Rush
Ocean
第1話 うららかな春の朝
うららか、、、、。
そう形容する以外に表現方法が存在しない程、穏やかによく晴れた素晴らしい朝だった。
いつも寝坊する子供が、一時間も早く目を覚まし、逆に両親を戸惑わせ、接待で飲み過ぎ、明日は仮病を使って会社を休もうと決めていた、くたびれたサラリーマンも嘘の様にパチリと目を覚ました。
皆が毎年忘れ、そして毎年思い出す、「春らしい春」の朝だった。
こんな日は、何故だか心なしか人々がウキウキして機嫌がいいように思える。
口を開けば小言と嫌味しか言わない上司が、やけに上機嫌だったり、いつも人の悪口と息子の受験の話ばかりしているヒステリックな近所のおばさんが、笑顔で挨拶してくれたりする。
こんな日は、毎朝人々の精神にかなりのストレスを強いているであろう満員電車の憂鬱も、いつもより少しだけ我慢出来る様な気がする。
NRさい東線。日本の首都と隣県を結ぶ主要路線の1つであり、首都圏に住む人々にとって重要なライフラインの1つでもある。その一方で、驚異的な混雑率と痴漢率の高さにより人々に忌み嫌われる都心の電車ストレスを象徴する様な路線でもあった。
NR青羽根駅。首都と近県の主要部を結ぶ中間に位置する中核都市であり、様々な路線が入り乱れる事から、毎朝、花火大会さながらの混雑を呈す。
7:54発 さい東線通勤快速歌舞伎宿行 定刻きっかりに青羽根駅のプラットフォームに到着した電車の扉が、プシューと音を立てゆっくりと開く。
およそ、どうやってこんな狭い空間に詰め込まれていたのかと思われる程の人間が雪崩の様にフォームに降り立ち、逆に物理的にその空間に収まる事が不可能であろうと思われる程の人間が、扉めがけて津波の様に押し寄せていく。
何の変哲も無い、青羽根駅のいつもの日常である。普段ならば、必ずどこかの車両で、押した押さない、触った触らない、踏んだ踏まないの問答が始まるところだが、今日は、きっとこの陽気のせいであろう。嘘の様に穏やかな乗降が完了した。
駅の係員が、異常をチェックした後、発射オーライの合図である小型映写機の様なランプを大きく振る。その瞬間、ホームのスピーカーからは発車を告げるBGMが流れ、どこにでも居そうなのに、逆にどこにも居なそうな、穏やかな男性の声がホームにこだます。
「電車が発車いたします。扉に物を挟まれない様、ご注意下さい。駆け込み乗車はお止め下さい。」
そう、いつもと変わらない青羽根駅の朝だった。いや、春の陽気のお陰で、いつもより穏やかな朝だったと言えるであろう。
最初にそれに気づいたのは、春の陽気のせいで、いつもより一時間も早く起きてしまい、特別乗る必要もない早い電車に乗る羽目になってしまった小学生の男の子だった。
「たまにはパパと一緒に、朝の行ってきます!するか?」と、息子が早起きした事に妙にテンションが上がった父に言われ、本当はもう少しテレビを見ていたかったのだが、渋々、父と一緒に出かける事になったのだ。
いつも出発しない時間に、いつも夜しか会わないパパと朝一緒に出発し、パパの駅はそこが近いからと、いつも乗らない車両に乗った。そこは、駅の改札を抜けた広いスペースからホームへ上がる階段を一望出来る車両だった。
「、、、、、、ねー、パパー。あの人、階段を凄い勢いで昇ってくるよー。」
どうやったら、そんなにコンパクトに折り畳めるのかと思える程、コンパクトに折り畳んだ新聞を読んでいた父が、男の子の声に顔を上げる。
「んー?、、、、、、、、!!??、、、、、、勇太!!!!」
突如、父は新聞を投げ捨て、男の子を抱き寄せ、顔を覆い隠す様に手で覆った。
「勇太!!!目を閉じて、耳を塞いでいろ!!絶対に顔を上げるんじゃない!!」
車両内は、どよめきに満ち溢れていた。驚きのあまり口を覆って半泣きの若い女性。「止めろ!バカ!止めろ!」と必死に叫ぶ年配の男性。動画投稿サイトに投稿でもする気なのか、スマホで動画を撮る女子高生。恐ろしく冷ややかな眼を向ける管理職風の中年男性。
春の陽気の恩恵は、どこへ消えたのか、車両内はその瞬間を機に、いつもの小競り合いなど、まるで比にならない程の狂乱の渦と化した。
その男が階段を駆けあがる様子を目視できる車両は幾つかあるが、どうやらそのどの車両も、男の子が乗った車両と同様の混乱を招いている様だった。
その階段が見えない車両でも、他の車両の異変に気付き、身を乗り出す人間が出てきている。
「はっ、、、、、はっ、、、、、、はっ、、、、、、。まっ、待て、、、、。行くな、、、、、、。俺は、どうしてもその電車に乗らなけりゃ行けないんだ、、、、、、。」
男は、息も切れ切れに誰にも届かないであろう小さなくぐもった声で呟いた。
さい東線を毎日利用する人間。いや、電車を利用する人間なら誰でも知っている。発車を知らせるBGMが終わったら扉は閉まる。恐らく、BGMが終わるまで、後7秒程度。必死の形相で階段を駆け上げる男は、階段の中腹よりやや下程度にいる。どう考えても間に合わない。
しかし、男は走る事を止めない。
「はっ、、、、、、はっ、、、、、、頼む、、、、、、、。まっ、待ってくれ、、、、、、、。」
その瞬間、BGMの裏で、穏やかにアナウンスを告げていた男性の声が突如、機械的な女性の声に変わる。
「駆け込み乗車はお止め下さい。駆け込み乗車はお止め下さい。駆け込み乗車はお止め下さい。」
青白い顔をした男は、フラフラになりながら、階段を昇り切り、鬼の様な形相で電車の扉に向かって行く。
電車発車のBGMが鳴り終わるまで、後3秒。
「はっ、、、、、、はっ、、、、、、、はっ、、、、、、、、大丈夫だ、、、、、、、、。間に合う、、、、、。」
突如、ビービービーっと、不快なシグナルが鳴り響き、機械的な女性の声は、更に一段ボリュームを上げ、警告を告げる。
「駆け込み乗車は止めなさい。繰り返します。駆け込み乗車は止めなさい。強制排除します。強制排除します。」
男は、足をもつれさせながらも、必死で電車の扉に向かう。
「はっ、、、、、、、はっ、、、、、、、はっ、、、、、、、はっ、、、、、これで全てうまくいく、、、、、。全てうまくいくから、、、、、。」
電車発車のBGMが鳴り終わるまで、後1秒。
それを最初に発見した男の子と同じ車両内にいた、半泣きの若い女性は、もはや口ではなく顔全体を両手で覆っている。「止めろ!バカ!止めろ!」と必死に叫んでいた年配の男性は、焦点の定まらない目で遥か遠くを見つめている。スマホで動画を撮影していた女子高生は、薄ら笑いすら浮かべ、その様子を撮り続けている。恐ろしく冷ややかな眼を向ける管理職風の中年男性は、寝ているのか起きているのか解らない様な状態で目を閉じていた。
男は、必死の思いで、電車の扉に辿り着き、あがく様に右手を伸ばす。もはやおおよそ人が入る余地が無いであろうと思われる、人と人との密集地帯に、どうにかして入り込もうと、闇雲に何かをぐっとを掴んだ。
その時、機械的な女性の警告メッセージが一転、再び穏やか男性の声が突如として告げる。
「扉が閉まります。ご注意下さい。扉が閉まります。」
次の瞬間
開く時は、全く安全で緩慢にすら思えた電車の両扉の緩衝用ゴムから、突如鋭い刃が飛び出し、そして凄まじいスピードで、扉と共に互いを引き寄せた。
カキン。
決して大きくはないが、決定的な何かを思わせる鋭利な金属と金属がぶつかり合う甲高い音と共に、まるで何の障害物も存在しなかったかの様に、電車の扉はピタリと閉じた。
静寂がこだまし、電車は発車体制に入る。
男は勿論の事、その電車に乗っていた乗客全てがハッと息をのんだ。
ゆっくりと動き出す電車。
男は、その時何を考えていたのであろう。失敗した事への絶望か。はたまた彼と片時も離れる事無く人生を共に歩んできた右腕への哀愁か。
いや、そんな事を考える時間的な猶予が彼にあったかどうかは疑わしい。電車の扉が、彼と彼の右腕を分断し、ゆっくりと発車体制に入った瞬間、先ほどまで穏やかな男性の声が流れていたスピーカーの真横に設置された、まるで安っぽいダミー監視カメラの様な装置のランプが、パッと光り、一瞬だけピンクの筋が見えた気がした。
そして
ジュッという、花火をバケツに投げ込んだ様な音と共に、男の頭から上は、この地球上から完全に消失した。マグナムやショットガンで撃たれ時の様な、派手に飛び散るべき脳漿や肉片も存在しない。
ただ、彼の頭から上は、この世から消えた、、、、、、、、。
ほんの数秒間で、生物からただの肉の塊へと変化した男の身体は、ポトリと花が落ちる様に、その場に崩れ落ちた。そして、その右腕の付け根からは、まだ生きているのかと思わせる程、鮮血が噴き出していた。
まるで、何事も無かったかの様に走り出した電車内は、電車の穏やかな足取りとは対照的に阿鼻叫喚だった。大声で悲鳴を上げる者。すすり泣く者。気絶する者。嘔吐する者。
中でも、とりわけ凄惨だったのが、誰も望んでいない【人間の右腕】という乗客を乗せてしまった車両だった。あまりに切り口が鋭利だった為、右腕は一瞬、本来のあるべき行動を忘れ、主の身体から離れ、数秒立ってからまるで思い出したかの様に、鮮血を噴き出し、辺り一面を真っ赤に染め上げた。
もはや地獄絵図だった。
顔を覆っていた若い女性は、やはり顔を覆ったままだが、誰にも聞こえない程、小さな声で繰り返し何かをブツブツ呟いている。焦点の定まらない目で遥か遠くを見つめていた年配の男性は、まるで祈る様に目頭を押さえたまま動かない。スマホで動画を撮り続けていた女子校生は、失禁した自分の尿が作った水溜りに自分のスマホが落ちている事にも気づかない。寝ているのか起きているのか解らない状態で目を閉じていた管理職風の中年男性は、引き続き目を閉じたままだが、まるで肉食動物に襲われたウサギの様に、ブルブルと体が震えていた。
そんな中、最初に彼を発見した男の子は、覆い隠された父の指の隙間から、最初から最後まで一部始終を見ていた。いや、見てしまった。
彼は、短い人生の中で、人間があんな形相をするのを見た事が無かった。そして、これから続く何倍も長い人生の中でも恐らく目にする事は無いであろう。昨年、父の実家に共に帰省した際、祖父の眠るお寺で目にし、3日間眠れなくなった地獄絵図の鬼を思い出した。
そして、涎を垂らし、異様なまでに目をぎらつかせた男が掴んだ自分の肩、、、、。恐ろしい程の力で、一瞬本当に腕がもげるかと思ったが、次の瞬間その力は弛緩し、男の頭は瞬きする間も無く、消え失せた。
そして、弛緩しながらも男の子の肩を掴んで離さない男の腕と、ほんの数秒前まで主だったはずの肉塊がゆっくりゆっくり、互いに血飛沫を上げながら遠ざかって行く。
男の子は、もはや悲鳴の上げ方すら忘れてしまっていた。
しかし、何よりも男の子の精神を揺さぶったのは、ほんの一瞬だけ合った、男の眼だった。
希望、絶望、怒り、悲しみ、生への執着、死への渇望、その全てが混然一体となった異形の眼だった。
この眼を見ないで済むなら、何でもする。そう言いたくなる様な眼だった。
男の子は茫然自失なりながらも、何故だか今朝の母の言葉を思い出していた。
「勇太~。どうしたの~?そんなに早起きして。でもママ嬉しいなー。昔からね。早起きは三文の徳って言うんだよー。つまり、早起きしたら良い事ばっかりって意味。明日からも早起きしてくれるとママ嬉しいな~。」
そして、漠然とする意識の中で、ぼんやりと考えた。
二度と早起きなんかしない。
Rush Ocean @trinityocean
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