第7話 真相

 禍々しく歪んだ鉤爪を一重でかわし、青年は刀を猛獣の脳天に打ち付けた。頭蓋骨を揺さぶられた猛獣は、勢いよく灰色のコンクリートを転がり、そのままひれ伏した。


『殺すんじゃねえぞ。連れて帰らなきゃならねえんだからな』


 金色の長髪をなびかせながら、背後に立つ男は面倒そうにぼやいた。

 東京。午前一時。

 都会の闇の中。地上から遥か上空――高層ビルの屋上に二人はいた。


『わかってるよ、そんなこと』


 左手に刀を提げる青年は無表情で振り向いた。青年の目の前には、二メートルは超えるかという巨大な獣が横たわっている。全身からは黒い陽炎が立ち上り、それは気絶した今もゆらゆらと揺れている。

 男は動かなくなったその獣の様子を、瞳を眇めて窺う。そして、片手に握った大鎌を肩に掛けると、中空に視線を向けた。


『おい! ハン! 見てるんだろ。さっさと回収しろ!』


 その声は月の浮かぶ空に反響し、拡散する。すぐに声は消え、静寂が訪れるが、途端に二人の背後から声がした。


『まったく、うるさいなぁ。そんなに大声出さなくても聞こえてるよ。キミの声は肌に沁みる』


 室外機が無数に並ぶ上にその声の主はいた。


『それから僕はハン・ユウをやめたんだ。今は暫定的にロイと呼んでくれ』


《僕》という一人称を使う声は、その人称に反して幼い少女のものだった。

 小柄な少女――ロイは、フード付の黒いコートを着込み、足の先まですっぽり隠していた。フードの隙間からわずかに覗いた顔には、血の滲んだ包帯が何重にも巻かれており、黒い瞳をたたえた両目だけが微かに覗いている。両手を胸の前でクロスし、それもまた包帯でがんじがらめに縛りつけ、肌の露出している部分が皆無と言ってもいいくらい全身を覆っている。

 少女の頭上には、一辺が三メートルもある正六面体の奇妙な《箱》が浮かんでいた。


『これで二〇体目だね。おめでとう、一人分のノルマは達成だ』


 頭上の箱は、ゆったりとした動きで横たわる獣の上に移動すると、徐々にその肉体を侵食していく。やがて、獣の肉体を跡形もなく吞み込み、箱は少女の頭上へと舞い戻った。


『二人で四〇体がノルマだから、二人にはもう少し頑張ってもらうよ』

『言われなくてもわかってるっつうの』


 ロイの言葉に、男は気怠そうに返事する。その不満に満ちたぼやきを聞いた少女は、ふっと鼻で笑い、青年に視線を向けた。


『次僕を呼ぶ時は、キミがしてくれないかな。クリストファーはいちいちうるさい』


 男――クリストファーに使っていた刺々しい口調を捨て、ロイは静かに囁いた。青年に少女の表情は見えないが、きっと微笑んでいるのがわかる。青年は頷いた。


『構わない』

『おうおう、俺の対応とずいぶん違うじゃねえか』


 二人のやりとりに心証を害したクリストファーが厳しく突っ掛かる。男の態度に、ロイは冷たい視線を向け、ため息をついた。


『それがうるさいって言うんだよ、クリストファー。キミみたいな異常者と彼のような良識人だったら態度も変わるのが必然さ』


 ロイは青年を一瞥すると身を翻し、二人と距離を取った。ひらひらと手を振る。


『じゃあ、僕は他のペアの様子を見てくるよ。引き続き回収、よろしく』


 その言葉に合わせ、少女の頭上にある箱が降下し、頭部から少女を包み込んでいく。やがて小さな全身を覆い隠し、同時に箱自体もその姿を闇に溶かしていった。それを見届けた青年は持っていた刀を鞘に納めた。一方クリストファーは大鎌を闇の中に消失させる。


『他のペアねえ。ハン……いや今はロイだったか。あいつも忙しい奴だな』

『彼女はよく働いてくれている。彼女の運搬能力のおかげで、組織の抱えていた問題もいくつか排除された』

『……組織ねえ』


 クリストファーはその緑碧玉色の瞳で月を眺めた。


『俺とお前が組んでそろそろ三年か? 思い返してもこの三年間は不毛な時間だったなあ』

『まだまだ続く。今やってることは土台作りに過ぎないんだから』


 ロイの箱の中に納まった獣の数は二〇体。目標数にはまだ遠く及ばず、またこの作業は、彼らにとって目的の第一段階でしかない。


『そりゃ知っているさ、充分過ぎるほどにな。まあ、これからもよろしく頼むぜ、相棒』

『相棒? 《友情》なんて知らないくせに……』


 長い髪を掻き上げ歩き出したクリストファーの後を追いながら、青年は目を細める。

 対して、男は首だけをこちらに向けながら、高らかに言った。


『俺はなくした《友情》のことを覚えてるんだ。それがあれば演じることだって簡単だ――』


 そして呼ぶ。青年の名前を。


 ――よく覚えとけ、ソラ。



***



「あの通りの中ほどを曲がったところに服飾のお店があるんです」

「次はそこ行くんスか?」

「手芸も趣味だもんね、アイリスは」


 新宿駅近郊。午後三時、快晴。

 俺とアイリスは、聖蹟女学園で和葉のお迎え任務を終えたのち、三人で新宿の街を歩いていた。天気がいいにも関わらず人混みもまばらで、俺たちは横一列になりながら目的地を目指していた。

 ところで、俺専任のお迎え任務に、どうして今日に限ってアイリスが同行しているのかというと――その原因は和葉にある。

 彼女のお迎えに行くと必ずと言っていいほど、俺は終わりなき買い物に付き合わされていた。そして、その買い物に熱中した和葉のせいで、毎度のように帰社が遅れてしまうのである。最初はいろんな理由を付けて誤魔化していたんだが、いよいよ遅れる理由を知ってしまったアイリスが――


『わたくしもお買い物に行きたいです!』


 と頬を膨らませたのがことの始まりだった。てっきり怒られるかと思ったけど、そういうことじゃないらしい。


「今日はアイリスのお買い物に付き合うのが、あたしたちの任務って感じよね」


 てくてくと目に付いた店を覗き込むアイリスの後ろで、和葉は髪を払いながら子供を見守るように言う。それが聞こえたのか、アイリスは少しだけムッとした表情を作った。


「毎日ソラさんとデートしてる和葉はいいですよね、楽しそうで! わたくしなんてほとんどオフィスにこもってるのに」

「べ、別に、デートじゃないしっ!」


 いやいやデートって言ってたッスよー、と俺は心の中で叫んでみる。

 リンゴのように顔を赤らめた和葉は、逃げるように目的地たる服飾店を目指す。その様子にアイリスはくすくすと笑みをこぼしていた。

 自然と頬も緩む。何とも微笑ましい光景だった。小春日和なのもまた雰囲気を和ませる。


「……」


 だが、ふとした瞬間、気分の落ち込んでいる俺がいた。

 理由はいろいろだ。少し前から俺を悩ませる記憶のことや、室長から注意を促されている金髪の男のこと。最近よく見る現実感の強い夢のこと、刃のない刀の一撃のこと、クリーパーに手を合わせていたなずなのこと。

 数え上げればキリはなく、かといって考えないわけにも行かないので考えると、俺の額には深い皺が刻まれる。そのせいか知らないが、頭痛が頻発するようになった。


「……はあ」


 刀を入れた竹刀袋の紐をきつく握り締める。黒スーツに竹刀袋とはなかなかのセンスだが、先日の初陣以降、いつクリーパーが出現してもいいよう持ち歩くことにした。ただいつでも戦える態勢にあるというのは、安心よりも不安を強く呼び起こすことになってしまったのだが。


「最近その表情よくされてますよ」


 俺のため息を聞きつけてか、アイリスが振り返った。和葉はすでに店の中に消えていた。


「最近頭が痛くて……そのせいだと思います」

「医務室には行かれましたか?」


 ええ、と俺は歯切れ悪く答えた。女医さんから薬を処方され、毎日欠かさず飲んではいるのだが、現状をみるに芳しくない。人間用だからかな、と自虐的なことも考えてしまう。


「にしても、今日はヘリがよく飛んでますねえ」


 ずきりと痛むこめかみを押さえながら、上空で音を立てる物体に目を凝らす。数機のヘリが都会の喧騒を掻き消さんばかりにプロペラを回転させていた。それも驚くほどの低空飛行で一帯を集中的に旋回しており、それは俺のこめかみに痛いほどよく響く。


「スタジオが近いからでしょうか?」


 確かに、この通りの入り口には大きなスタジオがあるが……いや、にしても数が多い。どっかでイベントでもあんのか?


「……ん?」


 上空を見上げていた俺の袖を、誰かが引っ張った。見ると、いつの間にか戻ってきた和葉がスーツの袖を引き、もう一方の手で通りの先――片側四車線を有する靖国通りを指差していた。


「ねえ……向こう。なんか、すっごい騒がしいよ……叫んでる声がする」


 髪留めのされたセミロングの両端に小さな猫耳が生えている。何かを察知するように盛んにぴくぴくと動いているが……可愛い。じゃなくて、何かあったのか?

 俺は爪先を伸ばし、直線状の大通りへと意識を集中させた。

 ――それはあまりにも突然に起こった。


「クッ!!」


 爆発。

 胸を殴りつけるような衝撃が、その場の全員に襲い掛かった。不意の強風にスーツがはためき、渦を巻いた突風に身体が浮く。木々がざわめき、そこかしこで人々の叫び声が響き渡った。

 けれどすぐに突風は止み、その代わり視線の先には太く黒い煙と、ごうごうとうねる真っ赤な炎が上がった。炎から逃れる人々の群れが肩にぶつかる。

 その中でアイリスがいち早く走り出し、寸前でこちらを振り返った。


「行きましょう!」

「は、はい!」


 駆け出す。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う群衆に押されながら、俺たち三人は必死にその流れに逆らった。自然と刀を握る手に力がこもり、竹刀袋に冷や汗が染みる。

 地を蹴る足よりもずっと速く心臓が鼓動する。息が詰まる。

 そうして、辿り着いた大通りには――地獄のような光景が広がっていた。


「……なんだよ……これ」


 人でごった返すはずのスクランブル交差点の中央で大型トラックが横転し、一面を焼き尽くさんばかりの炎が巻き上がっていた。爆発の衝撃に巻き込まれたのか、数人の男女がアスファルトに倒れ、また別の数人が額や腕、脚から血を流している。右にも左にも、フロントの潰れた車や裏返った車が道路を埋め尽くさんばかりに転がり、ビルの際まで逃れた群衆が、まるで巨大な舞台を形作る。

 そして気付く。その舞台上で蠢く複数の黒い影に。


『――アイリス、和葉、灰崎くん! 聞こえるか!』


 俺たちの頭に声が鳴った。鈴代だ。


「どうなってんのよこれ! あれ、クリーパーでしょ! 聞いてないわよ!」

『――ごめんなさい……突然、現れた』


 猫耳をおっ立てる和葉の叫びに応えたのは、一転して静かななずなの声だった。


『――今、なずなを責めても仕方ない。上空に黒いキューブが浮かんでいるのが見えるか?』


 鈴代の言葉に、俺は咄嗟に空を見上げた。そこには一辺三メートルはある正六面体が――昼間の降りしきる日光を吸い込まんばかりの闇色の《箱》が浮遊していた。


 ――俺たちの仕事は、エクセルとヒトガタを集めることだ。


「え?」


 針で突くような刺激が俺の脳を駆け巡った。箱を視界に捉えた瞬間、室長でもなずなでもない誰かの声が脳に直接響き渡った。どこか聞き覚えのある声だった。


「数は何体ですか。少なくとも二体見えるのですが……」


 そんな俺をつゆ知らず、アイリスが問い掛ける。彼女のドレスからは鋼鉄処女が剥がれ出し、それぞれが寄り集まりながら楯と剣を構成していく。


『――総数は三……いえ、四』

「よ、四体って……まだ増えてんの!?」


 なずなの報告を受けながら、和葉は徐々に両腕を太く変異させていく。


『――ああ、どうやらあのキューブから出てきているらしい』

「室長……あれが見えてるんスか?」


 声のみの通信のはずだが、まるで現場にいるかのようなことを言う。確かに、鈴代の言うことは間違いではなく、クリーパーは水面から顔を出すように今も箱から這い出ている。


『――見えるんだよ、灰崎くん。今、各テレビ局が生中継で現場を映している。三人の姿もばっちりだ……』


 その彼女の言葉に、大通り周辺を旋回するヘリのことを思い出した。依然として数機のヘリが上空を飛んでいる。あれを通して鈴代は連絡を寄越しているのだろう。にしても、対策局絡みの情報には報道管制が敷かれ、テレビで放映されることはないはずだが……いや、それ以前に嗅ぎつけるのが速過ぎる。


「ひとまず、怪我人の救護を優先させましょう。わたくしと和葉でクリーパーの注意を引きます。ソラさんはその間に救護をお願い致します」

「わかった!」「りょ、了解ッス!」


 アイリスの指示に頷き、俺たちは三方に散らばる。だが――全員はすぐに足を止めることになる。予期せぬ妨害に遭うことになる。


「おいおいおい、てめえら邪魔すんじゃねえよ」


 男の声が俺たちを呼び止めた。声の主は路上すれすれに降下した六面体の箱の上にいた。

 細身で長身の若い男だった。流れるような金髪と彫りの深い目鼻に収まったエメラルドグリーンの瞳。足先まで覆った光沢のある黒いロングコートと、その手には精緻な細工の施された大鎌が握られている。鎌の先端にはこぶし大のバラの彫刻が三つ付けられていた。

 俺はその容姿に見覚えがあった。一ヶ月前、旅客機墜落の現場で俺を襲った大鎌を持つ異国の男。死屍累々となる現場で顔色一つ変えず、焼け焦げた人の死体を弄び、俺に鎌を振り上げた。なくした記憶の最初に刻まれた忘れることのできない異端の存在。


「お前……あの時の……」


 あまりの驚愕に立ち尽くす俺と男の目が合う。男は眉根を上げた。


「よお、久しぶりじゃねえか。一ヶ月ぶりか? ソラ」

「えっ!?」


 男はまるで旧知の仲であるかのように、こともなげに俺の名前を呼んだ。その異常事態に、口を開けたまま閉ざすことができない。男は鼻で笑った。


「ああ、知っている。お前は今、記憶がないんだったな。情けねえ話だ」


 そういうと男は不敵な笑みとともに両腕を広げ、声高に言い放つ。


「まずは自己紹介といこう。よく聞け、そして記憶に刻み込め!」


 ――自己紹介といくか。俺の名前は……。


 またしても、正体不明の既視感が俺を襲う。以前にもこの光景をどこかで見ている。気がした。だからわかる――男がこれからなんて言うのかが、手に取るようにわかってしまう。


「俺の名前はクリストファー。クリストファー・」

「「ランドストン」」


 慣れ親しんだように舌が動いた。気付けば俺は言葉を重ね、その男の名前を呼んでいた。違わず重なった言葉に、男――クリストファー・ランドストンは満足げに頷き、天を仰いだ。


「聞けええ、無知で愚かな人類よッ!!」


 クリストファーは見えない何者かに宣言するかのように、どこへともなく声を張り上げた。


「今ここに繁栄し、お前たちが謳歌するこの文明が、自らのものであると、本当にお前たちは思っているのか! お前たちは自らの歴史を享受していると、本当に思っているのか!」

「あ、あいつ……何言ってるの?」

「わかりません……ですが、とても不快な気分です……」


 目を見開き、唇を震わす和葉とアイリス。


「……」


 異様だ。得体の知れない箱の上に乗った金髪の男が、惨状と化した都市のど真ん中でクリーパーに囲まれながら何かを叫んでいる。逃げ惑う人々の中で、意味不明な宣言を繰り広げる。

 彼女たちの反応は当然のものだろう。だけど――俺にはその宣言が何を意味するのか、これからクリストファーが何を言うのかがわかる気がした。

 拳を振り上げ、男は民衆を鼓舞する君主のように口上を並べ立てる。


「違う! お前たちは騙されている! お前たちは一度としてこの世界を、この文明を謳歌してなどいない。お前たちは一度として自分たちの歴史を刻んでなどいない!」


 何もできずにいた俺たちの後方に、マイクを握り、テレビカメラを肩に担いだマスコミたちが群がってきた。さらに離れたところでは、カメラや携帯を構えた人の姿まで窺える。その群衆の根性に舌を巻く中、俺たちに通信が入った。


『――あいつを止めろッ! これ以上喋らせるなッ!』


 呆然と立ち尽くしていた特戦の三人に向け、鈴代が叫んだ。

 その命令にいち早く反応したのは、黒ヒョウに変異した和葉だった。艶のある黒い毛並みのヒョウが俺の横をすばやく走り抜け、一目散にクリストファーへと跳び掛かった。だが――


「きゃっ」


 黒と黒が衝突する。和葉が跳び掛かった直後、彼女の真横からクリーパーが体当たりし、その細い体躯を突き飛ばした。


「和葉!」


 倒れた彼女のもとへ走り出そうとした俺の前に、即座にクリーパーが立ちはだかった。

 ――さっきからこいつら、なんであいつの味方してんだ。

 和葉の変異が解ける。突き飛ばされた衝撃に軽く頭を打ったらしく、彼女は弱々しく立ち上がった。いつも付けていた髪留めが外れてしまっている。


「だから、邪魔すんなって言ってんだろ。すぐ終わるから見てろよ、珍獣ちゃん」


 俺たちを蔑むように睥睨したクリストファーは、再度息を吸い込み言葉を続けた。


「この文明の始まりにはすべて《神》が存在する。これまでの歴史は《神》によって造られ、人類はその一部たりとも足跡を残してなどいない。人を産み、育て、集まり、教育し、殺し、死に、悼み、忘れる。宗教も戦争も革命も、それらすべての歴史は《神》によって行われた実験に過ぎない! 《神》はお前ら人類を騙し、弄び、あざ笑った。そして今ここに、《神》は更なる偽りの歴史を記そうとしている」


 男は握った拳を振るう。


「《神》は人体実験によって新人類エクセルを創造し、この世界を造り変えようとしている!」


 神? 人体実験? 偽りの歴史? エクセル?

 そのすべてに聞き覚えはないのに、何故かそのすべてに聴き馴染みがある。ぐるぐると巡る思考を頭とともに振り払いながら、俺は一度アイリスの隣にまで後退する。


「俺が先行します。援護お願いしてもいいッスか」


 人間相手での戦闘。鈴代はエクセリアの管理が仕事だと言ったが、この男に関してはその限りじゃないだろう。クリーパーを引き連れ、こんな大事件を起こしても、まったく平然としている男を管理できるとは到底思えない。最悪の場合、殺し合いも覚悟するべきだろう。

 ――やるしかないんだよな……。

 戦わなければこっちがやられる。みんなを守るためなら、戦うしかない。

 俺は提げていた竹刀袋からゆっくりと鈍刀を取り出す。それを見たアイリスは、自分の周りに浮かべていた楯の一つを俺の背後に回した。


「あまり無理をなさらないでください」

「……了解ッス」


 まずは和葉と合流しよう。距離は左前方十メートル弱。箱にはさらに二十メートルほど。クリーパー四体は、それぞれボスを護衛するSPのように箱の近くを徘徊している。

 状況開始、と口中で呟き、俺は勢いよく走り出した。だが――


「ソラさん! 待って! あそこ!」


 突然アイリスに呼び止められ、俺は即座に足を止めた。

 その時、どこかから泣き声が聞こえてきた。咄嗟に首を回し、泣き声の主を探す。

 子どもだ。小学校低学年くらいの女の子が、両手で涙を拭いながら通りを一人歩いている。少女は泣きじゃくり、要領を得ないことを叫びながら一歩一歩と通りの中心へと進んでいく。


「なんで、こんなところに!」


 まずい。女の子の位置がクリーパーに近過ぎる。しかもクリーパーも少女の存在に気が付き、そちらに足を向けている。

 俺は慌てて走り出した。だが、クリーパーの方がはるかに少女に近く、俺の脚では間に合いそうもない。同時にアイリスも楯を飛ばすが、それさえもわずか――ほんのわずか届かない。


「おい! 逃げろっ!」


 俺の警告に、少女はヒッ、と小さく声を上げ、その場に立ち止まった。

 その動きに反してクリーパーが走り出す。それはだんだんと速まり、少女へと接近する。

 そして、クリーパーは長い爪を振り上げた。


「やめろおおお――――――ッ!!」


 俺は声を上げながら刀を横なぎに払った。それはクリーパーの腹部を捉えた。しかし――


「おい、嘘だろ……おい!」


 俺の攻撃は間に合わなかった。刀が獣を捉えたのは、少女の腹部に三本の大きな爪痕を残し、小さな身体が路上に倒れたあとのことだった。


「くそ! ふざけんな、こんな……こんなこと……」


 俺は少女を抱え上げ、溢れ出る鮮血を手で押さえる。脈打ち、呼吸をするたびに血液がこぼれ、指の間、手の隙間から流れ落ちる。俺のスーツもシャツもたちまち真っ赤に染まり、少女の全身は青白く生気を失う。冷えていく。


「止まれ、止まれ止まれ止まれっ! 止まってくれ……死ないでくれッ!!」


 その願いもむなしく、少女の身体はぐったりとその重みを増す。変色した唇から洩れていた呼吸も次第に失われ、

そして――小さな命の火は消える。


「うあああぁぁぁああぁ―――――ッ!!」


 その瞬間、俺は糸が切れたように叫んでいた。

 人が死んだ。しかもこんな小さな女の子が。何の罪もない女の子が殺された。もっと早く気づいていれば、もっと速く走れれば。俺がもっと強ければ……きっと彼女を救えたのに……。


「くそっ、くそっ、くそっ!!」


 俺は少女の亡き骸を強く抱きしめ、瞳を箱の上の男に向ける。壇上でなおも変わらず言葉を続け、わずかに俺を視界に入れる男を強く睨み付けた。

 ――覚悟を決めろ。許しちゃいけない……あいつを殺せッ!!

 俺は取り落とすように少女の身体を路上に横たえさせ……、


「……え?」


 その瞬間――思いもよらぬことが起こった。

 抱えていた少女の身体が、魚のように強く跳ねた。途端、少女の身体から溢れた血液がうごめき、映像を早戻しするように身体の周りに収束していく。俺の身体に付いたものさえ、浮き立ち、集合し、少女の身体に薄い膜を形成する。やがて、少女を包み込んだ血液は化学反応を起こすようにじわりと濁り始め、それが真っ黒に染まりきったかと思うと、直後、


「うおっ!」


 集まった血液が破裂し、四方八方に飛散した。弾けた黒い液体はヘドロのように辺り一面に広がった。咄嗟に右手で防いだが、そのせいで少女の遺体を落としてしまった。けれど、そこにあったはずの少女の遺体は――


「ソラさん! 離れてくださいっ!」


 背後から響くアイリスの言葉に、だけど俺は反応ができなかった。

 俺の目の前に――小さなクリーパーが横たわっていた。

 凝固しきっていない黒ずんだ表皮。その表皮から火のように立ち上る闇。真紅に輝く瞳。まるで生まれたばかりのように四肢を震わせながら、それはゆっくりと立ち上がる。少女の姿はなくなり、代わりにクリーパーが現れた。

 ――どういうことだ、これ……。


「はははははっ! こいつぁいい、まさかこんなところでヒトガタが出るとはなっ!」


 長広舌をやめたクリストファーは、新しく現れた五体目のクリーパーを見るにつけ、そう叫んだ。奴の呼ぶ《ヒトガタ》は、きっとクリーパーのことだろう、が……、

 ――何かが……おかしい。何かが引っ掛かる。

 消えた少女の肉体。人型(ヒトガタ)という呼称。新人類(エクセリア)は死んだ人間の進化のカタチ。

 特殊戦略室の任務。喪服のような黒い服。クリーパーに手を合わせたなずな。

 それらすべてを束ねた結果が何を意味するのか。今更わかったような気がする。

 いや、きっと気が付いていた。だけど、どこかで認めたくなかったんだ。


 ――エクセルは陽性、ヒトガタは陰性。実験に成功したか、失敗したかのどっちかだ。


 俺を呼び覚ますかのように声が響く。


「……和葉?」


 いつの間に近づいたのか、和葉が赤子のようなクリーパーの額に銃口を突きつけていた。表情は石のように硬く、その奥の感情は少しも読めない。


「クリーパーはさ……殺さなくちゃいけないのよ……」

『――やめろ!! 和葉撃つな!』

「やめろおおおッ!!」


 ――銃声。

 鈴代と、そして俺が止めるよりも早く――和葉は引き金を引いた。

 硝煙が立ち上り、薬きょうが排出される。同時にクリーパーの闇色の肉体は、膝を折って倒れ込んだ。和葉は手を下ろし、跪いたままの俺を見つめた。


「これ……どういうことッスか、和葉」


 問い掛ける。その和葉の隣に、アイリスが歩み寄った。


「それは……」


 沈黙が生まれる。和葉もアイリスも物言わぬ人形のように口を閉ざした。俺は、死に絶え空気に溶けていくクリーパーを前に唇を噛んだ。握りしめた手が震えて止まらない。


「どうして教えてくれなかったんスか……どうして……」


 全身が熱い。煮えるような感情が渦を巻く。口の中に鉄の味が広がる。


「どうしてクリーパーが、俺たちと同じ、死んだ人間だって、教えてくれなかったんスかッ!!」


 答えは極めて単純だった。

 俺たちの服は喪服で、なずなは死んだ人間を弔うために手を合わせていた。少女の肉体がなくなり、クリーパーが現れたのではなく、少女自体がクリーパーに変異した。クリーパーの獣にそぐわぬ人間じみた知性は、人だった時の思考をトレースしたからだ。

 そうして答えにたどり着いた時、和葉が苦しげに声を張る。


「あたしたちだって言おうとした! でも……でもっ!」


 その彼女の言葉を遮り、背後からねっとりと粘つく声がした。


「何なら全部教えてやろうか? ソラ」

「くっ!!」


 咄嗟に刀を引きながら立ち上がり、背後の声を振り向きざまに斬り付けた。刀と鎌の柄が激しく重なり、鉄の擦れる鈍い音が響いた。


「おいおいおい! 俺は知ってるぞ! お前の力はそんなもんじゃねえだろ」

嬉々と笑いながらクリストファーは鎌を両手で押し、俺を強く遠ざけた。

「答えなら俺が教えてやる! 《神》は、自らが創造した人類を認められなかった! 傑作と自負する人類がこの星を食い潰すことに納得がいかなかった! だから《神》は人類の細胞を変異させ、強制的に進化させようとした。歴史のリセットを図ったのだ! だが、それには成功と失敗の二つの結果が生まれた!」

「それが俺たちエクセルとこいつらヒトガタだ。見ろ、この黒く染まった醜い獣の姿を! 死んだ人間は、実験によって強制的に進化を強いられる! しかし、ここにいる獣はその《神》の実験に失敗した者たちの末路だ。お前らの信じる《神》こそが死を冒涜し、自由を奪ったのだ!」


 二つのクリストファーの声。一つは正面から、また一つは遠く離れた箱の上から。かたや俺に向け、かたや無数のレンズに向け、それぞれ発せられる。

 クリストファー・ランドストンが二人いた。まるで生き写しの兄弟のように、その長い金髪も、その緑碧玉の瞳も、黒いコートも、大鎌も、寸分違わずまったく同一の二人が楽しそうに言葉を紡ぐ。その男にアイリスが問い掛けた。


「それがあなたの能力ですね」



 ――俺の能力は、《無情なる共犯者(ザ・ハートレス)》だ。



「その通り、俺の能力は《無情なる共犯者》。有体に言えば、分身能力だな」

「わたくし達の力もあなたのそれも……神の実験による力ということですか……」


 信じられません、と目を伏せる彼女に、クリストファーは鎌を持ち上げた。


「おいおい、お前にはその楯や俺の鎌、ソラの刀が純粋な人間の進化に見えるのか? こんな鉄の塊が!? ハッ、ありえねえありえねえ、いくら進化したってこうはならねえだろ。俺たちは実験台にされたんだよ」

「中でも実験に成功した我々は、《神》の手によって人ならざる特異な力を与えられ、歴史改変の足掛かりとして造り替えられたエクセルである。だが、我々は《神》に仇なすことをここに宣言しよう。我々は、この力を人類が造り出す真の未来のためにこそ使いたい!」


 片方は問いに答え、片方は演説を再開する。


「我々は《エコー》!! 《神》の実験によって造られた人類滅亡の使徒である! しかし、我々は《神》に反旗を翻すために集い、結束しよう! 《神》を滅ぼすために我々は立ち上がった!! 我らに従い、共鳴せよ! そして歴史を自らの手に取り戻せ、人類よッ!!」


 声はどこまでも拡散し、路上に巻き上がる炎は一層力を増す。

 そして、演説は唐突に終わりを告げた。箱の上のクリストファーは堂々と広げていた両手をおろし、俺たちに視線を移した。四つの瞳が満足そうに俺たち三人を舐める。

 いつの間に姿を現したのか、箱の上にはもう一人、黒いコートの人物が立っていた。


「終わったみたいだね、クリス」


 黒いコートを足の先まで着込む性別不詳の人物。フードの隙間からわずかに見える顔には、幾重にも包帯が巻かれており、真珠のような黒い瞳がじっと俺を見つめている。

 前の開いたコートの中で両腕をクロスさせ、それもまた包帯でがんじがらめに縛りつけており、肌の露出している部分が極端に少ない。包帯の一部には血のようなものが滲んでいる。


「なんか随分腑抜けちゃったみたいだね、ソラ。記憶がなくなると、人間ってこうも変わるものなのかな?」


 包帯の人物は柔らかく幼い少女の声で、クリストファー同様、何の気なく俺の名前を呼んだ。

 俺はその声に聴き覚えがあった。クリストファーの時と感覚が重なった。懐かしい感覚が喉を通った。


「……ロイ?」


 それを聞いた少女は、包帯越しにでもわかりそうなほど明確に笑みを浮かべた。


「まさか僕の名前を憶えていてくれるなんて、嬉しいよソラ。だけど一つ言わなくちゃならない。ロイという名前は少し前にやめてね。今は暫定的にユン・アンフェイと呼んでくれないか」


 少女――ユンは無邪気に笑う。言葉はクリストファーが継いだ。


「こいつ、相変わらず名前をころころ変えやがんだよ。いい加減一つに決めろってのな」

「相変わらずうるさいなあ。いいじゃないか。名前は僕の自由なんだから。そうだろ、ソラ」

「それでこっちが迷惑してんだよ。なあ、ソラ」


 敵であるはずの彼らは平然と、さもいつものことであるかのように俺に語り掛ける。

 俺は拒絶せずにはいられなかった。


「やめろ、話しかけんな……俺は知らない、お前たちなんて知らない!」


 胃の中から沸き上がる嘔吐感。思考を埋め尽くす嫌悪感。

 ――気持ち悪い。

 言葉で否定するのとは裏腹に、俺の思考の中にはこの二人を知っているという意識が芽生えていく。この会話もどこかで経験している。遠い過去の現実で、俺はこの二人に会っている。

 心と身体が乖離していく。それに呼応するかのように、頭に激痛が走り、万力を絞めるがごとく強さを増す。たまらず俺はその場に膝を突いた。


「何なのよ、あんたたち! ソラに何すんのよっ!」


 爪を鋭く伸ばし、前傾姿勢に構える和葉。しかし、今にも走り出しそうな彼女の機先を制するようにアイリスが楯で遮った。


「あなたたちは……ソラさんを知っているのですか」


 普段のアイリスにはない殺気が瞳にこもる。普段の穏やかさは鳴りを潜め、代わりに和葉を遮った楯一枚以外のすべてが剣に形を変える。剣先は余すことなくクリストファーとユンの二人に向けられるが、一方で彼らは向けられた殺気に少しも怯むことなく、俺たちを睥睨し、とある言葉を口にした。

 ――事もなげに真実を口にした。


「知ってるに決まってんだろ。そいつは俺らと同じ《エコー》のメンバーなんだから」

「……え?」


 今、なんて言った? 俺が……エコーのメンバー?


「……嘘、でしょ」


 クリストファーの言葉に、飛び出さんばかりだった和葉の動きが止まった。頬はさっと血の気の失せ、強張っていた肩が静かに落ちる。


「嘘なんかついて俺たちに何の得がある。むしろこんな変な男、何の疑いもなく連れて歩いてるお前らのほうがどうかしてる」

「だって……嘘よ、そんなの信じない、ありえない。だって、こんなに人畜無害なのに……ねえ、そうでしょ? アイリスも……ソラも何とか言ってよっ!!」

「あ、あの……わたくしは……」


 血色を失った唇を微かに動かし、だけど苦悶を浮かべ噛み締めるアイリス。


「和葉、俺は……ぐッ!」


 何か掛ける言葉を、と思った俺を邪魔するように痛みが襲う。それは今までで一番強く、穴が空くようにギリギリと頭蓋骨が音を立てた。地面にうずくまり、両腕で頭を掴み締める。頭の血管が脈を打ち、燃え盛りながら熱を持つ。あまりの痛みに俺は鈍刀を落としてしまった。


「あああっ、ぐがあああぁ!!」


 意識が遠退き、やがて視界は光の溢れる白一色に変わっていく。

 そして唐突に、静かに、雪が降るように――記憶は舞い降りた。


「――あ」


 途切れていた配線が結合し、流れる電流が瞬く間にシステムを復帰させる。

 走馬灯のように幾千幾百の記憶が繋がっていく。


 ――俺たちは神を殺して、奪われたものを取り戻す。そのために集まったんだ。


「……あぁ」


 全身の力が抜け、浅い呼吸を繰り返す。うっすらと滲んだ汗が額から頬を伝い、顎を滴る。

 次第に鮮明になっていく視界とともに、記憶が感情を埋めていく。

 ――思い出した。俺は……。


「いい加減信じろよなあ」

「信じるわけないでしょ! ソラがあんたたちの仲間だなんて……」


 身を屈めながら和葉はヒョウに姿を変異させ、目の前に立つ分身体に牙を剥く。尾を高く逆立て、爪をアスファルトに深く喰い込ませる。


「そこのゴスロリちゃんは物わかりがいいってのに、お前は見てらんねえな、珍獣ちゃん」

「うっさい! ソラはあたしたちの仲間なの! だから……」

「黙れッ!!」


 怒れる和葉の言葉を、即座にユンが否定した。


「ソラは僕たちのものだ! 何が仲間だ! たった一ヶ月程度で知った気になるなよな! 僕、お前のこと嫌いだ。クリス、そいつ殺してよ!! 目障りだ!」


 二人いるうちの一人――俺たちに最も近いクリストファーの背に向かってユンが叫ぶ。彼は担いだ鎌越しに包帯の少女へと振り返った。


「ああ、俺も丁度それを考えていたところだ」


 そしてこちらに顔を戻すと、そこには凶悪なまでの殺意に満ちた表情が浮かんでいた。


「さあ、どっからでも掛かってこいよ。何なら二人同時でもいいんだぜ」


 男の安い挑発に、和葉は噛み締めた牙をギリギリと鳴らす。


「あたし一人で充分よっ!!」


 間髪入れず走り出した和葉は、短い助走で跳び上がり、前足の鉤爪を伸ばす。同時に、対面のクリストファーは後ろに引いた大鎌を遠心力に任せて振り抜いた。

 ――その刹那、二人の衝突に割って入るものがただ一つだけあった。

 中世騎士の楯を模した鉄の板が一枚。白銀に輝くそれは和葉とクリストファーの間隙を埋め、二人の衝突を妨害した。それはまるで――鋼鉄処女のような振る舞いを見せた。


「な、何よ、これ」


 和葉が楯を爪で引っ掻きながら、その丸い瞳をアイリスに向けた。しかし、当のアイリスは、


「わ、わたくしではありません。だって……」


 虚を突かれたように首を左右に振る。実際、彼女の楯は、彼女の頭上を浮遊しているだけでその場から一切動いていない。ましてや剣も微動だにしていない。

 和葉とアイリスの二人は互いに辺りを見回し、そうしてほぼ同時にある一点を見つめた。

 ――跪く俺を見つめた。


「全員下がれ」


 静かに告げる。右腕を伸ばし、左手には柄と鍔だけになった刀を握り締め、痛みの抜けた頭をゆっくりと上げる。


「ハハハハッ、その面を見るのも久しぶりだな、ソラ。やっと思い出したかッ!」

楯の向こうにいるクリストファーが身を乗り出し、ぎらりと光る歯を見せた。

「ああ、思い出したよ……」


 全部じゃないけど、でも確かに思い出した。俺が何者で、どんな人間と一緒に、何をしていたのか。そして俺の刀に秘められた能力も思い出した。

 無愛想な道化師の技巧(クラウンズハンズ)。それが俺に与えられた力の名前。

 何となく嫌な予感がしていた。ちょっと度の過ぎた戦闘センスや不安を伴う夢。クリーパーと対峙した時に感じた既視感や目の前の男に覚える違和感。

 すべてが今繋がった。ようやく手に入れた。

 だが、記憶の回復は喜びに程遠く、むしろそれは溢れんばかりの絶望に満ちていた。


「あぁ、そうか……俺は……ずっと、ずっと前から――」


 ――人殺しだったのか。


「「なら、さっさとこいつら殺して帰ろうぜ」」


 地上のクリストファーと箱の上のクリストファーが同時に俺に目を向け、同時に手を伸ばす。他方では、ヒョウの姿をした和葉と無言のアイリスが当惑した表情を浮かべている。

 俺はユンを含めた四人それぞれを順に見つめ、視線を落とす。


「俺は…………行かない」


 我ながら発言の真意が掴めなかった。

 記憶を失ってから一ヶ月。今日ここに極まれり、俺はようやく記憶を取り戻した。なくしていた過去を――自分が何者で、何をしていたのかを思い出した。同時に目の前には過去の仲間もいる。長い期間をともに過ごし、俺を連れ戻そうとしている仲間だ。

 なのに――この瞬間の俺は、どうしても彼らについていく気にはなれなかった。ただ気が乗らなかっただけかもしれない、頭痛のせいでネジが緩んだのかもしれない。わからない。

 だけど、そう、強いて言うならば――俺はまだ特戦を離れるべきじゃないと思った。

 俺には特戦で考えたいことがまだ残っている。ここでクリストファーの手を取り、エコーに復帰するのは簡単だ。しかし、そうして抜けた特戦に戻ることは二度と叶わない。

 今必要なのは見極めること。自らの行動を決定付ける何かを見つけること。

 その俺の決断にクリストファーは腕を組んだ。


「ああ、俺は知っている……知っているぞ。お前はいつもそうやって何かを考えている。しかもいつだって俺の考えていることと一致しない。だから知っている。今お前の考えていることは俺の聞きたいことじゃない。さて、これは困った。どうしたもんかなあ、無理やり連れて帰ろうとすれば、お前は抵抗するよなあ。一ヶ月前みたいには行かねえだろう」

「だから、今回は諦めてくれ」


 俺が視線を向けると、男は顎を上げ、心の中を探るように目を細めた。

 思考時間は短かった。クリストファーの分身体が消失した。


「……わかった。今日は退いてやる」

「おい、クリス! そんなのダメに決まってる! ソラは一緒にかえ……おっ、おい、やめろ」

「はいはい、黙ってろ。この場は俺が任されてんだ。俺が決める」


 わんわんとがなり立てるユンを、クリストファーは脇に抱え上げる。両手の動かない少女は足をバタつかせ暴れるも、それをものともせず男は軽々と担ぎ上げた。


「また近いうちに顔を出す。俺はお前の相棒なんだからな」


 そう言い残して、男は箱に沈んでいく。しかして、数秒と経たぬうちに、二人はその場から退場した。四体のクリーパーの頭上にも箱が出現し、それぞれに降下し吞み込んだ。


「相棒なんて……理解できないくせにな……」


 小さく独りごち俺は立ち尽くす。握り締めた柄には刀身が戻っていた。

 まだ車は燃えていた。人だかりが少しずつ近づいてくる。どこかでサイレンの音がした。


「そ……ソラ? あのね、ソラ……」


 和葉が恐る恐る近寄る。当惑を隠せないのだろう。俺は振り向き、覚束ない足取りの彼女の手を取ろうとする。だが、その手に触れる寸前、銀色の光が周囲を舞った。


「お二人とも動かないでください」

「アイリスッ! やめてよ!」


 十二本の剣がまるで檻を造るように半球形に俺を囲った。研ぎ澄まされた切っ先のすべてが俺を向き、その並びには迷いがない。

 アイリスの大きく見開かれた青い瞳は、はっきりと俺を見つめ――睨み付けていた。


「ソラさん、申し訳ありません。あなたを――」


 ――拘束します。 

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