第48夜 5・7 たった一人の読者の話

5・7 たった一人の読者の話


 百人の名もない他人に好かれるよりも、たったひとりに愛されたいんだ。

 柾木は、そんな思春期の少年めいた、書き捨てをひとり思い出していた。

 たった一人の読者に向けて、二人だけの秘密の暗号を打つ。暗号は言葉で綴られている。それは誰にでも読めるが、誰にも読めない手紙。何処かのただ一人だけが、それを解読できる暗号。

 いつか、そういう文章を書きたいと、柾木はずっと思っていた。だが孤独癖の柾木にとって、それは青年の夢想でしかなかった。臆病で気が小さい柾木は、本当の言葉を書けなかった。書けないから、純文学を気取った。純文学の影に隠れれば、何かを書けるような気がしていた。気取らなければ、書けなかった。煙草の不味い煙に巻かれて、コルクボード上の哲学を気取って書いた。本当の言葉を書こうとすれば、浅薄で粗野な、痛い文字列になった。

 彼は、ただ一人の読者に書くことを、思いつづけていた。だから、自分がその手紙を受け取る側の人間になるとは、まさか考えることもしなかった。

 ある時、彼は自分がただ一人の読者になったのを知った。そんなこと、考えてもみなかったから、しばらくは何もできなかった。不安で、怖いとさえ思った。だが確かに、嬉しさはひどく舞い上がらせた。それで返事を書こうと思った。ようやく返信を書いた時には、惑星間通信めいた時間差が出来ていた。根が小心者にできてる柾木は、遠い惑星への返信を打って、日がな一日気が気でなかった。

 文字と文字どうしの惹かれあう関係。その量子力学の弱いつながり。互いをただ一人の読者にした二人は、きっと出会ってしまってはいけない。よしんば鉱物店ですれ違っていようとも、そのことは後から文字として語られ、そしてようやく知られねばならない。文字という、向こう側の世界から届く、波として届く、そこにいる痕跡。そんな不器用なつながりでなければ、壊れてしまう気が、柾木はしていた。

 彼は、本当の言葉を書きたかった。それは六〇〇字では多すぎた。思春期少年には、なりたくなかった。だが、たった百四十字なら、思春期にならずに書ける気がした。(了)

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