第6話 初陣

 未だに実践投入は果たされぬまま、さらに一週間が過ぎていた。


 俺の日常は相変わらず手品師である。安物の手品セットを使いまわし過ぎてそれは、もはやプロの域にまで達している。いや、別に皮肉っているわけじゃない。俺の実戦投入に不安があるのは俺自身も同意してしまう事実だし、それより何より目標たるクリーパーがここ一ヶ月出現していないのだから仕方がない。もちろん、そこにも不満はない。しないならしないに越したことはないのだから。


 そして、クリーパーの出現と同様に――例の男との遭遇も果たさぬままだった。

 今日も今日とて暇は暇。俺がすべきボランティア活動――地域清掃は午前中に終了し、息抜きがてらアイリスの淹れたお茶と、これまたアイリスの焼いてくれたクッキーでも頂こうと思っていたのだが、当のアイリスは和葉と一緒に室長のお使いに出されているらしく不在。クリーパー出現の一報は受けていないので、また別のボランティアか何かだろう。

 おかげで今日も今日とて暇は暇、なのである。

 行くあてもなく本部建物内を散策していた俺だったが、いよいよ飽きてきたので唯一残っている円城寺なずなの部屋を訪れていた。

 ――とある一冊の本を片手に。


「お邪魔しまーす」


 何度目かになる来訪。なずなの部屋にも慣れたもので、初回のようなミスは絶対にしない。


「…………」


 招き入れたなずなは、いつも通りの無言でリビングの椅子を引いた。

 その椅子に腰を落としながら、小柄な彼女の挙動を目で追い掛ける。せっせと歩き回る彼女は、どこか小間使いの侍女めいている。何をそんなに慌てているのだろう? 顔には出ていないが、普段の落ち着きがやや欠けている気がする。


「……?」


 眉根に皺を寄せて観察する俺を訝しげに見つめ、小首を傾げるなずな。ティーカップを俺の目の前に置いた彼女は、自らも席に着きながら訊ねた。


『――何か用?』

「あ、えーっと、あると言えばあるし、ないと言えばない……かな」


 俺は本の表紙を伏せた状態でティーカップの横に置き、曖昧な返答をした。煮え切らないのが如何とも申し訳ない。実のところ、ちょっとした話があってここに来たのだが、それを話すには多少の不安が付きまとい、

 いや、白状しよう――俺は恥ずかしさのあまり切り出せないのである。

 とはいえ、ここに来てしまったからには話さないわけにはいかないだろう。


「もう一ヶ月前になるのがビックリなんスけど、以前ここに来た時、自分の能力が嫌いだって言ってたの覚えてます?」


 こくり。


「それを聞いて、何と言うか思うところがありましてですね……実は、その時のなずなさんの表情が寂しそうというか、つらそうというか。思いつめた表情をしていたのが、ずっと気になってて……」


 って、何言ってんだ俺。顔も身体も溶けてしまいそうだ。


「この仕事って死と隣り合わせじゃないですか。楽しいこともあるかもしれないけど、つらいことの方がいっぱいあって。この一ヶ月間特戦のみんなの話を聞いてて思ったスけど、実は能天気なのって俺だけなんじゃないかって……」


 自分の過去は気になるけれど、でも和葉やなずな、アイリスが抱えている思い――奪われたものを取り返したいという思いに比べれば、大したことじゃないのだと思う。

 むしろ、今の俺は過去を知りたくないとさえ思っている。

 刀のこと、銃のこと、夢のこと。知れば知るほど過去の俺は何かとんでもないことをしていそうな予感しかせず、できることならこのまま特戦に入ってからの俺でありたいと思っている。能天気なまま、みんなと一緒にいたいと思っている。過去の記憶なんて捨てて、新しい俺として、特戦のみんなと笑い合っていることが、今の俺の第一目標になりつつあるのだから。


「みんなのために……今はなずなさんのために、俺にできることって何だろうって考えたんですよ。俺、未だにちゃんと仕事できてる気がしないから、せめて安心できる環境を作りたいと思って……そこで微力ながら思い付いたんスけど……」


 俺は出し抜けに椅子から立ち上がり、気合を入れんと両手で自らの頬を二回叩く。俺の意味不明な行動に、なずなはぼーっと黒い瞳を向けている。

 もう充分に恥ずかしいことを言っているので、きっとこれからやろうとしていることなんて大したことなかろう、と楽観的に構える。とはいえ、一言添えておこう。


「笑わないでくださいね」


 俺の言葉に、椅子に座っていたなずなは上目がちに首を捻った。まあそれでもいいや。

 頭の中で記憶を反芻し、ゆっくりと手を動かし始める。

 ――状況開始。


「初めまして……私の……名前は……灰、崎、ソラ、です」


 手の平を使い、指を立て、自分を差し、親指を手に当て……最後に手の平で孤を描き、空を示す。

 俺が思い付いたこと、それは手話だった。それは声を失ったなずなにとって、数少ない意思伝達手段の一つであり、俺は覚束ない手つきで、なずなに自己紹介をしてみせた。


「…………」


 沈黙が流れる。だが――


「……、……、」


 彼女の無感情な瞳がわずかに見開かれた。頻りに口を開け閉めする。しかし、言葉は出ず、喉を押さえる。


『――覚えたの?』


 不意に言葉が反響した。俺は微笑んで、机の上に置いた本を手に取る。


「この間、和葉と駅前を歩いていた時に、本屋さんで見つけたんスよ」


 表紙には、大きく口を開け、手を中途半端に止めた女性のイラストと、ポップ体で書かれた《かんたん手話入門 DVD付》の文字が躍っていた。

 デートという名の荷物持ちの最後、書店の店先に置かれていたこの本が目に止まった。これはもしや、とひらめいたのがことの始まりであり、DVD付という泣かせる仕様に脊髄反射のごとく飛び付いてしまった。


「で、ここ一週間鏡を見ながら練習して、今ここに至るわけッス。まだまだ修行中で……って、ど、どうしたんスか?」


 しどろもどろに説明していると、突然なずなが顔を下げてしまった。膝の上で手を揃える彼女はじっと机を見つめている。慌てた俺はその下がった顔を覗き込んだ。


「ごめんなさい。良かれと思ってやったんスけど……」


 やはりやり過ぎだっただろうか。彼女も手話は覚えたと言っていたが、使わないのは使いたくない理由があるからで、その触れたくない部分に土足で踏み入ってしまったのかもしれない。と、申し訳なくなる俺の予想に反して、なずなは首を横に振った。


『――もう一度』

「え?」

『――もう一度やって』

「りょ、了解ッス!」


 彼女の見せた薄い微笑に、俺はぐっと頷いた。桃のような柔いピンクが浮かぶ頬に、わずかに心臓が跳ねた。急いで両手を準備し、再度手順を思い出す。


「えーっと……初めまして、私の、名前は――」


 同じように両手を動かす。一度やっている分スムーズにできるし、もはや恥ずかしさもない。


「灰崎、ソラです」


『灰』は指で前歯を作りネズミを、『崎』は両手の指先を合わせて突き出し『先』を、最後に『ソラ』は青空を撫でるように頭上に手の平で円を描く。

 そして、次を促すようになずなに手を向ける。


「あなたは?」


 それに応じて、なずなは頷いて手を動かす。右手を使い、指文字を表す。


「えーっと、な……ず……な?」


 こくこく。なずなは力強く頷いた。すると、どうやら気が乗ったらしく、続けざまに手を動かし始めた。その目にも止まらぬ手さばきには、さすがにうろたえざるを得なかった。


「ちょ、ちょっと待って! まだ駆け出しなんで、そんないっぱいはできないんスよっ!」


 たかが一週間の練習では素人もドの付く素人だ。基本的な挨拶と指文字を覚えるのがせいぜいで、こればっかりは刀や銃を扱うようにはいかない。そんな不出来な俺に、彼女は肩を落とす。しかしそれもほんの一瞬で、すぐに落胆は消え、無表情を改めた。


『――これからもお喋りしてくれる?』

「当然じゃないッスか! そのために勉強してるんですから」


 俺が胸を叩いて同意すると、なずなは手の甲に載せた右手の手刀を自分の顔まで引き上げた。えっと、それは確か感謝の――


『――ところで』


 だが、俺がその手話の意味を思い出すよりも早く、彼女は表情を一変させた。


『――さっき、和葉と駅前を歩いたと言った?』

「え? ああ、言いました……けど?」

『――何してた?』


 その質問に俺は喉を詰まらせた。やんごとなき顔色である。体調が悪いとかそんなものじゃない。明らかに何かしらデカいものを抱えている表情だ。


「いや、和葉のお使い任務の帰りに買い物に……」


 あえて『デート』という言葉をカットした。彼女の癇に障った部分がそこな気がしたから。


「そしたら、とんでもない量の荷物を持たされてですね……おうっ」


 俺の言い訳も山場に差し掛かったところで、突然なずなが片手を伸ばし遮った。


『――和葉って呼んでる』

「へ?」

『――前まで御形さんだった』


 むむむ、それは何と答えたものだろうか。そのデート、じゃなくて荷物持ちの時に要求され、そう呼ぶことにした――なんて正直に話したものだろうか。


「俺もここに来て一ヶ月が過ぎたんで気分転換、って奴ッスかね。はははっ」


 あれ? なんで浮気のバレた彼氏みたいな気分になってんだろ俺。

 そんな俺の下手な言い訳を聞くなずなは、ジト目で唇を引き結んだ。

 その直後、ハッとしたかと思うと小枝のような指をこめかみに当てた。眉間に皺を寄せ、一心に何かを聴き取ろうとしている。


「うおっ!?」

『――来て』


 唐突に腕を掴まれ、千切らんばかりに引っ張ると、されるがままに部屋を飛び出した。靴を履くのもままならぬうちに、エレベーターに乗り込み、彼女は五階のボタンを押す。


「ど、どうしたんスかっ!!」

『――武器どこ?』


 未だ強く掴んだままの彼女は質問に質問で返した。余程切迫しているのか、階数表示を見るその表情は恐ろしく硬い。


「えっと、刀も銃もロッカールームに……」

『――取りに行く』


 だからなぜ、と問おうと口を開き掛けたその時、答えは思いもよらぬ方向から訪れた。


『緊急入電、緊急入電。防衛省より各局。文京区後楽1丁目、東都ドームシティ園内にてクリーパーの現出を観測。総戦及び特戦の出動を要請。繰り返す……』


 エレベーターが五階に到着したと同時に、警報がビル中を駆け巡った。それを聞いたなずなは、ただでさえ速かった歩調をさらに速める。さらに俺たちの頭に声が届いた。


『――なずな、灰崎くん、聞こえるか? 私だ、鈴代だ』


 鈴代の声が響く。俺はなずなに掴まれていない方の手をこめかみに添えた。


『――聞こえる』『――聞こえるッス』

『――聞いていたと思うが、特戦にも出動要請が降りた。承知の通り、アイリスと和葉は出払っていて、すまないが今件はなずなと灰崎くんの二人に頼みたい』

『――りょ、了解……ッス』


 いよいよ、という言葉が頭を駆け巡った。いよいよ俺は実戦に投入される。これからクリーパーと一線を交える。歯切れの悪い言葉で返答してしまったが、大丈夫。いつでも出られるように心構えはしてきたつもりだ。

 俺はグッと拳を握り込んだ。


『――なずなも行けるか?』

『――大丈夫……行ける』


 鈴代の確認に、なずなはしかと応答した。


『――了解だ。二人とも心して掛かってくれよ』

『――任せてください!』


 決意を確かなものにするために、最初とは打って変わって強く返答する。不意に隣を向くと、丸く黒々と輝いた瞳と視線が重なった。それは爛々と俺に何かを語っているかのようで、俺は再度拳を固めずにはいられなかった。


「行きましょう、なずなさん!」



 だが――理想と現実の穴を埋めるのは、そう簡単なことじゃなかった。

 現場に向かう車中、両手が震え、拳銃の弾の装填もままならなかった。手持無沙汰に刀を一度抜いたが、再度鞘に納めるその慣れた作業でさえ、無駄に時間が掛かってしまった。


「……はあ」


 柄尻に額を載せ、杖を突くようにうな垂れる。

 息が細い。締めていたネクタイを緩め、思いっきり息を吸ってみても新鮮な空気が脳まで達していないのがわかる。腹の奥に重石を詰められたみたいな閉塞感が俺を襲う。


――そうか、これが初陣か……。


 いくら息巻いていたってこれが初めてで、これから俺は一ヶ月前に見たアイリスと和葉のように化け物と死闘を繰り広げなければならない。

 わかっている。そんなことができないのは充分にわかっている。あんなまるで段取りが立っているかのような大立ち回りは、戦うことに慣れた玄人がやるものだ。初陣で浮足立っている俺には到底できたものじゃない。

 だけど、だからと言って逃げ出すこともしたくはない。下手をすれば、死ぬことだってあり得る危険な任務だが、それに背を向けることは絶対にしたくない。あの一ヶ月前の戦いのあと、俺は特戦で戦うことを決意した。ランナーズハイのような一時の情動だったのかもしれない。だけど、あの時の決意に嘘はない。

 嘘があっちゃいけない。隣に座る彼女のためにも。


『――緊張、してる?』


 隣に置物のごとく鎮座するなずなが、俯く俺の顔を覗き込んだ。


「すこし……いや、かなり……」


 虚勢を張ったっていいことなんかないと思い、俺は素直に白状した。じめっとした重々しさを孕む車内の空気はひどく冷たく感じた。


『――私はオペレーター。戦いのメインはあなた』


 彼女は一音一音をしとやかに、だけど温かく紡ぐ。


『――心配しないで……きっとできるから。あなたになら』


 拝むように柄に載せていた両手に、陶磁のような白い手が重ねられた。温かい感触だった。

 なんて情けない話だろうか。よもや年下の女の子に励まされるとは思いもよらなかった。鈴代に威勢よく答えた手前、報告書に醜態を書くのだけは避けたいところだ。


「無駄話いいッスか? 気を紛らすついでに……」


 俺の申し出に、彼女は静かに頷いた。


「どうしてクリーパーの出現がわかったんですか? 警報が鳴るずっと前に気付いてましたよね?」


 和葉の名前の呼び方について詰問されている最中、憑りつかれでもしたかのように俺の腕を掴むや一目散に部屋を飛び出した。それから警報が鳴るまでたっぷり五分はあっただろう。


『――テレパスの一つ。23区には特別な植物を植えてる。異常があるとすぐわかる』

「四六時中アンテナ張ってるってことッスか?」

『――そう』

「……マジッスか」


 平然と言ってのける姿に、俺は感嘆せずにはいられない。

 彼女は事もなげな表情だが、それは生半可なことじゃないはずだ。それはつまり、彼女は二十四時間休むことなく、約六〇〇平方キロメートルの広大な範囲を意識に入れているということになる。寝ても覚めても都市部が発する情報を意識下に置くなんて、正気の沙汰じゃない。


「……すごいッスね、なずなさんは……なのに、俺と来たら……」


 初陣に浮足立って、つくづく情けない。

 総戦の男性が運転する車は目的地――東都ドームシティ手前で歩道に寄ると、黒塗りのライトバンが並ぶ最後尾に停車させた。

 午後三時半過ぎ。中央線沿い、水道橋駅前。人だかり。

 現場にはすでに非常警戒線が張られ、例に漏れず軍服をまとった屈強な男たちが物騒な装備つきで行き交っていた。クリーパーの発見は早かったが、ロッカールームに寄って武器を取ってくる間に、先を越されてしまったようだ。

 男性に一言礼を言い、車外に出た俺は、隣に立った小柄な少女に問い掛けた。


「現場は?」


 そう問うと、ショートヘアの少女は俺の手首を掴み、無言のまま前方の階段を駆け上がった。途中いくつかの立入禁止のテープを潜ったが、総戦の人たちも急ぐ俺たちにすんなりと道を開けた。

 東都ドームシティはその娯楽施設の持つ装いに反して、おそろしく閑散としていた。もともといたであろう客は一人残らず軍服の男どもに変わっている。


「できることならこんなことで来たくはなかったッスねえ」


 俺はアトラクションスペースで追い抜いた軍服を見ながらぼやいた。本来ここは子供連れやカップルがわいわいするべき場所であって、得体の知れない化け物を相手に、むさ苦しい男どもがマシンガンを片手にウロチョロするような場所じゃない。

 ましてや、喪に服すような黒服の二人がいるべき場所でもない。

 俺たちは揃って集団の中央を目指す。一歩二歩と近付くにつれ銃撃と怒号は増していき――そして負傷し、倒れる隊員の姿と周囲に飛び散る血痕が目に付くようになる。

 白塗りの壁にも、木の幹にも、鉄柵の上にも。

 ペンキをぶちまけたように、赤い液体が世界を染め上げている。


『――気、引き締めて』


 惨状に倒れる数人の男たちを見つめながら、なずなは俺の袖を引っ張った。


「う、ウッス!」


 鼓動が高鳴る。目前に迫った戦いはもはや逃れようもなく、否応なしに身体が反応する。腕に提げた刀が小刻みに震え、俺の不安を現実的にさせていく。スポンジのように感じ始めた地面を一歩ずつ進むたび、恐怖もまた着実に忍び寄る。きつくきつく俺に絡み付いてくる。

 俺はネクタイを締め直す。

 ――見えた。

 五人の男が向ける銃口の先、そして俺たちの視線の先に、漆黒の闇は存在した。

 今は停止した振り子型の海賊船――バイキングの船頭に据えられた龍の上で、クリーパーが四足に生えた長い爪を引っ掛け、待ち受けていた。化け物は二つに輝く赤い眼球をちかちかと動かし、黒炭色の身体からは陽炎のように闇を漂わせている。

 細く開いた口からは濃密な闇がこぼれだし、滴って、霧散する。

 ――状況開始だ。


「行きましょう!」


 言葉とともに走り出し、沸き上がる畏怖を振り払うように抜刀する。

 だが――俺が刀を向けるより数瞬早く、クリーパーが動いていた。化け物は載っていた龍の頭から天高く跳躍し、銃を構えた総戦の一人に跳び掛かった。

 その動きに誰よりも早く反応したのは、隣を並走していたなずなだった。

 彼女は右手をすばやく払った。

 直後、その手の動きに合わせ、花壇に植えられていた広葉樹が、その太く頑強な幹をめきめきと軋ませながら真横に反り返った。まるで魂を持つかのように矩形に曲がった大樹にクリーパーは勢いよく突っ込み、無数に伸びた枝にその動きを絡め取られる。四肢を必死に動かすも、その動きを抑え込むように葉が包み込んだ。

 ――奇声。強烈な叫び声が葉を貫き、園内一面にこだました。

 だが、俺はその耳を覆いたくなる奇声にも怯まなかった。


「うおらっ!!」


 縦一閃。両手で振り上げた鈍刀を一直線に叩きつける。刀は木の枝と葉をまとめて掻っ攫い、中に閉じ込めた闇をまるごと打ち落とす。舞い散る葉の間から巨大な黒い塊が地面に落下した。

 確かな手応え。だが、言わずもがな俺の持つ刀に『斬る』という基本的な能力はない。よって――


「ぐっ!!」


 軸にした左足を踏ん張り、身体を回転させながらスラッガーばりのフルスイングを化け物の横っ腹にぶち込む。さらに重心を低くし、腰を捻りながら抉りこむように三発目を振り抜いた。

 ボゴッと鈍い音を立てて吹っ飛んだクリーパーは、バイキングを囲っていた鉄柵に衝突し、激しい金属音を立てる。あまりの衝撃に鉄柵は針金のようにひしゃげた。

 ずるりとなだれ落ちた獣は、しかし痛くも痒くもないといった様子で再度臨戦態勢に入る。敵意が刺さる。歯をむき出し、そろりと探るようにこちらへと歩み出す。


「みなさん、ここからは特戦が引き受けます。怪我人を回収後この場から撤退してください」


 中段に刀を構えた俺は、すでに満身創痍の総戦メンバーに呼び掛けた。さながら気分は窮地を救った英雄だが、今の俺にはそんなことで得意げになっている余裕は微塵もない。

 総戦の五人はそれぞれ近くで倒れている隊員を担ぎ上げ、俺となずなに礼や謝罪を入れつつ入り口の方へと引き下がっていった。

 東都ドームシティ内には、二人と一匹だけになった。


「なずなさんはアイツを倒せる決定打みたいな技ってあるんスか?」


 念のため作戦を立てようと訊ねてみたが、なずなは無言で首を横に振った。俺は苦笑しつつ、うねる髪を掻き毟る。どうやらクリーパーに致命傷を当てられるのは、


「こいつしかないってことッスね」


 俺は腰に差していた拳銃を引き抜き、指を掛ける。こんなことなら総戦の人からサブマシンガンを借用しておけばよかった。あっちの方が強そうだ。

 自然と銃を握る手がきつくなる。嘘みたいに軽いはずなのに、しっかりと握っていないと落としそうなくらい重く感じた。

 訓練と実戦。武者震いと高揚感。

 刀と銃。エクセリアとクリーパー。

 過去と現在。なくした《記憶》と手に入れた《記憶》。

 記憶と感情が複雑に混ざり合い、溶け合い、それは俺の奥で澱となって溜まっていく。すべてが俺に一抹の不安となって、足枷を作る。


「……ふう」


 念じるように目を閉じ、気を静めんと細い息を吐く。その時――


『――余所見しないで』

「うおっ!?」


 小さな手が背を押した。不意の出来事に俺は前のめりによろめき、三歩踏み出す。

 しかして三歩前――俺がもと立っていた場所にクリーパーの爪が突き立った。俺は体勢を立て直しながらすばやく握っていた銃を向ける。だが、すでにそこにクリーパーの姿はなく、次の瞬間には――


「なずなさんっ!!」


 クリーパーの頭がなずなの腹部に吸い込まれた。全身が凍りつく。彼女の華奢な身体が高々と宙を舞った。同時に獣は後ろ脚を振り上げ――


「むぐっ!」


 俺の身体を蹴り飛ばす。咄嗟に刀を引き緩衝材にしたが、その衝撃は凄まじく背中を強く打ちつけた。息が詰まる。だが即座に身体を起こし、再度銃を構える。

 発砲――

 照準もまともに定まらぬうちに引き金を引く。焦燥感を纏った弾丸は、当然のようにクリーパーを捉えることができない。するりするりと蛇のように銃撃を回避するクリーパーは、俺同様転倒し、背中を丸めている少女に接近する。

 発砲、発砲、発砲。

 背筋が凍りつく。耳に迫る呼吸も心音も、すべてがうるさかった。


「くっそ!!」


 撃って、撃って、撃って撃って撃って。

 ――くそ、くそ! なんで当たらねえんだっ!!

 弾を吐き尽くした銃を捨て、刀一本で走り出す。化け物が駆けるよりも速く疾駆し、がむしゃらに考えもなく振り上げる。斬れぬならどう振り回そうが変わらねえ。


「どけええええええ――――――っ!」


 なずなに腕を伸ばしたクリーパーと視線が重なった。頭の上まで振り上げた刀を力任せに振り下ろす。

 ガチッと鈍刀が石タイルを打つ。刀が触れようかという寸前、獣は遠く跳び退った。すかさず正眼に構え直しながら、なずなの容体を確認する。彼女はゆっくりと身体を起こした。


「なずな! 大丈夫かっ!」


 数メートル先に離れた闇色のフォルムを視界に捉えたまま呼び掛ける。


「……」


 なずなは薄く目を開け、だけどしっかりと頷く。ワンピースはほつれてしまっているが問題はなさそうだ。

 ――あの野郎、なずなばっかり狙いやがって……。

 執拗になずなを狙うクリーパーの行動に、全身の血が沸騰しているのがわかる。

 彼女が立ち上がるのに俺も続く。今度こそクリーパーに身体を向けた俺だったが、不意に背後のなずなが袖を引いた。何事かと振り向くと、その瞬間――


「えっ!?」


 パシンと鞭を振るうような平手が俺の頬を打った。なずなの右手が俺の頬を叩いた。

 何が起こったのかわからなかった。ひりひりとした痛みが広がり、じんわりと意識に浸透していく。頬を押さえ、俺はなずなを見つめた。


『――落ち着いて』


 波のない静まった湖面のように告げる。


『――緊張してるの……わかる。でもダメ』

「で、でも……俺はっ!」


 あいつを倒さなくちゃならない。なずなを守りながら、俺は俺の力で戦わなくちゃならない。


『――あなたの力を信じて。あなたは修業をした。アイリスも和葉も、悠月さんも、あなたを認めている。だからあなたは、あなたのことを信じてあげて。それに――』


 彼女は間を開けた。一度その墨色の滲む瞳を逸らし、だけどすぐに戻す。強い眼差しを俺に向ける。


『――今は私がいる。私はオペレーター、サポートするのが役目。今はあなたをサポートするのが役目。だから心配しないで。あなたは、』


 強い人だから、と彼女は思いを届けた。


「……あぁ」


 まるで顔面にバケツいっぱいの冷水をぶっかけられたような、金づちで脳天を殴られたかのような。彼女の言葉は深く、そして重く心の奥底に響いた。

 俺は――俺らしく戦えばいいんだ。生意気にアイリスや和葉の仕事ぶりを真似るなんてしなくていい。刀は鈍ら、銃の腕は気分屋で、誇れる技術が皆無の俺には荷が重過ぎる。俺はただ特戦で学んだことを出し切れるように努力すればいい。

 だって俺は、ドが付く素人なんだから。


「はは……ははは……」


 そう開き直った時、もう頬の痛みはなくなっていた。いろいろとつっかえていた思いは、手からこぼれる砂のように細かく崩れて重みを失った。


「まったく……」


 年上としての威厳はどこにもない。なずなには教わってばかりだ。


「なずなさん……俺、やってみるッス。俺の精いっぱいを……」


 俺は鈍刀を握り締め、小さな少女に微笑んだ。それに対して、彼女は告げる。


『――銃を拾って。時間は、私が稼ぐ』


 銃は園内にある自動販売機の手前に落ちていた。何よりもあの銃がなければ、俺たちはクリーパーに致命傷を与えられない。怒りに我を忘れ無駄撃ちした挙句、よもや最終兵器を手放すとは、とんだ馬鹿野郎だ。


「了解ッス!」


 首に巻いたネクタイを締め直し、新緑色の柄の縫い目に指を合わせ深く握り込ませる。残りのマガジンは二つ――計十八発の弾丸。これだけで決着を付けなければならない。

 俺の敵意に気が付いたのか、クリーパーが長い爪で地面を掻き、一気に駆け出した。

 俺もまた走り出し、正面から激しく衝突する。圧し掛かるように飛び込んだクリーパーの爪が刀を撫でる。互いを削り合う力が振動となって腕を流れた。

 俺は切っ先を横に寝かせ、獣の力を後方へと受け流す。前のめりに跳び掛かっていた獣は、支えを失い体勢を乱した。巨体の下を滑り込むように潜った俺は、即座にクリーパーの脇腹に上段蹴りを見舞った。

 ギィッ、と錆びた鉄にも似た悲鳴を上げる獣は、石タイルの上を転がった。その間、俺は前転しながら自販機の前まで移動し、そこに放置された拳銃を拾う。しかし、その直前――


『――後ろ』


 急のテレパス。その声に振り返ると、すでに体勢を立て直していたクリーパーが両手の鋭利な凶器を伸ばしていた。

 けれど――その研ぎ澄まされた殺意が俺に達することはなかった。クリーパーの長い爪が俺に到達する間際、横合いから細いツルが割って入った。


「ありがとう、なずなさん!」


 なずなの袖口から伸びたツルは、クリーパーの黒い腕に巻き付くとその巨体を一気に吊り上げ、さながらマグロの一本釣りのように後方へと投げ飛ばした。

 獣は再度地面を転がる。その隙に弾を装填し、さらに刀を左手逆手に持ち替えながら、右手で照準を合わせた。ついでに左手をグリップに軽く添え、安定を図る。クリーパーは地面でもがき、腕に絡むツルを引き千切らんと噛み付いていた。しかし、クリーパーが引き千切るよりも速く、なずなのツルが量を増やしていく。

 その間、俺は少しずつクリーパーとの距離を詰め、そして――

 二発の銃声が園内に響き渡る。俺の放った弾丸は、見事獣の左頬と左肩に命中した。追い打ちを掛けるように立て続けにさらに引き金を引く。左肘に二発、左脇腹に三発、脳天に二発。さすがに堪えたのか、獣の身体がぐらりとよろめき、右肩から大きく崩れ落ちた。石タイルに突っ伏した巨体は、そのまま物言わぬ塊となり、完全に動きを失う。


『――確認』


 なずなの短い通信とともにツルが彼女のワンピースの袖へと退散していく。

 マガジンを換装し、俺は銃を前方に突き出したまま接近する。近付いてみてもピクリとも動かず、生命活動をしているようには見えない。というかこれは確認するまでもなく、死んで、

 しかし、それは早計な判断だった。

 ――赤い瞳が光った。


「グッ!!」


 やにわに伸びたクリーパーの右腕が、俺の握る銃を弾き飛ばした。立て続けに右腕が空を掻き回し、俺の左手の甲を掻き付ける。引き裂かれた手の甲から、わずかに鮮血が散った。


「こいつっ!!」


 こいつ、死んだフリまでするのか! 知能が高いって言ったって、ありえねえだろ!

 俺は後方に退きながら刀を右手に持ち直す。ここで刀まで取り落とすわけにはいかない。弾かれた銃は一瞬のことに見失ってしまった。頼れるのは、もはやこれ一本しかない。

 距離を取りたい俺に対し、跳び掛かり右腕を突き立てたクリーパーはその顎を開き、鋸のような牙をギラつかせた。

 咄嗟に刀を水平に構え、猿ぐつわの要領でクリーパーに噛ませる。目の前に迫った獣の口の中は虚空を思わせる闇で満たされており、噛み付かれようものならそのまま闇に溶けるんじゃないかという不安を呼び起こす。

 押し負ける――だが、がりがりと刀を噛み砕こうとするクリーパーの脇腹に、なずなの放った大量のツルが濁流となって押し寄せた。濁流は悠々と獣を押し飛ばし、戦いを仕切り直す。

 わずかに身体が離れた。

 大きく雄叫び上げたクリーパーは、弧を描くように園内を駆け回り、助走をつけて再度俺に突貫する。


『――来るッ!』


 凛と通るなずなの声。

 一方で、俺は恐ろしいほど冷静に、クリーパーを迎え撃とうとしていた。

 なずなに落ち着けと言われたから? 自分を信じろと言われたから? 確かにそれも一理あるかもしれない。あの一発のおかげで冷静になれたのは否定しない。だけど、この場の冷静さはそれとは一線を画していた。

 腹を括れ。覚悟を決めろ。

 戦い方は知っているはずだ。アイリスと稽古をしていた時の方が何倍も厳しいものだった。なんせ剣五枚が一時に飛び掛かってくるんだもんな。それに比べればこんなもん遊んでいるに等しい。

 そうだ、思い出せ。アイリスと戦っていた時のことを。


「オオオ―――ッ!!」


 クリーパーの薙いだ右腕をかわし、一転、身を翻して正面から刀を振り上げる。

 一閃。

 獣の甲高い叫びが全身を揺り動かす。見れば、クリーパーの右手の中指と薬指の間から肩までが、二つに裂け、どす黒い液体が噴水のように吹き出した。


「へ? 斬れた!?」


 拍子抜けた声を上げ、俺は刀を中段に構え直す。見れば、普段まったく冴えのない鈍刀は、切れ味を持つかのように白銀に輝いていた。


「どうして……」


 口からこぼれたその疑問を覆い潰さんばかりに、クリーパーはガラスを引っ掻くような悲鳴を上げながらのた打ち回る。依然として腕からは大量の黒い血液が噴き出し、湖でも作らんばかりになみなみと園内を染め上げていく。

 そして一面が血液で満たされ、耳障りな悲鳴も底をつく。

 クリーパーは生命活動を停止する。


「……」


 房のようなもみあげを揺らしつつ、なずなは両腕からツルを垂らした状態で動かなくなったクリーパーに接近する。ツルの一本を伸長させ、クリーパーの首に巻き付けると、彼女は俺に顔を向けた。


『――状況終了』

「……つっかれたあ!」


 ふう、と俺は安堵の息を漏らす。って、それどころじゃない!

 勝利の余韻に全身の筋肉を緩めようとするも慌てて刀を見つめ直した。


「あー……ん? あれ?」


 やっぱりというか、何というか。そこにあったのは今まで通り、切れ味皆無の鈍刀だった。刃もなく、輝きもなく。ただ木刀レベルの力しか持たない鈍らがそこにあった。

 一体全体どういうことか。まさか気合の一閃が通じたとか、そんな精神論じゃないだろう。あの時見紛うことなく刀身は、研ぎ澄まされた波模様を描いていたのだから。


「……なんだってんだ」

「ソラさーん」


 そう思案する俺に声が掛かる。ヒラヒラとテーマパークの入り口から、ヴィクトリア王朝の貴婦人のような格好をした女の子――アイリスが手を振りながら走ってきた。息を弾ませる彼女はブロンドのロングヘアをふわりと揺らしつつ、その豊満な胸に手を当てた。

 俺と刀となずなと遺骸。四つを順々に眺めた彼女は、最終的に俺で視線を止めた。


「遅れてしまって申し訳ありません。室長から応援に呼ばれて……大丈夫ですか?」


 青い瞳をわずかにかざし、下から覗き込んでくる。つまりは、上目づかい。


「あ、ええ、何とか……」

「本当……ですか? あまり顔色がよろしくないようですが……」

「え? いや本当大丈夫ッス!」


 余程ヤバい顔色だったか、アイリスは心配そうに俺の頬に手を当てる。俺はその手から逃れるように、辺りに視線を逸らした。

 けれど、逸らした先であるものが目に付いた。


「なずなさんは……何をしてるんですか?」


 空気に溶け始めた黒い水たまりの中心で、なずなが膝を折ってしゃがみ、クリーパーの遺骸に両手を合わせていた。

 それはまるで友人の墓参りに訪れたような出で立ちで、彼女の喪服色のワンピースがそれに拍車を掛けている。


「どうして……」


 彼女の行動の意味が理解できなかった。

何故ならクリーパーは人を襲う怪物で、本能で動く化け物で、俺たちが戦うべき存在で、手を合わせて拝むような相手ではないはずなのだから。

 ――ないはずなのに、この言い知れぬ感覚は何だ……。


「……」


 隣に立つアイリスはその桃色の唇を固く閉ざし、決して俺の問いには答えてくれなかった。じっと少女を眇め、どこか悲しそうに口を引き結び続けていた。

 なずなの考えていることも、アイリスの考えていることも、今の俺には理解できなかった。

 黒い塊は急速に朽ち果て、皮の剥がれた先から霧散していく。

枯れた葉が風に吹かれるがごとく青空に流れ、同化し、消えていく。


 数秒後――闇が晴れた園内には少女が一人、声もなく祈り続けていた。

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