第4話 三女三様


 まどろむ夜が漂う岩礁と、煌々と明かり灯す満月。

 二人の男は、ゆらゆらと月を反射する海を眺めていた。


『この仕事が終わったら飯でもおごってやる』


 砂浜に座る青年に、背後で腕組みをする男は提案した。青年は夜空を見上げる。


『突然どうした?』

『なんとなくだ。理由なんかねえよ。にしても、俺がこんなこと言い出すことなんて滅多にねえんだ。喜んで跳びつくか、嘘でも笑うかしろよ』

 

 男は自らの提案を自らで否定する。その奇妙な言動に青年はにべもなく言い放った。


『面白くないから笑えない』

『つまんねえ話で悪かったな』

『……次回作に期待する』


 いくつかの不満の言葉が頭を駆け巡り、しかし言うのも面倒だったので、それ以上彼は口を閉ざした。青年は静かに立ち上がると踵を返し、男に目を向ける。

 そこに立つ男の頭は真っ黒な靄に覆われ、はっきりとしない。

 ただ――今の青年にはその顔の見えない男の姿に疑問を持つこともない。


『冗談を口にするなんて、一体どういう心境の変化だ? 仲間意識でも芽生えたのか?』


 仲間意識。それは目の前の男にとって、特別な意味があることを青年は知っていた。


『友情がなかろうが、仕事仲間との良好な関係を築こうと思う時だってあるんだぜ』


 男は《友情》を奪われた。《友情》を奪われて、生き返った。

 当人は否定するが、男と行動をともにしてきた青年から言わせれば、その冗談はとてもおかしなものだった。それは男の性格も含めて、ありえないことだったからだ。

 男と知り合ってからのおよそ三年間。その間、男は青年に対し、利害関係から報酬のやり取りをすることはあったが、無償の、ましてや飯をおごるなどといった一方的なやり取りをしたことがなかった。


《友情》を奪われたことで合理性をことごとく重視する男にとって、互酬性のないやり取りは割に合わないに違いない。それでもそんな言葉を――たとえ冗談だとしても口走るということは、つまり、それは奪われた《友情》をわずかに取り戻した可能性を示唆する。

 青年は波の打ち寄せる音に耳を寄せながらそんなことを考える。


『わずかでも取り戻せたということじゃないのか?』


 青年の怪訝そうな表情に、男はあきれたように肩を竦めた。

『ははは、違えよ、まったく違う。友情があったころの記憶を知っている。知っているから、まるで友情があるかのように振る舞うことができる。ただそれだけだ。お前だって笑える思い出の一つや二つあるだろ? 思い出してみろ』

『思い出……』


 男の言葉に青年は言葉を失った。不意の発言に否応なしに記憶が巡った。だけどすぐに頭を強く振り、思考を無理矢理に中断させる。考えたところで笑える話が出てくることがないのを青年はわかっていた。

 そもそも笑える話があったとしても、今の彼がそれを思い出して笑うことはありえない。

 青年は決して笑わない。彼はその感情を決して理解できない。


 何故なら――彼は《笑うこと》を代償に生き返った存在なのだから。


***


 特戦に着任してから三日後。クリーパーに遭遇してから三日後。

 そして、なずなの裸を覗き見てから同じく三日後……。

 午前十時。対策局本部ビル七階、第一剣道場。


「では、本日はわたくし指導の下、稽古を行いたいと思います」

「ウッス! よろしくッス!」


 俺、相対するはアイリス・ユーリカ・ベイルスフィア嬢。

 俺とアイリスは、床に記された二本の白線に立ち、互いに向かい合っていた。彼女はいつものように、ドレスから剥がした黒鋼を組み合わせ、剣と楯のワンセットを造り出している。ゴシックロリータに中世騎士のような装いというのはどうにもミスマッチだ。


「ソラさんには、クリーパーとの戦闘を念頭に実戦的な力を身に付けていただきます」


 子犬のような愛らしい表情を見せるアイリスは、では、と優雅に手を差し伸べる。俺は右手に持った刀を握り直した。


「了解ッス。ところで……この格好じゃないとダメなんスか?」


 首に巻いたネクタイをひらつかせる。今の俺は、まるでどこかの国のエリート諜報員にでもなったような真っ黒のスーツを身にまとっていた。


「そのスーツはなずなが生成した繊維を織り込んだ特別製です。伸縮性に優れていて、なおかつ耐久性があります。対クリーパー戦には不可欠なんですよ」


 青い瞳に長いまつ毛をパチパチとさせながらアイリスは説明する。彼女は着ていたドレスのスカートをちょんと摘まんだ。


「例えばこのドレスやそれから和葉の来ているセーラー服も、一部に同様の繊維が使われています。中でもあのセーラー服はなずなの自信作だそうですよ。ソラさんはハエトリソウってご存知ですか?」

「ハエトリソウ? 葉っぱの先が二枚貝みたいな食虫植物でしたっけ?」


 クイズかな? これは知識なので、奪われた部分とは違う。


「ええ、そうです。ハエトリソウの場合は、葉の中にある感覚毛に昆虫が二度触れるなどして葉が閉じる仕組みなのですが、和葉のセーラー服の場合は、その変身能力に反応して衣服が急激に伸縮し、必要に応じて着脱が可能になっているんです」

「へー。便利なもんッスね」


 変異すると、その部分の制服が収納される仕組みか。言われてみると、御形の制服はあの細腕がゴリラの腕になっても破けていなかった。全身をヒョウやワシに変異させた時だって、制服を着たままではなかったし、その逆、変異を解いた時も制服は元のままだった。というか素っ裸だったら、俺はいよいよお天道さんに顔向けできなくなっちまう。


「じゃあ、このネクタイが真っ黒なのにも理由があるんですか?」


 スーツ自体については文句なかろう。頑丈は大事だ。だが、この真っ黒なネクタイは如何なものか。まるでこれから葬式にでも行かされる気分になる。


「えーっと、それは……ですね……」


 ん? っと、俺は眉を寄せた。何かを説明する時、アイリスが言い淀むのはかなり珍しい。日本人よりも日本語を使いこなす彼女だ。話せないのは、知らないからか、もしくはそれ以外の理由が……なんて考えても仕方ないか。とりあえず、ここは……、


「もしかしてアイリス……知らないんスか?」

「えっ……」

「あー、そうかそうか! そりゃあアイリスにも知らないことくらいありますよねえ。全知全能なわけないッスもんね! でも、残念だなあ、アイリスなら知ってると思ったんだけどなあ。だって、今まで俺の質問には何でも答えてくれたのに、まさかこんな些細な質問にも答えられないなんてなあ」


 とっても残念ッス、と俺は大げさに肩を落とす。ついでにわざとらしく大きなため息をつく。そのあからさまな俺の挑発に、アイリスはふるふると頭を振り、慌てながら半ば叫ぶように反論した。


「こ、これは室長の厳命なんですっ! 規則なんですっ! わ、わたくしだってピンクとか白とか、もっと可愛いドレスが着たいんですっ! だけど、そんなのは派手過ぎる、不謹慎だって……室長が……」


 まるで空気の抜けた風船のように語尾が小さくなるアイリス。俺は思わずこぼれる笑みを隠せない。ぷりぷりと拗ねるところがとても可愛い。


「あははは、ごめんごめん。ちょっとからかっただけッスから」


 俺とアイリスがたった三日間でここまでフランクな会話ができるようになったのには、ちょっとしたわけがある。

 というのも、この三日間でまともに会話ができたのは彼女だけだったのだ。

 いや、別に贔屓してるわけじゃないよ? 猫耳女子高生の御形は、俺の顔を見ると明らかに不機嫌になるし、植物少女のなずなはテレパスでさえ必要最低限の会話しかしてくれない。加えてなずなには、いろいろなものを見てしまった引け目が――いや、それは置いといて……。鈴代と桐島に関しては、多忙過ぎてまともに顔も合わせていない。

 となると、必然的にお喋り好きなアイリスとの親密度が跳ね上がってしまうのである。それに屈託なく喋ってくれる彼女との会話は楽しく、ついつい饒舌になってしまう。今こうして自分の境遇に落ち込まずにいられるのも、彼女のおかげであるところが大きい。


「もう……ソラさんは意地悪です」

「失礼しました。もうしません!」

「じゃあ稽古に入りますっ!」

「よろしくッス、先生」


 折り目正しく敬礼し、俺は刀を横に引き抜いた。


「あらかじめ申し上げておきますが、この力を手に入れるまでわたくしは戦うこととは無縁の生活を送ってきました。ですから、わたくしが以前から何か特別な剣術を学んできたというわけではありません。ほとんどが独学です。そして、ご存知のように鋼鉄処女は型通りの剣術を必要としないものですので、私が教えられるのは教本にあるような基礎的なものとなります」


 見た目から高貴なオーラの漂う気品あふれるアイリスが、実は泣く子も黙る豪傑だったなんてことになったら、さすがに趣がない。


「それからソラさんの刀は殺傷能力に欠きますので、通常の剣術だけでなく、ソラさん独自の戦い方を身に付けていただきます」

「それって自由にやってもいいってことッスか?」

「一部ではそうです。ですが、ちゃんと基礎を理解したうえで、ということになります」


 よろしいですね、とにっこり笑う彼女に、俺は同じくにっこりと返した。

 アイリスは漂っていた一本を自分の眼前まで下ろし、握り締める。それにならって俺も握っていた鈍刀に力を込めた。


「……」


 この刀を握るといつも奇妙な感覚に襲われる。この感覚はどこかで……。


「それでは基本姿勢をご説明しますね。まず右腕を――」


 アイリスの懇切丁寧な説明。そもそもの刀の握り方、難波歩きや手首、肘、肩の使い方。重心の位置。爪先や足の運び。左手を添える位置などから、その他のいろいろまで。構成した一本の剣を手に、彼女は本職は先生ですと言わんばかりに弁舌さわやかに語る。

 そして習うこと一時間――達者なアイリスの言葉に耳を傾ける一方で、俺は俺を覆う違和感の答えを見つけていた。


「あのさぁ……アイリス。懐かしい感覚ってわかります?」

「懐かしいですか?」


 突然の話でさぞや驚かせてしまっただろう。きらきら光る瞳をぱちくりさせている。


「この刀を握ってると……なんかすごく懐かしい気分になるんッスよ。昔からの友達久しぶり、って感じで、すごく心地よいというか、何というか……」

「懐かしいですか? ですが、その刀はソラさんが墜落事故で死亡した際に創造されたはずですよね? つまり一週間も経っていないことになりますから、懐かしいというのはありえないかと」

「ですよねえ」


 アイリスは小首を傾げ、俺も苦笑しつつ同意する。じゃあ、この感覚は何なんだろう。懐かしいじゃなかったら……。考えててもらちが明かないな、確かめてみるか。


「あの、提案なんッスけど、ちょっとだけ実践形式でやってみません?」

「実践ですか?」

「そう、実践ッス。なんだかできる気がするんスよ」


 もちろん根拠などない。記憶もあやふやな俺が懐かしいとか思うこと自体、おかしな話なんだから。だけど、もしこの感覚が俺の考えているもので間違いではないのなら――

 ――何かを得るきっかけになるかもしれない。


「ふふふ、初日ですから力量を測るのもいいかもしれませんね」


 しょうがないと言わんばかりに笑んだアイリスは、手を前に突き出した。

 その動きに合わせ、彼女の持っていた剣と楯が一つにまとまり、かと思うと集まった黒鋼は四つに分裂し、新たに二本の剣と二枚の楯を造り出す。楯は一枚ずつ俺たちの頭上に移動し、二剣はアイリスの正面に、刃を天井に向けた状態で静止した。って、二刀流ですかいっ。


「頭上の楯は、身体に接近する有効性の攻撃を完全自動で防御するよう設定してあります。そこで楯に一度でもガードされたら負けというルールにしたいのですが、如何でしょうか」

「それでも当たったらどうします?」

「その心配はないでしょう。模擬戦ですので、そこまで激しくはならないと思います」

「んー、なるほど。了解ッス!」


 俺は左手の鞘を道場の端に投げ捨て、刀をすっと構える。感じる懐かしさに逆らうことはせず、身体が命じるままに利き手で切っ先を正面に据える。じっと彼女を睨み付ける。

 やがて、俺の構えを見とめたアイリスは一つ頷いた。


「では、はじめっ!」


 合図とともに、一気に走り出す。急な俺の動きに、アイリスの剣が冷静に反応する。

 鼓膜を揺さぶる鋭い音が部屋を埋め尽くす。振りかぶった刀と待ち受ける剣がこすれ合い、耳障りな音が反響した。

 俺は正面から突っ込んだ力を横にいなし、左から右へとすばやく切り返す。側面への二撃目に移る。だが、それは彼女の二本目が受けた。同時に初撃を受けた一本目が舞い、俺の右脇腹を狙う。

 俺の動きは考えるよりも早かった。

 脳が反応するよりも早く俺は右腕を引き、襲い来る剣戟を刀で受け流した。


「……え?」


 白い手の平を胡蝶のように振るうアイリスが双眸を大きく見開いた。

 その驚愕は――俺自身にも伝染していた。

 きっとアイリスは今のコンビネーションで試合が終わると思っていたのだろう。それは俺も同感だった。普通に考えて、初心者相手に連撃をぶつければ、早々と決着がつくと思うのが普通だ。

 なのに――俺はそれを受け切った。受け切ってしまった。


「か、身体が勝手に……動いて……」


 驚きが口を突く。刀を握り直し、再度左手を前に構える。


 ――身体が覚えてる。


 懐かしさが確信に変わる。この懐かしさにはやはり理由があった。俺は過去にもこうして刀を振っていた。竹刀か木刀か真剣か。何らかの剣術を学んでいたのは間違いない。

 ならば、この勝負――頂かずして何としよう!

 最初に動き出したのはアイリスだった。彼女は手の平を流れるように振り払う。それに反応した二本の剣は、互いの柄尻を付き合わせ、二枚羽のファンのように回転し始めた。


「くッ!」


 二本が急回転しながら接近する。俺は刀を正眼に据え、迎撃態勢を取った。

 だが、それは眼前に来た途端、突如上下に分かれたのだ。

 下方分かれた一本がすばやく脚をすくう。剣が触れようかという寸前――頭上の楯が微動する寸前、俺は跳びはね、難を逃れる。しかし、それを待ち受けていた、上方の一本が縦に振り下ろされた。


「こんにゃろっ!」


 咄嗟に刀を両手で水平に構え、空中で受け止める。そのまま一息に身体を捻り上げ、頭上に止まった剣をオーバーヘッドキックよろしく蹴り飛ばす。さらに全身をコマのように回転させ、下方を抜けたもう一本を刀で弾き飛ばした。弾かれた二本は、どちらも道場の壁を強く打った。場内に鈍い音が鳴り響く。


「らああああぁぁ―――っ!!」


 着地した俺は、すかさず身を乗り出す。二本の剣が彼女のもとに戻るよりも速く。もっと速く。一気に間合いに詰め寄り、携えた刀を真横になぐ。

チェックメイト――かに思われた。


「少し……油断していました」


 冷ややかなアイリスの声。と、いきなり彼女は背後に回していた左手を前に出した。

 そこには鋼の短剣が一本。彼女は隠し持っていた黒鋼で俺の一閃を完璧に殺してみせた。続けて俺の刀を弾き、しなるように腕を右上から左下、左上から右下へと振り回す。

 その両方をかろうじて躱し、後方に大きく飛び退いてから俺は愚痴をこぼした。


「二本でも反則なのに、三本なんて卑怯ッスよ」

「ごめんなさいっ! 使うつもりはなかったんです、本当に。ですが、まさかこんなことになるなんて……」


 ぎこちなく微笑みながら彼女は言葉を濁した。困惑は隠せないようだ。

 俺は一度、手に溜まった汗を上着で拭う。時間にしてわずか五分にも満たない時間だろうが、全身にかかる疲労感はその倍はくだらない。感覚で身体を動かしてるんだ。オーバーロードで身体が置いてけぼりを食らっててもおかしくはない。


「だけど……負けたくないんだよな」


 額を袖で一拭きし、俺はまた正面に刀を構える。

 目標は――彼女の眼前に舞い戻った二本の剣。とにかく、武器を無力化させる。

 くッ、と口の端からこぼれたのと、同時に俺は跳び掛かった。刀を右から左へと払う。水平の軌跡を描いた俺の一撃を、二本の剣が迎え撃った。

 金切り声をあげる三本の刃。だが、まるで大男が扱うかのように、アイリスの剣二本の押し返す力は力強く、俺は一歩二歩と後退を余儀なくされる。

 ――アイリスの状況判断には抜け目がない。

 隙のない連撃や意表を突く一手。周到に用意された三本目の短刀。そして、俺の一撃の力を一本ではなく、二本の剣で受けるという的確な見極め。

 彼女の安全マージンを逸脱しない戦い方は、きっと場数を踏んだ彼女だからこそできる芸当なのだろう。記憶のない俺には絶対にマネできないことだ。

 でも、記憶のない俺にだってできることがある。

 俺は目の前でやかましく音を立てる鋼鉄処女の柄を――強く掴んだ。


「そ、ソラさんっ!?」


 俺の取った突拍子もない行動に、アイリスが声を上ずらせた。

 持ち主のいない武器を奪うのは、そう難しいことじゃない。ましてや持ち主が奪われることを念頭に入れていなければなおさらだ。

 左手に取った鋼鉄処女を身体に引きつけ、その反動を利用してより強く刀を前へ押し込む。半減したアイリスの剣を押し切るのは雑作もなかった。全身を使って跳ね除けると、剣はくるくると空中を舞った。

 活路は開かれた。両刀を駆使する俺は一歩で、アイリスの鼻先に接近する。

 そして――意趣返しと言わんばかりに後方から前に剣を見舞った。


「あ、あれ?」


 だが、振るった剣は大きく空を斬った。間合いは充分詰まっている。にもかかわらず空振った。

 見れば、俺の振るった剣は鍔より先が忽然と消え失せていた。


「どわっ!」


 体重を載せていたせいで前のめりにつんのめる。そこへ、カーンと空き缶でも放ったような情けない音が道場に響いた。

 隙だらけになった俺の頭に、アイリスが優しく短刀を振り下ろしていた。それはちゃーんと頭上で待機していた楯にガードされ、要するに――


「そこまでっ! ですね」


 ふわっとブロンドが揺れる。アイリスは短刀を両手で握りながら微笑んだ。


「……はあ」


 試合終了。俺、敗北。


「んー、武器を奪うところまでは面白いと思ったんスけどねえ」

「わたくしも最初は驚きました。けど、冷静に考えたら武装を解除してしまえば、と」


 ぼけっと立ち尽くす俺は、いまだに刀身の消え去った柄を握っていた。それは手から抜けるように粉々に分解し、アイリスのもとへと帰っていく。


「それにしても、ソラさんの動きは充分実戦で通用するレベルだと思います。エクセリア化を差し引いてもすごい反応速度でした。正直、想定外です」


 賞賛の言葉。ただ、頻りに自らの頬を撫でるアイリスの表情は暗く、今起きた現象がどうにも信じられない、腑に落ちないといった思いを如実に物語っていた。

 数分の間考えたのち、彼女は俺と同じ見解に至る。


「過去に剣術を習っていたということでしょうか? その感覚が記憶を失っても、身体に残っていた……」

「んー、もしかしたら、昔はすっごい剣豪だったのかもしれないスね」


 あえて、おふざけ口調に言う。意表を突かれているのは俺も一緒で、考えても正確な答えは見つけられそうにない。あまり真面目に返答しても、それは俺の気質に合わないし、第一面白くない。

 そんな俺の他愛ないおふざけに、アイリスも顔をほころばせた。


「ソラさんって謎の多い人なんですね」


 それから数時間、アイリスと剣を交え、基礎的な身体の動きを教授されながら時間は過ごしていった。時おり俺の動きを見るにつけ、複雑な表情を浮かべる彼女だったし、俺の疲労は並々ならぬものだったが、かくも絶世の美少女と戯れる時間は、それはそれは楽しいひと時だった。

 だが――どうやら、それも終わりみたいだ。


「もしもーし」


 白熱する稽古を遮るように剣道場の扉が叩かれた。振り返ると、女子高生――御形が扉に身体を預け、半眼でこちらを見つめていた。


「お取込み中申し訳ないけど、順番つっかえてんのよね」

「順番? ッスか?」


 意味のわからない申し出に俺は額の汗を拭った。はッ、と御形は呆れと嫌気を吐き出す。


「そうよ。次はあたしがあんたの相手をするように室長から言われてるの」


 またそんな予定を勝手に……。渋々と首をアイリスに向ける。


「では、わたくしの稽古はこれまでとしましょう。少し熱中し過ぎました」


 両手の指を合わせる彼女は、視線を剣道場の時計に移した。時間は午後一時半過ぎ。なんとまあ、昼飯すら忘れて稽古していたらしい。俺は再度振り返り、頬を掻いた。


「えっと、御形さんだと格闘技とかですかね?」

「それも考えたんだけどね。ただ……」


 そこで何故か御形は口ごもり、そのセミロングに付けた造花の髪留めを、鼻も恥じらう乙女のごとく弄り始めた。取っ組み合いはハードルがうんぬん、と言っているが、もごもごと呟くものでうまく聞き取れない。


「そんなのどうでもいいのよ! とにかくついてきなさい」


 しかし、すぐにいつもの調子を取り戻して、彼女は大股で剣道場をあとにした。


「なんか御形さんっていっつも怒ってますよね」


 声が届かなくなる頃合いを見計らい、俺はアイリスに訊ねる。俺に対してはいつも口調が厳しい。せっかく見た目はいいんだから、アイリスみたいにニコニコしていて欲しいところだ。

 そう不満を口にする俺に対して、不思議なことにアイリスはくすくすと笑った。


「素直になれないお年頃なんですよ、和葉も。わたくしは……可愛いと思いますよ」


 高校三年生女子というのは、そういうお年頃なのだろうか。あいにくそのくらいのお年頃の記憶をなくしちゃったので比較のしようもない。いや、あったとしてもあんなひねくれ方はしてなかったと思う。ところで……、


「お年頃ついでに訊きますけど、アイリスっておいくつなんスか?」


 御形がお年頃の高校三年生なら、彼女は一体何歳なのか。ふと沸いた俺の失礼な疑問だったが、んー、とアイリスは蕾のような唇に指を添え、意外にもあっさりと回答してくれた。


「ソラさんが二十一歳、和葉が十八歳なら……わたくしはその中間くらい、ということにしておきましょう」

 両目を弓なりに細め、蠱惑的に笑うアイリス。

 そんな魅力的な彼女の笑みに、俺はただただ目をしばたくことしかできないのだった。



 対策室ビル同階、射撃練習場。

 午後三時、遅めの昼食とシャワーを浴びたのち。


「あたしが教えるのはご覧のとおり――射撃よ」


 腰に手を当てふんぞり返る御形。さっきまでのご立腹は、一階の食堂で買い与えたコロッケパンで帳消しになったらしく、今ではむしろ上機嫌で俺の前に立っていた。

 彼女はピンと人差し指を立て、昨日一晩考えたんだけど、と話し始めた。


「あんたの刀の無能っぷりからして、それ以外にサブウェポンを持つのがいいと思うわけよ」

「それが拳銃ってことですか」

「そゆこと」


 名案でしょと言わんばかりの得意顔に、顔が引きつるのを感じながら場内を見回した。

 射撃練習場には、それぞれ五つに分けられた仕切りと台座が設えられている。台座より先はかなり広めに空間が設けられており、直線十五メートルくらいのところに人の上半身を模した黒塗りの的が立っている。的には頭と胸のところに同心円があり、中心は赤く塗られている。

 目の前の台座――射座には、以前御形が扱った9㎜拳銃と弾の詰まったマガジンが四つ。射座を区切る仕切り板には、透明プラスチックのゴーグルに防音ヘッドホンが掛けられ、加えて正体不明の赤いスイッチ数個が設置されている。


「まずは基本姿勢ね。ちゃんとできてないと怪我するから気を付けなさい」


 そう言って御形は、射座に置いてあった拳銃を手に取った。


「足を肩幅に開いて、右撃ちなら左足を半歩くらい前に出す。それから右足を引いて、正面に対して半身になるくらいに……」


 彼女は射座に立ち、言葉通りの完璧な姿勢で銃を構える。女子高の可愛らしいセーラー服に武骨な拳銃とはまたマニアックな取り合わせだ。これにあの猫耳を付けたら、お金儲けの一つも可能かもしれない。


「で、左手は右手を包み込むように握る。ねえ、聞いてんの?」

「え? あ、はい! もちろんッス!」


 そんな邪まなことを考えていた俺は、妄想振り払いついでに懸命に頷く。


「あっそ……じゃあ、やってみて」

「う、ウッス!」


 ぶしつけに拳銃を渡され、握ってみる。黒々と光も吸い込みそうなフォルムに反して、すごく軽い。刀の次は拳銃と、つくづく武器に縁がある日だ。

 場内の端に並んだ長椅子に刀を寝かせた俺は、御形の説明を思い出しながら、見よう見まねに構えてみる。それは当然のごとく、彼女のお気には召さなかったようで、


「違うわよ。ここは、こう構えるの」


 彼女は俺の左肩を掴み身体を密着させると、腕をいっぱいに伸ばし、俺が持っていた銃を握ろうとする。俺に上背があることもあって、密着しないと腕が届かないらしい。そのせいで――俺の腕に柔らかいものが、頻りに、かつ強く当たってしまっているのだが……。


「あのー、あのですねえ。ちょっと申し上げにくいんスけど……胸……当たってるッス」

「え……ぬがッ! ちょっ、離れなさいよ!!」


 御形は目にも止まらぬ速さでゴリラ型に変異させた拳を振り上げた。


「うわああ! 待った待った! それ、さすがに死んじゃうッスよ!」

「なら、一回死んで詫びなさ……」


 しかし彼女が鉄槌を振り下ろすことはなく、寸前で思いとどまると耳を真っ赤にし、とかく悔しそうに歯を食いしばりながら変異を解いた。胸に手を当て、荒立った息を直す。


「た、試しに撃ってみなさいよっ」


 俺とは目も合わせず、彼女はそっけなく吐き捨てた。いろいろ思うところはあったが、ひとまず言われた通りにしよう。本気で殴られでもしたら、ひとたまりもない。

 足は肩幅に開く。手は包み込むように。


「これでいいんスかね?」

「ま、いいんじゃない? あの的の中心を狙いなさい。照準はここの二点で合わせるの」


 全力で腕を伸ばして身体を近づけないようにしながら、彼女は銃の先端にある突起を指差した。それから安全装置の外し方やスライドの機構、その他いくつかの手ほどきを数分ほど受け、仕切りから取ったゴーグルとヘッドホンを掛けると、いよいよ射撃の体勢に入った。

 引き金に指を掛ける。緊張の一瞬。


「……くっ」


 一発。薬きょうが射出され、射座に散った。だが、弾道は刀の時のような奇跡を起こしてくれなかった。


「何それ、全然ハズレ。枠にも当たってないじゃん」

「そりゃあ、初めてなんスから無理ないッスよ」


 吹き出して笑う御形に、ヘッドホンを外す俺は、不満を口にせずにはいられない。


「ちょっと貸して」


 と、突然御形が俺の握る銃をひったくった。しかも何が楽しいのか、バラもかくやの満面の笑みで、仕切りに備え付けられた赤いスイッチを親指で示した。


「ゲームしましょうよ」

「ゲーム?」

「この赤いスイッチを押すとゲームスタート。正面に的が出てくるから撃つ。単純でしょ?」


 と、彼女は右手で銃の形を作る。


「的は全部で十五個。マガジンの装弾数二つ分が一八発だからミスは三回までならオッケー。高得点のほうが勝ちね。勝った方が晩御飯おごりってことで!」

「そりゃ、また……弱いものいじめはよくないッスよ。ダメ、ゼッタイ!」

「いいのよ。あたしのほうが年下だし、女の子だもん」


 それはどういう理屈だ。これを同意したら、今後何でもかんでも要求されかねないぞ。


「男は度胸が肝心よ。じゃあ、スタートね!」


 なのに、俺が抗議するよりも早く、彼女は赤いスイッチを押してしまった。

 部屋中にブザーがこだまする。同時に最奥の扉が開き、人型の的が現れた。

 時には下から、時には右から、左から、上から。次々と現れる的は不規則で、とてもじゃないが予測できるものじゃない。

 しかし、御形はその動きを的確に読み取り、順番に撃ち抜いていく。

 すばやく、丁寧に、正確に。上半身が乱れることはなく、ただ先にある赤い点を彼女は一心に睨み付ける。花火に似た軽い発砲音が響き、辺り一面に火薬の臭いが充満していく。

 わずかのインターバル。その間に御形は空になったマガジンを取り出し、交換する。それを機に的は左右や上下に動くなどバリエーションを増やし、一層予測を困難にする。

 けれど、それにさえも御形は心を乱すことなく、正確な射撃を続ける。

 各レーンの上には、電光パネルに赤い数字が表示されているが、彼女が発砲するたびに点数が増えていく。それも倍率があるらしく、どんどん跳ね上がる。

 発砲音とともに薬きょうが飛び、火を噴き、的に風穴を開く。やがて――


「ま、ざっとこんなもんね」


 ブザー音が終わりを告げる。次のマガジンを装填しながら御形は髪を払った。

 パネルを見れば、点数は軽く八〇〇点を超えていた。パネルの桁が三ケタだから九九九点が満点なんだろうが、これは初心者相手にあまりに手加減がない。彼女の満足げな表情を見るにベストスコアに近いんだろうな。ますます弱い者いじめの感が拭えない。


「ほいっ。次、あんたの番」


 そんな俺の思いはつゆ知らず、彼女は拳銃を押し付けた。これだけにこやかな彼女の手前、断って表情を台無しにするのは野暮ってもんだろう。晩御飯なんて、滅多に見れらない彼女の笑顔に比べりゃあ安いもんだ。とはいえ、ただで勝ちを譲るつもりは毛頭ない。


「ビギナーズラックかますッスよ!」


 ゴーグルとヘッドホンを掛けた俺は肩を回し、軽くジャンプして全身の力を抜く。

 深呼吸。言われたことを反芻しながら構える。

 そして――静かに添えた左手でスイッチを押す。

 ブザーが鳴り響き、最初の的が正面に現れた。

 発砲。だが――見事に外した。

 修正――発砲。


「……よしっ」


 真ん中、とは行かないが、的には当たった。

 修正。もう少し上に。

 的が倒れ、次の的が現れる。

 撃つ、撃つ、撃つ。照準を合わせ、タイミングを計り、引き金を引く。

 反動、硝煙、排莢。

 右、左、上、上、下。慎重に。

 的を追うんじゃなく、待ち受けるようにしながら引き金を引く。

 この分なら、そこそこ期待できるんじゃないか? 悪くないよな、これ。

 ――と、調子に乗り始めた矢先だった。

 カシッ、と銃が弱弱しく鳴った。


「あ……くそっ」


 残弾数を考えてなかった。俺は慌てて、射座のマガジンを引っ掴み、取り替える。

 ただ先に御形のを見ていたおかげか、交換作業は思ったほど時間は掛からなかった。

 再度照準を合わせる。

 的の動きが変化した。左右に、上下に。手前に、奥に。

 目が慣れたのか、だんだんと的の動きが遅く見える。

 撃って、撃って、撃って……。

 長い時間に思えた。この時間が永遠に続くと思った。銃弾の軌跡さえ見える気がした。

 そして――ブザーが鳴った。

 ふい、と息を吐く。手が震えている。これは……これはストレス発散には良さそうだ。実に理不尽な賭けだったとはいえ、そんなに悪い気分じゃない。さて晩飯は何を買ってやろうか、と思っていたんだが――


「何これ……あんた、どういうことよ……」


 背後で御形の声がした。まるでおばけでも見ているかのようなそんな声で。

 その理由は俺の頭上に輝くスコアボードにあった。


「び、ビギナーズラック……出ちゃったッス……」


 そこに書かれた点数は、さっき御形があげた得点と寸分違わぬ――同点だった。

まさかのマグレ当たり連発? 倍率うんぬん含めてそんなことがあるのかと思うが、現にこうして出てしまっているのだからどうしようもない。


「あ、あり得ないあり得ない! だって、あんた銃握るの今日が初めてなんでしょ!?」

「もちろんッスよ! 記憶ないけど……」


 この感じ、さっきの剣道場に似ている。初めてのはずなのに、初めてとは思えない実力。刀の時ほどではないが、にしたって今回も異常過ぎる。刀も拳銃も扱えるって、昔とんでもないことでもしてたんじゃないか俺。


「ちょっとどいて!」


 俺の隣に立った御形は仕切りのスイッチを数度叩いた。

 すると、射座の向こうから十数枚の的が姿を現し、一列に並んだかと思うと、俺たちの目の前まで列になって迫ってきた。彼女はスイッチを再度操作して、その的を順々に眺めている。穴の開いている位置を見ると、どうやらこれは今しがた俺が撃った的のようだ。


「最初と二枚目は酷いのに……そのあとほとんど全部が的のど真ん中に当たってる……」

「え……? それってすごいんッスか?」

「当たり前でしょ! 後半に行くほど、難易度が上がる設定なんだから!」


 余程納得がいかないんだろう。的を見るたび、御形は射座を拳で何度も殴りつけている。素人と同じ点数というのが納得いかないのはわかるけれど、その拳は痛くないのだろうか。


「引き分けなんて認めない。あたしの中でもいい記録だったんだから」


 と、彼女はぶつくさ呟いて、そして――


「ちょっと、貸して!!」


 と、俺の手にくっ付いていた銃を相変わらずの腕力で奪い取った。

 彼女は射撃場の隅にある鋼鉄製の棚に早足で歩み寄り、設置された液晶モニターに表示されたテンキーを叩いた。棚の一部がスライドし、中から目を見張るほど大量のマガジンが現れる。右手いっぱいにそれを掴んだ御形は落とさないよう注意を払いつつ、その手で俺を指差した。


「すぐこの記録超えるから、ちょっとその辺で座っててっ!」 


 座っててじゃねえよ、と思いつつも、俺は刀を寝かせていた長椅子に腰掛ける。別に御形の命令を聞いたわけじゃないよ、疲れただけだからねっ。


「……ふう」


 大声を上げて気合を入れている御形を目の端に捕らえながら俺はため息をついた。

 闇は深まった。なくした記憶に対して、途轍もない恐怖が俺の中で芽生えていた。

 今までなら――普通の大学生で通すこともできたかもしれない。

 だが、今日わかった二つのことは、そう易々と見逃すことのできない事実だろう。

 今日俺が触れたのはどちらも人を殺すための道具だ。普通の人間は触ることがない。

 なのに、俺はそのどちらも使いこなしてしまった。アイリスとは丁々発止の太刀捌きを演じ、御形と引き分けるほどの射撃術を見せた。まだ順応性が高い人間なんだと言い訳することもできたかもしれない。何事もそつなくこなす人間で、偶然今回もそれができてしまったと言えたのかもしれない。でも、それは自分を誤魔化すための詭弁であり、俺はその詭弁に納得することができない。

 俺は何者なのか。記憶も記録もない期間、俺は何をしていたのか。


――闇が深まった。


『――聞こえる?』


 長椅子にだらしなくもたれ掛かり、ぼんやりと天井を眺めていると脳内で声が拡散した。

 氷に触るような落ち着いた声は、円城寺なずなのものだった。こめかみに手を添える。


『――聞こえてますよー、なずなさん』

『――いま……時間ある?』

『――時間?』


 俺は御形に目を向ける。まだまだ一人燃え上がっている彼女は、何度目かもわからない射撃を楽しんでいた。うむ、さっきの賭けは引き分けだったし、きっとスコアを更新するまで俺の暇は続くだろう。


『――大丈夫ッスよ、何かご用ですか?』

『――手伝ってほしい。来て』

『――手伝う? あっ……』


 交信終了。んー、いつものことだが、もう少しキャッチボールをしてほしい。


『――御形さん、ちょっとなずなさんに呼ばれたんで行ってきてもいいッスかあ?』


 熱中している彼女の気を逸らすのは申し訳ないと思ったが、テレパスを使い、断りを入れる。彼女に無断でいなくなったらそっちの方が怖いし。とはいえ、訓練開始からまだ三十分ばかりしか経過しておらず、却下されてもおかしくはない。

 だが、御形は仕切りのスイッチを叩き、的を停止させるとこちらに顔を向けた。彼女は数瞬だけ、ジトッとした視線を俺に寄越したが、すぐに的へと向き直り、後ろ手に手をヒラヒラとなびかせた。

 俺はそそくさと射撃場を後にした。



 八〇三号室。午後四時。集合場所がわからず、対策室を経由したのち。


「……魔窟再訪ッスね」


 前回の失態を頭に浮かべながら――ついでに浮かんできた邪まな光景を振り払いつつ、俺はインターホンを押す。小気味よい呼び出し音が鳴り、今度はすんなりとドアが開いた。


「こんにちはッス。お手伝いに参上しました」


 小さく開いた隙間から小動物よろしくひょこっとなずなが顔を出す。お決まりのように敬礼をすると、彼女はその隙間を大きくする。

 今日の彼女は、アイリスが着ているドレスの装飾をまるごと取っ払ったような、とても質素な黒のワンピースに身を包んでいた。これが彼女の戦闘服なのだろうか。俺の黒服と合わせると葬式の雰囲気がぐんと増してしまう。

 リビングへのドアが開くと、混ざり合う花の香りが鼻孔を突く。独特の空気が漂うなずなの部屋は、それはそれは植物園のごとき有り様だ。多少配置が変わっているが、改装された部屋の半分には、相変わらず所狭しと植木鉢が並んでいる。少しばかり湿度が高い気もするが、それは俺の我がままというもので、きっと植物の生育にベストな環境に設定されているのだろう。


「それで、俺に手伝ってほしいことって何ですか?」


 リビングのドアを閉めたところで問うてみるが、俺を見上げるなずなは何も言わず、あるものを差し出した。


「軍手とエプロン?」


 そして、リビングにある植木鉢を指差しながら力強く頷く。つまり――


「あー、園芸ッスね!」


 こくり。俺の出した解答に彼女は頷くと、スーツの袖を引っ張って、長方形の鉢の前まで導いた。鉢には赤、ピンク、黄色などカラフルな花が目立つ。花には明るくないが、この逆向きの傘のような花弁はコスモスのそれだろう。


『――これを、部屋の外に』

「外ッスか? まだこんなに綺麗なのに」


 生き生きと鮮やかに花咲くコスモスを外に出すとは何とも可哀そうである。


『――対策局はボランティア団体。施設に花を贈っている』

「じゃあこれはその準備?」


 首肯。表向きボランティア団体として認可されている対策局は、エクセリア管理とは別に、ボランティア団体としての活動もしなければならないとアイリスが言っていた。これはその一部ということだ。

 それならば、と俺は堅っ苦しい上着を脱ぐと、肩に提げていた刀と一緒に近くの椅子に掛け、預かったエプロンと軍手をはめる。鉢は数えて七つ。その一つ目を思いっきり――


「んしょっ」


 なかなかに重いが、エクセリア化して筋力アップした俺にとっては朝飯前だ。

 運搬に次ぐ運搬。カニ歩きで廊下を渡り、玄関前のタイルの上に一度置いてからドアを開け、外に出す。以下繰り返し。

 刀だ銃だとやっているよりは、比べ物にならないくらい良心的な活動だ。できることならこういった活動だけを三娘にはしていってほしいところ。いや、そんなことができないのはもちろんわかっているのだが。


「ん?」

 

 三つ目の鉢を運び終えた時、一輪の赤い花に顔を寄せるなずなの姿が目に入った。

 丸い瞳を爛々と見開く彼女は、ためつすがめつしながら花を観察し、ふむふむとメモを取っている。まるで花と会話するかのように、なずなは一つ一つの花を看て、薄く微笑む。

 普段喋らず、出会ってからほぼ一貫して無表情だった彼女の意外な一面に、こちらも自然と笑みがこぼれる。そのほのかに赤みを帯びた頬は、俺の中に張りつめていたものまで柔らかくほぐして……と、見惚れている場合じゃない。


「なずなさんっ、終わったッスよ」


 数分後、残りの鉢をすべて玄関前に出し終え、息をつく。なずなは立ち上がると、音もなく手招きをする。彼女の足元に十はくだらない数の苗が置かれていた。


『――これをこれに』


 小さなカップに入れられた苗を指差し、次に丸い鉢を指差す。どうやら今度は植え替えをすればいいようだ。

 なずなの隣に座り、彼女の作業手順を見ながら俺も見よう見まねに手を動かす。

 苗をカップから取り出し、苗の底をはさみで切ってちょっとだけほぐしてから用意してあった鉢の土の上に載せ、周りに培養土を詰めていく。なずなの手元を見てると、竹ぐしで土を刺しているが、何だろうか? とにかくマネしながら土を流し込む。


「こんな感じッスね」


 鉢に水をやりつつご満悦な俺。評価を得んとなずなの肩をつつくと、彼女は完成した俺の鉢を眺め、うんと頷いた。


「ボランティアって、特戦の皆さんもやってるんスか?」

 アイリスや御形が普段何をしているのか、俺はよくわかっていない。まさか日がな一日武器を振り回しているわけじゃあるまい。


『――アイリスはお菓子作り。和葉は外遊び』

「ああ、それイメージにぴったりッスね。ということは俺もその内、何かをやることになるんスかね?」


 俺のイメージに合ったもの、得意な分野って何だろう。まだ数日じゃ底も知れる。


『――やりたいこと……やればいい』

「それもそうですね」


 そうして俺たちは、作業を再開する。

 沈黙の空気。呼吸と呼吸。時計の秒針と水の垂れる音。土を掘る感触。

別段気まずいというわけではないが、一定のリズムで漏れる彼女の呼吸音を聞いていると思い出すことがある。

例のアレだ。三日前、たっぷり匂いを嗅がれたあの時のことが頭をよぎって止まない。今、テレパスされたら何かよくないものが漏れ聞こえてしまうかもしれない。


「な、なずなさんって……テレパスはあまり使わないんスね」

「……」


 彼女は土をいじる手を止め、小動物のように小首を傾げる。


「えーっと、俺にテレパスがあったら、いろいろ余計なことまで話しちゃいそうだな、と」


 悶々とした考えを振り払うための発言だったが、それは完全に裏目に出た。俺の不用意な発言はなずなの手をはたと止めさせた。

 わずかに俺を見つめ、だけどまた視線を苗に戻す。俺はウェーブを描く髪を掻いた。


「えっと……ごめんなさい。ちょっと気になったもんで……」

『――いい。構わない』


 筆記するような声でなずなは話し出した。


『――本当は……この能力、好きじゃない』

「好きじゃない?」

『――お花は好き。人も好き。でもテレパスは好きじゃない。人の心を盗み見ているみたい』


 彼女は長いまつ毛をかざした。


『必要だから仕方なく使ってる。手話も覚えたけど、恥ずかしくて使ってない』

「手話?」


 そういえば初めて会った時も何か手を動かしていたな。結局諦めてしまったが。


『――声、奪われてから気持ちを伝えることが面倒になった。心が透けてしまうみたいで嫌だった。だから、なるべく心を見せないように生活してきた……何年も……』


 作業する手が止まる。その指がかすかに震えていた。


『――気付いたら……心の動かし方を忘れていた』

「……あぁ」


 彼女の言葉に、俺は急な胸騒ぎを覚えた。何か忘れていたものが混ざり合うような感じがした。

 声に出す。それはたぶん人間が扱える中で最大のコミュニケーションの方法だと思う。見ることや触れること、文字にすることなどとは段違いの情報量を話すことは持っている。

 だけどもし、それを奪われてしまったら。伝えたい想いは心の奥底でくすぶって、伝えられない苦痛にきっと押し潰される。吐き出すこともできず、内側に抱え込んだ感情はどんどん膨らんでいつしか破裂する。

 どうしたってギャップが埋められないんだ。

 喋れていた時と喋れていない時。その二つには想像を絶する溝がある。昨日までできたことが今日にはできなくなっている。ストレスが溜まるだろ、それ。俺だったらきっと笑うこともできなくなる。たとえ代わりのものを与えられても、それはたぶん変わらない。

 じゃあ――俺はどうだ? 

 記憶を失って、迷子のように彷徨って、けれど得体の知れないものが存在すると知って。

 刀も銃も、俺の闇を深めるには充分だった。その闇は間違いなく不安を大きくした。

 だったら――俺もいつか押し潰されるのだろうか。進めば進むほど闇は深くなって、圧し掛かるものも増えていく。知らない俺と知っている俺のギャップは大きくなる。吐き出すこともできなくなるような膨大な量の不安に押し潰されない保証はない。


――その時、俺はどうなってしまうのか。


「ごめん……そんなつもりじゃなくて……」

『――大丈夫、私は気にしてない。だからあなたも気にしないで』


 重なった瞳の奥で光が揺れた――そんな気がした。

 それっきり俺たちは言葉を失った。もはや俺に口を開く権利はないような気がした。

 すると、唐突になずなが立ち上がった。あまりに突然で仰天する俺。


「ど、どうしたんスか?」

『――土……なくなった。取りに行く』


 彼女はスカートの皺を直しながらドアに向き直った。俺は見上げつつ尋ねる。


「どこまで?」


 すると、彼女の細い指が一本立った。一階。ここは八階だからなかなか距離があるな。


「俺も一緒に行きますよ! 土って重いでしょ」


 俺の提案に、彼女はやはり無表情で頷いた。



 その時、思った。

 彼女の笑顔が見たいって。もっと彼女を笑顔にしたいって。花を見つめていた時のように、自然な笑みを彼女に。

 笑っている時だけは不安を考えなくてすむ。その場しのぎかもしれないけど、それで少しでも背負ったものを軽くできるのなら、やらない手はないはずだ。

 そのために俺に何ができるのか。そのために俺はどんなことをしてやれるのか。

 それは戦うことかもしれないし、花を植えることかもしれない。

 方法はまだわからない。でもきっとあるはずだ。


 彼女の――彼女たちのためにできることが、きっと……。

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