阿倍野リンは神殺しと出会う

 触るな危険。


 そのような注意書きが必要だと思ったほど、阿倍野リンさんの身体は熱を持っていました。特に熱かったのは高校生らしからぬ蠱惑的な形をした脚の部分です。ふくらはぎ、と言い換えてもいいかもしれません。熱せられた鉄板のように、スイッチを入れたままのアイロンのごとく、触れる前から触れてはいけないという雰囲気を醸し出していたのです。


 阿倍野さんは世間的に見て、いわゆる美人の類に入る女性でした。シャンプーのコマーシャルに出てくる女優さんに負けないくらい艶のある黒い髪の毛を伸ばし、洗顔フォームのコマーシャルに起用されているアイドルにも劣らないキメの細かい肌で顔を覆い、グロスのコマーシャルで投げキッスをしているモデルさんも脱帽してしまうほどの艶めかしい唇を所持しているのですから、当然と言えば当然です。特に魅力的なのは瞳でした。マスカラのコマーシャルで歌っている歌手のようにぱっちりと開いているわけではないのですが、うつむいた時に際立つ睫毛の長さと、涙を流した後のように潤いのあるその瞳は、男性のみならず女性さえも、近くで視線が重なってしまったら、鼓動が激しく脈を打ってしまうとまことしやかに噂されています。


 阿倍野さんとわたしは同じ高校に通う同級生という間柄でした。一年生の時は違うクラス、二年生の今も違うクラス、三年生はどうなるかわかりませんが、とりあえず今までは一度もクラスメイトという関係になったことがありません。当然、会話をかわしたことはありませんし、視線を合わせたこともありません。おそらく勉強も運動も平均的なスコアを記録するモブキャラのようなわたしのことなど、阿倍野さんは知りもしないのでしょう。つまり、阿倍野さんとわたしの関係はいわゆる他人というやつです。同じ高校に通っているからといって、そこに在籍する生徒全員とお友達になっていることの方が稀なので、わたしたちの関係は哀しむべきものではなく、普通といったところなのでしょうが。


 とは言え、他人とは言っても、相手のことをまったく知らないというわけではありません。はじめに紹介した通り、阿倍野さんは男性のみならず女性までも虜にしてしまうと噂されているような美人なので、彼女に関する話ならばいくらでも耳にします。クラスの男子の半分どころか、男性教師の半分ほどが彼女に告白をしたという話を聞いたことがありますし、家に帰れば芸能事務所の人間からひっきりなしに電話がかかってくると言う話も伝わっています。もちろん、噂は噂。尻尾やらヒレが付いてオリジナルの原型さえとどめていない可能性がありますし、かく言うわたしも噂のすべてを信じているというわけではありません。ただ、火のないところに煙は立たないと言うように、まったくのデタラメというわけではないのでしょう。実際に阿倍野さんは魅力的なのですから、クラスの男子の半分に告白されたというのは本当かもしれませんし、ひっきりなしは嘘かも知れませんが、一ヶ月に数回くらいは芸能事務所の人間から電話がかかってくるのかもしれません。


 なぜ、そう思うのか。


 阿倍野さんにはその噂に信憑性を持たせるだけのがありました。この場合、それはと言い換えた方が適切なのかもしれませんが。


 事件は半年前に起こりました。放課後、わたしと同じようにと言ったらおこがましいかもしれませんが、部活動をしていない帰宅部の阿倍野さんは、家に帰るために当然のごとく正門を使うのですが、その正門を抜けた直後に、待ち構えていた男に腹部を鋭利な刃物で傷つけられてしまったのです。それは一瞬の出来事でした。帰宅時間なので正門の周りには何人もの生徒がいたのですが、その誰もが事件を止めることはできず、犯行の機械をうかがっていた犯人に気づくことさえしなかったのです。


 腹からおびただしい量の出血をともなった阿倍野さんはすぐに救急車で運ばれて緊急手術を受けました。医者の腕が素晴らしかったのか、刺された場所がよかったのかはわかりませんが、幸いにも一命をとりとめました。犯人は学校の正門前から逃げることはせず、駆け付けた警察官に大人しく逮捕されました。その時の様子を見ていた生徒たちの中にはこころにショックを受けて倒れたり、怖がってその場から逃げ出したり、少し離れた場所からケータイを向けていたりと、様々な人がいたらしいです。わたしはと言えば、たまたまその日は健康くらいしかとりえのないわたしには珍しく、三十九度の熱を出していたので、やむを得なく学校を欠席していました。阿倍野さんが刺された時刻、わたしは何をしていたのかよくわかりません。おそらく眠っていたのでしょう。


 この事件は全国のニュースで伝えられるほどセンセーショナルなもので、しばらくの間はマスコミや野次馬たちが学校の周りをうろついていました。美人女子高生が下校直後にナイフで刺される。世間的には悪くないネタでした。注意を引くために付けられた美人ではなく、本物の美人だというのがポイントです。しかも、犯人は名前を聞けば多くの人がその商品を頭の中に思い浮かべることができるであろう一部上場を果たしている大手企業のサラリーマン。インパクトは十分です。


 犯人は通勤に使う電車で阿倍野さんを見てこころを奪われたストーカーでした。阿倍野さんがストーカーを認識していることはありませんでした。ストーカーが一方的に阿倍野さんを認識していたのです。犯行の動機は同情に値するものではありませんでした。仕事で大きなミスをしてしまったので、好きな女と一緒に死のうと思った。呆れすぎて、馬鹿馬鹿しくて、苛立ちを覚え、吐き気を催してしまうほどです。同情の余地は微塵もなく、犯人の弁護を引き受ける弁護士はどのような気持ちで仕事をするのだろうとおせっかい極まりない心配をしてしまうほど、阿倍野さんにとっては理不尽な事件でした。


 だからかもしれませんが。


 この事件をきっかけに、阿倍野さんは人気のある女子生徒という枠から飛び出して、偶像――アイドルになりました。阿倍野さんが退院して、はじめて学校に登校してきた日をイースターと呼ぶ軍団も学校内にはいたほどです。


 アイドルとは言っても、阿倍野さんは芸能界のアイドルとは違い愛嬌を振りまくことはしませんでした。それどころか、彼女の笑顔を見たことのある生徒すらいないとさえ言われています。ではなく、のです。噂によると、阿倍野さんは誰にも笑顔を見せないということでした。笑い方を知らないのではないかと、多くの人が疑うほどです。彼女の笑顔を生むために何人かの自称学校一面白い生徒たちが、そのプライドをかけて彼女に自慢のネタを披露したのですが、誰一人としてプライドを打ち砕かれなかった人はいなかったそうです。全員が全員、将来、お笑いで天下を取るという野望を諦めたという話も聞きました。ただ、客観的に阿倍野さんを分析できる人の意見では、彼女は笑い方を知らないのではなく、笑い合う相手がいない、というのが本当のところなんじゃないかと言われています。わたしはその意見を聞いて、なるほど、と思ってしまいました。阿倍野さんはたしかにアイドルですが、周囲にファンは群がっていないようです。ファン以外の人間もいないようです。阿倍野さんはいつも一人で本を読んでいるらしいです。誰も近づくな、と言っているわけではありませんが、結界がはられているかのように誰も近寄れないと言う話でした。そんな状態では阿倍野さんの笑顔を拝めるわけがありません。笑いとは基本的に相手ありきのことですから。思わず笑い出してしまうような内容の本を読んでいるのならば別ですが。


 そんな阿倍野さんの身体がなぜ注意書きが必要なほど熱かったのか。

 この時のわたしにはもちろんわかりません。


 わたしが注意書きが必要なほど身体を熱くしている阿倍野さんを見つけたのは、学校の教室の中でした。その日は日曜日で学校は休みだったのですが、バスケットボール部に所属している友人の井浦ナツこと通称なっちゃんが試合に出ると言うので、わたしは彼女の応援に来たのですが、そのことが引き金となって阿倍野さんとの邂逅が生まれたのです。試合が始まる前、学校に着いたわたしは昇降口で上履きに履き替えている阿倍野さんの姿を見つけました。そして、教室へ向う阿倍野さんの後ろ姿を何となく追ってしまったのです。気まぐれなのか、好奇心なのかはわかりません。何かに引きつけられたとしか言いようがないのです。万有引力のせいかもしれませんし、運命の赤い糸のせいだったのかもしれません。


 後をついて行くと、阿倍野さんは迷わず自分の教室へ入っていきました。その姿を確認したわたしは、ここまでだな、と思いバスケットボールの試合が行われる体育館へ向おうとしました。自分のクラスではない教室に入っていくのは明らかに怪しいですし、中にいる阿倍野さんと鉢合わせをしてしまったら、その怪しい行動の理由をどう説明していいのかがわかりません。あなたを追いかけてきた、なんて気持ちの悪いことを言って、それで誰も見たことがないと噂されている阿倍野さんの笑顔が見られるのならば、わたしの行動に価値はあるのかもしれませんが、あいにくそんなご都合主義を本気で想像できるほど、わたしは楽天家ではありませんでした。踵を返し、体育館へ向おうとします。しかし、わたしの足は体育館へは向かいませんでした。阿倍野さんが入って行った教室内から激しい物音がしたからです。何も考えずに、反射的に、わたしは教室に入りました。一瞬で教室内のある部分に視線が向かいます。窓側の一番後ろの席の椅子が倒れていました。そして、阿倍野さんも倒れていたのです。


 阿倍野さんは激しい苦痛に耐えているように顔を歪めていました。

 わたしは思わず口元を手のひらで覆ってしまいました。

 映画で見たことのある状況、まるで拷問を受けているかのような状態を見て、その凄惨さ、痛々しさに、身体の震えを感じてしまいました。

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