阿倍野リンは拉致する

 コンビニでのアルバイトを終えた午後十時過ぎ、あまり星が見えない夜空に目を向けたとき、突然わたしの傍に一台の黒いSUV車が急停車しました。驚きつつ、慌てて車に視線向けるわたしが状況を理解する間もなく、車内から黒いスーツを着た筋骨隆々の二人の男が現れ、彼らに黒い紙袋を頭から被せられたわたしは、そのまま抱えられて――おそらくお姫様抱っこ――車内に連れ込まれてしまいました。


「大人しく言うことを聞いて。抵抗しなければ悪いようにはしないから」


 座席に腰をおろしたわたしの隣から、そんな声が聞こえてきます。すでに悪いようにされていると思うのですが、この状況下で生意気なことは言えません。大人しく首を縦に振ります。


「いい子ね。本当はいい子は嫌いなのだけれど、まあ、いいわ」


 聞いたことのない声なので、誰だかはっきりとはしません。声の性質から察するに女性であると思われるのですが、女性っぽい声音の男性だという線も捨てきれないでしょう。右腕のあたりには何かが当たる感触がありました。硬いものがぐっと押しつけられている感じです。十中八九とは言いませんが、おそらく拳銃でしょう。実際に見たことも触れたこともありませんが、拉致された車内で突き付けられるものと言えば、ハリウッド映画の影響のせいでそれしか想像できませんでした。銃社会ではないこの国において、まっさきに考えられる凶器と言えばナイフなのかもしれませんが、もしもわたしの腕に突き付けられているものがナイフだったとしたら、肌を突き刺されたことによる痛みにもがいてしまうような力を加えられていたので、その線はまっさきに除外できました。逃げるために暴れることはできませんでした。怖くて声が出なかった、とも言えます。無慈悲に、無常に、車は走り出します。そしてどこかへ連れて行かれたわたしが椅子らしきものに座らされ、黒い紙袋を頭から脱がされたことによって目にしたものは、学校の制服を着てリクライニングチェアに座っている女性の姿でした。


 阿倍野リン。


 今まで面と向かってどころか、間接的にすら話をしたことはなかったので声は知らなかったのですが、顔ならば知っています。有名人ですから、当たり前と言えば当たり前です。阿倍野さんが目で合図をすると、わたしをさらった男の人たちが部屋から出て行きます。二人きりになりました。犯人の正体がわかったせいでしょうか、怖いというよりも気まずいという気持ちが強くなります。こんなとき、どんな顔をすればいいのでしょうか。わかりません。


「こんばんは」


 クールな表情で挨拶をしてくれる阿倍野さんに、わたしは軽く頭を下げました。


「安心して。ここはわたしの家だから。くつろいでくれていいわよ」


 くつろいでくれ、と言われてすぐにくつろげるほどわたしのメンタルは強くありません。突然、拉致されてきたのですから、普段付き合っている友人と会話をするように心をリラックスさせるには時間が必要です。拉致された当初、正直、良くて強姦、悪くて強姦致死、最悪一生性奴隷くらいに思っていましたから。


 わたしは深呼吸をしながら周囲を見回しました。十畳くらいの洋室には傷一つない大理石の床が敷かれ、壁も天井も真っ白に染められていました。明るいと言うよりは眩しいという感じです。この部屋の主のラッキーカラーが白なのか、それとも宗教上の理由があるのか、もちろんその理由をわたしが知っているはずはないですし、特段知りたいとも思わないのですが、とにかくこの真っ白で囲まれた空間は、わたしのこころをざわつかせてくるので落ち着きません。部屋の中には阿倍野さんが座っているリクライニングチェアと、わたしが座っているパイプ椅子以外には何もありません。窓すらなく、天井にはめ込まれた蛍光灯が煌々と輝いているだけでした。普段、この部屋を何に使っているのでしょうか。物置にしては綺麗すぎます。


「さてと、そろそろ話をさせてもらってもいいかしら」

「うん。あ、でもその前に、家に連絡させてもらってもいい? さすがに両親が心配していると思うから」

「それは無理」

「無理?」

「ここ、電波が入らないのよ」

「そ、そうなんだ」

「安心して。すぐに帰してあげるから。それに、きちんと親御さんには連絡をしておいたから、心配ないわ」

「え?」

「娘さんは預かりました。警察に連絡したら命の保証はないですってね」

「誘拐犯じゃんっ」

「違うわよ。きちんと用が済んだら家に送ってあげるし。身代金だって要求していないんだから」

「そ、そういう問題じゃ……」

「それはそうと、あなた、喉が渇いてない? お茶にしましょうよ」

「どうしてお茶の話に?」

「遠慮しなくてもいいのよ。わたしも丁度喉が渇いていたところだから」


 そう言った阿倍野さんはケータイでどこかに連絡をしました。


「電波入ってるじゃんっ」

「何を驚いているの?」

「さっき、電波が入らないっておっしゃった気が……」

「入ったり、入らなかったりするのよ。あるでしょ、そういう場所」

「ま、まあ、そうだけど」


 まあいいか、とわたしはこれ以上の追及をやめます。おそらくわたしが何を言ったとしても、それが阿倍野さんの行動や気持ちを変えるきっかけにはならないと思ったからです。


 そうこうしているうちに、わたしを拉致した男の人たちがテーブル――折り畳み式ではなくリビングに置いてあるようなきちんとしたもの――と紅茶セットを持って部屋に入ってきます。喉が渇いていたわけではないのですけど、何も飲みたくはないという状態でもなかったので、とりあえずわたしは阿倍野さんの行為に甘えることにしました。


「紅茶はレモンとミルク、どっちがいいかしら?」

「えっと、

というのはあまりお勧めできないけれど。それぞれが美味しいとしても、それらを混ぜて二倍美味しくなるとは限らないわ」


 完全に聞き間違えている阿倍野さんに、わたしは言います。


「じゃあ、ミルクでお願いします」

「ミルク? いやらしい」

「ええっ」


 わたしの中に二つの不安がこみ上げてきました。一つは今頃、両親がわたしを心配して焦っているということ。もう一つは、目の前にいる阿倍野さんの頭が少しアレなことです。阿倍野さんに友達がいないのは、人を寄せ付けない性格のせいではなく、人と感覚がズレているからなんじゃないかと思ってしまいました。


 紅茶を用意した男の人たちは、役目を終えるとすぐに部屋から出て行きました。真っ白な部屋に再び二人きりになります。


「あの人たちは?」


 わたしの問いに、阿倍野さんは答えます。


「わたしの使用人よ。ボディーガードがメインの仕事なのだけれど、それ以外も頼んじゃっていいみたいだから、いろいろとやってもらっているのよ。紅茶を入れてもらったり、人を拉致してもらったり」

「さようですか」

「本当は一人の方が気が楽なのだけれど、うちの父が勝手に雇っちゃったのよ」


 ボディーガード。女子高生が持ち歩くべきものベストテンには絶対に入らないであろうその護身アイテムを扱っている阿倍野さんには、もちろんそのアイテムを所有すべき理由があり、その理由はわざわざ訊くようなものではありません。


 心地いいとは言えない雰囲気の中、わたしはいれてもらった紅茶を口にします。


 美味。超絶美味。


 今までわたしがミルクティーだと思っていたものを完全に否定するようなミルクティーの味に、拉致されて疲弊していたわたしの心が癒されていきます。口腔内に広がる紅茶の香りとミルクの舌触りが絶妙で、甘さと渋さも黄金比、飲み終わった後も、口の中で舌が踊るようにその残滓をなめまわします。一滴も無駄にはしたくない。意識ではなく、無意識がそうさせるのです。


「満足してもらえたかしら?」

「はい。とっても美味しいです」

「よかったわね。最後の晩餐になるかもしれないものに満足できて」

「え?」


 すっとんきょうな声を出してしまうわたし。最期の晩餐ってどういう意味? その答を教えてあげると言わんばかりに、阿倍野さんは拳銃をわたしに向けてきました。


「三浦崎さん。あなた、わたしの忠告を無視したわね」

「え?」

「わたし、言ったわよね。昨日のことを誰かに話したら——殺すって」


 阿倍野さんは真っ直ぐにわたしを見据えました。その瞳からは脅しや冗談ではないという雰囲気が感じられます。いや、もしかしたら銃口を向けられているわたしが恐怖のあまりそう思ってしまうだけなのかもしれませんが、とにかくわたしは本当にこの場で撃たれてしまうのではないかという絶望に似た感覚に襲われていました。銃口を向けられるという行為がこんなにも恐ろしいものだとは思いませんでした。こんなことをされたら、たいていの人は墓場まで持っていきたい秘密でさえ簡単に吐露してしまうでしょう。


 人を動かすもの。それは恐怖。


「今日、あなたのお友達の井浦さんがわたしのところに来たわ。昨日、学校に来たみたいだけど何しに来たの、なんて唐突に訊いて来るものだから、わたしはびっくりして井浦さんを撃ち殺そうとしてしまったわよ。なんとか踏みとどまったのは、そう、わたしが人よりも少しだけ心配性だったからだわ。学校の教室で人を撃ち殺してしまったら、さすがに無事では済まないものね」


 わたしはわたしの失敗を認めなければなりません。井浦ナツことなっちゃんに阿倍野さんのことを話すべきではなかったのです。なっちゃんはよかれと思えばわたしのためにあらゆることをやってくれる友人です。それこそわたしのためならば、要求したその瞬間に、新幹線に乗ってカップうどんを買ってきてくれるようなことを平気でやってしまうわけですから。そんな子に対して少しでもわたしが望んでいること、望んでいると思わせるようなことを口にしてはいけなかったのでしょう。少し考えれば気が付けたはずなのです。なっちゃんが直接阿倍野さんのところへ行ってしまうことに。


「だ、大丈夫」


 わたしは焦って言います。


「なっちゃんには昨日、阿倍野さんを学校でみかけたってことしか話してないから」

「それを素直に信じろと? 箸が転がるだけで笑うことができる女子高生の分際が、、を手に入れておいて、何も話さないなんてことがあるのかしら」

「あるよっ。きっと、ある」

「きっと?」

「ある。絶対に、あるっ」

「あるって十回言ってみて」

「ある、ある、ある、ある、ある、ある、ある、ある、ある、ある」

「……」

「ノーリアクションっ」

「ごめんなさい。本当に言うとは思わなかったから」


 わたしは必死でした。当たり前です。銃で撃たれるかどうかがかかっているのですから。本当になっちゃんに阿倍野さんの秘密を漏らしたならまだしも、たんなる誤解と疑惑だけで痛い思いをしたくはありません。冤罪で裁かれる人間の気持ちがわかったような気がします。世の中の理不尽がすべて自分に襲い掛かってくるような感覚でした。わたしはわたしの弁護を続けました。その時の自分が何を言っていたのかよくわかりません。間抜けなことを言っていたかもしれませんし、無様な表情をしていたのかもしれません。そんなわたしにとうとう阿倍野さんはこんな言葉をかけてくれます。


「わかったわ。とりあえず信じてあげる」


 よかった。と胸をなで下ろしたのも一瞬、次の言葉に再び緊張が走ります。


「でも、担保を貰うわ。あなたの大切なもの。それをわたしにくれるのなら、あなたの言い分を信じてあげる」

「た、担保……?」

「そう。あなたをただで信じる気はないの」

「お金はあんまり持ってないけど」

「お金なんて要らないわ。学校の屋上からばら撒いてもいいと思うほど持ってるから。わたしが差し出して欲しいのはね、そういうのじゃないの。差し出したら二度と戻って来ないモノ。ねえ、三浦崎さん。あなたって処女?」

「え、えっと……」

「処女ってわからない? 性行為をしたことがあるかないかってことなのだけれど」

「し、知ってるよ。それくらい」

「そう。だったら、さっさと答えてよ。言葉の意味さえわかっていれば幼稚園児にだって答えられる質問なのだから」

「……な、ない」

「ない? 処女膜が?」

「違うってっ。経験がないのっ」

「だったらそう言ってよ。まぎらわしい。だったら、キスは?」

「キ、キスっ」

「接吻のことだけど。唇と唇を重ね合わせる行為。唾液を入れたり、舌をからませたりすることもあるわ」

「だから、知ってるって」

「じゃあ、さっさ答えなさいよ。いちいち、かまととぶらないで」

「ないっ。ないですっ。これでいいのっ」


 なんだかもう、わたしはやけくそでした。銃口を突き付けられているということを忘れてしまうくらい、相手の気持ちを逆なでしたら危険極まりないということを考えることもなく、投げやりな気持ちで答えたのです。


「そう。だったら、唇でいいわ。処女膜は、まあ、今度までとっといてあげる」

「え?」

「だから担保よ。あなたを信じるかわりにあなたの唇、つまりはじめてのチュウをいただくわ」


 それって、どういうことだろう。わたしがそう考えている間に、阿倍野さんはリクライニングチェアから腰をあげ、こちらへ向ってきます。そして座っているわたしの顔と同じ高さに綺麗な顔を固定すると、こう指示を出してきました。


「さあ。唇をわたしに向けて」


 阿倍野さんに唇を提供する。つまりはそういうことなのでしょう。わたしはホッとしました。もしかしたらわたしをさらった筋骨隆々の男の人が部屋に入って来て、わたしはファーストキスを強引に奪われてしまうのかもと恐れていたからです。その可能性が消えたことでわたしは安心することができました。しかし、だからと言って阿倍野さんとキスをしたいわけではありません。相手が女の子だからマシ、女の子だったらノーカウント、くらいの気持ちがあっただけで、銃口を突き付けられていなければ逃げ出してしまいたいほど嫌な行為であることには変わりなかったのですから。阿倍野さんは同姓ですらときめいてしまうほどの美少女です。それは否定しません。だからと言って、わたしがそっち方面の嗜好を持ち合わせていない以上、同性に唇を奪われるのは嬉しくもなんともないのです。


「大丈夫。安心していいわ。わたしはとても上手だってよく褒められたから」


 上手いかどうかが安心の材料になるとは思えなかったのですが、反抗するわけにもいきません。覚悟を決めたわたしは顎を少し上げ、自分の唇を差し出すようにしました。


「目を閉じて」

「うん」

「少し口を開いてくれるかしら」

「うん」

「もう少し」

「うん」


 口を開く。それは確実にアレを口の中に入れられてしまうことを意味していました。フレンチでは済まされないということです。子供レベルでは終わらないということです。鼓動が高鳴ります。暖かい息も感じられます。そしてついに、わたしの口にアレが入れられて――、


「もごごっ」


 わたしは変な声を出してしまいました。瞬間的に目蓋を開きます。口の中に入ってきたモノはわたしが想像していたアレではありませんでした。硬くて、冷たくて、鉄の味がする――拳銃でした。わたしは口の中に拳銃を突っ込まれていたのです。


「ごめんなさいね。あなたと違って、わたしにそっちの趣味はないの」

「あががががが」


 わたしにもそっちの趣味はない、と言いたかったのですが言葉になりません。


「でも、とりあえずあなたの冤罪だけは信じてあげるわ。今、感じている恐怖を二度と味わいたくないのなら、今後はわたしのことを忘れるべきね。記憶の片隅にも残しておかない方がいいわ。どうせ何の役にも立たないのだから。どうしても忘れられないっていうのならクスリでも使って――」


 と、阿倍野さんがそこまで言った時でした。突然、阿倍野さんの顔が歪みだします。握っていた拳銃から手を離したため、わたしの口から拳銃が零れ落ちました。阿倍野さんは床に倒れこみ、大量の発汗を催しながら歯を食いしばっています。


 苦痛。

 そして。


 阿倍野さんの身体が、注意書きが必要だと思うほどの熱を帯び始めました。

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