ぼくのかんがえたあいでんてぃてぃりろん

「先生」

「何かね」

「私は自分という物が分かりません」

「ほう」

「一体私は何なのでしょうか」

「それは実に難しい質問だ。まず質問内容が曖昧すぎる。

『君』という存在は一つだが、その要素は幾つもの断面に切り分けられる。

 まず物質的な『君』と精神的な君が二分できる。

 物質的な『君』は、『君』という個体を規定できるか、というのは生物学的な領域だ。『君』はその皮膚表面に数兆という微生物を飼い、また腸内においても数百億もの細菌を飼っている。いずれも『君』の生存には必要な個体であるが、『君』ではない。別な生き物だ。では『君』とは何だろう?細胞が毎日更新され、アポトーシスで失われていく『君』とは何だろう?数十年も経てば、生まれた時の分子も原子も、一つも残らないのに『君』という個体は維持され続ける。それは何故か?

 精神的な『君』は、常に変質し続ける。誰かとの会話や経験、思考によって成長したり、滞ったり、常に一様ではない。分かりやすく言えば、子どもの頃の自分と今の自分は同じ存在か? 恐らく違うと応えるだろう。今の君は『うんこー!』と言った所で喜びはしない。……喜ぶかね? あぁ良かった、念のため確認しておいて。

 しかしどれも『君』だ。ややこしい事に。ではこれをコピーしたとして、それは『君』だろうか? 行動パターン、思考パターン、全て同じにして、『君』たり得るのか。いやはやまるでSF小説のようだが、そうして同一化した存在が同時に存在していた時、我々はどちらを『君』と呼ぶべきか。哲学的なアプローチだ。

 民族学的アプローチも必要だ。君の所属する血族、民族はどんなものか。言語は何か。文化は何か。その意識が何に帰属しているのか。それはとても重大な事だ。

 住む地域は?隣の住人はどんなだ?家族は?育った環境、教育、その他諸々、あらゆる事が君を規定していくし、成長させていく。

 いずれもアイデンティティの確立の為には必要な項目だ。

 一方、他人から見た『君』という存在がある。それも、人の数だけだ。

 ある人が見れば君はだらしなく見えるし、きれい好きにも見える。背が高くも見えるし低くも見える。馬鹿にも見えるし賢くも……まぁ見えなくはない。

 そのいずれの評価も『君』だ。どれも否定してはならない。

 さて、恐らく全人類が到達する君の最初の質問だが……」

「はい」

「そんなもん分かってるなら、私は宗教の教祖にでもなって、もっと楽に暮らしているよ。答えはそれぞれにあるし、一個の答えで事足りる事などあり得ない。自分自身が自身の人生を掛けて見つけだす答えだ。

 途中ヒントになる事は幾つもあるだろう。だが、ヒントでしかない。答えではない。

 常に考えなさい。常に自分に向き合いなさい。そうして初めて、自分という物が分かるんだろう。

 かく言う私も、探している最中なんだ」

「なるほど、分かりました。ありがとうございます、先生」

「そうだね。君はここに来た時よりも賢くなっているはずだ。

 それと私は君の先生ではない。だから二度と、こんな場末のパチンコ屋に来ちゃダメだよ」

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