阿倍野リンは告げられる

「ハルシオンを大量に飲ませて、妹を殺したわ」


 阿倍野さんは天道院さんにそう告げました。

 ハルシオンって何? と、首を傾げるわたしに説明するように天道院さんは言います。


「ハルシオンといえば、睡眠薬だね。飲んだらすぐに眠くなると言われる超短時間型の薬だ。服用してから十五分から三十分以内に効果が出ると言われているんだっけかな。詳しくは知らないけど」

「はい、そうです」

「具体的にどれくらい飲ませたわけ?」

「百錠です」

「あらら。てか、そんなに大量のハルシオンをどうやって飲ませたわけ? お菓子だと思って食べちゃったとしたら、アベリンちゃんの妹ちゃんはかなりのお馬鹿さんだけど」

「泥酔させてから飲ませたんです。とは言っても、半分くらいは粉末状にしてお酒に混ぜたんですけど」

「なるほど。で、どうしてそのハルシオン殺人事件が呪いのきっかけだと思うの?」

「わたしの症状がはじめて現れたのが、妹を殺した次の日だったので。呪いと聞いて、腑に落ちた感じがしました。わたしは妹に呪われるほどのことをしたんですから」


 呪いとは人や霊が悪意を持って対象に不幸をもたらす行為です。つまり、呪われた人は相手に悪意を持たれる原因があるということ。その流れを考えると、殺されてしまった阿倍野さんの妹――ランさんが姉に悪意を持つ理由にも納得ができます。殺されてしまったのだから、相手を怨みたい気持ちを抱いても仕方がないでしょう。


 というか。


 阿倍野さんの双子の妹である阿倍野ランさん、通称黒い方の阿倍野さんが殺された?


 阿倍野さんの呪いのことよりも、そっちの方がわたしにはセンセーショナルでした。たしかに昨日、阿倍野ランさんは学校を休んでいたみたいです。それは井浦ナツ――わたしの友人であるなっちゃんが言っていたので知っていました。まさか休んでいた理由が死亡だとは想像すらしませんでしけど。学校で阿倍野ランさんが亡くなったという話を誰もしていなかったことを考えると、ランさんが亡くなったことはまだ世に知られていない可能性があります。だとしたら彼女の遺体はどこにあるのでしょうか。もしかしたらわたしはその遺体とニアミスをしていたのかもしれません。昨日、わたしは阿倍野さんの自宅へ行ったのですから。


 そんなわたしの興味は放っておかれ、天道院さんと阿倍野さんの話は続きます。


「アベリンちゃんが妹を殺してしまったのはわかったよ。そしておそらく、というかほぼ間違いなくその件がアベリンちゃんの呪いに関係しているだろうね。で、どうして妹を殺してしまったわけ?」

「わたしにとって最も大切な人の気持ちが、妹へと向かってしまったからです」

「妹に恋人を取られた?」

「いえ。違います。妹は何もしていません。勝手にあの人の気持ちが妹へと向かってしまっただけです」

「つまり、妹に悪意はなかった?」

「はい。わたしは嫉妬心から一方的に妹を憎むようになり、そして殺してしまったというわけです」

「妹にとってはずいぶん理不尽な話だ。まあ、嫉妬なんてものは理不尽の代名詞みたいなものだけどね。自分が好いている人間が自分以外の誰かを思っていたら、たとえその人が自分に敵意を抱いていなくても、一方的に自分は相手に敵意を抱いてしまう。それは珍しいことじゃない。シェイクスピアだって嫉妬が原因の殺人を描いているしね。ところで、アベリンちゃん。きみは妹を理不尽に殺してしまったわけだけど、その行為に後悔や反省はあるの?」

「いえ」

「即答とは、ね」

「基本的にわたしはわたし以外の人間に興味がありませんから。たった一人を除いて」

「その一人って、誰?」

「――父です」


 え、と声を漏らすわたしと同時に天道院さんは言います。


「つまり、きみは父親の愛情を独占したいがために、妹を殺したってこと?」

「はい」

「ちょ、ちょっと待って」


 阿倍野さんの、はい、という返事を聞いて、わたしは思わず二人の会話に割り込んでしまいました。何、という表情を浮かべこちらを見る二人に向かって、わたしは口を開きます。


「え、えっと、つまり、こういうこと? 阿倍野さんはお父さんが好きで、そのお父さんの愛情が妹さんへ向ってしまったことに嫉妬を覚えて、妹さんを殺しちゃったってこと?」


 わたしの言葉を聞いて、阿倍野さんが呆れるように言います。


「だから、そう言っているじゃない。偏差値が十六だと日本語のリスニングもできないのかしら」

「だから、十六じゃないっ。って、まあいいよ、それは」

「そう。ようやく認めるのね。偏差値十六を」

「違うっ」

「だったら、何よ? 言っておくけど、つまらないことを口にしたら殺すわよ――と、そういえばあなたは不死身だったわね。じゃあ、殺して欲しいと思うほど痛い目に遭わせるわよ」

「う、うう。そう言われると、ちょっと……」

「サクヤ。もう、めんどいからさっさと言いたいことは言っちゃいなよ。どうせ殺して欲しいほど痛い目にあったって、その痛みは短い間しか続かないんだから」

「それでも痛いものは痛いんですよっ」


 他人の痛みを本当の意味で理解することはできない。だからこそ、人は孤独からは逃れられない。孤独とはつまり、他人に自分を理解してもらえないと思うことから生まれるものだから。どこかでそんな言葉を聞いたことがあるような気がしました。本だったか、映画だったか忘れてしまいましたけれど。


「わたしが言いたいのは、お父さんの愛情を得られないという理由くらいで妹を殺そうと思うのかな、ということなんだけど」

、ですって?」


 阿倍野さんの瞳が明らかにわたしに敵意を向けるものへと変わりました。その姿に、わたしは身体が一瞬、震えるのを感じました。何かとんでもない失言をしてしまったことを痛感しました。


「まあまあ、アベリンちゃん」


 今にもわたしに襲い掛かってきそうな阿倍野さんを天道院さんがなだめます。


「サクヤはアベリンちゃんの気持ちをまったく理解していないんだよ。理解していないというか、勘違いをしていると言う方がわかりやすいかな」

「勘違い? わたしが?」

「そう。サクヤはアベリンちゃんをただのファザコンだと思っているんだから」

「ただのファザコンじゃないって、どういうことですか?」

「ファザコンというか、エディプスコンプレックスに近い。そうでしょ、アベリンちゃん」

「ええ」

「え、えでぃぷず? 何ですか、それ?」

「オイディプス……って、言っても知らないか。サクヤだもんね。まあ、あれだよ。偏差値十六のサクヤにもわかるように言えばこうだ。アベリンちゃんは父親を異性として好きってことだね」

「い、異性としてって……」

「端的に言えば、性的関係を持ちたいってこと。ていうか、アベリンちゃん。実際に持っていたんじゃないの?」

「はい。持っていました」

「――っ」


 近親相姦。


 言葉に詰まるわたしに阿倍野さんは言います。


「あなたにはわからないでしょうね。偏差値十六だし」

「偏差値と言うよりは、倫理観の問題では」

「倫理なんて時代によって変わるわ」

「そ、そうだけど……」


 阿倍野さんの言っていることは間違ってはいません。実際に、近親相姦が普通に行われていた時代はあるのですから。しかし、わたしは過去ではなく現代に生きる人間です。論理ではなく、感覚的に阿倍野さんの価値観を受け入れることができないのです。もちろん、人が複数人いれば、それぞれの普通があり、それはそれで責めるべきものではないとわかってはいるのですが。


「まあ、サクヤの感情はどうでもいい。わたしが診ているのはアベリンちゃんだからね。重要なのはアベリンちゃんの感情だ。呪いと感情。それは切っても切り離せないつがいのようなものだからね」


 お前は黙っていろ、という感じの視線をわたしに送ってから、天道院さんは続けます。


「と、言うわけで。アベリンちゃん。もう少しきみとお父さん、そして妹ちゃんの話を訊きたいんだけど、いいかな?」

「かまいません」

「それじゃ、遠慮なく。はじめてお父さんを異性として意識したのはいつ?」

「小学四年生の頃です」

「きっかけは?」

「その頃、父には彼女がいたんですけど、その彼女がはじめて家にやってきたんです」

「彼女? 妻じゃなくて?」

「母はわたしが幼い頃に亡くなりました。記憶にもありません。事故だと言う話ですが、本当かどうかもわかりません」

「そっか。だから、彼女ね。納得。で、その彼女が家に来ただけ、顔を見ただけでアベリンちゃんは自分の気持ちに気が付いたのかい?」

「はじめは何となく嫌だと思うだけでした。突然、室内に現れたゴキブリを見るような感じです。もともと人見知りというかあまり人に興味がないせいか、人を紹介されるのは嫌なので、わたしが知らない人に会って嫌だと思う気持ちを抱くのは珍しくないんですけど。でも、その日、彼女が家に泊まったことで今まで意識していなかった感情に気づかされました。大人の男女が夜を共にするということは、つまり性行為をするということなんですけど、その行為をわたしは見てしまったんです。夜中、お手洗いに行ったわたしが部屋に戻る途中、聞き慣れない声が廊下に聞こえてきたんです。その声は父の寝室から聞こえてきました。小学四年生のわたしにはその声の意味がわかりました。テレビや映画で観たことがありましたから。そして、わかったうえで、父の寝室の扉を少しだけ開けて、中を覗いたんです。背徳感が増幅させた好奇心でした」

「エロティシズム。バタイユだ。で?」

「結局、わたしは最後まで二人が交わる姿を見ていました。父が彼女を愛撫する姿も、彼女が父の性器を口に含む姿も、父が彼女の中に性器を出し入れする姿も。その一連の行為を見ていた時の感情はよく覚えていません。何かを感じていたのかもしれませんし、何も感じていなかったのかもしれません。はっきりとこころの震えを実感したのは、自分の寝室に戻って閉めた扉に背中を当てながら床に座った時でした。その気持ちがたぶん、父を異性として意識したということだと思います」

「具体的には?」

「誰にも父を渡したくないと思いました」

「なるほど。で、その後は?」

「小学生のわたしには特別なことはできませんでした。やれることといえば、父が彼女と行う行為を覗くことだけです」

「ネトラレが好きなのかい?」

「違います。臥薪嘗胆です。いつか願いを叶えるために、力をためていたんですよ」

「なるほど。わざと自分を痛め付けて、その痛みを身体とこころに刻み込んで、痛みを忘れないようにする。で、願いは叶ったのかい?」

「はい。中学二年の夏、わたしが十四歳の誕生日を迎えた日に、父をわたしのものにしました」

「彼女と別れさせたってこと?」

「そうではありません。彼女と言っても、同じ人が二度、家に来ることはありませんでしたから。わたしのもの、というのは父の気持ちを奪ったという意味です。父はわたしにこころを奪われてから、他の女を家に連れてくることはなくなりました。わたしはたとえ一瞬でも父が他の女にこころを奪われるのが嫌だったので、他の女が家に来なくなって、ようやくこころの平穏が訪れたんです。でも――」


 世の中は無常。

 人のこころもしかり。


「半年前に起きた事件で、すべてが変わりました」

「事件?」

「ストーカーに襲われたんです。その時に、身体に一生消えない傷をつけられました」


 意識的にか無意識的にか。

 阿倍野さんは傷のあるお腹の辺りを手で触れました。


「この傷が刻まれたせいで、父はわたしの身体を求めなくなりました。それで、代わりに――妹を求めるようになったんです」

「妹ちゃんはお父さんのことをどう思っていたんだい?」

「わたしとは違った意味で、父を愛していたと思います」

「二人に身体の関係は?」

「ありますよ」

「どうしてそれを?」

「覗きましたから」

「妹ちゃんはお父さんを拒まなかった?」

「拒みましたよ。最初は。その姿が、さらにわたしを傷つけました」

「傷つけた? 妹がかわいそうだったということ?」

「わかっていますよね。違います」

「どう違うのかな? アベリンちゃんの口から聞きたい」

「拒まれたとしても諦めきれない。それほど父が妹を求めている気持ちが強かったことに、わたしは傷ついたんですよ」

「そっか。それでアベリンちゃんは妹を殺した、というわけかい」

「はい」

「なるほど、ね」


 阿倍野さんの話を聞いて、わたしの中に一ミリでも同情の念が生まれたかと言えば、答は否です。たしかに理不尽に刻み付けられた傷によって人生が変わる、たかが傷くらいで愛する人の気持ちが離れてしまう、それらはとても哀しくて、とても辛くて、とても苦しいことなのでしょう。わたしは実際にこの身で、このこころで、そのような気持ちを味わったことがないのでわかりませんが、想像くらいはできます。しかし、その理不尽によって、理不尽に誰かを傷つけてしまうどころか殺してしまうのは言語道断、擁護不能です。妹のランさんは完全に被害者です。


 しかし。

 恋とは、愛とは、そういうものなのかもしれない。


「アベリンちゃん。どうしてハルシオンを使ったわけ?」

「特に意味はありません。ただの思いつきです。自分が常用しているので」

「常用? 眠れないのかい?」

「はい。六ヶ月前から、自分だけの力で眠ることはありません。最近はハルシオンを飲んでも、ほとんど効かなくなってきました」

「そっか。なるほど、なるほど。ただの思いつきで、特に意味はない。しかし、それが意味のあるものに変わったというわけか」

「どういうことですか?」


 眉を動かす阿倍野さんに、天道院さんは言います。


「わかったんだよ、どんな呪いがアベリンちゃんにかけられているのかが、ね」


 無言で先を促す、阿倍野さん。

 天道院さんはわざとらしく間を開けてから、こう告げました。


「スノーホワイト。つまり、アベリンちゃんを蝕んでいる呪いの正体は、白雪姫だよ」

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