阿倍野リンは調べられる

「まあ、噂通りの子だと思うよ。うん」


 わたしが阿倍野さんについて訊くと、なっちゃんは興味なさげにそう答えました。同年代の男の子にも負けない大きな手には、コンビニで買ったおにぎりが握られています。具は梅干しでした。ちなみにわたしの小さな手にはメロンパンが握られています。


「で、どうしてわたしたちの会話の中に突然、阿倍野が出てくるわけ?」

「えっと、別に、深い意味はないんだけど……ちょっと、ね」


 まさか、注意書きが必要だと思うほど阿倍野さんの身体が熱くなっていた、なんてことは言えません。もしもそれを口にしてしまったら——わたしは阿倍野さんに殺されてしまうようです。


「ちょっと、ね」


 なっちゃんは明らかに訝しむ様子でわたしの言葉を真似ました。わたしとなっちゃんがこうして親しくなったのはおよそ三ケ月前。その間、わたしたちの会話に阿倍野さんが登場してきたことなんてたった一度としてなかったのですから、違和感を抱くのは当然なのかもしれません。


「えっと、実はね」


 わたしは言い訳をするように口を開きます。


「昨日、学校で阿倍野さんを見たんだよね。なっちゃんの試合を観に行く前に、昇降口のあたりで。だから、なんとなく」

「昨日って、学校休みじゃん」

「そう。だから、ちょっと気になっちゃって。どうして来たのかなって」

「間違えたんじゃないの」

「そんなわけないでしょ」

「いや、ありえるよ。わたし、間違えたことあるし」

「嘘でしょ」

「ほんと、ほんと。中学のとき、学校に行ったらみんなわたしとは違う制服を着てたよ」

「それ、間違えたの曜日じゃなくて学校だからっ」

「そうとも言う」

「もう」

「はは。なるほど。休みの日に学校を訪れる美少女。確かにそれは謎だね。わたしもちょっと興味出てきたかも」


 とりあえずわたしとなっちゃんの会話に阿倍野さんの登場が承認されたようで、安心しました。ここで、阿倍野さんの登場が拒否されてしまったら、昨日からわたしの頭の中で繰り広げられている一人会議を継続させなければならないところでした。一人よりは、二人。二人よりは、三人。文殊の知恵です。まあ、今は三人ではないですけれど。


 どうして阿倍野さんはあのような状態に――。


 知識や情報に乏しい人間の脳内で進行する一人会議に有用性があるでしょうか。答えは否。無知は罪。ゆえに、わたしはわたし以外の誰かを頼らざるをえないと思っていたのです。


 井浦ナツ。通称——なっちゃん。


 はじめてなっちゃんを見た人の多くは彼女を不良少女だと思うかもしれません。クラスに坊主頭の生徒がいなければ、どんな男の子よりも短いと思われるベリーショートの髪の毛の色は白に近い金色、耳には輪っか型のピアスが複数配置され、右の頬には昔のアニメキャラクターみたいに五センチほどの傷が顎のラインと平行に刻まれているですから。かくいうわたしも、彼女を不良少女だと思ってしまった人間の一人です。はじめて会ったとき、彼女の気に障るようなことを言えば、すぐに目や言葉で威嚇されると警戒していました。


 しかし、二言三言、なっちゃんと言葉を交わした人の多くは、コペルニクス的転回を経験、つまり彼女が善良な人間であることを知るでしょう。いや、知る、と表現するよりは、感じる、と表現した方がいいのかもしれません。なっちゃんと話しているとなぜか心が安らいでいくのです。不思議なことですが、この人にならば心を開いてもいいと思ってしまうのです。人間が人と会うとき、まず行うことは相手が自分にとって敵か味方かを判断することだと聞いたことがありますが、おそらくなっちゃんはその判断を迫られた人間に、わたしは味方です、と思わせる能力を宿しているのでしょう。その能力をどうやって手に入れたのか。先天的なのか後天的なのか。もちろんわたしにはわかりませんが、とても羨ましい力であることは間違いありません。敵を作って得をする人間は、国内に問題を抱える独裁者くらいでしょうし。


 そんななっちゃんですが、彼女は学校の中でとても有名な存在として君臨しています。キリスト教の信者がマリアの存在を認識しているようなものです。もちろんわたしもなっちゃんと友人関係になる以前から、彼女のことを知っていました。なっちゃんを有名たらしませるもの、それは不良っぽい見た目だけではありません。彼女の頭脳です。もっとわかりやすく言えば偏差値です。なっちゃんは入学以来、ずっと学年トップの成績を誇っています。すべての教科の総合がトップなのは当たり前ですが、それだけでは満足できないのか、各教科のテストの点数もトップなのです。学業面において学年トップは誰なのか、という議論さえ起こることはありません。ミス・パーフェクト。なっちゃんのことをそう呼ぶ人もいるほどです。見た目と中身のギャップに萌える、という信者もいたりいなかったり。


 このように万年上位どころか、中位ランキングを首の皮一枚で維持しているわたしとは比べ物にならないほどのスペックを備えているなっちゃんですが、すべてにおいて完璧な人間など存在しない、という弱者の願望的な思想の例に漏れず、少し困った部分も持ち合わせています。困った、という主観的な表現をしていることから察されるように、それは完全にわたし個人がなっちゃんに対して抱いているものでした。


 ——命以外のものだったら、全部サクヤにあげるつもりだから。


 三ケ月ほど前のことです。わたしに宿のせいでとある事案に関わっていたとき、わたしはなっちゃんと出会ったのですが、その時にわたしが行った行為になっちゃんはいたく感謝と感動をし、その気持ちを言葉にしたのでした。はじめ冗談だと思っていたその言葉が、冗談ではないと感じてしまったのは、わたしたちが友人になってからすぐ、ある日の日曜日、わたしとなっちゃんがわたしの自宅で一緒にカップうどんを食べている時のことでした。


 カップうどんって東と西で味が違うんだよね。わたし西のカップうどんって食べたことないから、食べてみたいな。


 それはカップうどんを食べながら、何気なくわたしが漏らした言葉でした。美味しい、と味の感想を述べるのと大差のない条件反射みたいなものだったのです。しかし、それを聞いたなっちゃんはわたしの言葉をどうしても叶えたい願望のようなものだと思ったらしく、まかせて、と言ってわたしの自宅から飛び出し、数時間後に西のカップうどんを手にして戻ってきたのでした。驚くことに、なっちゃんは新幹線に乗って西まで移動し、カップうどんを買って、また新幹線に乗って戻ってきたのでした。信じられないくらい、困ってしまうくらい、危なっかしいくらい、なっちゃんは真っ直ぐなこころを持っているのです。


 純粋=危険?


 わたしはそのカップうどん事件が起こって以来、なっちゃんの前で迂闊に願望を口に出せなくなりました。外国の水が飲みたいと口にしたら、なっちゃんは飛行機に乗って異国の地まで水を汲みに行ってしまうかもしれません。他人の悪口を言ったら、その人を傷つけてしまうかもしれません。お金が欲しいと言ったら、百万円の束をポンと出してしまうかもしれません。今日は天気がいいから外でお昼ご飯を食べようか、と言うくらいならば危険はありません。現在のわたしたちのように、学校の中庭にあるベンチに腰を掛けて、芝生の上でダンスの練習をしている数人のグループを見ながら食事をするだけで済むのですから。


「休みの日に学校に来る理由と言えば、何だろうね。阿倍野は帰宅部なんだから部活動なわけはないし。忘れ物か呼び出しの線が濃厚かな」


 梅干しのおにぎりを咀嚼し、飲み込んでからなっちゃんは続けます。


「でも、忘れ物か呼び出しだったら普通で面白くないね。我が校のアイドル様なんだからもっとドラマチックな理由が欲しいところだね、ここは」

「忘れ物はともかく、呼び出しは普通じゃない気が……」

「あいつの場合は普通でしょ。先生にだって告られるんだから」

「それって、噂でしょ? 生徒はともかく先生はないと思うけど」

「そんなことないって。体育の土田いるじゃん。あいつは阿倍野をデートに誘って断られたらしいし」

「え、嘘っ」

「ほんと、ほんと。わたし見てたんだから。証拠がこれ」


 そう言ってなっちゃんがブレザーのポケットから取り出したのは一万円札でした。


「言っておくけど、わたしが要求したわけじゃないから。勝手に土田が渡してきただけ。口止め料をくれなかったら、一週間後の体育の先生は違う人間になっている可能性は否定できないけどって呟いただけだし」

「脅迫してるじゃんっ」

「してないって。呟いたのSNSだから」

「もっと悪いよっ。てか、わたしに言っちゃってるけど。口止め料をもらったくせに」

「問題ないでしょ。今度、七千円くらいお釣りとして返しておくよ。三千円分は黙っておきましたってことで」


 わたしはなっちゃんにお釣りを返された土田先生の心情を想像しました。哀れすぎます。


「でも、告白のために呼び出しっていうのはやっぱり違う気がするなあ。たとえ、なっちゃんの言うように告白のための呼び出しが珍しいことじゃないとしても。わざわざ休みの日に呼び出さなくても、放課後を使えばいいと思うし」

「だから、わたしは最初から呼び出し派じゃないって言ってるじゃん」

「ああ、そうだったね」


 呼び出しは普通。故に、面白くない。それがなっちゃんの意見でした。


「じゃあ、どんな理由だったら、なっちゃんは面白いと思うの?」

「曜日を間違えた」

「それはないって」

「じゃあ、学校を間違えた」

「阿倍野さんはうちの生徒っ」

「そういう時期もあったね」

「退学してないしっ」

「え……っ」

「何で、びっくりしてんのっ?」

「そこで踊ってる人がこけたから」

「そっちっ」


 なっちゃんの視線の先に目を向けます。たしかに芝生でダンスをしていた人が転んでいました。まあ、正直、どうでもいい情報です。


「なっちゃんさん。真面目によろしく」

「了解。うーん、じゃあ、実は阿倍野はこの街で人知れず悪と戦っているヒーローで、阿倍野がヒーロー活動の拠点として使っている場所がこの学校のどこかに隠されている、とか」

「まあ、たしかにそうだったら面白いけど……現実感が」

「現実感があったら面白くないじゃん」

「そうとも言えるけど」

「でしょ。そんなわけで現実離れした予想をもう一つ。こんなのはどう? 阿倍野はサタニズムの信奉者で土曜日の夜に行ったサバトで悪魔を召還した結果、その悪魔に身体を乗っ取られて知らず知らずのうちに若い女子の血を求めて学校へ来てしまった、とか」


 明らかに冗談を言った、というなっちゃんでしたが、そのなっちゃんの冗談は耳を傾けていたわたしの身体を震わせるのに十分な破壊力を持っていました。


 もしもあれが、阿倍野さんの身体の変化がオカルト的なものだったとしたら――。


 それは昨日の阿倍野さんの状態を見てからずっとわたしの頭の中で行われている一人会議の内容でした。そして、そのの可能性を検証するために、わたしはわたし以外の人間が知っている阿倍野さんの情報を得たいと思い、なっちゃんにさりげなく阿倍野さんの話題を振ったのでした。


 たらしめる原因はあるのか。

 あるのだったら、わたしは――。


「サクヤ、どうかした?」


 言葉を失ってしまったわたしに違和感を覚えたのでしょう。なっちゃんが心配そうにわたしを見てきます。わたしは首を振って言います。


「ううん。何でもない。悪魔に身体を乗っ取られた少女が出てくる映画を思い出してただけ」

「ああ、エクソシストね。悪魔祓いをするやつ」

「そうそう」

「でも、あれらしいね。今、リアルのエクソシストが足りないほど悪魔祓いを依頼する人が増えてるらしんだけど、実際には悪魔じゃなくて心の病が原因ってオチが多いらしいよ。教会じゃなくて病院の範疇、みたいな」

「へー、そうなんだ。ていうか、よくそんなことを知ってるね」

「お父さんがオカルトマニアなんだよね」

「なるほど」


 なっちゃんの言うように、たしかに身体の異変を起こす原因の多くは悪魔ではなく何かしらの病なのでしょう。


 でも。


 あの時の阿倍野さんの状態は病気で済ませていいのだろうかと疑ってしまうほど異様で異常なものでした。阿倍野さんの身体は注意書きが必要なほど熱せられていたのですから。百歩譲って身体が熱いだけならば熱があっただけ、と片づけることができるのかもしれません。実際、わたしが駆けつけたとき、阿倍野さんはそう言っていました。しかし、わたしにはそれを素直に受け入れることができません。なぜなら。


 阿倍野さんの身体が熱かったのはたったのほどだったのですから。


「まあ、でもあれだね。阿倍野のことならに訊ければ早いんだけどね」


 黒い方。

 それは阿倍野さんの双子の妹である阿倍野ランさんのことです。一卵性ということで二人の顔はそっくりです。つまり、ランさんもひっきりなしに告白を受けてしまうほどの美人ということです。しかし、そのカラーはまるで違います。姉のリンさんとは違い、妹のランさんは人付き合いがよく、常に友人に囲まれているタイプの人間でした。さらに見た目の色も違います。姉のリンさんは黒髪に白肌ですが、妹のランさんは金髪に褐色という感じなのです。その肌の色の違いから姉のリンさんは白姫と呼ばれ、妹のランさんは黒姫と呼ばれているのでした。そして、その黒姫ことランさんとなっちゃんは同じクラスに在籍しているクラスメイトです。わたしがなっちゃんに阿倍野さんのことを話した理由がそれでした。黒姫と同じクラスのなっちゃんなら、阿倍野さんについて何か知っているかもと思ったのです。


「ランさんからお姉さんについて何か聞いたことはある?」

「うーん、ないね。もともとそんなに仲良くないし、わたし自身が阿倍野にも阿倍野姉妹にも興味がないし」

「そっか」

「気になるんだったら、さぐりを入れてあげよっか?」

「え、ううん。いいよ。大丈夫」

「遠慮しなくていいよ」

「大丈夫。本当に大丈夫だから。阿倍野さんについては、昨日見かけたからちょっと気になった程度だし、わざわざ調べるほどのことでもないから。お昼ご飯のお供にするくらいのつもりだったしね」

「そう。ならいいけど」


 危なかった、とわたしは息を吐きます。もしもここでわたしが阿倍野さんについて調べて欲しいとなっちゃんにお願いをしたら、きっとなっちゃんは合法違法を問わずあらゆる手段を使って阿倍野さんを調べてしまう可能性がありました。西のカップうどんを手に入れるために新幹線の往復切符を簡単に手に入れてしまうなっちゃんはものすごくセレブなのです。探偵を雇うことは簡単でしょうし、その気になれば法すらもかいくぐってしまうほどの力を持っていました。


「まあ、でも調べようと思っても、今日は無理だけどね」


 食べ終えたおにぎりの袋をコンビニ袋に入れてからなっちゃんは言います。


「黒い方は今日、学校休んでるんだよね」

「そうなんだ。風邪?」

「わかんない。たぶん、そうじゃないの」


 昼休みの終了が近くなってきて、芝生でダンスの練習をしていたグループが教室へ戻る準備を開始しました。わたしたちも教室へ戻らなくてはいけません。わたしは残りのメロンパンを急いで口に入れ、咀嚼し、飲み込みます。ベンチに置いていたパックのオレンジジュースを一気飲みしてお昼ご飯は終了しました。


 結局、阿倍野さんについては特に新たな情報を得られないまま昼休みが終わりました。なっちゃんと話をしながらお昼休みを過ごせたので無駄な時間を過ごしたという感覚はありませんが、もう少し何かを得たかったという不満足感は多少ですがありました。


「サクヤ。今日はバイトだっけ?」

「うん」

「バイトって、の?」


 コンビニだよ、とわたしは答えて、体育だから先に行くと言ったなっちゃんに手を振りました。

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