君がいるけどいないセカイ

夏鎖

君がいるけどいないセカイ


 私は、雨の降るアスファルトの上に呆然と立ち尽くしていた。

 

 髪から雨が滝のように滴る。


「君はどうしてそこにいるの?」




 いつの間にか僕は、ベンチに座っていた。 いや、ただ単にそう感じただけか……


「ねぇ、サトル」


 右耳に甘く切ないソプラノの声が響く。 隣りには僕の恋人アイカがいる。彼女はどこかつらそうな顔で僕の名前を呼んだ。


「なに? アイカ?」


「…………」


 僕は返事をしたけど、彼女はなにも言わずに目を伏せてしまった。


 「どうしたの?」


  僕が聞いても返事はない。ただ下を向いて、まるで子供が蟻の行列を見るような、そんな顔でアスファルトの大地を見ている。


 ここは僕がアイカとよく来る都内の公園だ。周りにはジョギングをする人や、犬の散歩をする人がときどき僕らの座るベンチの前を通り過ぎるだけで、緑の多い静かな公園だった。大学の講義が面倒くさいと言っては、二人でずるをして休講し、ここでのんびりと時間をつぶした。


「そんなわけない、か……」


 彼女は小さな声で、下を向いたまま呟いた。僕が聞いていないうちに、彼女は今僕にした質問の答えを出してしまったみたいだ。


「今なんて言ったの? アイカ?」


 聞き逃したことが気になってアイカに訊いてみても、アイカは僕らの正面にずっしりと生える欅を見つめるばかりで、返事をしようとしない。


「ねぇ、アイカ?」


 彼女が最初したように、名前を呼んでみるがやっぱり返事はない。 沈黙を保ちながら彼女が口を開くのを待ったが、返事は帰ってこなかった。しかたなく、僕も彼女と同じように目の前の大きな欅の木を、中心を貫くように見つめてみた。 どれくらいの時間が経っただろう? 彼女はいきなり口を開いた。


「どうして?……」


 どうして? 僕が何かしただろうか?「どうしたの?」


 オウム返しに聞いてみるが、彼女の目は涙を溜めを始めていた。


 「どうして! どうして、サトルは私の話しを聞いてくれないの!」


 僕は何か彼女を怒らすようなことをしただろうか? 確かにさっきの話は聞いていなかった気がするが、なぜここまで怒っているのだろう?


「アイカ……?」


 なぜ怒っているかわからず、うろたえながら聞いてみても、彼女は荒い息を吐きながら僕のいる場所を見つめるだけで、それ以上何も言わない。


「どうしてよサトル!」


 彼女は僕に向けて、一際大きな、怒りを含んだ叫びをぶつけて、そのままベンチを蹴飛ばすように走り去ってしまった。 ジョギングをしているおじさんの視線が、彼女を怪訝そうに睨み、不思議なものを見るような顔で僕のこともついでといった様子で一瞥し、再びジョギングに戻って行った。 僕はしばらくベンチの上から動けなかった。



 気が付いたら、僕はベッドの上に腰をおろしていた。 あぁ、そうだ。彼女に謝ろうと思って、彼女の部屋に上がらせてもらったのだっけ? 僕のアパートとは違い、おしゃれなワンルームに住むアイカの部屋はきちんと整理整頓されていて、ベッドにも真新しいシーツがかけられていた。 ガチャリ、と音がして玄関の方からアイカがやって来た。


「アイカ」


 そう呼んだが、返事はない。 彼女はセーターを脱いで、クローゼットの中に仕舞うと、初めて僕の方を見た。 僕は微笑んで彼女のことを迎えた。 けれど、彼女は一瞬、どこかせつなそうな目で僕を見つめてから、何も言わず部屋着を取り出し黙々と着替えを始めた。 着替え終わると、彼女はシルクのカーテンを閉めてベッドに転がった。いつの間にか外は暗闇が支配する漆黒の世界となっていた。


「アイカ?」


 少し不安になって、彼女の名前をもう一度呼んだ。しかし、やはり返事はなかった。僕の何をそんなに怒っているのだろう? しばらく、考えることに没頭していると、彼女のささやかな寝息が僕の耳に届いた。


「いくら彼氏の前だからって、突然寝ないでくれよ……」


 苦笑いしながら、彼女のことをしばらく見つめた。 穏やかな昼下がりの風音よりも小さいひかえめな寝息が聞こえるたび、彼女の肩が小さく上下した。


 その小さな肩を見つめていたら、不意に僕に背中を向けていた彼女がゴロンと寝がえりをうち、僕の方に顔を向けた。 その顔には、なぜか薄い涙の軌跡があった。 泣いている? どうして? 怖い夢でも見ているのだろうか? それとも僕のことを怒り過ぎて、悲しくなって泣いているのだろうか? 真相はわからない。けど、彼女の寝息の間に小さな言の葉が混じるのを、僕は聞き逃さなかった。


「……サ……トル」


 僕はなぜか複雑な気持ちになって、それでも何もできずに、できないまま彼女の顔を見つめていた。



 僕とアイカは大学のカフェにいた。 そういえばまだ、彼女は僕の何かを許してくれていなかったっけ。 彼女の目の前には、彼女がこの季節によく飲む、牛乳がたっぷり入ったアイスコーヒーが置いてあった。 このコーヒーと牛乳が混ざり合っている感じが「初夏」という季節によく似合うらしい。 でも彼女はストローでくるくると氷を掻き混ぜるだけで、さっきから一口も飲もうとしない。


「ねぇ、飲まないの?」


「…………」


 聞いてもやっぱり返事はなかった。彼女と付き合い始めてから今日まで、一日以上何も話さなかった日はこれが初めてかもしれない。それくらい僕はアイカと何も話していない。 僕はコーヒーを飲もうとして、目の前に何も置かれていないことに気付いた。


「すいません」


 カフェの奥にある小さなキッチンみたいな厨房に向けて、店員を呼んだ。 「すいません!」


 カフェの店員は気付いていないのか、黙々とコップを磨いている。


 「すいません! アイスコーヒー一つ!」


 もう一度、今度は公共の場では相応しくないほどの大声で注文を直接言った。 返事があるか、それを確かめる前に、彼女から


「はぁー……」


 と小さくため息をつかれて呆れられてしまったので、僕は仕方なく口を閉じた。


「ねえ、アイカどうしてそんなに怒ってるの? 僕は昨日から何回も謝ってるんだけど?」


「…………」


 けれど、彼女は僕には目もくれずにカフェの出口をさっきからずっと気にしてる。


 どこかやるせない気分になって、僕は黙りこむことにした。謝っても返事すらしてくれないのなら、こっちも彼女のことを無視し続けよう。 そんな子供みたいな意地を張って、僕は僕のことを見てくれない彼女に視線すら合わせなかった。 でもなぜだろう? 何か不安だ。 何が不安の原因か、それすらもわからないのに不安を感じてしまう。


 彼女が腕時計にちらっと視線を走らせたのが、視界の端に映った。 滅多にしないその仕草が妙に気になって、僕は彼女を横眼で観察することにした。 彼女のそわそわ具合は時間を追うごとに増していく。 それに呼応するように、僕の不安の高鳴りも大きくなる。 その、微妙な空気が一つの声によって破られた。


「ごめん、待った?」


 僕と彼女が座る二人掛けのテーブルの前に、背の高い同年代くらいの男がいた。


「ううん、大丈夫」


 そういうと彼女は、小さなバッグと伝票を持って立ち上がり、男の手に自分の白い手を絡ませて出口に向かった。


 「えっ? どういう、こと? アイカ?」


 僕は、彼女の行動の意味がわからず、ただ去っていく二人を見つめていることしかできなかった。 彼女は去り際に一度だけ、僕の方をちらっと見た。 忘れ物をしていないか、確認するような、そんな目で。


「嘘だろ……」


 僕の呟きには、もう誰も答えてくれない。 僕の、僕に残ったものは彼女が一歳口をつけなかった茶色のコーヒーだけだ。


「なんで?」


 その言葉が頭の中を駆け巡る。 どうしようもなく、混乱して、僕は辺りを鳥がするそれのように見回した。 けど、彼女は、アイカはもうどこにもいなくてカフェの中には僕しかいなかった。 しばらくして落ち着いた僕は、もったいないと思って彼女の残したコーヒーを飲もうと、カップに手を伸ばした。 けれど、そのカップに僕は触れることが出来なかった。 その瞬間、僕の頭に何かが舞い降りてきた。


「あぁ…………そうだった」


 今さら思い出した。 カフェのカレンダーを見てみる。 やっぱり日付は一年も進んでいた。 なんで、どうして思い出せなかった。気付けなかった。 彼女が怒っていた理由も、僕が部屋にいるのに眠りだした理由も、彼女が他の男と一緒にいた理由も…… 全部、全部僕のせいじゃないか。





「僕は死んでいたんだな」




 カレンダーの西暦は二〇〇七年の五月九日になっていた。 僕が死んでからちょうど一年が経った日だ。 それを噛みしめるように、触れることのできないコーヒーカップに触れようとして、何度も、何度も触れようとして、けどやっぱり僕の手は、僕の目でも見えるほどに透けていて、カップの中の液体を揺らすこともなく、虚空を切るようにすり抜けていった。 君のことを悲しませてから、もう一年が経ってしまった。



 僕は彼女の家にいた。 彼女は鏡の前に座り込み、自分の顔をじっと見つめていた。そこに僕が、サトルがいないかを確かめるように。 僕は、触れられないことが分かっているのに、彼女の背中に手を伸ばした。


「うっ…………うっ、う」


彼女の嗚咽が聞こえて、僕は伸ばしかけた手を引っ込めた。


「どうしていなくなっちゃったの? サトル?」


(僕はここにいる)


「あんな……あんな男じゃ、サトルの代わりになれないよ……」


(僕にも君しかいなかった)


「ねぇ、戻ってきてよ……サトル。一年も私のことほったらかしにして」


(戻ってきてるよ)


「サトル……」


 彼女は、叫ぶように泣き出した。 いつか、彼女が何かの拍子に泣いたことが、涙を流したことがあった。 その時僕は「泣き虫だね」と言って彼女の涙を人差し指でぬぐったっけ? その時と同じように、僕は彼女の涙を、悲しみを受けとめようとした。


 けど、残酷なことに僕には彼女の涙に触れる権利すら与えられなかった。 涙が、小さなカーペットに落ちる。 それが落ちる前に受けとめようとしても、また落ちる。 何のために僕はここにいるんだ? 彼女の悲しみすら、僕は触れる権利がないのか? 神様は、いつでも人間には理不尽で、残酷で、救いようのない世界しか用意しない。


「ふっざけんなよ!」


  僕は彼女と同じくらい、大きな声で絶叫した。 けど、その声は遂に誰にも届かなかった。



あの日、私の作った晩御飯を食べた君は来た時と同じようにバイクに乗って帰って行った。


 その日は雨で、君が帰るときになって小雨から雨が大降りになった。


 君はフルフェイスのヘルメットをかぶって、バイクにまたがって、アパートの下まで見送りにきた私に「風邪引くからもうもどりなよ」って声をかけてくれた。


 私は君に「じゃあね」と手を振って、自分の部屋に戻った。


 君は、君が私の家に来た時、私がいつも窓から見送ることを知っていて、私がカーテンを開けて君がそれに気づくまで、帰ろうとしなかった。 カーテンを開けると、フルフェイスの奥で君が笑って、バイクが走りだした。


 私は彼の見えなくなる限界まで、窓から顔を離さなかった。 君の乗ったバイクが、十字路に差し掛かった。 君は一時停止して、右から来る車が通り過ぎるのを待った。 車が通り過ぎた瞬間、君のバイクは動き出した。


 その時、彼の前から大きなトラックが暴走してきた。


 大きな音がして、黒い何かが吹っ飛んだ。


 一瞬だけ、何が起こったかわからなかったけど、次の瞬間、私は靴を両足に引っかけて駆け出していた。


 十字路の前には、動きが止まっている前面が大きくつぶれた2トントラックと、君の愛車が転がっていて、タイヤが空回りしていた。


 君のヘルメットは、どこかに消え去り、君が私の目の前まで突き飛ばされていて、頭からはトマトがつぶれたように血が噴き出していた。



 私は、雨の降るアスファルトの上に呆然と立ち尽くしていた。


  髪から雨が滝のように滴る。


「君はどうしてそこにいるの?」



                       ―END―


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