第8話 選択

 経過日数不明。現在時刻不明。

 六畳程度の狭い地下牢。一人の見張り、覗き穴の付けられた鉄扉、一対の蛍光灯。

 薄暗い牢屋の中で、俺は床に固定された鉄製の椅子に座っていた。ユン・アンフェイのように腕を胸の前でクロスし、上から布で縛り付けられている。この布は円城寺なずな特製のもので通気性はいいが、その拘束力には呆れるくらいに隙がない。口はマスク型の猿ぐつわで喋ることもままならず、また両足は椅子の脚と錠で繋がれ、微動だにすることもできない。

 食事の回数は現在までに八回、見張りの交代回数は十三回。およそ三日は経過したと考えていいだろうが、それらの間隔は一定ではないため正確な時間まではわからない。

 特殊戦略室のメンバーとは鈴代悠月、桐島竜胆、アイリス・ユーリカ・ベイルスフィアの三名に移送の際に会って以降面会はなく、もちろん通信が入ったこともない。

 何もなく、ただ静かに時間だけが過ぎていた。だが、その日はいつもと様子が違った。

 いつもろくに監視もせず眠っているだけの見張りの男が、今日は眠ることなく、どこかそわそわとしながら頻りに時計を気にしていた。猿ぐつわのせいで口の利けない俺には、彼のこの後のスケジュールを訊くこともできない。大事なデートがあるのかもな、羨ましい話だ。

 そう他愛もないことを考えていると、突然短いブザーが鳴った。見張りが立ち上がる。

 食事の時間にはまだ早い――面会者だ。

 ぎぃと厳かに鉄扉が開き、その向こうから喪服のようなドレス姿の女性が姿を現す。付けられたレースもリボンも、すべてが黒一色に統一されたゴシックロリータ調のドレスを揺らしながら、女性――アイリスは静かに見張りに告げた。


「退室をお願い致します」


 その申し出に見張りは口を開き掛けたが、凄味のある表情の彼女はそれを許さなかった。


「特殊戦略室室長、鈴代悠月の許可は得ております。退室をお願い致します」


 有無を言わさぬ言葉に逆らうこともできず、見張りは一つ頷いて退室した。扉が閉まるのを確認した彼女は、こちらへと一歩踏み出し、俺の前で立ち止まった。


「こんにちは、ソラさん。いかがお過ごしですか」


 アイリスは両手を伸ばし、俺に噛まされている猿ぐつわをはずす。優しく丁寧に。


「……はあ……ちょっと待遇が悪過ぎる、かな」


 空気を吸い込む。牢屋の淀んだ空気とはいえ、肺を通ったそれは存外心地がよかった。一頻り吸い終え、俺は彼女に問い掛ける。


「それで何か用か?」


 わざわざ地下まで来て、人払いをするほどだ。顔が見たくて来たとか、そんな甘っちょろい理由じゃないだろう。


「そうですね。世論の大勢がおおむね決まったのでそのご報告を。それといくつかの事情聴取をさせてください」


 アイリスは見張りが座っていたパイプ椅子を俺の正面まで引きずり、しとやかに腰を落としながら、手にしたタブレット端末を起動した。横向きにされたタブレットには、空から撮られた新宿大通りが映っていた。炎を上げる車両とその近くでうごめく黒い物体。四角いキューブと複数の男女。この間の一件で撮られた映像のようだ。


「三日前、靖国通りで行われたエコーによる宣誓式、通称 《共鳴事件》はアメリカやロシア、中国、ヨーロッパ各国の計十三の主要都市で同時多発的に行われました。宣誓文は《神》やヒトガタ、エクセルなどを含むすべてが文言は違えど同一の内容で、それらには黒いキューブと数体のクリーパーが目撃されています」


 タブレットの映像が十三分割され、それぞれにキューブとクリーパーが映っている。アナウンサーの声は日本語の内容が流れており、俺たちについての根拠のない憶測が叫ばれていた。


「事前に報道各社へ匿名の連絡があったということで、この映像は全国に放映され、事件後、世論は大きく二つに分かれました。一つは《神》を打倒しようとするエコー賛成派ともう一つは状況をただ静観する消極派です。その他、政府の大部分が判断を保留にしている状態で、混乱は免れません。また事件からたった三日ですが、エクセリアによると思われる犯罪が多発していて、報道内容の約八割がエクセリア関連で占められています」

「メディアへのリークは、そういう事態を見込んでのことだからな」


 世論が二分されれば、それへの対応に政府は追われる。同時に、賛同者を集めることでこちらの行動を有利に進めることも可能になる。


「何より重要なのは、特戦のような能力者たちをあぶり出すことにある」

「それは大体において達成されたみたいですね」


 映像の終わったタブレットを膝の上に置き、アイリスは自虐的に苦笑する。


「この映像によって、グリーンウェアがボランティア団体でないことが露見しました。同時に一部の政府関係者によるエクセリアの隠蔽が糾弾され、報道管制の協定を破った本来罰せられる側であるはずのマスコミよりも、隠していた我々の方に非があるということで責任を問われています。ここからではわからないでしょうけれど、今でも正面玄関はマスコミの方々や抗議デモの集団で溢れ返っています」


 面倒です、と彼女はため息をつき、うんざりしたように肩を落とした。


「和葉も……だいぶ気が滅入っているようです」

「……」


 その名前が出て、俺はしばし黙考した。想像に難くない。

 事件時、御形和葉は聖蹟女学園の制服を着ていた。その彼女が変異トランスという見た目にもわかりやすい能力を使い、しかも少女から生まれた幼体のヒトガタを射殺した。それは大々的に全国へと放送されてしまった。糾弾されるのは免れないだろう。


「なるほど、鈴代悠月が御形和葉を止めようとしたのはそれが理由か」


 あの時、俺が止めるよりも早く、鈴代が通信を入れた。鈴代はあの場で和葉が銃を使うことから生じるリスクを瞬時に見極めたに違いない。恐ろしく頭の回転が速い人だ。


「室長は和葉を一時謹慎処分にしようとしたのですが、その後多発したクリーパーや能力者の事件のせいで、結局今も出払っている状態です」

「今も?」

「つい数十分前にもクリーパーが出現しました。和葉となずなで対応しております」

「そうか……無事に終わるといいな」


 視線を扉の方に逸らしながら俺は呟く。言えた義理じゃないと思った。

それに対し、悄然と顔を下げたアイリスは、タブレットの上に揃えた両手を見つめた。蛍光灯がチカチカと明滅する。それに合わせるように俺は目を細めた。


「いつから俺をマークしていたんだ? あの現場で、動揺している御形和葉の隣にいて、きみは比較的冷静さを保っていた。あの対応はなかなか見事だった、咄嗟にできるものじゃない」


 俺の正体をクリストファー・ランドストンに問い掛け、和葉の手を取ろうとしたところを拘束する。何の意識もなしにやるには、彼女の手際は良過ぎるものだった。

その質問に彼女は少しの間、目を閉じる。やがて開けられたその先には哀愁がこもっていた。


「……そもそもわたくしは始めから、室長にソラさんの監視役を任されていました」

「そもそも?」

「そもそも、です。室長がいつ、何を感じ取ってソラさんを気に掛けていらっしゃったのかわかりませんが、ソラさんが着任されてから三日も経たないうちに、それを言い渡されています」

「つくづく優秀な人だな。だが、監視を任せるなら円城寺なずなの方が適任だったんじゃないか? あの少女なら場所を選ばず、俺のことを把握できるだろう」


 一定間隔に種を撒き、常に東京都内を監視している彼女だ。俺一人意識下に入れたって何の支障もないだろう。何より、目で追わずとも位置が把握できるのは効率がいい。

 ――と思っていたのは俺だけだったらしい。


「……なずなは……まだ幼過ぎるんです」


 そう発言する彼女は、決して視線を合わせなかった。


「彼女は感情表現が苦手なところがあります。笑うことや泣くこと、驚くこと、恐怖すること。彼女はそれらを表面に見せようとしません。それは彼女自身も自覚しているところで、彼女はよく《感情がない》という言い方をされます。ですが、それは思い込みによるところも大きいとわたくしは考えています。彼女は決して何も感じていないということはありません。むしろ歳相応の豊かな感受性を充分に備えていると思います。一ヶ月間だけの付き合いでも、それは感じられたのではないでしょうか?」

「……あぁ」


 俺は少し考えたのち、しっかりと頷いた。アイリスの言うことはまったくその通りだった。

 いつか花の植え替えを手伝った時、花を触る表情やその機微には確かな喜びが見えた。いつか手話をしてみせた時、顔を伏せ、まるで泣き出さんとするかのような素振りを見せた。

 他にも円城寺なずなは、感情と呼べるものを俺に見せていた。


「もし、なずなにソラさんの監視を命じた場合、その彼女自身の御しきれていない感情の部分が、万が一の事態を招く可能性があると思うのです」

「それは……?」


 それがどういう意味なのか、すぐには理解ができなかった。たった一ヶ月の付き合いでしかない俺には理解のできないことなのかもしれない。それはアイリスも重々承知しているようだった。彼女は探るように口を開いた。


「……こんなことを言うべきではないのでしょうが……なずなはソラさんにある種特別な感情を抱いているような気がします」

「特別な感情?」

「恋愛感情です」


 そう口にした彼女の表情には、どこか翳りがあるように思えた。


「恋愛感情は咄嗟の判断を鈍らせます。もし、あの場面でソラさんのそばにいたのがわたくしではなくなずなだったとしたら、どうなっていたことか予測も付きません」

「それは自分なら絶対うまくやれるという自信の表れにも取れるけど?」


 彼女の発言がどこか滑稽に見えて、俺は突っ込まずにはいられなかった。実際やってのけたのだからその自信は証明されているわけだが、如何せん女性らしさがない。色恋沙汰なんてものは誰にだって一つや二つあるもので、ましてや女性の好むネタだろう。まるで自分には無関係と言わんばかりの言い草だ。


「これを自信と呼んでよいものかわかりませんが……そうですね、わたくしにはあの場で他の誰よりもうまく立ち回れる自信があります」


 そして一拍を置き、一転して自信など一切窺えない、悲しい告白する。


「わたくしは《愛》を奪われたエクセリアなのです。ですから、わたくしがそういった恋愛感情で判断を誤るようなことは決してありません。だからこそ、室長はわたくしにソラさんの監視役を任せたのです」

「それは……」


 それはとても残酷なことだと思った。彼女の特性を利用した鈴代もそうだが、可憐な彼女の大事な要素を奪った《神》の所業があまりにも残酷過ぎた。


「あ、えっとその……ご心配には及びません……最近少しだけ取り戻していて、まったく理解できないというわけではないんです。ちょっとだけなら、彼女たちの気持ちもわかるんです」


 ほんのちょっとですけどね、とわずかに苦笑し、彼女は肩を落とした。


「……」「……」


 気まずい沈黙が流れる。一ヶ月の間、特戦の中でも尽きることなく会話をしてきたはずの俺たちだったのに、今や会話をすること自体が憚られるような、凍りついた空気が部屋を包み込んだ。


「……どうしてこんなことになってしまったんでしょうね。すべて気のせいだったらよかったのに……。ソラさんは記憶を奪われただけの普通の男性で、あなたはそれをただ取り戻すためにここで奮闘する。わたくしたちはそれを見守りながら、ちょっと変化を得た日常を楽しむ。ただ……それだけでよかったのに……」

「……」


 微かに漏れた彼女の言葉に、俺は沈黙を通した。俯いていた彼女がぐっと頭を上げ、湿り気を帯びた声を発した。


「エコーって、エコーって一体、何なのですか? エコーは何をしようとして……ソラさんは何者なのですか……ずっと不安だったんです。剣道場でソラさんと剣を交えたあの時から……強過ぎるあなたを見て……」

「……それは、」


 俺は何者なのか――それは今まで俺が考え続けた問いに他ならない。

 一ヶ月前の墜落事故で俺は記憶を失った。その記憶を取り戻したくて、この特戦でちょっと癖のある同僚たちと生活をともにした。

 時に刀を振り、時に引き金を引き、時に花を植えた。

 やがて俺は過去の記憶を取り戻した。それは今の俺には受け入れがたく、こうして無様に逃げ出してしまった。

 特戦か、エコーか。この三日間俺は考え続けた。

 時間は充分にあった。すでに俺はこれからの自身の在り方を決めている。これから何をするべきか、どう生きるかについて充分な結論を俺は得ていた。

 そして、そこで得た結論は、彼女の質問に解答することとと決してぶつかり合うものじゃない。ならば、答えるのもやぶさかじゃないだろう。何より――


「クリストファーが言ったことは嘘じゃない」


 ――アイリスの悲哀を帯びた顔に、俺は口を開かずにはいられなかった。


「エコーは《神》を殺し、歴史を人の手に取り戻すために集まった。俺たちは俺たちの奪われたものを取り返す。そのために集まった。それは嘘じゃない」


 だがあいつは重要なことを言わなかった、と俺は三年間を思い出す。


「俺たちは《神》を殺すために、段階的計画を立てた。その第一段階は戦力の増強。充分なエクセルエクセリアと充分なヒトガタクリーパーを集めること。そのための手段をあいつは言及しなかった、意図的にな」


 扇動者による恣意的な情報操作。必要な情報と不要な情報を選り分け、大衆の耳触りのいいプロパガンダを造り上げる。今も昔も歴史を動かす奴は、往々にしてそういうことをやってのける。今回もそれは変わらない。


「俺たちエクセルやヒトガタの発端は人間の死だ。だが、偶発的に起こる人の死の、しかもその中でさらに極少数の進化を待つのは、あまりに効率が悪過ぎる。だから――俺たちは能動的に大量の人間を殺すことにした。旅客機の墜落もその一つに過ぎない」

「そんなこと……」


 俺の言葉に彼女は息を詰まらせた。


「俺の任務はヒトガタを集めることだった。《神》を殺すのは生半可なことじゃない。頭数が揃わないうちに始めるのは愚策だろう。チャンスは一度あるかないかなんだから」


 俺は少し顎を上げ、天井を見つめた。黒ずんだ蛍光灯が目に付いた。


「今までに何人殺したかなんて覚えていないし……後悔もない。あの時の俺は、それ以外の方法を知らなかったんだ。奪われたものを一刻も早く取り返したくて、がむしゃらに生きていた。そういう生き方しかできなかった……」


 俺の静かな独白に、吞み込むようにアイリスは頷いた。


「個人の正義や悪についてとやかく議論をするつもりはありませんが、あなたが取った方法は間違いなく悪です。決して許されることではありません。ですが、過去を憂いても、もう変えることはできない。だとすれば、今ソラさんに求められるのは、これからどうするか、なのではないでしょうか。罪を償うのも、罪を重ねるのも選ぶのはソラさんです」


 静かな瞳で俺を見つめる。


「どんなエクセリアであれ、対策局に協力的かつ有益であると判断されれば、それがどんな悪意ある人間だったとしても特赦を与えることが可能です。もし、今のソラさんが罪を償うために再度協力を申し出て下さるのなら、今後予定されている本件の審問会でわたくしは便宜を図ることも考えております」

「まさか……再雇用でもする気か?」

「そのような選択肢も存在するということです。わたくしは特赦を与えることも選択のうちだと考え、それを望んでいます。またソラさんと仕事がしたいんです。きっと、わたくし以外の皆さんもそう願っていると思います」


 そう言ってアイリスは笑顔を作った。まるですべてを悟り、許すかのように朗らかな笑みで俺を見たのだ。よもやこの状況で笑うことができるとは、とんでもない精神力だ。彼女なりの優しさがそうさせるのか、境遇が彼女を狂人にしたか。

 でも――俺はその笑顔が好きだった。


「すみません、余計なことを言いました……話題を変えましょう。えーっと……そうですね、エコーについてもう少し質問をさせてください。エコーは何人で構成されていて、どういった能力者がいるのでしょうか?」

「……」


 その質問は少し困った。なぜなら――


「悪いが、すべてを思い出したわけじゃないんだ。できることなら、答えてもよかったんだが、その《記憶》はまだ奪われた部分に残されているらしいな」

「それは仕方ありません。では、ソラさんの能力についてお聞きしたいのですが、あれは相手の力を奪うものと考えて間違いないですか?」


 俺の返答に、アイリスは特別落胆した素振りを見せなかった。


「……奪うというと語弊があるかな。そこまで便利なものじゃない」

「では、どのような……」


 彼女は顎に指を添える。ようやく事情聴取らしくなってきた。

 さて、俺の能力についてだが、その特性上言わないに越したことはない。が、すでに三人娘の能力は手中にあるので、言ったところで差し支えることはないのかもしれない。


「俺の能力は無愛想な道化師の技巧クラウンズハンズ。特定の手順を踏むことで相手の力をコピーすることができる」

「無愛想な道化師の技巧? コピーですか」

「そうだ……俺は《笑い》を失ったことで相手の能力を模倣する力を手に入れた。ただし、あくまでも模倣でしかなく、その能力が本物の力を上回ることはできない。例えば俺がコピーした鋼鉄処女は刀の刀身分の鋼しか操ることができない。きみの黒鋼の量に比べれば微々たるものだ」


 俺はエクセルになってからの三年間、様々な力をコピーした。俺の能力は、たとえ劣化を引き起こすとしても稀少価値が高く、エコーにいた時、可能な限りコピーするように努めた。だけど、記憶をなくしてからそのすべてを失ってしまった。


「能力を得る手順は二つ。まず、コピーする相手のフルネームを知ること。そして、もう一つは、コピーしたい相手の能力を刀で三度、触れること。その二つが揃って初めて、能力をコピーすることができる」

「三度ですか……では、ソラさんのアーキタイプが鈍らなのは、人を殺めるためではなくコピーするためにあるからなんですね」

「まあそんなもんだ」


 変わった能力ですね、とアイリスは手にしたタブレットに文字を入力する。一通り書き終えたのか、彼女は出し抜けに疑問をぶつけた。


「少し気になったのですが、その模倣する力は《笑う》ことを代償に得たものなんですよね? では……ソラさんは《記憶》を代償に何を得たのでしょうか?」


 真剣に問い掛けてくる彼女の見当ハズレな質問に、俺は眉根を寄せた。


「記憶は奪われたわけじゃない。単に事故のショックで失っただけだ」

「本当にそうでしょうか? 突飛なことを言うようでごめんなさい。もしかしたらですが……ソラさんは、二度死んだのではないでしょうか?」

「二度死ぬ? まさか……」


 そんなことがあり得るか? さすがに考え難い推測だが……。


「仮説の域を出ませんし、根拠を裏付けるだけの証拠があるわけでもありませんが……ソラさんが墜落事故に遭われた直後の身体が、その……とても……綺麗だったんです。あー、モニター越しに見ていただけですよ」


 高精細でしたが、と彼女は蚊の鳴くような声を出し、頬を赤らめる。


「もし、単なる事故の後遺症として記憶を失ったのなら、頭部にそれを誘発するだけの外傷があってしかるべきです。ですが、ソラさんにはそれらしきものはなく、せいぜい火傷に留まっていました。これは、エクセリア化の際に起こる全快現象リセットオーラによって、ソラさんの傷が治癒したからであると考えられます」


 全快現象――例えば、和葉が自殺を試みた時に負った手首の傷が、跡形もなく消えたことなどがそれに該当する。死の前後に負った傷は、もれなくリセットされ、まったく無傷の状態になる。これはエクセル化とセットになって起こる現象で、確かに彼女の二度死んだという仮説を支持する材料にはなる。

 が、二度死ぬなどという現象の前例を聞いたことがない。


「もし……もしですよ? もし、この仮説が正しいとしたら、ソラさんにはもう一つの……」


 ほどなく躊躇いがちに口を開くアイリスだったが――唐突の妨害にそれは頓挫する。


『――誰か! 誰か、聞こえる!? ねえ、誰かっ!!』


 急な交信が停滞しかけていた牢屋の空気を一変させた。舌ももつれぬほど早口にまくし立てる和葉の声が、アイリスの言葉を遮った。しかも相当に焦っているらしく、敵である俺にまで声を送っている。


「落ち着いて下さい! どうしたんですか、和葉!」


 驚きながらこめかみを押さえたアイリスは、言いながらハッとして俺を見た。

交信が入った瞬間、彼女と同様俺も思わず全身を強張らせてしまった。おそらくアイリスはそれに気付いたんだろう。通信が聞かれていることに勘付いたに違いない。

 プライベートラインに変えたのか、その後は嘘のような静けさに包まれた。時おりこめかみが通電するように反応するが、声は聞こえず、俺はアイリスの次の行動を待つだけになる。

 その矢先、奇妙なことが起こった。


「……?」


 全身を硬く縛っていた布が緩んだ。それは傍から見たらわからないぐらいのわずかな変化で、実際目の前のアイリスもその変化には気が付いていない。

 それよりも気掛かりなのは、何故このタイミングで布がほどけたのか、だ。この布はなずなが生成した特殊なもので、三日巻いてもズレることすらなかった。なのに、まるで和葉の通信を見計らったかのようなタイミングでそれが起こった。

 急な和葉の交信と同時に起きたなずなの能力の解除。まさか――


「すみません、ソラさん。今日はここまでにします」


 青ざめた頬を見せるアイリスは、椅子から立ち上がり向きを変えると、どこかぎこちない足取りでドアを目指す。


「何があった?」


 その背中に俺は問い掛けた。彼女の手がドアノブを握ったまま止まる。横顔だけを俺に向け、幾ばくか逡巡した後、かすれた声をわずかに発する。


「なずなが誘拐されました」

「…………」


 ――やっぱりか……。


「和葉が気付いた時には、全身が黒いキューブに吞み込まれる直前だったそうです」

「もう動き出したのか。再会は思っていたよりも早そうだな」

「これから和葉と合流して、なずなを捜索します」


 失礼します、とアイリスはノブを捻った。彼女が廊下へ出ると、入れ替わる形で見張りの男が入り、ドアを閉める。見張りは一度俺を見てから、アイリスが動かしたパイプ椅子をもとの位置に戻し、腰を落とした。

 ――さて……そろそろ俺も行動に移すかな……。


「おい」


 声を掛けると見張りは再度俺に目をやり、そして不満そうに向き合った。俺は目で床に落ちた猿ぐつわを示した。


「あの女、それを外したまま出て行ったが、付けなくていいのか?」


 見張りの視線が俺の足元に移る。アイリスが来る前とは打って変わって、渋面を隠さない男は勿体付けるようにゆっくりと立ち上がり、前屈みになって猿ぐつわに手を伸ばした。


 見張りの首筋が露わになる。即座に緩んだ布から腕を出し、むき出しになった首に思いっきり拳を振り下ろした。

 どっと鈍い音が鳴り、見張りはそのまま地面に顔面を打ち付け、気を失った。


「これか……」


 足元で昏倒する男の腰から鍵の束を拾い上げ、両足の錠を外す。椅子から腰を上げた俺は、身体から流れた布を掴む。しばらくそれを見つめる。

 どうして――どうして、この布はほどけたのだろうか。元々ほどけるように仕組まれていたのか、それとも危機に陥ったなずながそれを解除したのか。

 いずれにしたって、彼女の意思がそれらに介在しているのは間違いない。

 じゃあ、彼女の意思とは何なのか。敵である俺を助ける理由は何なのか。


「まったく世話の掛かるお嬢さんだ」


 きっとアイリスが言ったことは真実なのだろう。

 なずなは俺のことを信じてしまっているんだ。俺が特戦とともに歩むことを信じているから、こうして自分の危機に俺に助けを求めたんだ。俺なんかを信じて、懸けたんだ。

 でも――残念ながら、俺はその気持ちを裏切ることになる。

 廊下に出た俺は通路を見回し、人がいないのを確認する。


「まずは……刀を探すか……」



***



 特殊災害対策局本部ビル一階。エントランス。

 ボランティア団体という表の顔を辞めたビルは、俺の知っている三日前とだいぶ空気が違っていた。ガラス張りで日の光を取り込めるはずのエントランスはシャッターが下ろされ、入り口とその両脇一つずつかしか開いていない。そのせばまった窓からは夕陽が差し込み、入り口からエレベーターホールまで一直線の光の絨毯を形成している。

 警備はない。受付さえ中座したのか消え失せている。二課にある押収品保管庫を経由して刀を拝借してきたが、その時も人の気配を感じることがなかった。記憶に間違いがなければ、このエントランスにはカモフラージュも兼ねて、私服の職員が詰めていたはず。しかもアイリスの話によれば、ビルの外にはマスコミが絶えないということだったが、その影さえも見当たらない。ここまでの状況が自然と成り立つとは思えない。

 ――どうやら場は準備されていたらしい。


「やはりイニシアチブを取られてしまったね」


 エレベーターを降りて右手に見える受付には、通用口へと繋がる短い通路がある。ここからでは死角となるそのスペースはかくれんぼには打ってつけだっただろう。


「状況は最悪だ。懸念していた案件がことごとく想定する最悪の結果に繋がってしまった」


 一筋の煙が立ち上った。車輪の回る音、大理石の床を擦るタイヤの音が響く。

 黒服のオフィスレディ。片足の特戦室長――鈴代悠月が、補佐役――桐島竜胆に車椅子を押されながら現れた。


「もっと大きな混乱を期待していたが、充分な成果だろう。いつから俺を疑っていた?」


 刀の柄に手を掛ける俺は、今もっとも気になっていた質問を投げ掛けた。


「いつからか、と問われれば、最初からと答えなくてはならないな」

すると、鈴代は俺の考える以上の返答をした。

「最初から?」

「そうだよ、灰崎くん。私は最初からきみを疑っていた」


 きみには謝らなくちゃならないな、と片手で頭を掻きつつ、彼女は煙草を口に咥えながら器用に話し始めた。


「きみが巻き込まれた墜落事故のことで私はいくつか嘘をついた」


 特戦に来て最初の晩。クリーパー掃討後、俺と鈴代は二人で会話をした。墜落事故の詳細を聞かされたんだ。


「当初私は、名簿にあった人間のうち生存者はきみ一人だけだったと説明したが、そもそもあれこそが最初の嘘だった。あの墜落事故での名簿上の生存者はゼロ。みんな死んでいたんだよ」


 淡々とした口調。感情は込められていない。


「それから機長と管制塔とのやり取りもそうだ。あれは嘘をついたというよりも意図的に話さなかったのだが、事故直前、機長は『機内で二人の男が暴れている』と言っているのがフライトレコーダーには残されていた。この二つから想定されることはそう多くはないだろ?」

「それでもアイリス嬢一人にしか事実を伝えず、俺をそのまま自由にしておいたのは、あなたのミスと言わざるを得ない」

「確かにそうかもな。だがメリットとデメリットを天秤に掛けてみれば、あながちそうとも言い切れない。本部の医務室には信頼を置いているし、きみは私の鎌掛けにも引っかからなかった。総じてあの時点で、きみが記憶喪失であるということに疑いの余地はなかった。当初は私も《記憶》は奪われたのだと思っていたが、聞けばきみが奪われたのは《笑い》だそうじゃないか。だとすれば、恐らくきみの記憶は、墜落時に想定外の衝撃を受けたせいで失われたんだろう。そういえば、きみの記憶喪失について、アイリスは面白い見解を述べていたが、聞いたかな? いや、聞いていなくてもいい……」


 戯言だ、と鈴代は煙を吸い、吐き出す。


「記憶を失ったきみは利用価値があると判断した。特戦の人員不足はご存じの通りで、上手いことを言ってこちら側に付いていてくれれば、それだけでメリットがある。きみが記憶を取り戻したとして、すべての懸案事項が勘違いでしたというならそれも良し、もし万が一、最悪の結果に繋がったとしても、アイリスや和葉が側にいる状況を作っておける」

「……咄嗟に取り押さえるのが容易になる」

「そうだ。ただきみたちの行動は予定外だったな。衝突するなら対策局への直接攻撃だろうと思っていたが、まさか公然と宣戦布告してくるとは思わなかったよ。こちらが必死に隠してきたことをあんなにもあっさりと。きみたちの話した《神》の概念も、私にとっては興味深かった」


 概念じゃないんだけどなあ、と思ったが、俺は頭を掻くことでそれに代える。今さら神が何なのかを言い合っても意味はない。クリストファーが説明した通りなのだから。


「とはいえ、一ヶ月と少しの間だったが、それでもきみは充分に期待に応えてくれた」

「……」


 鈴代の皮肉たっぷりの褒め言葉に俺が無言でいると、一つ訊いてもいいかな、と彼女は切り替えた。


「きみはどうして、三年も前の学生証を大事にポケットにしまっていたのかな? しかも偽造ではない本物なんかを。テロ集団の一員とは思えない行動だと思うが」

「…………そういえばそれも返してもらってないな」


 学生証は、特戦のメンバーに名前を知られるきっかけになったもの。別に組織の管理が杜撰だったわけじゃない。ただあれは――


「自分を忘れないようにしていたんだ。生き返る代わりに笑うことを奪われ、人ではないものとして行動を始めてから、だんだんと感情がなくなるような気がし始めた。自分が自分でなくなるような感覚だ。クリストファーにはくだらないことを考えているっていつも馬鹿にされていたけどな」


 過去を思い出し、少しだけ笑みがこぼれた。新鮮な感覚だった。


「崩壊を始めた自分という存在を常に忘れないように、身分証を肌身離さず大切に持っていた。可愛いもんだろ、昔の俺は」

「……ふっ、かもしれないね」


 自虐的な俺を彼女は鼻で笑った。咥えた煙草を胸ポケットから出した携帯灰皿に落とす。


「では、これからきみはどうする?」


 静かな瞳を俺に向ける。彼女の掴みどころのない性格も相まって、その視線は俺の中身まで探っているように思えた。


「一度記憶を失って今まで見えていたものが変わっただろう? 自分の為すべきこと、在るべき場所。一度白紙に戻ったことで、きみはそれを改めて考える機会を得たはずだ。今、どこかへ行こうとするきみは、果たして何を為そうとしているんだ? 何を得たんだ?」

「今日は随分とよく喋るじゃないか」

「上司として部下の動向は知っておくべきだろう? そして間違った選択をした場合、それを直してやらなくちゃならない」


 その物言いに俺は問わざるを得なかった。


「それは脅しか?」

「……脅し?」


 そう問い掛けると、意外なことに鈴代は押し黙った。数秒間考え込み、やがて、


「……ああ、あるいはそうかもしれないな」


 虚を突かれたと言わんばかりの表情だった。普段冷静沈着な鈴代にしてはあり得ないような、呆けた顔をしていた。彼女自身、意外に思っているのかもしれない。


「ははは……あくまで、きみがこれから何をしようとしているのかを訊いていたつもりだったのだが……はは、そうか、私は……きみを恐れていたんだ」


 自嘲気味に微笑みながら、彼女は片手を額に当てる。


「私たちは、今まで同時に複数のクリーパーやエクセリアに遭遇したことがなく、せいぜい一個人の能力者の暴動程度しか出会ったことがなかった。エコーほどの組織的で、強力な力を持った脅威は今回が初めてだった。おかげで世間にもすべてを知られ、上からは事態の火消しに追われる。一刻も早く今後の方針を固めなければならない。その過程で、私はこの特殊戦略室の存続を危ぶみ始めている」


 少し早口な彼女の目は定まらず、怯えが見え隠れしている。その彼女の肩に、背後の桐島が手を添えた。


「でも私は何が何でも円城寺なずな、御形和葉、アイリス・ユーリカ・ベイルスフィアの三人を守るつもりでいる。私は三人を本当の娘のように思っている、家族であると思っている。もちろん、桐島くんもその一員であり、もしかしたら……きみもそうだったのかもしれない」


 そして言葉を継ぐように桐島が言う。


「楽しかったですよ。灰崎さんがいたこの一ヶ月は。だからこそ惜しい」


 女性ばかりの職場は肩身が狭いんです、と彼は苦笑した。だが、すぐに表情は変わり、口元をその分厚いマフラーで覆い隠す。


「きみがここで特戦を潰そうというのなら、私たちは全力できみを止めるだろう。私たち二人を合わせたってきみには敵わないとわかっているが、たとえ刺し違えたって止める。私は……私が死んででも――」


 ――あの子たちを護るって決めているんでね。


「…………」


 その在り様に、さすが、と言わざるを得なかった。わずか数秒――明確な恐怖を湛えていたはずの瞳には、もう一片の迷いも窺えない。まるで本当の娘を守る母親のように、どんな恐怖や絶望があろうとも挫けぬ父親のように、彼女は毅然と言い放った。

 そして、車椅子の小さな上司に仕える眼鏡の補佐もまた明確な敵意を――両手の平から鋭利に尖る氷柱を伸ばし、俺に向けていた。

 緊迫した時間が流れる。どこか冷え切った感覚は桐島の手から生える氷のせいか、はたまた二人から漂う覚悟のせいか。だが――


「はは、はははっ」


 その光景に、俺は思わず笑ってしまった。


「よく言うだろ、勇気と無謀を混同してはいけないって。今のあなたたちはまさにそれだ。度胸は認める。だけど、それは最善策じゃない。そういうのは愚かな人間のやることだ」


 俺の言い分に鈴代は座りを直す。


「それくらい焦っているのさ。私は優秀な司令ではないからね」


 彼女は嘆息する。俺の向こう――どこか遠くに視線を向けているようで、その先に何があるのかはわからなかった。


「いくら護ると言ったって、私には戦えるだけの力がない。心苦しくもあの子たちを前線に出さなければならない。ならせめて少しでも、あの子たちの生存率を上げる方法を探さなくちゃならない」

「それがこれ、か……」


 二人のむき出しの敵意は、集約するように俺に向かっている。

 絶望は臆病者に勇気を与える。窮鼠は猫を噛む。あらゆる生物は、死を目前にした時、生きるためのあらゆる手段を取る。俺が二人を殺そうとすれば、二人は全力で俺に立ちはだかる。俺もただじゃすまないに違いない。なら、俺もそれなりの覚悟を――

 と意気込むのもありなんだが、実のところそれは俺の本意じゃない。

 牢屋に閉じ込められた三日間のうちに見出した結論は、目の前の二人の覚悟と決して衝突するものではなかった。


「……鈴代悠月、一つだけ話をしてもいいか?」

「何かな、灰崎くん」

「今から――」


――俺と取引をしないか?

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