第5話 感傷

『お前は今の仕事に達成感を感じるか?』


 クロスシートに座る男は、話の始めをそう切り出した。


『そんなの考えたこともない。所詮、今の仕事は目的のための過程でしかないんだ。達成感はすべてが終わった時に感じればいい。……だけど、もし俺の中にあるこの感情を言葉にするなら、それは義務感と……』


 その向かいに座る青年は、そこにある窓に顔を向けたまま事もなげに返答する。


『焦燥感だろうな』


 ダウンジャケットを厚く着込む二人は、列車に揺られながら、雪に埋もれた白銀の世界をひたすら北に向かっていた。急な仕事により本来任されていた日本を離れ、二人はそこからはるか北に存在する極寒の大国――ロシアに赴いていた。

 身を切るようなブリザードの吹き荒れる窓の外は、そこにあるありとあらゆるものを凍りつかせ、生命の存在を一切許さない死の世界と化している。

 そんな絶対零度の外には目もくれず、男は眉を顰めながら訊ねた。


『なるほど、義務感ってのはよくわかる。つまんねえ仕事を依頼された時は、うんざりするよな。頭が痛え。それを義務だと割り切るっていうことなら、納得ができる。だが、焦燥感ってのは理解に苦しむ』


 その言いぐさに青年は、このあとのセリフを継ぐべきかどうか迷った。と言ってもそれは男の態度に不満があるからではなく、自らの考えに自信が持てないことに起因する。


『……俺は……早く奪われたものを取り戻したいんだ』


 数秒の沈黙のあと、青年はニット帽を深く被り直した。


『一分でも一秒でも早く、俺は奪われたものを取り戻したい。そのために任務をこなしている。この方法が一番の近道だと思うから。なのに、成果は一向に現れない。いつになったら取り戻せるのか、本当に取り戻すことができるのか。最近はそればかりを考えている』

『それが焦燥感ってか? また、くだらねえこと考えてんな、お前』


 男の嘲る表情に、青年は静かに頷いた。この男の言動に容赦がないことを青年はよく知っている。それで気分を害することも、もはやない。


『早くしないと俺自身が消えてなくなるような気がするんだ。笑うことを奪われたせいで俺が俺でなくなっていく……どんどん、何も感じなくなっていくのがわかる』


《笑い》の欠落が、同時に青年の感情を欠落させる。

 周りの人間は声を上げて笑っているのに、青年はその《笑い》に共感ができない。

 何が楽しいのか、何が声を上げさせるのか、何がその表情を形作るのか。

 欠損したそれのせいで感情の振幅は弱まり、また逆に周囲と自分との溝は増し、感情の欠落は加速度的に進んでいく。自我が崩壊していく。

 何が、何を、何故、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして――

 青年の自我を唯一留めていたのは、奪われた《笑い》は取り返せるという希望だけ。だが、それも長年の放浪と任務の中ですり減り、磨耗し、不安へと変貌していった。


『だったら、お前も俺みたいに自分を満足させる何かを見つけりゃいい。今を楽しむことだけ考えろ。そうすりゃ焦燥感なんて頭に浮かびもしねえよ』

『満足させる何か?』

『少なくとも俺はこの仕事に満足してる。色々文句言いてえことはあるがな』


 男は苛立たしそうに、列車の窓を指の背でノックする。


『大体お前をお前たらしめるのは、感情のあるなしじゃねえだろ。それに《笑い》だけがお前の感情でもねえ』


 その男の言葉に青年は完全に口を閉ざした。

 男の言うとおり、《笑い》という一つの表現方法の欠落が他の感情の欠落を意味するわけではない。笑いがなくとも人間はそうそう変わらないだろう。それはわかっている。

 しかし、連鎖的に他の感情の起伏を小さくしているのは間違いではなく、彼は自らの存在が不確かなものになっているのを、否応なく感じ取ってしまっている。


『納得行かねえってか。まあ、知ってたぜ。お前はこんな片手間の会話で解決するほど単純なことで悩むタイプじゃねえもんな』


 青年はそれには答えず、じっと窓の外を眺めていた。

 窓の向こうには雪原と枯れた木々の群れが、先が霞んで見えなくなるまで続いている。列車は定間隔で椅子を振動させ、時折けたたましい警笛を轟かす。


『……そろそろだな』


 景色の奥、列車から二キロほど離れたところに小さな村が見えた頃、男がおもむろに立ち上がった。それにならい、青年もまた重い腰を上げた。二人は示し合わせたように互いに列車の前方と後方に目を向け、交錯するように一歩を踏み出した。


『さあ、パーティの時間だ――』



***



 一ヶ月後、冷たい雨。車内、同乗者二名。


「ソラさんが特戦に来てから、もう一か月が経つんですね」

「ああ……もうそんなになるんスね」


 時間が経つのは早い。思い返せば目まぐるしくて、ただただ慌ただしい一ヶ月だった。

 俺はこの一ヶ月、毎日のようにアイリスと御形から手ほどきを受け、修行に励んでいた。アイリスには、剣を同時に五枚使わせるほど腕を上げ――というか勘を取り戻し、御形とは初回ほどではないが、そこそこ張り合えるほどになった。また桐島からは、これまでの対策局の歩みや頭に入れておくべきエクセリア関連の知識を座学で教わり、その他ボランティア活動として近所の小学校に顔を出したりもした。

 ちなみに俺が披露するのは手品だ。と言っても、よく玩具屋で売ってるチープな手品セットを、ぎこちなく実演するレベルに過ぎないけど。

 あっ、そうそう、鈴代からの言付けで普通車免許も取得した。やはり移動には車が必要ということで、期限一ヶ月以内、という厳命をどうにかこうにかクリアしたのである。ちなみに今運転しているのも俺だったりする。

 見ること。聴くこと。知ること。学ぶこと。覚えること。

 月日は流れ、季節は変わり、辺りの紅葉とともに肌寒くなってきていた。

 俺、アイリス、なずなを乗せた黒塗りのワゴンは、靖国通りを東に向かっていた。行き先は御形の通う聖蹟女学園である。学校帰りの彼女のお迎え任務の真っ最中であり、これから俺専門の任務となるものだ。今回はそのルートの確認。


「……」


 車を運転する俺の隣で、なずなはアイリスお手製のクッキーを頬張った。甘みを含んだ香ばしい匂いが鼻腔をくすぐるが、あいにく俺は運転中のためお預けをくらっている。


「お仕事には慣れましたか?」


 自らもクッキーを口に運ぶアイリス。後部座席では彼女の作ったお菓子が、まるでこれからティーパーティを行うかのごとく広げられている。


「事務的なものは一通りって感じですね。肝心の戦いの方は何とも……クリーパーも一ヶ月前の出現きりッスから、実戦がどんなものなのか分からないですし……」

「それに関してはわたくしも慣れてはいませんよ。慣れちゃいけないことだと思います」

「……慣れちゃいけない」


 それはまたおかしなことを言う。この特戦の仕事は命のやり取りをする危険なものだ。戦闘を経験し、慣れることで死の確率を減らせるのならそれに越したことはない。まっ、確かに花も恥じらう乙女が豪傑さながらに戦闘を繰り広げているのは、実に悲しいことなんだけど。


「……」


 俺たちの会話など興味がないといった素振りで、なずなはその小さな手でクッキー

を口に運び続けていた。もぐもぐとおいしそうにしている彼女の姿が、ちらちらと視界の隅で踊る。そんな彼女に俺の我慢は限界に達した。


「……あ」


 ぐう、と音が鳴った。後続車が俺の下手な運転に嫌気がさしてクラクションを鳴らしたのかと思ったが、音はずっと近く――というか顔の下から鳴っていた。腹の音だった。

 信号が止まったおり、なずなに目をやると首だけをこちらに向け、ジトっと俺を見つめている。そんなに大きな音だったかな……エンジン音よりは小さかったと思うけど。


「……」


 物言わぬ口は閉ざされたまま相変わらず元気に動いている。視線を逸らさないその様子は、どうだ羨ましいだろ、と挑発しているようにも見えるが、さすがにそれは考え過ぎか。


「あっ! ごめんなさい、気が付きませんでした! ソラさんも食べたかったですよね!」


 俺の腹の音をなずな同様に聞きつけたアイリスが両手を握り合わせる。俺はバックミラー越しに彼女を見つめた。


「あ、いや、今のは、別に、心の声が出たとか、そういうわけじゃないんスよ」

「じゃあ、いらないんです?」

「え、えっと、それがまたそうとも言っていないわけで……えーっと……」


 咄嗟に否定してしまったが、むむっ、ここはやはりはっきりさせよう。


「ぜひ……頂きたいです」

「はい、よくできました」


 図らずも言わされる形になった俺に、アイリスは満面の笑みで返す。一枚のクッキーを摘まんだ彼女は、シフトレバーを跨ぐように俺となずなの間に割って入り、おもむろに、


「はい、あーん」


 と、甘々のバカップルよろしく口元にクッキーを寄せてきた。


「ふょろ、えッ!? おわっ」


 不意を突かれ、危うくアクセルを踏みかけた。それは隣のなずなも同じようで、持っていたクッキーを膝の上に取り落とし、あまつさえさっきまで開くこと知らずだった口が開いたまま塞がっていない。


「はい、あーん」


 そんな俺たちを知ってか知らずか、アイリスはなおもクッキーを押しつける。


「あ、あーん」

「おいしいですか?」

「……と、とってもおいしいです」


 二つの意味で。


「喜んでいただけたみたいで嬉しいです」

「あ、アイリスが作ったものなら何だっておいしいに決まってるじゃないですか、ははは」


 今日一番の笑顔を見せるアイリスに、俺はぎこちなく笑うことしかできない。


『――前、青』

「うおっ!」


 と、そんな俺に罰が当たったのかいつに間にか信号は変わっており、後続車に今度こそクラクションを鳴らされてしまった。急いで車を走らせるが、何となく助手席から冷たい視線を感じてしまう。


『――お熱いこと』


 ちなみに車内は適度な空調が効いているため、そんなことはない。


『――顔赤い。鼻の下……伸びてる』

「……うっ」


 実際そんな露骨に出てることはないだろうけど、まったく反論する余地がない。後部座席からくすくすと笑う声が聞こえる。それを聞いたなずながため息を吐いた。


『――意外なことする』

「少し悪戯が過ぎました。お気を悪くしたのなら謝ります。ごめんなさい」

『――いい……あなたなら万に一つもあり得ない。それに彼の変顔も見られた』

「……ちょ」


 別に好きで変顔をしたわけじゃないんだけど。あんなことされたら世界にいる全男性が同じリアクションを取っても仕方ないわけで……。それくらいに彼女の行動は不適で、何よりその姿形は美し過ぎた。にしても、万に一つも、というのは言い過ぎじゃないかな?


「道順は、もう完璧ですか?」

「昨日頭に叩き込んだッス。というか、基本的に真っ直ぐですから」


 いまだ身を乗り出す彼女の問いに、俺は一際捻じれ上がる髪を掻く。指が絡む。


「ふふっ、今日は湿気が多いですものね」

「天パはツラいッス」


 絡んだ髪を伸ばしつつ、口元は苦笑いを作る。


「こんな雨でも高校生は、勉強しなくちゃならないなんて大したもんッスよ、真似できません。そういえば、どうしてなずなさんは学校に行ってないのに、御形さんは行ってるんですか? そういうの免除されるって聞きましたけど」

「それは和葉の達ての希望だからです。理由はわたくしたちも存じ上げません」


 そう答え、アイリスは紅茶を口に含む。


「ですが、彼女なりの理由があるのだと思います。年頃の女の子ですから」

「……はあ」


 まっ、そういうことにしておこう。

 車は交差点で左折すると、歩道を歩くセーラー服の数が目に見えて増える。上流階級御用達の学校ということで、どこか気品が溢れて見えるのは、庶民過ぎる発想だろうか。

 ワゴンを徐々に減速させ、正門から一〇メートルほどの距離で停止させる。


「傘は一番後ろにあるッス」


 一つだけ残っていたクッキーを口に詰め込み、傘を掴んで外へ出る。

 雨は強い。傘を打つ滴の音が耳を突く中、水たまりを避けながら二人の元へ急ぐ。正門には『聖蹟女学園』と彫られた大きな板が付けられていた。縁取りの豪華なものだ。

 喪服のような出で立ちの三人が並ぶ姿はさすがに異様だったらしく、すれ違う女子高生の視線が妙に痛い。正門脇の屯所にいる警備員さんは多少の事情を知っているはずだが、それでもさっきからちらちらと俺たちの様子を窺っている。これまた痛い。


「……あ」


 待つこと数分。ビニール傘を差す見慣れたショートヘアが目に入った。一人歩いてきた御形は、図らずも物々しい様相の俺たちを見つけるなり、頬を引きつらせた。


「あんたら……さすがに怖いわよ、それ」


 そもそも――

 何故俺が御形のお迎え係に任命されたのかというと、特戦の中で俺が一番暇だからというただこの一言に尽きる。今までは桐島がお迎えをしていたらしいが、ようやく俺にも専任の仕事が回ってきた。大体、どうして屈強で腕っ節のある御形に、お迎えが必要なのかというと、これもまた簡単な話で、単純に室長が過保護なだけだからである。 

 雨の日から数日、今日も俺は任務を遂行する。着実に遂行する。


「寒いッスねえ」


 吹きつける寒さに手を擦り合わせながら一人ごちる。

 女子高ということで、正門前に男一人で待っているのはかなり恥ずかしい。すれ違う女子高生は相変わらず俺をちらちら見てくるし、見た後はひそひそと友達と何かを話し合っている。屯所の警備員さんとはこの数日で仲良くなったからいいものの、されど女子高生の数は無限大。みんなが俺の存在に慣れてくれるには、まだまだ時間が掛かりそうだった。

 落ち着かない俺の視線の先で、ようやく見覚えのある三人の女子高生が向かってきた。


「あら、今日も噂の彼がお待ちですのね」

「いやですわあ、あれはただの執事ですのよ」

「クラスではここずっと、この話題で持ち切りですのよ」

「もお、からかうのはやめてください」


 言い忘れたが、慣れるのに時間が掛かりそうなことがもう一つある。いわゆる、お嬢様学校として名の知られている聖蹟女学園は、通う生徒の所作や振る舞い、品格などにとにかく厳しい。喋り方なんてのは、最初に矯正される部分で、ガサツな御形もあの中では人が変わる。

 要するに今からかわれているのは信じられないことに、御形和葉本人なのである。


「それではごきげんよう」

「……ブッ」


 必死に笑いをこらえるも、トドメの一撃に吹き出す俺。ごきげんよう!? そんな言葉をリアルで使う人間がいるなんて世界はまだまだ広い。しかもそれを使っているのが御形だからなおさらだ。

 御形は友達二人に愛想よく別れを告げると、まるで小鹿のようなしとやかな歩みで俺の元まで寄ってきた。


「お待ちしておりました、お嬢様」


 俺は執事然として胸に手を当て、恭しく頭を下げた。次にワゴンの後部座席のドアを開ける。執事のお迎えだが、初心者マーク付きのワゴンというのは、いささかナンセンスか。


「では行きましょうか、灰崎」

「かしこまりました」


 俺は運転席に乗り込み、颯爽と車を発進させた。

 ――はい。以上、状況終了。


「はあ」


 車を走らせるのに合わせ、盛大なため息が後部座席から届けられた。


「今さらだけど初期設定間違えたわ。もっと普通の学校を希望すればよかった……」


 通学鞄を放り投げた御形が運転席と助手席の間をまたぎ、俺の隣に座った。少し長めにしていたスカートの裾を折ってミニに変えながら、彼女は髪を払う。


「猫被るくらいなら、猫耳被ってくださいよ。あの耳、きっとクラスでもウケるッスよ」


 化けの皮を剥いだ御形に笑い掛ける。その俺の台詞に彼女はムッとした。


「あんた、最近確実に調子乗ってるよね。まさか、女子高生に噂されて舞い上がっちゃってるとか?」


 やらしぃー、と彼女は唇を尖らせる。


「確かに、キャーキャー言われるのは、悪い気しないですね」


 あんまりちやほやされないもんなあ、この職場。そもそも浮かれることとは縁遠い職務だし。そういえば、これが浮かれた話になるかどうかわからないが、隣の彼女――御形との関係が多少良くなっていた。今ぐらいのフランクな会話はできるようになったし、ボディタッチがあっても殴られるようなこともなくなった。すごくくだらないが、これはかなりの進歩と言える。


「学校、どうッスか?」

「どうって?」


 突然の質問とはいえあまりにそっけない。噂されてるのがそんなに不満だったのかな?


「いやあのー、俺、記憶ないじゃないですか。記憶があるのは一ヶ月前からで……だから学校ってのが、どういうものかイマイチわからなくて……」

「あー、そうゆうこと……まあ、楽しいわよ。友達みんな仲良いし、毎日飽きないわね」


 そりゃよかった。楽しいは大事だ。それは笑顔のためには不可欠な要素だろう。

 車線を変更しつつ、靖国通りを西に向かう。


「でも、猫被ってまで学校に行く必要ってあるんッスか?」

「……それは……当然よ」


 俺の質問に彼女の声が低くなった。視界の隅に窓の外を見る御形が入るが、彼女はどこか虚ろな瞳で外を眺めていた。と、突然――


「あたしたち……死んでるんだよね」


 それは、まるで笛を吹くような弱弱しさだった。御形が指を組み合わせ、膝の上に置くのがわずかに見える。


「あー、やっぱいい! 言わない!」


 しかし組んだ指を解き、頭の後ろに伸ばされる。ぶんぶんと頭を振る。


「言ってくださいよ。俺聞きたいッスよ、御形さんの話」

「んー、どうしよっかな……ほんと大した話じゃないんだけど……」


 信号待ちに御形を見ると、何とも名状し難い表情で苦悩している。そんなに言いたくないのだろうか? 逆に気になる。

 信号の色が変わったころ、彼女は諦めたように息を吐いた。


「あたしね……あたし、自殺したのよ」

「じっ、自殺!? 自殺って自分を殺す自殺!?」


 我ながら意味のわからない問いだが、下手な確認でもせざるを得ない爆弾発言だった。


「そっ、その自殺。あんまり他言しないでよ」

「い、言わないッス! アイリスにも言ってないんですよね?」


 まあね、と彼女は小さく頷き、少しの間を置いて訥々と話し出した。


「あたしが死んだのって高校一年の時でさ。入学して最初に同じクラスになった子たちとまったく気が合わなくって、大喧嘩しちゃったの。んで、クラスの雰囲気ぶち壊し。スタートダッシュ大失敗。目立ち過ぎた奴ってハブかれるんだよね、女子の社会って。そのせいであたしも結構気が滅入っちゃって。それから……まあ、話すと長いから端折るけど、紆余曲折、色々なことがあって何か月かしたころにこう腕をスパッと……」


 右手の人差し指を左手首に当て――その後は正面を向いて、車の流れに気を逸らした。しかし、俺の計らいに反して隣からは笑い声が響いた。


「それがまた痛くってさあ。あたしの人生の中で最高の痛みなわけよ。血もいっぱい出るし、すっごく寒いし。でね、だんだん意識が遠退いていって……その時に気が付いたの」


 ――死にたくないって。


「だけど、もう手遅れで……その後は完全にブラックアウト。闇に落ちる感覚ってこういうことを言うんだ、って実感しましたとさ。で、終わらないのがこの話なんだけどね」


 そして肩に乗った黒髪をさらりと払う。声は落ち着きを取り戻していた。


「気が付いたら病院にいた。死んだと思ったんだけど、あたしは普通にベッドの上で目を覚ました。パパもママも来て普通にあたしと話してた。泣かせたり、怒られたりしたけど、みんないつものままで。あたしもその時までは、死ななかったんだと思ってた。ただ……手首の傷跡が綺麗さっぱりなくなってるのが、気になったんだけどね……」


 そう言いながら、彼女は傷一つない滑らかな手首を摩った。

 ――全快現象(リセットオーラ)。

 以前、桐島の座学で教わったことがある。

 全快現象とは、死んだ人間が生き返る時、直前に負った外傷が完全に治癒する現象のこと。死んだからこそ起き、生き返ったからこそ起きる現象のこと。御形の手首が物語るのは、彼女は自殺し、そしてエクセリアになったということ。


「そしたら、何日か経って室長が来たの。そこであたしの置かれた状況をみんなに説明して、そのままあたしを対策局に引き取った」


 彼女は過去を思い出すように一つ一つ間を開けながら語り続ける。


「退院してわかったのは、あたしが奪われたのは《痛み》だったってこと」

「痛み?」

「《痛覚》がないって言えばいいのかな。触られてるのはわかるの。だけど強い刺激とか度が過ぎた奴はまったく感じない」

「それって危険じゃないですか? この仕事ならなおさら……」


 痛みは警告だ。自分が受けた怪我や障害を脳に知らせてくれる。例えば針を刺した時、その痛みを認識することができないと、加減をすることができなくなる。もし、それが失われたなら、俺たちは受けた傷に気付くことができず、そのまま……。


「その点は、エクセリア化したことでどうにかなってるのよ。この身体って治癒力半端ないでしょ? 多少の怪我なら致命傷にはならないし、なっても大概は完治する。心配しなくても平気よ。定期的に医務室に行くように室長に言われてるし、あたしには《痛み》があったころの記憶があるから、どの程度が致命傷になるのかが、そこそこわかる」

「いや、それでも……」

「むしろ、奪われたおかげであたしは戦えるのよ」


 彼女はリボン型の髪留めを弄りながらぼんやりと語った。


「もし、痛みがあるままだったら、とてもじゃないけど変異なんてできなかったと思う。あれって音聞いてるだけでも痛そうじゃん?」

「ええ、まあ」


 確かに俺も音を聴くたびに痛そうだと思っていた。あの骨が軋む音は耳に付いてなかなか離れそうにない。だけど、痛みがないなら――


「あたしは特戦のためなら何度だって変異する。痛みをなくして、存在をなくしたあたしにとって、この場所はあたしをあたしでいさせてくれる数少ないものの一つだから」

「存在をなくした?」


 対策局に近づいたが、俺は駐車場に向かわず、近くの路側帯に停車させる。俺は彼女のほの白い横顔を見つめた。喧騒は車内の密閉性によって遮られ、彼女の静かな吐息まで聞こえる。


「……最初の話に戻るんだけどさ……あの、あたしが学校に行く理由って奴。それってね、あたしがここにいるぞ、って存在を残したいからなのよ」


 俺の視線は気付いているだろうに、御形は一度として俺を見ることはしなかった。


「あたしは自殺して、《痛み》を失った。それと同時に生きている実感も失ったの。あんたも記憶なくして存在が希薄になるような感覚なかった?」

「……ない……とは言えないッス」


 記憶を失って以降、自分の存在をはっきりと証明するすべもなく、俺は自分が何者なのかを完全に見失った。彼女の場合、それとは少し違うだろうが、置かれている状況に大きな差はないんだろう。


「学校に通うことであたしの存在を認識してくれる誰かを得たいと思った。あたしにとって学校は、猫を被ってでも居たい場所なの。皮肉だよね。学校が原因で死んだようなもんなのに、いざ失ってみるとどれほど大切だったのか、よくわかった。そう考えると特戦も一緒で、あそこもあたしにとっては重要な場所なわけ。今までこんなにも必要とされたことなんてなかったし、仕事も嫌いじゃない。それにアイリスもなずなも変わってて面白いじゃん」


 御形はすっと背を伸ばす。


「それに願っても手に入らないセカンドライフだよ? あたしのやりたいようにやらせてくれてもいいじゃない!」


 そういうと彼女は車のドアを開け、ルージュ色のスカートをふわりと揺らしながら軽やかに跳び出した。こちらを振り返る。その表情は、あまりにも清々しい笑顔だった。


「ねえ、このまま対策局に戻るのもつまんないからさ、これからあたしとデートしようよ」

「で、デートッスか!?」

「あたしの秘密聞いたんだから、少しくらいお返ししてくれてもいいでしょ?」

「いや……それはやぶさかじゃないというか」


 今回聞けた話はなかなか興味深いものだった。アイリスにも話していないような秘密を教えてくれたというのは、俺としてもかなり嬉しい。彼女の言うようにこのまま帰るのも何か勿体ない気がするし、この後は特にやることもないから、ちょっとぐらいはいいかもしれない。何より現役女子高生とのデートってのがいい!


「ほら、早くっ!」


 御形が俺の手を掴み、引っ張った。


「ちょっと待ってください! 車移動させますから」



 新宿駅構内はその立地の関係もあって、多種多様な店が軒を連ね、一人の女子高生が数時間はしゃぎ回るには充分な場所だった。

 おかげさまで――両腕にいっぱいの袋を持つハメになった。


「まだ行くんスか?」

「次でさいごー」


 さっきも同じ台詞を聞いたけど、もしかしてこれって荷物持ち? もしや騙された!?

 とは思っても、付いていくしかない俺なわけで。その後もいくつかの店を回り、洋服やら雑貨やら髪留めやら、目に付いたものは手当たり次第に買い漁った。全部経費扱いで俺のクレジットを切ったわけだが、これはちゃんと受理されるのだろうか? そんなに貯金ないよ、俺。ほら、あくまでもボランティア団体だから、うち。


「やっぱ、クランキーキャラメルが一番ね」


 太陽が沈んだころ、駅構内にあった喫茶店で俺たちは向かい合っていた。

 御形は濃厚クリームが山ほど載った甘ったるそうなコーヒーをストローで吸っている。黄金色のキャラメルと小粒のナッツがまぶされていて、なかなか飲みごたえがありそうだ。


「さすがに遊び過ぎたんじゃないですか? これ」


 辟易としながら、俺は椅子の上に積んだ袋の山を一瞥する。ストローを咥える御形は、少し上目づかいに俺を見つめた。


「あたしの秘密に比べれば、大したことないでしょ。ぶっちゃけまだ足りないくらいよ」


 まだ足りない? 二桁万円は使ったのに、まだ足りないの?


「御形さん。俺、これ以上は無理ッスよ?」

「そうねー。じゃあ、一つこれから言うことを聞いてくれたら終わりにしてあげる」


 ふふん、と彼女は鼻を鳴らす。何か悪だくみを思いついたような顔つきだ。ちょっと即答するには勇気が要りそうだな。と、ちょっとばかし及び腰になっていたのだけれど、その後語られる彼女の提案は思いもよらないものだった。


「あたしのことを和葉って呼びなさい。さん、とかなし。呼び捨てで和葉って」

「え? は? え?」

「だっておかしくない? あんた、アイリスのことはアイリスって呼んでて、なずなはなずなさんって呼ぶじゃん? なのに、なんであたしだけ御形さんって苗字なのよ」

「いや、そうじゃなくて……だって御形さん、俺のこと嫌いでしょ?」


 最初に対策局であった時も、クリーパーと戦っていた時も突っ慳貪な態度で、何するにも露骨に嫌な顔してたし、最近では多少関係も改善したけど、それにしたって、アイリスやなずなに比べればまだまだ超えるべきハードルは多い。距離感は大事だよ、距離感。

 そう思っていたのは俺だけだったらしく――


「あれ? なんで?」


 御形はあからさまに取り乱した。


「べ、別に……あんたのこと、嫌いじゃないわよ? あたし」


 はははっ意味わかんない、とどこか乾いた笑い声を上げる。


「勘違い怖いなあ、まったく……まっ、まあ無理にとは言わないわよ。今まで通りでも。その代わりもう一軒回ることになるけど」

「……いや、それを言われると」


 突然の申し出に戸惑いを隠せない。これ以上の出費を良しとするか、一時の恥ずかしさを忍んで名前を呼ぶか。迷うようなことでもないと思うが、今さら変えるのも勇気がいる。

 俺は頭を掻きつつ、口を開く。もうどうにでもなれ!


「か、かずー……かずは」


 本当に情けない。が、一方でよしよし、と御形改め、和葉は満足げに頷いている。成功したってことだよね、これ。


「ところで話変わるけど、記憶は何か思い出した?」


 一通り満足した和葉は背もたれに寄り掛かり、ストローでクリームを混ぜる。


「それッスか。室長にも毎回聞かれるんスけど、まったく何も思い出せないんですよね」


 あれで意外と面倒見のいい鈴代は、最近、三日に一回くらいは俺のために時間を作ってくれる。大抵は上役の愚痴なんだが、博識だし、事情通でユーモアもあるから話すのは苦じゃない。


「一ヶ月経つからそろそろ何か思い出してもおかしくないだろう、って言われてるんスけどねえ。ショック療法はどうかって室長と女医さんは話してたんスけど、それもどうだか」

「ふーん……エクセリアってまだ全然研究進んでないらしいから、そういう刺激を与える方法もありかもしれないわね」

「あっ、そういえば」


 突如頭の上にびっくりマークが点灯した。


「それとは直接関係ないかもしれないけど、最近変な夢を見るんですよ」

「夢? 寝てる時の夢?」

「そうッス。まだ室長にも話してないんスけど、ちょっと前から頻繁に見る夢があって……妙に現実感があるというか……だけど、詳しいとこまでは思い出せなくて」


 夢と記憶は相互に密接な関係がある、ってのはよく知られている話で、最近見るその夢が俺の過去と何かしら繋がっている可能性は高い。だが、さっきも言った通り、目覚めた直後いくら思い出そうとしても、その内容のカケラに触れるのが精いっぱいで、核心には何一つ触れられずにいた。


「夢ねえ……他に何もないって言うなら、現状の最有力ではあるのかもね。じゃあ、あっちの方はどうなったの? あんたのそばに落ちてた使えない刀のほうは」


 興味がわいてきたのか、身を乗り出した和葉はテーブルに肘を突き、手に顎を載せた。残念なことにその興味にも今の俺は応えられそうにない。


「それも何もわからないッス。アイリスが言うには、アーキタイプのエクセリアは発生と同時にその使い方を理解するらしいんスけど、そういうこともなくて……」

「あんた……謎ばっかりなのね」

「恐縮ッス」


 ――俺も自分のことが知りたいよ。

 それから刻々と時間は過ぎていく。周りの人間の色が変わり、サラリーマンやOLが目に止まる。やがて学生は目の前だけになった。コップは空になり、話題も底を突いた。


「そろそろ帰りますか」


 りょーかい、と和葉は跳ねるように席を立ち、トレイをカウンターに戻しに行く。俺は山のように積み上がっていた袋を一つずつ手に取っていき、持てない分は脇に抱え込んだ。


「一個くらい持ってくれても良くないッスか?」


 揚々と歩き出した和葉に俺は不満を漏らしてしまう。だって重たいんだもん。すると、彼女は驚いたように口に手を当てた。


「あら、灰崎。まさかわたくしに荷物を持てと言うのかしら?」


 な、何たるへそ曲がりっ! こんな時ばっか令嬢ぶって!


「猫被るなら、猫耳をッスよ……」


 とはいえ、強く言えない甘々な俺なのであった。

 仕方なく荷物を抱える俺と手ぶらな和葉は、店を出て駅を抜け出す。新宿駅周辺は車を停めるところがなかったので、ワゴンは対策局に返してしまっていた。よって、帰りは徒歩オンリー。さして遠くないから問題はないが、荷物が多いのは少々ツラいところだ。


 群衆の間を縫って新宿通りを歩く。交錯する人が多く、大きな荷物を抱えた俺はなかなかうまく進めない。人にぶつからないように周囲に気を配りながら帰路を急ぐ。


「あ、ちょっと! 待って、和葉!」

 その途中、ある店が目に入り、前を悠々と闊歩していた和葉を呼び止めた。振り向いた彼女は俺の視線の先を見つめる。


「ちょっと買いたいものあるんスけど、いいッスか?」


 和葉は仕方ないといった感じで肩を竦めると、俺の荷物の一つを受け取った。

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