「その場で俺を見逃す代わりに、彼女たち三人を見逃すこと。それが俺と鈴代悠月の間で交わされた契約だ」
「鈴代室長は同意されたのですか?」
「あまり迷った様子はなかったな。俺たちときみたちが争った場合、その結果は火を見るよりも明らかだ。きみたち三人の命と俺一人の命を天秤に掛ければ、鈴代悠月の判断は妥当と言える」
小説の一文一文を朗読するような平坦な口調。対して、クリストファーは冷ややかな視線を送る。
「そんなのが認められると思ってんのか?」
「認める認めないの問題じゃない。すでに取引は成立した」
「それはてめえの都合だろ。俺がそれに従う義理はねえんだよ」
「もう終わったことだ。帰るぞ」
ひどく食って掛かるクリストファーに、まるで子を諭す親のようなソラ。彼はあたしたちに背を向け、また歩き出そうとする。しかし、
「てめえがやらねえなら、俺一人でもやる。ここで逃したところで、次に会った時には殺すんだ。だったら今やっても同じだろ」
クリストファーは大鎌をソラの背に差し向けた。引き止められたソラは肩越しに振り返り、少しの間を置いてから呆れたように深くため息をついた。
「お前と言い争うつもりはない……この話は終わりだ」
「てめえは誰に命令してんだ!」
「お前にだよ、クリストファー。お前に言ってるんだ」
「おうおう、いつからそんなに偉くなった。あぁん!?」
「ペア双方の合意のない行動は厳禁だ。それがエコーのルールのはずだ。俺は彼女たちを殺さない、それが結論だ、」
「勝手に結論付けてんじゃねえよ! ルール乱してんのはてめえだってわからねえのか、ソラ。ひよったこと言ってんじゃねえぞ!」
「……へ? え?」
なになに、これ!? なんでこいつら喧嘩してんの!?
二人はあたしたちを置いてきぼりにしたまま、早鐘を打つかのごとく言い争いを続ける。エスカレートしていく罵声の応酬に、二人の苛立ちはどんどんと増長し、それを見ているあたしたちの命は天秤の上でぐらぐらと揺れる。
明らかに冷静さを失い始めたソラは、いよいよ柳眉を逆立て始めていた。
「お前はいつもいつも……」
見れば、彼の握る柄にも力がこもっていき、血管が浮いている。肩はわなわなと震えだし、そして――
「俺に従えって言ってるんスよっ!」
「え?」「あら?」
って? なんか馴染みのある口調な気がしたけど……えーっと、つまりどういうこと?
と、頭上に疑問符を浮かべるあたしの前で、ソラはこちらに向き直り、特戦にいたころの彼らしくウェーブの掛かった髪をもしゃもしゃと掻いた。
「あ、あー……ミスったッス……どわっ!」
だらしなく苦笑する彼を、不意に金色の一閃が襲った。
瞬時に刀で受け止めたソラはその衝撃を余さず利用し、さながらバットで打たれた球のように後方へと――あたしたちの隣へと跳躍した。
「あー、そうかそうか、それがてめえの答えってかッ!!」
フルスイングのモーションのまま、クリストファーはありったけの怒りをぶちまける。煮えたぎる憤怒が吹き荒れる豪雨のように、ソラを含むあたしたちの身体に打ち付ける。
「俺たちの友情捨ててまでそいつらを選ぶってかッ!? エコーを裏切ってまでそいつらの組織につく価値があるってかッ!?」
手にした鎌を何度も何度も振り回し、怒りをまき散らす。矛先を向けられているソラは再度頭を掻き、困ったように口を開いた。
「友情なんて少しもわからないくせに……でも、きっと説明しないと引き下がらないッスもんね」
やれやれといった表情のソラは一瞬の間を置いて、ぐいっと口角を上げた。
「記憶を奪われてからの長いようで短い一ヶ月。俺はいろんなことを経験させていただきました。その中で、痛いこともあった。ツラいこともあった、悲しいこともあった。どうしてあんな化け物と闘わなきゃならないんだって思った時もありました」
ソラは、座り込む私とアイリスに目を向け、またにこりと笑った。
「だけど、不思議と苦しくはなかった。何故か一度もこの仕事をやめたいと思うことはなくて、むしろ皆さんのために頑張れることってないのかなって探し始めるくらいで……その後、記憶を取り戻した時は、確かに色々な思いがめぐりましたよ。人殺しだったってのは一番堪えました。ただ……そう、その時の俺は以前の俺とは明らかに違ってた。俺は、」
――笑顔の意味を知っていたんです。
そんなことを恥ずかしげもなく言う彼の姿は、とても凛々しく、とても頼もしく、だけどちょっぴりまぬけにも見えて、それはあたしたちの知っている彼なんだと実感を与える。
「当然知っていると思いますけど、温かい気持ちになれるんですよ、笑顔って」
そう言って刀を握る拳を額に当て、噛み締めるかのように瞼を閉じた。
「俺はその笑顔のためなら何だってできる。記憶を取り戻してから一時は揺らいだ気持ちでしたけど、自分はこれからどうしたいのか。これからどうするべきなのかを考えた結果……やっぱり根本にある思いはちっとも変わらなかったんスよ」
そして――彼は結論を付ける。温かい言葉で締めくくる。
「俺は彼女たちの笑顔を護りたい」
にへらと破顔したソラの表情は、雲一つないさながら快晴の空のようで、あたしは背中の痛みも忘れて見惚れていた。
「《神》に背負わされたこんな理不尽で絶望的な運命なのに、それでも彼女たちは希望をもって生きていた。こんなわけのわからない出来事に巻き込まれて、まず間違いなくツラいはずなのに、それでも彼女たちは笑っていた。ティータイムに他愛もないお喋りをする時も、学校帰りにお買い物をする時も、花に水を上げる時だって、その時間を楽しんでいた……彼女たちは笑顔でそこにいたんスよ」
「そんなくだらねえ理由で、てめえは……」
「俺にはそれで充分なんス」
クリストファーの怒りにも動じず、ソラは堂々と言ってのけた。今にも爆発寸前のかつての仲間を相手に、何食わぬ顔でへらへらする彼は、アイリスにもたれ掛かるあたしの横に腰を落とした。
「さっきは投げ飛ばしたりしてごめんなさい。こうする以外に方法がなかったんです」
クリストファーを騙すのに必要だったってのはわかるけど、それ以前に確認しておくべきことがあるわよね。
「あ、あんた……敵なの? 味方なの?」
「……あ、えーっと」
何故かキャッチボールはうまく行かない。唐突に表情を曇らせた彼は、露骨な態度で視線をあたしから外し、アイリスに移した。
「周りに鋼鉄処女を展開してください。可能なら向こうのなずなさんにも」
「鋼鉄処女をですか?」
「そうッス。これからちょっと荒っぽいことになるので」
そしてソラは立ち上がり、あたしたちに背を向けた。肩を回し、足首を伸ばし、刀の柄巻に指を合わせる。一通りウォーミングアップを終えて、刀を正眼に構えた。
「ソラ! 質問に答えなさいよ!」
その背中に叫ばずにはいられなかった。はぐらかされたまんまじゃ収まりが悪いじゃない。もやもやしたまま戦いを見守るだけなんて、あたしの性に合っていないでしょ。
あたしは絶対に逃がさんと片膝を突き、ジャケットの腰を掴んだ。ソラは顔半分ほど振り返り、バツが悪そうに答えた。
「俺……もう敵でも味方でもないんです!」
「は、はあ!?」
「室長と取引をしたのは本当なんッス! 和葉たちを助ける代わりに俺は特戦を辞める! 今はこういう状況になったからこちら側に立っていて、皆さんのために戦おうと思っていますけど、だからって特戦の味方になったわけじゃないんス。俺にはもうそんな資格ないッスから!」
「資格って……ちょ、ちょっと!」
一歩二歩と歩き出したソラは、その歩調を徐々に速め、目の前で鬼のような形相をぶら下げたかつての仲間に斬り掛かった。それとぴったり同じタイミングでクリストファーは鎌を振り上げる。
火花が散る。鋼のぶつかり合う音が倉庫内を激しく反響した。
「覚悟はできてるってかッ!」
「手を抜いて勝てるような相手じゃないでしょ!」
互いの鎌の柄と刀の腹を擦り合わせ、しかし腕力で劣勢なソラが少しずつ後退する。
「あ、相変わらずの馬鹿力ッスね……」
「てめえのその喋り方、気に食わねえなっ!」
「うおッ!!」
力任せに振り抜かれた鎌がソラを襲う。その一閃を彼はブリッジのように仰け反り交わすと、倒れ込むように左に身を捻り、即座にクリストファーの脇に刀を振り上げた。
下から上へと流れる刀がクリストファーを捉える。しかし、男は驚くべき反射神経で身を翻し、コートの裾をわずかにかすめることしかできない。クリストファーは大きく距離を取り、鎌を握り直した。クリストファーの足もとにコートの切れ端がひらひらと舞い落ちる。男はその布をじっと見つめた。
「こいつぁまた面白えことになったな。お前の刀は斬る力を持たない、ただ真似るだけの使えねえ刀のはずだ」
ゆっくりと立ちあがるソラを真っ直ぐに伸ばした鎌で指し示す。確かに、彼の刀には物を切るための刃が存在しない。それはあたしたちが初顔合わせをした時に確認をしたはずなんだけど、今ソラが持ってる刀には刃が鈍い光を放っているようで……あれって……。
「刀を変えた? いや、その鍔の模様は俺の知っているものだ。つまり考えられるのは……それも誰かのコピーか」
「大正解ッス」
クリストファーの推理に、ソラは隠す気もなさそうに即答した。
「アイリス・ユーリカ・ベイルスフィアの能力、鋼鉄処女。それが今回、俺が使った能力の名前ッス」
言いながら彼は刀身を破片状に分解し、再度組み直した。
「条件は揃っていました。名前は本人の口から聞いていたし、稽古の時はこの刀を使っていたから三度以上接触していた。それさえあれば俺は人の能力を真似ることができる。あと必要なのは、俺自身がこの刀の能力を思い出すこと」
研ぎ澄まされた刀身をゆっくりとなびかせながらまぶたを細める。
「刀身で楯が作れるなら、刀身に刃を持たせることだってできる。偶然にも以前にこの力で、クリーパーを倒したこともありました。まさかこんな方法でこの刀の弱点を克服できるとは思いませんでしたけどね」
「なるほどな……まあいい。俺とてめえの殺し合いにはそれぐらいの得物がなくちゃつまらねえ!」
「それだけじゃないッスよ!」
その直後、不意に上げたソラのスーツの袖から、無数のツルが飛び出した。青々としたツルは大蛇のようにうねり、雪崩となってクリストファーに襲い掛かる。
「あ、あれって……」
禁断の果実――なずなが持つ植物を操る力。
なずなだけが持つ能力をソラが使ってる。それがソラに与えられた能力……?
彼の操るツルは濁流となってクリストファーに集中する。しかし、クリストファーは目にも止まらぬ速さで駆け回り、倉庫内の柱やドラム缶を楯に器用に逃げ回る。直撃を受けた柱はひしゃげ、蹴散らされたドラム缶があたしを守る鋼鉄処女に跳ね返った。
やがて、すべての楯を失ったクリストファーは観念したかのように立ち止まり――
そして、大鎌を彩るバラを散らした。
「くッ!」
空中から現れた二人目のクリストファーが大蛇となったツルを半ばから斬り落とした。その反動に寸毫の間、ソラの体勢が乱れる。そこへ、さらに一輪のバラが散った。
「ソラッ! 後ろ!」
突如、三人目のクリストファーがソラの背後に現れ、流れるようにその背に鎌を振り下ろした。どんなに超人的なソラだって、背後からの、それも正面を警戒しなければならない状況からの攻撃は、反応はできても対処はできない。
だけどそれは間違っていた。どこからともなく伸びた刀が鎌を受け止めた。
――二人目のソラが鎌を受け止めていた。
「もちろん知っていたさ。記憶を取り戻したってことは、俺の能力も真似ることができるってな!」
背後を襲ったクリストファーの腹をソラが蹴り飛ばす。二人目のソラはそのまま蹴飛ばした分身体に斬り掛かり、二人は戦闘を開始する。本体であるところのソラは、残された二人のクリストファーを前に刀を構え直した。
「「相手の背後に出現しての不意打ち。それがあんたの得意技ですよね」」
さらに二人に分裂しながら、ソラはクリストファーと対峙した。
「「付き合いが長いからなあ。お互いの手の内は充分に読める。お前が知っているということは、それと同様に俺もよく知っているということだ」」
二人のクリストファーは互いの鎌を叩き合せながら、まるでカウントダウンを刻むかのようにその調子を次第に速めていく。
「「もっと! もっと俺を楽しませてくれんだろ、ソラッ!」」
その怒声とともにクリストファーは地を這うように走り出した。二手に分かれた殺人鬼は、それぞれあらかじめ図っていたかのように二人のソラに襲い掛かる。
そしてソラもまたそれを知っていたかのように、二手に分かれて迎え撃つ。
三対三。三人のソラと三人のクリストファーの闘いは、入り込む余地を一切与えず、あたしは馬鹿みたいに口を開けたまま閉じることもままならない。
「……ソラ」
その闘いは次元が違い過ぎた。
楯を展開しておけと指示した彼の判断は正しくて、あたしたちがこの闘いに割って入ることはできない。第一今のあたしは手負いの身で役にも立たず、それより何より、クリストファーが放つ狂的な殺気を前にして、脚がすくみ上ってしまっている。
「お願い……負けないで……」
唯一あたしにできることと言えば、己の無力さを存分に味わい、楯の陰に隠れながら祈り続けることだけだった。
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