第3話 遭遇

 午後六時四二分。満月の日から三日が経ち、月は徐々に欠け始めていた。


「クリーパーは闇そのものです。闇の中に生き、闇に紛れる。俊敏性が高く、性格は獰猛で攻撃的。その肉体は硬く、銃弾の一、二発なら難なく受け切ります。個体差はありますが、知能も高く、総戦の方々だけでは手に負えません」


 打てば響くアイリスの日本語もどこか頼りなかった。

 特戦メンバーを乗せた黒のワゴンは、本部ビルを出て西、首都高速4号新宿線の高架下にある甲州街道を走っていた。緊急入電の時は首都高速4号と言っていたが、クリーパーは下に降りたようだ。無線がないのでどの時点で情報が変わったのかはわからない。みんなも着けてないからわからないと思うんだけど……。


「今回はあたしとアイリスで対処するわ。あんたは、後ろで見てて」


 狭い後部座席で向かい合わせに座る御形は、拳銃の弾倉をチェックしている。足を組んでいるため俺からはスカートの中が見えるんじゃないかと慌てかけたが、あいにく彼女は愛用のスパッツでがっちりガードを固めていらっしゃる。


「そんなに危ないんスか? そのクリーパーって」

「ご心配には及びません。ソラさんは、わたくしの鋼鉄処女がお守りしますから」

「……あ、ありがとうございます」


 それは逆に不安だ。彼女の能力が必要ということは、それすなわちクリーパーが危険ということを意味する。


「……」


 俺はスモークの貼られた窓へ視線を流した。道路を覆うようにマンションやビルが高く屹立している。ネオンは多くない。人の影もまばらで騒ぎが起きている様子もない。

 車は猛スピードで現場へ向かっていた。運転を任される桐島は、何度も車線を変更しながら、街道を西へと進んでいく。


 ――一体、俺は何をしているのだろう。


 墜落事故にあって、死んで記憶を失って。気付けば医務室の中で、気付けば車の中で。

 そして気付けば、今から化け物と戦うらしい。なんだそれ? 何の冗談だ?

 そもそも俺は本当に死んだのか?

 体温は常温を保っているし、身体に不調があるわけでもない。息もしていれば、心臓も動いて、そのリアルさは間違いなく本物だ。腐ったところもないから代謝だって正常なはず。


 ――こんなにも生きているのに。


 生き返ったのだから当然と言えば当然かもしれないが、もともと死んでないと言われたほうがしっくりくる。

 もっと言ってしまえば、記憶がない、という実感さえ三日経った今でもわいてこない。

 失踪のせいで家族もいなければ、知り合いもいない。周囲に俺のかつてを知る者がいない。それというのは、要するに過去なんて必要ないということ。必要のないところに実感はわかない。それに、過去とは無関係な新しい環境に放り込まれた挙句、わけのわからないことを吹き込まれているせいで、昔のことを斟酌している余裕さえもない。

 俺に与えられた特殊戦略室という新たな環境は、あまりにもリアリティがなさ過ぎて、いつか目覚める夢の中を彷徨っているような気分に陥る。


 ただ――そう考えても、俺の中にある穴は埋まらない。


 命を亡くし、記憶を無くし、過去を無くし……その代わりに様々なものを手に入れた。たぶんそのすべてが俺なのだろうが、そこに本当の俺はいない。中身のない人形に人の皮を被せたような、そんな感覚。

 とばりの降りた街は暗く、建物と建物の隙間は奥が見通せなくなるほどの虚空にまみれている。見ていると吸い込まれそうになる。


 ――俺は不完全だ。


「あんたさぁ……」


 ぼんやりと考えに耽っていた俺に、御形が語り掛けた。


「記憶がないってどんな感じ?」

「え? えっと……どんな感じと言われましても」


 ちょうど考えてましたよ、お嬢さん。そして、その質問は難問過ぎるんですよ。

 もしここで素直に答えるならば、わかりません実感がわきませんから、とでも言うところなのだろうが、ただでさえ暗い雰囲気を余計に暗くするのも、それはそれで気が引ける。


「んー、思ったよりも気にならないッス。記憶があってもなくても浦島太郎状態は変わらないわけで、記憶の話を聞かれても、何のこっちゃわかりませーんって感じです。きっと記憶をなくす前から、頭の中が空っぽだったんだと思うッス、俺!」


 だから俺は、内心に反して明るく振る舞った。


「あ、あんた……」


 だのに、俺の言葉に御形は目を丸くした。絶句した彼女の顔は、形容しがたいほど歪んでいる。あれ? ミスった?


「ふふ……ふふふっ」


 やがて、耐え切れなくなったアイリスが吹き出した。ハッとして口を押さえる。


「ご、ごめんなさい。あまりにも和葉の顔がおかしかったものですから、つい……」

「いや、だ、だって……そんな舐めた答えが返ってくるとは思わないじゃん!」


 と、失礼な女子高生は急激に顔を赤らめ、俺から目を逸らした。ついでに捨て台詞を少々。


「変に振る舞うのやめた方がいいわよ。全ッ然、似合ってないから」

「それは、し、失礼ッス……」


 しょんぼりと肩を落とす俺。そんな俺に隣のアイリスが小声で囁いた。


「気を使ってくださったんですよね」


 ふふっ、と口を緩める笑顔が眩しい。まさにその通りですよ、その通り。

 信号が変わり、再度走り出した車はどんどんと加速していく。どういうわけか進行方向にも、対向車線にも車はなくなり、また歩道からも人は失せていた。だが、それと入れ替わるように、小銃で武装した軍服の男たちがちらほらと目に入った。


「みなさん、談笑の途中申し訳ありません。対象が見えました。柱の奥です」


 車を路肩に停めた桐島がフロントガラスの先を指差した。


 ――何かがいる。


 4号線を支える一辺二メートルの四角い柱の陰に、街の電光が生み出した影より、もっと濃い何かがいた。その何かは背中に闇を漂わせながら柱の側壁を徘徊している。


「行くわよ」


 ドアをスライドさせた御形は、赤チェックのスカートを揺らしながら颯爽と飛び出し、アイリスは黒フリルのスカートをたなびかせながらゆっくりと身を乗り出した。

 桐島と同時に車を降りる俺は、彼が軍服の集団――総戦に指示するのを横目にしつつ、御形とアイリスの後ろに立った。


「あれが……?」

「そう……あれがクリーパー」


 道路の中央に並んだ二人の後方で、俺はそこにある闇を凝視した。

 それは四つん這いになった巨大な人――のようなものだった。

 全長は約二メートル前後。蜘蛛のように肘と膝を真上に突き出し、闇色の身体を地面すれすれで支えている。身体の全体から黒い靄が立ち込め、闇の中に身を潜めている。

 しかし、その暗闇に溶けそう闇色に反して、顔には真っ赤に光る眼球がぎらぎらと輝いている。まるでテールランプのように煌々と光るその両目は、身体中から燃える闇のように動くたびに尾を引いている。


「こちらに気が付いたみたいです」


 アイリスがそう言うが早いか、彼女の周りに無数の鋼が舞い始めた。ダイヤのようにきらめく鋼鉄処女は空中でまとまり、緩やかに湾曲した三角形の巨大な楯を造り出した。

 全三枚の楯は、彼女を護衛するように周囲を浮遊し始める。黒鋼の剥がれたアイリスの服は飾り気のない黒のワンピース一枚になっていた。


「あたしが先行する。アイリスは鋼鉄処女でこいつを守りつつ、援護もよろしくね」


 靴下のたるみを直しながら御形が息巻く。わかりました、と頷いたアイリスは、展開していた三枚の楯のうち二枚を、御形と『こいつ』こと俺の後頭部に移動させた。


「んじゃ、六時五九分、状況開始ッ!」


 髪を払った御形は前屈みに両手を構える。それに呼応するように身体中の骨という骨が軋み上がり、瞬く間に――変異した。

 嘘のような本当の話。ゴリラのたくまし過ぎる腕が彼女の両肩から生えていた。

 黒々と長い体毛が、肩から極太の指の先までうっそうと茂っている。さすがに全身ゴリラは控えたのかもしれないが、セーラー服にゴリラの腕というアンバランスさは、戦闘においてどうなのだろうか。


「心配ございません」


 アイリスが俺の不安顔を目ざとく見抜いた。


「普通の人間なら、あの状況で戦うことも、まして指一本動かすこともできないと思います。ですが、わたくしたちはエクセリア。他の人間とは違う。死して得た驚異的な身体能力が、あの状態の維持を可能にしているのです」

「なんか……なんか、すごい世界ッスね……」


 アイリスの言い分は理解できないわけじゃないが、如何せん人の腕がゴリラのそれになるという状況には戸惑いを隠せない。まあ、両腕にゴリラの腕と言っても、ちょっと大げさにギプスを巻いたと考えれば……って、そりゃ無理だ。


「おんどりゃあああぁぁぁぁ――――――――っ!!」


 唸り声を上げながら突貫した御形は、その丸太のような右腕を強く振り上げる。怒髪天を衝く勢いで振り下ろされた一撃は、クリーパーのいた柱を半壊せんとばかりに激しく穿った。

 あまりの衝撃に粉塵が舞い、破片が顔を打つ。しかし、クリーパーは滑らかな身のこなしで壁を這い、寸前で下方へとかわしていた。

 壁に深々と突き刺さった腕を引き抜いた御形は、続けざまアスファルトを蹴り、地上に降りていたクリーパーに再度突貫する。


「もらったあああ」


 下からえぐるように突き出された拳が獣の右前脚を抜け、腹部を強襲した。クリーパーの身体が宙に浮く。すかさず御形は回し蹴りを、クリーパーの歪んだ顔面にぶち込んだ。

 黒い身体がコンクリートを跳ね、猛烈な勢いで地面を転がった。荒々しく地面を削った巨躯は柱に叩きつけられ、舞い上がった塵に紛れた。

 太い両腕を前に構え、御形が塵へと歩み寄る。だが――


「和葉っ、ダメッ!!」


 アイリスが悲鳴を上げた。

 突如クリーパーが土煙から現れ、彼女に跳び掛かった。


「ヤバッ!」


 俺の目に御形の驚愕が映った。

 きん、と高い音が響き渡る。クリーパーの長い鉤爪が御形の鼻先で止まっていた。その間隙にあったのは、アイリスの鋼鉄処女だった。御形の背後で回っていた鋼の楯が爪を受け止め、彼女を守ったのだ。

 ガリガリと腹立たしげに楯を掻く獣は後方に跳ね、御形と大きく距離を取る。威嚇するように黒色の牙を剥き出し、こちらの次の出方をうかがう。確かに知能は高そうだ。


「あっぶなかった! ありがとね、アイリス」


 腕を回しながらウィンクする御形。今の一撃は相当ギリギリだったが、まったく動じた様子がない。むしろ彼女の頬は高揚しているようにさえ見える。戦闘狂か、こいつは。


「少しずつ相手の行動を制限しましょう」


 退路を塞ぎます、とアイリスは右腕を正面に伸ばした。直後、彼女の背後にあった一枚の楯が分裂し、変形ロボさながら四本の剣に組み変わった。四本の剣は刃先をクリーパーに向けながら、天高く浮かび上がった。

 その異常を察知したのか、クリーパーは俺たちに向かって奇声を発する。

 先に動いたのはクリーパーだった。獣は四足で地面を掻き、一気に跳び上がった。

 一直線に御形に向かう。それを迎撃するように彼女は拳を振り上げた。

 しかし――その拳が振り下ろされることはなかった。振り下ろすことができなかった。

 真正面から突進してきたクリーパーは、御形の間合いに入るはるか前に、高々と跳躍したのだ。そして彼女の背後に回ったかと思うと、鉤爪をその背中に――

 ――違うッ! くそ、この野郎!

 御形の背後に着地したクリーパーは、彼女ではなくその後方に待機していたアイリスに突進した。


「ちょっとお借りしますね」


 けれど、どうやらこの場はアイリスのほうが一枚上手だった。彼女は俺の後頭部を浮遊していた楯を操作し、自分の正面に呼び寄せた。

 楯は間一髪、彼女の防衛に成功した。それを確認したアイリスは、間を置かず正面に伸ばしていた右腕をすばやく振り下ろした。それははるか高みを漂っていた四本の剣を引き寄せ、クリーパーに雨となって降り注ぐ。

 化け物はその剣のすべてを左右に身体を振って躱し――

 されど、その躱した先で――御形の拳を喰らうこととなった。

 ぐしゃと何かの潰れる音が響く。さらに彼女は左フックをぶち込む。

 深く突き刺さった一撃は、クリーパーを道路脇のコンビニまで吹き飛ばした。幸い、退去の完了していた店に人の影はなかったが、営業停止をまぬかれなさそうだ。


「……すげえ」


 目にも止まらぬ攻防に自然と感嘆の声が出る。血がめぐり、心臓の鼓動が鳴り止まない。こんな光景、ハリウッド映画のワンシーンでだって、そうそう見れるもんじゃない。

 電気配線がショートし、煙の上がり始めた店を、総戦の武装集団が包囲する。しかし――闘いの終わりにはまだ早かった。


「押さえろ!!」


 誰かが声を上げた。見れば、立ち上った煙から飛び出したクリーパーが、数名の隊員を蹴散らしていた。クリーパーは周囲の人間を跳ね除けると、滑るようにビルの壁を蹴り上がり、高架上――首都高速4号に姿を消した。


「くそッ! あいつ、分が悪いと見て逃げたわね」


 そう文句を言う御形は、めきめきと腕を元の人間のものに戻す。そこから即座に骨を軋ませ、小さなくちばしと脚を持つ一羽のワシに姿を変えた。長く柔らかそうな毛を羽ばたかせ、鋭い眼光が俺たちを見つめる。


「足止めしとくから、すぐに追いついて」


 そう言い残した彼女は、その両翼二メートルはくだらない翼を振るい、天高く飛び上がった。サイズも種類も自由だからってこれはさすがに奔放過ぎるだろ。


「すぐ追いつけったって、どうやって」


 御形の身体が見えなくなった俺は後方へと振り返り、アイリスに問い掛けた。


「よいしょっと」


 なのに、当のアイリスは鋼鉄処女で造り出した鋼の台座にいそいそと座っていた。


「ソラさんはここで待っていてください。すぐに終わりますから」


 にこりと笑う彼女は、俺を残して浮かび上がろうとする。なるほど、そういう使い方もあるのね……って、そうじゃない。


「待って!」


 俺は台座の端に捕まった。その後、口から出た言葉に俺自身も困惑した。


「俺も連れてってください……もっと……二人の戦いを見ていたいんです」


 我ながら言葉の真意が理解できない。これ以上この戦場に留まることには、正直ビビっている。否定しない。なら尚更、二人だけで戦ってくれて構わないはず、なのに――

 この感情に説明がつかなかった。見たい、知りたい、という何の変哲もない欲求が恐怖に勝ったのか、それとも俺の知らない過去が俺を動かしたのか。まったく定かじゃなかった。

 そんな俺にアイリスはしばらく考え込み、やがてうんと首を縦に振った。


「……わかりました。ソラさんも今日から特戦のメンバーですものね」


 彼女は右手を払う。すると、台座の一角が粉のようにぱらぱらと砕け、一枚の鉄板が俺の脚をすくい上げた。軽く踏みしめる。微妙に薄い気もするが、文句はない。


「行きますよ」


 二つの足場は迷いを見せぬ力強さで浮かび上がった。ぐんぐんと上昇する鉄板は、瞬く間に首都高速4号の道路上を漂った。


「お、おう……」


 路上は、すでに惨状と化していた。アスファルトは好き放題にめくれ上がり、側壁はぼこぼこに歪んで、場所によっては外れて路上に転がっている。路上を照らしていたはずの電灯は折れ曲がり、火花を散らしている。ちょっと目を離した隙に何があったのやら。


「てえええぇぇ――――――――ッ!!」


 叫び声が一帯にこだまする。荒れた地面の先の先で、御形がクリーパーを蹴り飛ばした。彼女は左腕だけを変異させ、一方右手には手入れをしていた9㎜拳銃を握っている。

 黒い毛に覆われた左腕がクリーパーの体表を削ぎ落とし、火を噴く拳銃が纏う闇を散らしていく。


「援護します」


 死闘を繰り広げる御形とクリーパーに、再び剣を形成したアイリスが近づいていく。二つが離れた隙を突き、すばやく投げ付ける。

 一本、また一本と強襲する剣に、クリーパーは姿勢を低くしながら逃れる。躱された剣は急な方向変換で戻り、逃れ続けるクリーパーを何度も執拗に襲う。

斬り付け、突き刺し、引き裂く。着実に敵の体力を奪っていく。


「トドメ!」


 御形が銃の引き金を引いた。銃口から射出された鉛弾は――クリーパーの脳天ど真ん中をぶち抜いた。

 奇声。断末魔にも似た叫びは、反響し周囲の窓を粉々に吹き飛ばす。

 しかし、一時仰け反ったクリーパーはそれでも止まらず、跳躍し、そして――


「チェックメイトです」


 天から落ちる剣が背中を貫いた。標本のように射止められた巨体は懸命に手足を動かし、逃れようとするが、徐々に力強さを失っていく。赤い眼球は次第に光をなくし、濃密にまとっていた闇は吹きつける風に流されていく。

 やがて、巨大だった獣の身体は跡形もなく消え去った。

 辺りを見回す。もう化け物はどこにもいなかった。

 静かな夜が息を吹き返した。

 残された瓦礫の山の中で、二人の少女が手の平を打ち合わす。


「七時一五分、状況終了」


 時計を確認しつつ、銃を腰のホルスターに戻した御形はほっと息をついた。少々呼気を荒くしているが、身体に刻まれた無数の裂傷をものともしていない。セーラー服だってそこそこ破れているのに痛くないのだろうか。


「ラスト奪ってしまってごめんなさい」

「いいっていいって、アイリスがトドメ刺してくれるのも込み込みで戦ってんだから」


 深々と頭を下げるゴシックロリータに女子高生が肩をすくめる。さっきまで武器を成していた鋼鉄処女は、ドレスのきらびやかな飾りに戻り、さっきまでフサフサの体毛に覆われていた左腕は、艶のあるピッチピチの柔肌に戻っていた。


「これで……これで、終わりッスか?」


 半開きの口を閉めることもままならない。いつの間にか、肩に掛けていたはずの鈍刀を両手で握り締めていた。手が震えている。

 俺は二人の笑顔を見ながら、手に張り付いた刀を引っぺがした。


「そうね、今日はこれで終わり。しいて言うとすれば、報告書が残ってるくらいかしら」


 あれ面倒なのよねえ、と嫌そうな顔を見せる御形。さいですか……。


「帰りましょうか」


 流れるブロンドを揺らすアイリスに続いて、御形も歩き出した。

 安堵感とか、達成感からくるものなんだろうか。二人の足取りは軽く、戻ってから食べるお菓子の話に興じる表情は笑顔に満ちている。


「……?」


 なのに――どこかその表情には、ぎこちなさのような違和感を覚えてならなかった。


 俺は二人の後姿を見ながら、その違和感に首を捻っていた。



 本部ビルに戻った俺は、御形、アイリスとは別れ、単身で特殊戦略室を訪れていた。

 夜。午後八時半過ぎ。鈴代との一対一。桐島も不在の部屋で。


「感想を聞きたいところだね、灰崎くん」


 薄暗い照明が照らす中で、俺は心細いながらも、鈴代のデスクの前に立っていた。


「御形さんとアイリスの戦いは……なんと言うか、映画のワンシーンを切り出したみたいな迫力で……とにかく凄かったです」


 小学生並みの感想しか出てこない。何故か先生に怒られている気分になる。


「彼女たちもあれでいてベテランだからな。クリーパーとの戦闘経験もなかなかだ」


 なるほどとは思う。完璧な段取りと援護の態勢、迅速な状況判断。そのすべてを取っても彼女たちの動きには、一縷の無駄もなかった。経験がものを言うとはあれのことを言うに違いない。


「俺もこれからあれと戦わなきゃならないんスよね? あの化け物と」

「怖気づいたかい?」

「いえ……そういうわけじゃなくて……俺は」


 不安は感じている。だけどあの戦いを見て、俺は不安よりも別種の感情を抱いていた。

 二人の笑顔。

 戦いののちに見た二人のあの笑顔は、果たして本物の笑顔だったのだろうか?

 あの時の俺には、彼女たちが心から笑っていたとは、どうしても思えなかった。どこか作り笑いじみていて、無理をして笑っているように見えてしまった。敵を撃退できた達成感よりも、何かもっと深い闇を抱えているような気がしてならなかった。

 折角あんなに見目麗しいのだから心の底から笑ってほしい。少なくとも彼女たちには作り笑いをしていてほしくない。

 そう思ってしまうほど、あの笑顔が信じられなかった。

 二人を笑顔にするために、そのために俺ができることは――思いつく限り一つしかない。


「俺戦います。みなさんが少しでも争いごとをしなくて済むように、一緒に戦います」


 決意を示さんと、俺は鈴代をしかと見つめた。


「はははっ、それを聞いて安心したよ。きみみたいな戦闘向きの……失礼、戦闘向きと推測されるエクセリアは貴重でね。どこもかしこも慢性的な人員不足は否めないんだ。一人でも戦力になるなら、こちらとしてはありがたい限りだよ」


 対して、鈴代は大げさに声を上げて笑い、ほっとしたのか煙草を咥えた。


「あいつらの出現は世界規模で、その出現数は年を増すごとに増える一方だ。おかげで各国は可及的速やかにこの手の対策部門を造らざるを得なくなった。ウチはこれでも人員が多い方なんだが、それでもジリ貧なことに変わりないんだよ」

「俺も彼女たちみたいに戦えるようになるんスか?」


 今の俺ではただの足手まといだ。力を付けなくちゃならない。


「心配いらないよ。きみを実戦に出すのは、少なくとも一ヶ月は先を予定している。それまでメンバー全員で指導する。きっとなんとかなるさ」


 机一面に広がる書類を掻き回し、ようやくライターを見つけた鈴代は、火を点けながら俺に細いまなざしを向けた。車椅子に肘を突き、少し不遜な表情で頬に指を当てる。


「そうそう……この間の事故のことで耳に入れておいてほしいことがあるんだった」

「え? あ、はい」


 唐突なことに俺は対応ができなかった。鈴代は気怠そうに語る。


「さすがに覚えているだろうが、あの墜落現場にはきみともう一人、金髪の男がいたそうだな」

「……ええ、いました。忘れません」


 忘れられません、と俺は頷いた。

 火の海で輝くように逆立っていた金の髪。身の丈ほどの大きな鎌に、黒のレザージャケット。傲慢な語り口調と人殺しも厭わない態度。

 あの墜落事故でもっとも異彩を放っていた存在を忘れるはずもない。


「すでに判明していたことだが、機体に搭載されていたフライトレコーダーと、機長と管制官のやり取りの両面から、その男がハイジャックを起こしたということがわかっている」

「……ハイジャック」


 あの男が何かしら事故に関与しているとは思っていたが、やはりそうか。


「だが、灰崎くんを含む乗客乗員二一八名のうち、すでに報告している通り二一七名の死亡が確認されている。つまり――」

「あの男は乗員名簿には載っていなかった。載らない何らかの方法を持っていた?」


 俺以外の人間全員が死んだ事故に、あの男はカウントされていない。だけど、ハイジャックしたのが間違いないということは、正規の方法ではない何かしらの方法で旅客機に侵入したということになる。

 俺の出した解答に、鈴代は満足げに口角を上げた。


「ああ、そうだ。しかも事故後も平然としていたところからして、その男も何らかのエクセリア能力者であることが推測される。例えば、アイリスのような絶対防御。もしくは墜落機から脱出する移動能力といったところか。人知れず侵入した点も含めると、恐らく後者が有力だろう。加えて、問題なのはその男の発言だ」


 煙草から立ち込めた一筋の煙が天井を伝い四方に散った。


「和葉の報告では、『俺はお前を知っている。報告は受けているからな』と言ったそうだな」

「え、ええ……たぶん」

「発言自体を受けると、こちらの情報が向こうに漏れているように聞こえる。さっきも話したが、対策局は表向きボランティア団体として認可されていて、その実態を知っているのは政府内部でも極一部だ。ほとんどの人間はその存在自体を知らない」


 灰が落ちる。


「こちらに情報を漏らしているスパイがいるか、向こうに優秀な情報網があるか。どっちにしたって向こう側にはそれなりの組織力があるとみていいだろう」


 あの男は、特殊災害対策局という秘密組織の情報を、さも当然のように知っていた。突然の出会いにも動揺することなく、まるでいつか遭遇するだろうと予想していたかのような素振りを見せた。隠蔽された組織の情報を得るというのは、単独でできることじゃないだろう。


「今まで組織的な行動を取ってきた奴らを私は知らない。エクセリアという存在自体が公けに広まっていないんだから、この手の組織ができにくいのは当然だろう。偶然にもこちらには優秀なオペレーターがいて、おかげで組織としての体はなっているがな」


 何か皮肉っているように彼女は笑う。


「だが、そいつはまるで組織を持っているかのような発言をした。もし奴が――奴らが組織を形成しているとすれば、それがいつになるかはわからないが、いつかここを襲撃しに来るかもしれない」

「……どうしてッスか」

「簡単な話さ。対策局はエクセリアを管理、統制することを目的に造られた組織だ。ハイジャックを企てるような輩のいる組織が管理統制を生業とする組織に知られた以上、対立しないはずがない。対立が決定的になった以上、問題はどちらが先手を取るかだ。だが、向こうはこちらの情報を得る何らかの手段があるのに対して、こちらにはそれがない。イニシアチブを取られるのは必然だ」


 諦めたように肩を竦める鈴代に、俺は不安をぶつけずにはいられなかった。


「全面戦争ってことですか?」

「そこまでは言ってない。向こうの組織力がどれほどかわかっていないし、こちらには少なくとも国の力がある。あるとすればもう少し小規模の衝突だろうな」

「……あ、いや」


 いや、俺が心配しているのはそんなことじゃない。もし、あの男がそれなりの組織を持っていて、ここを襲撃するようなことになれば、俺はあいつと戦わなければならなくなる。あいつでなくとも敵対組織の一員と戦うことは逃れられない。


 ――俺は人間を殺すことになるかもしれない。


 クリーパー退治ならまだいい。あれは人間じゃない、人間に危害を加える化け物だ。だけど、人間が相手になったら俺は……。

 不意に顔を下げた俺に気を使ったのか、鈴代は声のトーンを上げた。


「いや、すまない。今のは忘れてくれ。後半はあくまでも私の推測だ。相手に組織力があるかもはっきりしたわけではないし、私の考えはいくつか飛躍しているところもある。室長という立場上、きみにも周知する責務があるんだよ」

「ええ、大丈夫です。ちょっと動揺しただけッス……」


 そうだ。こんな大組織に戦争を挑んでくることなんて、そうそうない。

 それにあの男がここを攻めてきたとして殺す必要があるわけじゃない。無力化すればそれで済む話だ。だいいち、俺の刀には人を殺す力がない。殺さずに相手を気絶させて捕まえて、それでいいじゃないか。

 半ば無理やりに自分を納得させ、俺は表情を改めた。それを見た鈴代は、


「気分を変えるか」


 と、デスク上のブックスタンドにあったクリアファイルを取り出した。


「早速だが、きみに最初の任務を与えよう。このファイルをこの建物の八階、八〇三号室にいる女性に渡して、ついでにその人物から預かりものを受け取ってきてほしい」

「これを? 八階に?」


 クリアファイルには数枚の書類が挟まっている。内容は見えない。


「簡単な任務だろ?」


 うむ、確かに簡単だ。気分を変えるにも打ってつけだろう。


「了解ッス!」



 というわけで――八〇三号室前に来たわけだが、なんだここは?

 絵に描いたオフィス然とした階下とは大きく雰囲気が異なり、小綺麗に仕立てられた廊下はタイルが敷かれ、温かみのあるオレンジ色の照明で照らされている。見た目は高級マンションを連想させ、整然と並んだドアには表札とインターホンが付けられているもんだから、余計にその印象を強くする。


「とりあえず、ポチッとな」


 小気味よい音が鳴る。しかし返答はない。ドアをノックしてみるが、同じく返答はない。


「んー」


 困ったことになった。簡単な任務だと思っていたが、そうでもないらしい。初任務は絶対に成功させようと思っていたが、これ如何に。

 んー、と再度唸りながら数分。このまま帰るのも芸がないと思い、試しにドアノブを捻ってみた。すると、


「お、開いてんじゃん」


 幸か不幸か鍵は掛かっていなかった。

 恐る恐る中に入る。やはり中は人が住めるようになっているらしい。内装がまんま高級マンションのそれだ。玄関に靴が置いてある。女性用のものか、やや小さい。

 玄関の正面はフローリングの廊下が続いており、両サイドにドアが一つずつ、突き当たりに擦りガラスのはめられたドアがある。奥はリビングかも。白い光が差し込んでいる。

 せめてファイルだけでもリビングに置いておこう。そう思った俺は、目前に迫るドアを開けた。


 ――その安直な考えが運の尽きだった。


「あっ」


 電灯の消えた月明かりの差す部屋に――一人の少女が立っていた。

 絹のように紡がれた黒髪は首にも満たないベリーショートで、もみあげの辺りだけが少し長い。やや濡れた髪を小さな両手に持ったバスタオルで拭いている。

 光差す肌は真っ白で、バスタオルを使う腕も、裸足の足も血の気のない白一色で。歳はまだ十代前半か、幼さの残る体形は腰元が程よくくびれ、小ぶりのお尻が一際目を引く。未発達で控えめな、かと言って柔らかそうな二つの胸がタオル越しに見え隠れしている。

 だが――露わになった無垢な全身は、蛇が這うような無数の傷跡に覆われていた。

って、あれ!? おいおいおいおい、ちょっと待ってくれっ!! これって!!


「……いッ!!」


 一糸まとわぬ――全裸の少女と目があった。


「ご、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい! うがっ!」


 まさかの光景にテンパった俺は、持っていたクリアファイルを落としてしまった。

書類が床一面に広がる。

 一方、裸を見られたにもかかわらず、少女は黙々と髪を拭き続けている。俺は必死に目をそらしながら、かつ懸命にごめんなさいを唱えながら、書類を掻き集めクリアファイルに仕舞い直した。


「ここここ、これっ、ここに置いときます!」


 叫ぶように言ってファイルを近くのテーブルに置き、身体をくるりと一八〇度回転させ、全力で部屋から逃げ出す。しかし――


「うおっ!」


 足に何かが絡まり、俺はその場に倒れ込んだ。しこたま顔面を打ち付ける。これが天罰か!


「痛ぇっ、なんだよ、これ」


 見ると両足に植物のツタが絡まっていた。それはまるで魂があるかのようにうごめき、瞬く間に俺の脚と腕を縛りつけた。

 依然として少女は俺を見ている。その水晶のような両目はまったく俺に関心がなさそうでさえある。ところが、唐突にバスタオルを取り落とすと、ツタに身動き取れずにいる俺のもとへと歩み寄ってきた。無論、生まれたままの姿でっ!


「ちょっとぉ! ストップ! お願いッスからあああぁぁぁっ!!」


 裸の少女は、仰向けになる俺の上に這い寄り、真正面から見つめて花にするように全身の匂いを嗅ぐ。優しい呼吸音が耳の奥を突き抜ける。じっくりと、丹念に。


「……くっ」


 全身が熱い。心臓が破裂しそうなくらい脈を打っている。呼吸が荒くなる。

 固く目を閉ざしても、神経という神経すべてが彼女の一挙手一投足に敏感に反応し、肌の触れ合う部分が際立って熱を持つ。水滴が彼女の髪を伝い、俺の着ていたパーカーに落ちる。じわりとシミが広がる。冷たさが肌にしみる。もう……いっそ殺してください……。


「…………」


 肺いっぱいに吸い終えた少女は、ゆっくりと顔を離す。彼女は顔色一つ変えることなく立ち上がると、椅子に掛けてあったパンツを履き、上から無地の白いTシャツを被った。

 いまだ動けない俺の横で、少女はファイルを取り、中の書類をめくり始める。たまにページと俺の顔を見比べるのだから俺に関する内容なのかもしれない。


「…………」


 終始無言。書類を置き、全身熱気に包まれている俺と向き合うと、しきりに両手を振っている。手の動きと一緒にそのちっちゃい口を開け閉めするが、喉は音を発しない。

 何かを伝えようとしているのだろうか? なんだろう、喋ればいいのに……。


「…………」


 何事かと寝そべる俺に、大きく肩を落とした彼女は、右手を横に払う。

 すると、どうしたことだろう。俺の全身に巻き付いていたツタが撤退を命じられた武士のようにずるずると後退し、瞬く間に俺を呪縛から解放した。ありえない植物の動きに唖然としながら、どうにか立ち上がった俺を、彼女はジト目で見上げている。背が低い。肩の位置に頭がある。


「……ぬっ」


 にしても喋らない。一音だって発しない。額に汗する俺はクセ毛を掻く。瞬間、一つの仮説が閃いた。


「もしかして喋れないんスか?」


 その仮説に――彼女はこくりと頷いた。


「もしかして……《声》を奪われた?」


 続けて問うと、彼女は再度頷き、出し抜けにその小さな手の平を俺に差し出した。小皿のような手の平の上には、どこから取り出したのか丸いくるみが乗っていた。何ぞやと覗き込む俺に示すように、彼女はそれを口に入れる動作をする。


「食べろってこと?」


 こくり。


「皮ごと?」


 こくり。


「まるごと? ちょっと大きくないッスか?」


 度重なる質問にややむっとした少女はそそとキッチンへ向かい、蛇口を捻ってコップ一杯の水を俺に押し付けた。


「拒否権ないんスよね……」


 くるみとコップ。その二つを受け取った俺は、丹念にそれを観察する。なかなか食べ応えのありそうなくるみに、どうしても勇気が出ないが、少女のあまりに失望感漂う視線には耐えられそうにない。仕方ないッスね、とくるみを口に放り込み、一気に水をあお、うっ、げほっ、げほっ……つ、詰まった。

 少女は俺が吞み込んだのを確認し、自らのこみかみにそっと指を添えた。直後――


『――聞こえる?』

「うおっ!?」


 大人しく静かな声が脳に響いてきた。


『――円城寺えんじょうじなずな』

「え?」

『――名前』


 声は目の前の少女――円城寺なずなから発せられていた。目をしばたきつつ返答する。


「えっと、俺は灰崎ソラです、よろしくッス。……で、今の木の実は何?」

『――通信用くるみ』


 そんな便利な植物は聞いたことがない。記憶と一緒に消えた? いやいやそうじゃない。


「それがきみの能力? テレパス?」

『――《禁断の果実アップルシード》……私は植物を操る』


 植物? ああ、そういえば。

 リビングを見回すと、四隅や天井、テーブルの上、ベランダの外など至る所に観葉植物や花が、匂いが充満するほど並んでいる。部屋の床半分はフローリング板が外され、水はけができるように改装までされている。今まで気付かなかったのかって? そりゃ無理な話だ。だってドアを開けた瞬間、俺は彼女の身体に釘付けにされたんだから……。


『――私は《声》を奪われた。代わりに植物を操れるようになった』

「あ、ってことは、さっき俺に絡み付いたツタも円城寺さんの能力ですか」

『――なずなでいい』


 いや、それ言葉のキャッチボールになってないから。別にいいけど。


『――特殊戦術室のオペレーター担当。連絡はくるみを使って』

「あー、室長が言っていた優秀なオペレーターの方ッスね! ということは、俺の先輩ってことですよね、よろしくお願いします!」


 努めて明るく右手を差し出し、まるでさっきの覗き行為を帳消しにせんばかりの図々しさを発揮する俺。和解するならここしかなかろう。

 が、なずなは、俺の差し伸べた手をじっと見つめ、握り返すことなく深く頭を下げた。

 失敗した。きっと俺は明日から幼女ロリっ子の覗き犯として、特戦メンバーから白い目で見られるに違いない。お、終わったなあ……俺の人生。

 初日から犯した失態に愕然とする。だが、ふとまだ任務が残っていることを思い出した。


「そういえば、室長から何かを預かってきてほしいって言われたんスけど」

『――それは……きっとくるみのことだと思う』

「え、呑み込んじゃったんスけど」


 預かると吞み込むでは、かなり意味が違うと思うが……これでいいのか?

腑に落ちない表情を浮かべる俺を見つめながら、なずながこめかみに触れる。そして、数秒後……、


『――灰崎くん、聞こえるか? 私だ』


 鈴代の声が頭に響いた。なるほど、くるみを食べた人間であれば、誰とでも通信ができるのか。特戦メンバーがやたらと首筋やこめかみに指を添えていたのは、どうやらこれが理由らしい。えっと、返答をするにはどうすればいいのかな。


『――イメージ。相手を思い描く』


 まるで思考を覗いたかのようになずなが補足する。イメージ、とな。


『――聞こえて……るッス、室長』

『――うむ、どうやらちゃんと預かりものは受け取れたようだな。とりあえずきみの初任務はこれで終了だ。にしても、いまいち感度がよくないな』


 それはきっと俺の問題だ。イメージで相手と会話ができるというのは、どうにも勝手がわからない。あとで練習しとこう。


『――今日はもうあがってもいいぞ。無論、報告書もいらん』


 お疲れさん、とだけ言い残し、鈴代は一方的に通信を切ってしまった。

 ――状況終了。

 俺は頑固にうねる髪を掻く。初日からなかなか濃密な一日だった。

 記憶喪失。エクセリア。クリーパー。

 女子高生。ゴスロリ。幼女。車椅子。寒がり。

 鋼鉄処女。変異。禁断の果実。

 こんな目まぐるしい一日を過ごす人間は、そうそういないだろう。しかし、こんなのはこれから体験することのほんの始まりに過ぎないわけで。これから俺はエクセリアとしてその力を使い、化け物と戦うことになる。もしかしたら人間とも……。


 だけど――俺は恐れていない。


 必ずみんなの役に立って、いつか特戦の人たちが心から笑えるようにしたい。

偽りじゃない、作りものでもない――本当の笑顔を見せられる、そんな世界を作りたい。

 なんかすごく壮大な話で、我ながら夢を描いちゃってる気もするけれど……。


『――どうかした?』


 自嘲的に笑みを浮かべる俺とTシャツ一枚の彼女。どちらの方がおかしいかな?


「えっと……これで任務が終了みたいなので……お暇させていただくッス」


 照れ笑いする俺は、わざとらしく敬礼をする。


『――そう。また明日』


 そんな俺に、なずなは静かに別れを告げるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る