阿倍野リンは心を変える

「――来ないで」


 近寄ろうとするわたしに、熱さに苦しんでいる阿倍野さんは言いました。叫ぶでもなく、喚くでもなく、ただ静かに。その言葉は、わたしの方を見ていなければ、ただの独り言に思えるかもしれないほど曖昧なようにも感じられました。四つん這いの姿になって奥歯を噛みしめている阿倍野さんは、自分に襲いかかって来る苦痛を黙って受け入れているようにも見えます。まるで自ら罰を受け入れようとする囚人のように。


「大丈夫よ。これはただの発作だから。また五分もすれば治まるわ」


 五分。それを長いととらえるか短いととらえるかは人によって、というよりも状況によって違うのでしょう。楽しい時間はあっという間に過ぎる、そして退屈な時間は驚くほど長い。それは自明の理で、誰もが人生の中で一度は経験していることです。例を挙げるのならば、カップうどんができあがるまでの五分は長いけれど、爆笑必死の漫才の五分は短いという感じでしょうか。では、苦しみは? 痛みは? その答えは考えるまでもありません。そして、そのような地獄を味わっている人を目の前にした時にやるべきことも考えるまでもありません。わたしは四つん這いになっている阿倍野さんの傍に行って膝をつきました。じっと阿倍野さんの脚を見ます。


「ちょっと。あなたの耳はただの飾りなのかしら」


 そんな阿倍野さんの言葉は聞こえているけれど、聞こえないふりをします。目の前で苦しんでいる人がいる。苦しんでいる人がいるのならば手を差し伸べる。そこに意味があるか、理由があるのかはどうでもいいのです。自分にできることがあるかもしれない。そう考えたのなら、そのできることをやるだけなのです。日本人は空気を読むということが上手く、それ故に自分がやった方がいいと思うことを頭の中に思い浮かべられるにもかかわらず、それを実行しないと言う弱点があるそうです。やった方がいい、と思ってもそれを口にしない。やめた方がいい、と思っても黙っている。そんな状態です。具体的な例をあげれば、電車の席を譲った方がいいと思っているにも関わらずそれを口に出せないとか、虐めはいけないと考えているにも関わらず黙っているだとか。わたしはと言えば、その例に漏れず頭の中で考えていることをすぐに口に出して実行できるタイプではないと思っています。電車の席を譲ることはしませんし、虐めを見て見ぬふりをすることもあります。しかし、目の前に困っている人がいて、その人に手を差し伸べることができる人間が自分一人しかいないのだとすれば、話は別です。


 わたしの考えが正しければ。

 おそらく彼女は――。


 わたしは阿倍野さんの蠱惑的な形の右脚、正確に言えばふくらはぎのあたりに手を伸ばしました。躊躇することはしません。拒絶することもしません。ただ真っ直ぐに、手を伸ばすだけです。注意書きが必要なほど熱せられた鉄板のようになっているその部分に触れた瞬間、手のひらの周りから蒸気が噴き出します。拭きあがる煙がわたしの鼻先まで上がってきました。肉が焼ける匂いが漂ってきます。もちろん食欲がそそられるようなものではありません。むしろ肉を見るだけで吐き気を催すようになる人もいるかもしれません。それでもわたしは手を離しませんでした。わたしが触ると反応する。それこそがわたしが考えていたことが正しいと結論付けられる証拠なのです。わたしが触れてから十秒ほどたったでしょうか。手のひらの周りから吹き上がる蒸気は消え、阿倍野さんの脚はもとの温度を取り戻しました。


「――ふう」


 わたしは阿倍野さんのふくらはぎから手を離します。手のひらを見ると、皮膚がただれ、見るも無残な姿へと変貌していました。素手でのだからこうなるのは当たり前です。仕方がありません。


「ちょっと、あなた」


 苦しみから解放された阿倍野さんが振り返り、わたしの腕を握り、ただれた手のひらを見ます。


「どうして、こんなこと……」


 阿倍野さんのその疑問には二つの意味があったはずです。一つはどうして自分の苦しみを取り除けたのか。もう一つは、どうして干渉したわたしの手のひらがただれてしまったのか。おそらくですが、阿倍野さんは自分が抱えている症状を医者に診てもらったことがあるでしょう。その時に下された診断はだったはずです。なぜならには阿倍野さんの苦しみを取り除くことはもちろん、それを知覚することすらできないのですから。唯一、下される診断があるとすれば、それは精神的なものだったはずです。


 少女が抱える異常。

 それを認識すること自体が異常。


 わたしにとっては注意書きが必要だと思うほど熱せられた鉄板のように熱を持っていた阿倍野さんの脚、それを普通の人、たとえばなっちゃんが見たとしたら、それはただの脚であり、それ以外の何物でもないのです。阿倍野さんが苦しんでいる姿は滑稽なものに見えるか、気違いじみたものに見えるだけでしょう。


 わたしたちの世界ではそれを――呪いと呼びます。


「大丈夫」わたしは阿倍野さんに言います。「放っておけばすぐに治るから」


 その瞬間、わたしの頬に衝撃が走りました。

 パシッ、という音と共に。


「治すのはあなたの頭の方よ」


 わたしに平手打ちをしてきた阿倍野さんは、なぜか怒っていました。瞳から放たれる圧力がわたしの身体にぶつかってくる感じです。わたしは阿倍野さんに怒るという感情があることに驚き、そしてなぜか嬉しくなりました。


「どうしてこうなったのかはわからないけれど、あなた、自分がこうなるってことをわかっていたんじゃないの?」

「うん」

「それって最悪のエゴよ。それかナルシストかマゾヒスト。ものすごく気分が悪いわ」

「わたしを殺そうとしていた人の言葉とは思えないね」

「それとこれは別よ。あなたが傷つくだけならなんとも思わないわ。問題は、わたしが救われることであなたが傷つくことよ」


 先ほど阿倍野さんが言っていた『どうして』。その意味はわたしが想定していたものではありませんでした。もちろんわたしが想定していた、どうして苦しみを取り除けたのか、どうして干渉したわたしの手がただれてしまったのか、というものは含まれていましたが、それよりももっと大きな意味、というより意志が前提としてあったのです。わかりやすく言えば、どうして自分を犠牲にしてまでわたしを助けたの、ということでしょう。はっきり言って、そんなものの答を求められても困ってしまいます。わたしが自分を犠牲にしてまで阿倍野さんを助けたことに理由なんてないのですから。迷惑だろうが何だろうか、仕方がありません。流行りモノに群がる若者と同じです。気がついたらそうしていたのですから。


「条件反射みたいなものだからしょうがないよ。パブロフの犬、だっけ」わたしは言いました。「何かができると思ったらやっちゃうタイプなんだよね、わたし。一言でいえば、馬鹿っていうか。わたし以外の誰かが代わりにやってくれるなら、任せちゃいたいんだけど」


 阿倍野さんは何も言いませんでした。じっとわたしを睨み付けるように見ていただけでした。そんな阿倍野さんに、わたしは言います。


「ねえ。おせっかいついでにもう一ついいかな?」

「何よ?」

「もしかしたら、わたしは阿倍野さんの力になれるかもしれない」

「力? そんなものをわたしが求めていると思ってるの?」

「それはわからない。でも、わたしは阿倍野さんの意志なんて関係なく力になろうとするんだと思う。服に着いたシミに気が付くと、どうしても気になっちゃうじゃない。それと同じようなものかな。変な言い方だけど、わたしは阿倍野さんを助けたいっていうよりは、阿倍野さんを苦しめているシミみたいなモノを取り除きたいんだと思う。本能、とか使命、みたいなものかな」

「つまりこうね。あなたは界面活性剤になってローリングアップ現象を起こしたいってことね」

「え……、う、うん。なんだかよくわからないけど、たぶん」


 阿倍野さんはじっとわたしを見ます。睨まれていたわけではありません。箱の中身を見透かそうとするような目でした。わたしも阿倍野さんを見ました。わたしたちは口ではなく、目で会話をしていました。そして、その目の会話を終わらせたのは阿倍野さんでした。


「やっぱりあなたは普通の人とどこか違うようね。昨日、わたしを見たときの目でわかったわ。あんな反応をした人は初めてだったから。まるで恥ずかしい秘密を知られてしまったみたいに焦ったわ。だからつい口止めしちゃったのよ。口止めなんてしなくてもよかったのに。どうせ誰も気づかないんだから」

「もしかして、今日わたしをここに連れて来たのは……」

「そうよ。あなたが秘密を漏らしたと疑ったわけじゃないわ。あなたがどんな人なのかを知りたかったのよ。はじめから銃で撃ち殺すつもりなんてなかったわ。つい遊んでしまったけれどね」


 阿倍野さんは口元を緩めて言いました。今、気づいたのですけれど、阿倍野さんは意外とおしゃべりです。表情も豊かです。こんな姿を学校でも見せていれば、友達の一人や二人はできるのではないかと思ってしまいます。まあ、口に銃を突っ込まれる遊びについていける人がいるのかどうかはわかりませんけれど。


「ねえ。昨日から思っていたんだけど、あなたは一体、何者なの?」


 それは至極もっともな質問でした。わたしはどう答えていいものか悩みます。そもそもわたしの存在を現す名前などあるのでしょうか。今までは通称でしか呼ばれたことがありません。ゆえに、今回は仕方がないのでその通称を使わせてもらいます。


「――神殺し、って言われてる」


 わたしの答えに、阿倍野さんはこう切り返します。


「何それ? 恥ずかしくないの?」


 この反応は初めてです。なので、急に恥ずかしくなってきました。

 わたしは急激に高まっていく己の体温を感じながら言います。


「か、神殺しっていうのは能力のこと。別にわたしのことじゃないから。中二病とかそういうのじゃないしっ」

「別にいいのよ、隠さなくても」

「隠してないっ」

「ポケットに隠してあるの? それともベッドの下?」

「ポケットにそんなものないしっ。ていうか、どうしてベッドの下?」

「人にバレて恥ずかしいものを隠しておくのはベッドの下でしょ、普通」

「そうなの? よくわからないけど」

「ああ、そういえば処女だったわね。あなた」

「そ、それって関係あるの?」

「おお有りよ」


 何だかよくわかりません。そもそもわたしたちは何の話をしていたのかすらわからなくなっていました。そんなわたしの疑問を解決するわけではないでしょうが、阿倍野さんは話の筋を元に戻してくれます。


「あなたが神殺しさんなのはわかったわ。それで、神殺しさんは一体、何ができるの? ニーチェの思想を広めるのかしら?」

「それが役目だったら、わたしはとっくにクビだよ。ニーチェなんて名前しか知らないし」

「じゃあ、何をするのよ?」

「呪いを解く、かな」

「何それ、恥ずかしくないの?」

「だ、だから違うって。妄想の類じゃないんだって」

「冗談よ、冗談。わかっているわよ。実際に呪いを受けたような状態になっているわけだし。なるべく馬鹿にしないで話を聞くわ」

「なるべくって……」

「で、あなた。わたしのが何なのかわかっているの?」

「たぶん」

「たぶんって。頼りないのね。こう見えても、こっちは不安で押しつぶされそうになっているっていうのに」

「やっぱり不安だよね」

「もちろん不安よ。妄想癖の中二病と話をしているのだから」

「不安って、そっちなのっ」

「当たり前じゃない。とりあえず、あなた、一回、死んでくれる? この気持ちをすっきりさせたいから」

「いやいや、ちょっと待ってっ」

「だって、あなた。不死身設定でしょ?」

「まあ、そうだけど。そういう問題じゃ」

「え?」

「え?」


 わたしと阿倍野さんの間に形容しがたい空気が流れます。二人ともリアクションに困っているのです。阿倍野さんが冗談で言ったつもりの不死身設定。それを真顔で肯定してしまったわたしをどういじっていいのかわからないのでしょう。一方、わたしは、そんな阿倍野さんを見て自分が放った言葉を冗談で済ますかどうかを考えていたのです。


「あなた」阿倍野さんが恐る恐る言います。「本当に不死身なの?」


 たっぷりと間を開け、わたしは首肯します。


「……うん。それに近い感じ」

「近い感じ?」

「普通の怪我や病気では死なないの」

「なるほど。じゃあ、普通じゃないモノには殺される可能性があるってことね」

「うん」

「そう」

「うん」


 阿倍野さんが何かを考えこみます。

 何となくですが、嫌な予感がします。


「ねえ……試してみてもいい? 普通の怪我や病気で死なないかを。丁度、銃があるし」

「ええっ」


 嫌な予感的中。急激に不安がこみ上げてくるわたしに、阿倍野さんは悪戯っぽい笑みを浮かべながら言います。


「わたしはね、自分の目で見たモノ、自分の身体で感じたモノしか信じないタイプの人間なの」

「いやいやいや」

「それに銃があって、撃っても大丈夫なものがあるなら、引き金をひきたくなっちゃうのはしょうがないことでしょ」

「そ、その理屈はわかるけど……。でも、わたしの言っていることがただの妄想だったら、中二病の戯言だったら、阿倍野さんは殺人犯になっちゃうよ。それでもいいの? 前科がついちゃうよ?」

「それは困るわね」

「でしょ」

「でもまあ、困るくらいで済むなら――」

「え?」


 それは一瞬の出来事でした。阿倍野さんが持っていた銃の引き金をひいたのです。火薬によってはじき出された弾丸がわたしの心臓部分を綺麗に打ち抜きます。


「――がはっ」


 わたしは大理石の床に倒れこみました。当然ですが、心臓部分から真っ赤な血が噴出、真っ白な大理石の床に鮮やかな赤い血の水たまりが広がっていきます。激しい痛みが身体を震わせます。じっとしていることなんてできませんでした。わたしは心臓部分を手で押さえたまま、大理石の床を右へ左へ転がり続けました。七転八倒というやつです。


「大丈夫?」


 少し笑い気味にそう声をかけてくる阿倍野さんに、わたしは憤怒の感情を持って言います。


「死ぬかと思ったっ」


 心臓を弾丸で打ち抜かれたら普通は即死です。それが七転八倒で済んでいるのですから、阿倍野さんはわたしが不死身であると理解したのでしょう。だからこその笑い。いや、精神が狂っているからこその笑いでしょうか。この人はヤバい、とわたしは感じました。


 十分後、綺麗さっぱり傷が消え、ようやく通常の状態に戻ったわたしに阿倍野さんは言います。


「ごめんなさい。もうあなたを疑ったりしないわ。これからはどんな戯言でも信じることを誓うから、わたしの出来心を広いこころで許してくれないかしら」


 許す、としかわたしは言えません。なぜなら、阿倍野さんは銃口をわたしに向けているのですから。この人、もう一度やりたい、という気持ちを微塵も隠していません。ゾンビを殺すゲームをやっているような気分なのでしょう。そんな阿倍野さんが銃をおろしたのは十分後のことです。何度か、もう一度銃を撃っていいかどうか、の問答を繰り返した後のことでした。


「戯れはこの辺にして、話を戻しましょう。それで、もう一度訊くけれど、わたしの状態は一体、何なの?」


 何なのでしょう。詳しいことはわからないので、たぶん、と前置きをしてから言います。


「呪い、だと思う」

「だと思う、って。相変わらず、頼りないのね」

「相手を見ただけで病気だとわかる医者はいっぱいいると思うけど、病気の詳細がわかる医者はいないんじゃないかな。それと同じだよ」

「わたしの身体をいじくり回せば何かがわかるってこと?」

「たぶん」

「また、曖昧」

「しょうがないよ。わたしは診る側の人間じゃないから」

「どういうこと?」


 首を傾げる阿倍野さんにわたしはこう提案をしました。


「紹介したい人がいるの。その人なら阿倍野さんの状態を診ることができるよ」

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