ここにいるから

第1話

 今、君はぼくの手を握ってはしゃいでいるけれど。


 いつか、大きくなって大人になったら――きっと忘れちゃうんだろうな、ぼくのこと。



 ■■■■■■■■■■



 ぼくが君と出会ったのはいつだっただろう。君はまだ3歳だったから……そう、ちょうど4年前くらいになるのかな。ゴールデンウィークも終わった昼下がり、ピンク色のTシャツにサロペットを着て、ママに手を引かれてやってきた君はぼくを見つけてぱぁっと顔を輝かせたっけ。

 キュッキュと靴を鳴らしながら駆け寄ってくるまだちっちゃい君を見て、ぼくはお兄ちゃんになったみたいですごく嬉しかった。それまでこの公園ではぼくより年上の子どもたちしか見たことがなかったから。隣にいたおじさんは慣れたもので、退屈そうに欠伸を一つしただけだったけれど。

 君はぼくが気になって仕方なかったらしい。ぼくと君とママは3人一緒に遊び始めた。

 ぼくが抱っこすると、君はぼくの手をきゅっと握った。小さくて温かい手。冷たかったぼくの手もだんだんと熱をもっていく。はなしちゃだめだよ、と囁いてぼくはふわっと君を持ち上げた。たかいたかーい、のつもりだったんだけれど……ちょっと勢いがよすぎたみたいで君は怖いと泣いてしまったね。ママが一生懸命慰めてもきかないんだ。

 今じゃもう慣れてすっかり平気だけれど、昔の君はとても泣き虫だった。いや、今でもそれは変わらないか。

「ごめんね、サヤちゃんにブランコはまだ早かったね」

「……はやくないもん。さやか乗れるもん」

 頭をなでるママの手を払ってぼくにしがみついて……結局また泣いてしまう。けれど降りようとはしない。そんな負けず嫌いなところも相変わらず。


 ぼくはそんな君――サヤちゃんが可愛くて仕方なかった。



 □□□□□□□□□□



 それから4年が過ぎてサヤちゃんは小学2年生になり、今に至る。


「――また爽香

さやか

の負けぇ~!」


 夕方4時、今日も子どもたちで賑わう公園に一際甲高い声が響き渡る。今年こっちに引っ越してきた同級生の泰麒

たいき

くんだ。初めの頃こそ大人しかったけれど、それがただの人見知りだったということは最近になってみんな薄々気づき始めた事実。最近着てくるようになった赤いTシャツは目立ちたがりの性格をよく表しているような気がする。

 今日はみんなで靴飛ばし。ブランコに乗りながらやろうぜ、と言い出したのは泰麒くんだった。引っ越してくる前お気に入りだった遊びみたいで、結果は彼の独り勝ち。といっても相手はサヤちゃん一人だけれど。ぼくが抱っこできるのは4人までで、そのうちふたつは別の子で埋まっているからね。

「爽香はホントに弱っちぃなぁ」

 泰麒くんは馬鹿にしたように言い放つ。あーあ、そんな風に言ったら――。

「もう一回!」

 ほら、また始まった。相変わらずサヤちゃんは負けず嫌いだ。

「いいぜ。何回やってもオレの勝ちだけどな!」

「そんなことないもん!次はサヤが勝つんだから!」

 ……それは多分無理じゃないかなぁ、とぼくは内心苦笑いした。泰麒くんは本当に巧いから。珍しくビーチサンダルなんて履いてくるから何かと思えば、このためだったらしい。ビーチサンダルはフリスビーみたいに横回転をかけるとよく飛ぶからね。といってもそれを足で出来る彼がすごいんであって、決してビーチサンダルがずるいわけじゃない。むしろ普通にやったら空気抵抗で失速する。泰麒くんも1、2回失敗したんだけれど、その記録にさえ負けたんだからサヤちゃんは相当弱いと言える。

 そもそも、サヤちゃんが勝てないのは靴以前の問題だ。

「じゃあいくぞ、せーのっ!」

 ぐいぐい立ち漕ぎして勢いをつけ、身体が前へ進むのに合わせて泰麒くんがサンダルを飛ばす。ぐるぐるぐる、と気持ちいいほど回転しながら飛んでいって、10mくらい先に着地。多分最高記録だ。立ち漕ぎのできないサヤちゃんは座ったまま運動靴を飛ばして、着地したのは――ちょうど足元。多分、いや確実に最低記録だ。さっき後ろに飛ばしたやつを除けば。

「はい、また爽香の負けぇ~!」

 泰麒くんは得意げにぼくから飛び降りて、左足でケンケンしながらサンダルを取りにいった。一方のサヤちゃんは残った運動靴で足をついてぼくを止め、それから悔しそうにむくれて目の前の靴を拾い上げる。

「――っていうかさぁ」

「……なに?」

 戻ってきた泰麒くんはツンツンした頭を呆れたように掻きながらサヤちゃんを見下ろした。

「そんなんで勝てるわけないじゃん。もっと大きく漕げばいいのにさ」

「だって……」

「なんだよ?」

 サヤちゃんはぼそっと呟く。

「……だって、怖いんだもん」

 そう、サヤちゃんはほんの少しだけ、いやものすごく高いところが苦手なのだ。

 だからおじさん――滑り台にはいちども上ったことがない。ぼくの場合普通に漕いでいる分には問題ないんだけれど、大きく漕いだときのフワッと浮き上がる感じがどうもダメらしい。あまり大きく漕ぎすぎても靴が真上に飛んでいってしまってよくないとはいえ、やっぱりある程度の勢いがないと飛ばないことに違いはない。おまけにサヤちゃんは靴を放すタイミングがよく分かっていないみたいだし。泰麒くんの言うとおり、そんなんで勝てるわけがないんだ。

 それでも諦めずに挑み続けるのはやっぱり負けず嫌いだからなんだろうなぁ、とぼくは苦笑した。

「もう一回やろ!」

「えー、もうやだよ」

 あまり簡単に勝てるのでさすがの泰麒くんもいい加減つまらなくなってきたようだ。

「お前相手にならないんだもん」

 泰麒くんが冷たく言い放って――あ、まずいなと思った時にはもう遅かった。

 ぱたぱた、とサロペットの膝の上に水滴が落ちる。空は快晴、雨雲の正体はもちろんサヤちゃんだった。

「な、なんだよ……泣くなよ……」

 狼狽えたように後退る泰麒くん。まったく、泣き虫だって知っているくせにどうしてきつく当たっちゃうのかな。ぼくだったら絶対泣かせたり、しないのにな。

「お、オレ知らねーかんな!」

 泰麒くんはバッと駆け出した。彼は都合が悪くなるといつもこうして逃げてしまう。おかげでサヤちゃんはひとしきり泣いたあとで独りとぼとぼ帰る羽目になるわけだけれど――今日は少し違うみたいだ。

「大丈夫?」

 そう言ってサヤちゃんの顔を覗き込んだのは、ずっと彼女の隣でぼくを漕いでいたツインテールの女の子だった。泰麒くんと一緒にいるのは何度か見たことがあるけれど、サヤちゃんに話しかけたのは多分初めてだ。

「……だぁれ?」

 サヤちゃんは瞳を濡らしたまま顔を上げた。

「あたしは美紅

みく

。で、こっちは妹の藍

らん

だよ」

 美紅ちゃんの更に奥にいたショートカットの女の子もぼくから降りて歩み寄る。

「いつもいつも女の子を泣かせておまけに逃げるなんて、ほんっとサイテー!男のカザカミにも置けないわ!」

 ちょっとおませさんらしい美紅ちゃんが怒ったように吐き捨てると、藍ちゃんもこくこく頷いた。二人とも泰麒くんのここ最近の言動には腹が立っているみたいだ。ぼくもいい加減我慢できなくなってきていたから、言ってくれてちょっとすっきりする。

「爽香ちゃん……だっけ?あんなヤツと遊ぶことないよ。今度から無視しなって」

 美紅ちゃんの提案はちょっとやりすぎかな、と一瞬思ったけれど藍ちゃんと一緒にうなずいた。そうだよ、一回思い知らせてやらなくちゃ。

 けれどサヤちゃんは首を横に振った。

「……ダメだよ、そんなことしちゃ」

「どうして?いっつも泣かされて悔しくないの?」

「そりゃ、ちょっとは悔しいけど……でもそんなことしちゃダメだよ。今度は泰麒くんが泣いちゃうもん」

 美紅ちゃんと藍ちゃんは黙りこくった。いや、藍ちゃんはずっと黙っているけれど。そうだ仕返ししてやれ、と思っていたぼくもちょっと反省する。そうだよね、それじゃ泰麒くんと同じになっちゃうもんね。

 サヤちゃんは泣き虫だけれど――泣き虫だからこそ、周りの痛みが人一倍分かる子だった。自分がされたら泣いちゃうな、ということをちゃんと分かっているから、それをほかの子にすることは絶対にない。そういう優しい子だった。

「……うん、分かった。やらない」

 美紅ちゃんはまだなんとなく不満げだったけれど、藍ちゃんとふたりでこくっと頷いた。

 ぐいっと袖で涙を拭うと、サヤちゃんはふたりの手を取った。

「ね、一緒に遊ぼう!」

「え?いいけど……何するの?」

「――靴飛ばし!」

「ウソでしょ……」

 元気よく答えるサヤちゃんに、美紅ちゃんとぼくは呆れ顔を向ける。まだ諦めてなかったんだね、サヤちゃん。

 ……藍ちゃんだけは瞳をきらきら輝かせて頷いていたけれど。



 □□□□□□□□□□



 それからまた1年ほど過ぎて、春休み。


 最近塾に通い始めたそうで、泰麒くんは前ほどここに来なくなった。といっても毎日来ていたのが週5日になっただけだけれど。前まではサヤちゃんと泰麒くんの2人が毎回違う友達と遊んでいることが多かったけれど、今では美紅ちゃんと藍ちゃんも定番のメンバーになった。そしてここ数日は、もう一人。

「――勇翔

ゆうと

くん、何してるの?」

 サヤちゃんが手元を覗き込むと、勇翔くんは砂場をほじくる手を止めないまま答えた。

「穴掘ってる」

「……いや、それは見りゃ分かるって」

 サヤちゃんの後ろでぼやいたのは美紅ちゃんだった。藍ちゃんもこくっと頷く。

 勇翔くんは泰麒くんが引っ越してくる前から時折ここに来ている、ひょろりとした色の白い男の子だ。けれどいつも独り隅っこでなにかしていて、友達と遊んでいるところは見たことがない。ここ数日は毎日やってきては砂場で穴を掘っている。サヤちゃんはそれに興味津々でちょくちょく話しかけているんだけれど、いつもこの調子だ。

「ねえ爽香、こんなやつ放っといて向こうで遊ぼうよ」

 誰とでも一緒に遊べるサヤちゃんとは違い美紅ちゃんはあまり積極的な方ではないらしく、ほかの子がグループに入ってくるのを嫌がる。藍ちゃんは言わずもがな。

 そもそもそれ以前に、美紅ちゃんは勇翔くんがあまり好きではない。理由は単純だ。

「――あっ!」

 突然勇翔くんが声を上げた。

「なになに、どうしたの?」

「やっと見つけた!」

 勇翔くんが砂場から何かを拾い上げる。

「なによ、一体……」

 藍ちゃんも首を傾げながら近寄ってきて、3人で覗き込むと――

「ひぃッ!?」

 美紅ちゃんが怯えたようにのけ反った。

「何これ、幼虫?」

「うん、そうだよ。カブトムシの幼虫」

「初めて見た!ねえ、これどうするの?」

「うちへ連れて帰って育てるんだ。これから脱皮してサナギになって、夏には羽化して成虫になるんだよ」

 瞳をきらきらさせて力説する勇翔くん。いつもの無口さがウソのようだ。勇翔くんは昆虫博士になるのが夢ってくらいムシが好きだからね。

「すごいね!大きくなったら見に行ってもいい?」

 小さいころから毎日ここに来ているサヤちゃんだからムシは慣れたものだ。むしろなかなかお目にかかれない大人のカブトムシを見られるかもしれないとあってはしゃいでいる。

「うん!――きみもくる?」

 藍ちゃんも勢いよく頷く。一方、美紅ちゃんの方はというと――。

「ねえ、きみは見なくていいの?」

 満面の笑顔で手招きする勇翔くんに、美紅ちゃんはさらにのけ反った。

「や、やめて近づけないで!」

「え、なんで?こんなに可愛いのに……」

 立ち上がった勇翔くんから逃げ出そうとして、ずっこけて尻餅をつく。あーあ、ピンクのスカートが土だらけだ。ママに買ってもらったって喜んでたのに。でもそんなことを気にしている余裕はないみたい。

「こ、来ないで!それ以上近づけたら、あたし――!」

「これがどうかしたの?」

 勇翔くんがひょいっとそれを摘み上げた瞬間、美紅ちゃんが金切り声を上げた。

「キャァ――――――ッ!!」


 そう、美紅ちゃんは勇翔くんとは正反対に、大が付くくらい――ムシが苦手なんだ。


 蚊もハエもだめ、アリもダメ、おまけにちょうちょまで見ると悲鳴を上げるときているから筋金入りだ。公園へ来ても茂みには絶対に近づこうとしない。

 元からあまり視力がよくないから普段はムシが視界に入っても気づかないみたいだけれど、さすがに幼虫サイズともなるとどうしようもない。一方の勇翔くんは毎度ムシの可愛さをさんざん力説したうえに実物を目の前にぶら下げたりするもんだから、美紅ちゃんにとって勇翔くんはある意味ムシ以上に恐ろしい天敵となってしまったわけだ。

 ムシが嫌いなら外で遊ばなきゃいいのに、と思わないでもないけれど……公園大好きっ子が一人いるからそうもいかないんだろうな。どうもいつも美紅ちゃんを連れ出しているのはサヤちゃんみたいだからね。

 這って逃げようとする美紅ちゃんを追おうとして、勇翔くんは突然立ち止まった。

「――いけない、早く土に埋めてあげなくちゃ」

 乾くと死んじゃうからなぁ、なんてぶつぶついいながら虫かごの置いてあるベンチへ戻る。中にはすでに腐葉土がセットされていた。さすが勇翔くん、用意周到。

「大丈夫、美紅ちゃん?」

「もうやだぁ……!」

 ふえぇ、と泣きべそをかく美紅ちゃんの背中をよしよしとさすってやる藍ちゃん。慣れたものだ。こういうときだけは藍ちゃんの方がお姉さんに見える。もともとひとつしか違わないんだけどね。

「今日は家の中で遊ぼうか。うちにおいでよ」

 サヤちゃんの提案に藍ちゃんは頷いて、まだしゃくりあげている美紅ちゃんの手を引いて歩き出した。

「ごめんね、勇翔くん。また明日遊ぼう」

「んー」

 聞いているんだかいないんだか分からないような呻きしか返さないショートカットの黒髪に手を振って、サヤちゃんは帰ってしまった。



 □□□□□□□□□□



 それから2年が過ぎた秋。


 今年部活に入ったらしい泰麒くんはますます公園から足が遠のいた。週に1度くらいのペースで見かけるけれど、知らない男の子たちと砂場前のベンチ、あるいはぼくとかおじさんの上を占拠して携帯ゲームに興じていることがほとんど。

 そして、サヤちゃんも毎日公園に来ることはなくなった。高学年になると6時間授業が増えてなかなか遊びに来られないんだってさ。つまんないの。

 今日は来るかな?来るといいなぁ。そんなことを考えていたら、入り口の方から女の子たちの声が聞こえてきた。サヤちゃんと美紅ちゃんだ。ということは多分藍ちゃんと勇翔くんもいるんだろう。

 あれからサヤちゃんたちと遊ぶことが増えた勇翔くんはようやく美紅ちゃんのムシ嫌いを理解してくれたようで、彼女の前でその話題を出すのをやめた。とはいえ公園に来て最初の1時間くらいは昆虫図鑑とにらめっこしながらの散策タイムと決めているみたいだけれど。ちなみに2年前のカブトムシは無事成虫になってここへリリースされた。その場に居合わせた泰麒くんはせっかく大きく育ったのにとごねていたけれど、勇翔くんは頑として譲らなかった。自然のままが一番、なんだとか。

 今日はクラスの女の子たちも呼んで広場の方でドッチボールをしているみたいだ。最近ぼくとおじさんのほうへは滅多に来なくなった。ちょっと寂しいけれど仕方ない。ぼくとおじさんがいると大人数で遊べないからね。マイペースな勇翔くんはいつも変わらず散策中だけれど。

 美紅ちゃんのチームが全員アウトになったので2ゲーム目に入ろうとしたとき、入り口の方から今度は男の子たちの声が聞こえてきた。泰麒くんたちだ。

「げっ、女子いるじゃん」

 サヤちゃんたちを見つけるなり泰麒くんの隣にいた男の子がわざとらしく顔を歪ませた。

「おい、場所空けろよ。オレたちこれからここでサッカーするから」

 その言葉に美紅ちゃんが目を吊り上げた。

「ちょっと、先に来たのはあたしたちなんだけど」

「だから譲れってんだよ。知ってるか、公園は“みんなで仲良く”使わなくちゃダメなんだぜ?」

 妙に真面目ぶった発言に泰麒くんを含めた後ろの男の子たちはげらげら笑う。

「だったらあたしたちより向こうでやんなさいよ」

「分かってねぇなぁ、それじゃ狭すぎんだろ?」

 泰麒くんも同調して言う。

「……女子は家でおとなしくおままごとでもしてろっての」

 この発言にはさすがにかちん、ときたらしい。前に出たのはサヤちゃんだった。

「なに、それ。女の子は外で遊んじゃいけないなんて誰が決めたの?」

 サヤちゃんは男の子全体というよりは泰麒くんに対して怒っていた。負けず嫌いな性格以前に、サヤちゃんはこの場所が大好きだ。ちょっぴりどんくさいけれど、外で身体を動かすのが好きで仕方ない。それをほかの誰でもない彼に否定されたのがすごく嫌だったんだろう。小さい時からずっとここで一緒に遊んできた友達だから余計に。

「ねえ、泰麒くん」

 泰麒くんは黙って唇を噛んで、それから急に踵を返した。

「あ、おい泰麒!」

 早足で公園を出る彼を追って男の子たちが走っていく。残された美紅ちゃんたちは、これだから男子はだのなんだのと口々に文句を言い始めた。

 ぼくは美紅ちゃんたちの言い分も泰麒くんたちの言い分も分かるけれど、正直どちらも勝手だとも思っていた。みんな一緒に遊べばいいのに、どうしてそれが出来ないんだろう。

 一方のサヤちゃんは、まるで自分が傷ついたみたいな顔をしていた。

「……どうしよう。言いすぎちゃったかな」

「爽香は間違ったこと言ってないって。いいのよ、あれくらいで。男子たちにはいいクスリでしょ」

「そう、かな」

「そうよ。むしろひどいこと言ったのは男子の方じゃない」

 サヤちゃんは泰麒くんのことを言っているんだろうけれど、美紅ちゃんは“男子”と一括りにしてしまった。

 男の子は女の子の敵で、女の子は男の子の敵。いつのまにかそんな構図が出来てしまっている。どうしてわざわざ男の子と女の子に分かれて争わなくちゃいけないんだろう。そう思っていると、子どもはみんな遅かれ早かれああなるんだよとおじさんが言った。どうしてと尋ねてみたけれど、答えは返ってこなかった。




 それからぱたりと泰麒くんはここへ来なくなった。

 原因がこの前のケンカにあるのか、そうでないのかは分からない。けれど少なくともサヤちゃんは自分のせいだと思っているみたいだった。

 ずっと塞いでいるサヤちゃんを見てクラスの女の子がひとり来なくなり、ふたり来なくなり、そうして美紅ちゃんと藍ちゃん、勇翔くんが残った。

 けれど半年するとそれにも限界が来たみたいで美紅ちゃんがほかの友達と遊ぶようになり、勇翔くんは1時間の散策から戻らなくなり、藍ちゃんは公園にさえ来なくなった。


 そして、


 ――サヤちゃんも公園に来なくなった。



 ■■■■■■■■■■



 蟋蟀の声が木霊する以外は何も聞こえない公園で、ぼくはじっと月明かりに照らされた一点を見つめていた。

 そんなに見ていたって誰も来やしないよ、とおじさんがもう何十回目かのセリフを言う。そんなこと分からないじゃないか、とぼくも何十回目かの返事をした。

 本当は分かっている。こんな夜遅くに中学生が出歩いて、ましてやここへ入ってくるなんてことありはしないんだってこと。でも待たずにはいられなかった。一目でもいい――ぼくはどうしてもサヤちゃんの姿が見たかったんだ。

 やめておけ、とおじさんは言った。子どもは大きくなればここへは来なくなる。それが当たり前で、そうでなくちゃいけないと。

 ……どうして?サヤちゃんはあんなに、ここが大好きだったじゃないか。

 そういうものなんだよ、おじさんはそう言った。おとなになると考えなくちゃいけないことがいっぱい増えてくるから、公園で遊んでなんていられなくなるんだって。だからやめておけ――おじさんはいつになく真剣に諭す。


 ――遊具がひとりの子を好きになったって、ろくなことになりはしないぞって。


 その瞬間ぼくはこの気持ちの正体を知って――そしてそれが永遠に叶わないということを理解した。



 ■■■■■■■■■■



 太陽がじりじりと照りつける夏の午後。ちょうどお盆にあたるおかげで人気のない公園に、およそこの場所に似つかわしくない甲高い声が響き渡った。

「――ウッソほんとに!?ほんとに爽香ちゃん!?」

 甲高い、どこか聞き覚えのあるような声で紡がれた名前にぼくは鎖が外れてばらばらになりかけて、寸でのところで堪えた。

「久しぶり~!ねえ、今ヒマ?ちょっとそこで話していこうよ!」

 そうしてローファーを踏み入れたのは、高校の制服を着た派手な女の子。そして彼女に手を引かれて飛び込んできたまた違う制服の女の子は――あぁ、間違いない。少し大人びたけれどちゃんと面影がある。

「えっ、あの、どなたですか?人違いだと思いますけど……」

 困ったように眉根を寄せて言ったセミロングの女の子は、まぎれもなくぼくが探し続けていたサヤちゃんその人だった。

 一方、派手な女の子はボリュームのある茶髪をかき上げて見せる。

「やだなぁ、分かんない?」

 その言葉にサヤちゃんは目を丸くした。ぼくももし目があったらおんなじ顔をしていたに違いない。

「うそ……藍ちゃん?」

 美紅ちゃんならともかく、あの大人しかった藍ちゃんがこんな風になるなんて。人って怖いなぁとぼくが思っていると、おじさんはよくあることだと笑った。

「思い出してくれた?」

「思い出すも何も……全然分からなかったよ。うわぁ、久しぶり!」

 ふたりはベンチに腰掛けて話し始めた。

「藍ちゃん今日はどうしたの、部活か何か?」

「ううん、補習行ってきたとこ。2学期も赤点だったら留年だーなんて脅されてさ。あーあ、せっかくの夏休みなのに。――爽香ちゃんは?」

「私は学校の図書室に行こうと思って。さっきまで家で勉強してたんだけど、なんか独りだと落ち着かないから」

 どうやらサヤちゃんは受験生らしい。

「この公園とかね、そういう子どもたちが遊べる場所をなんとか守れないかなぁって。そういうことを勉強したくて」

 それを聞くと藍ちゃんはうげぇ、と舌を出した。

「わざわざ大学行ってまで勉強とか……アタシ絶対ムリだわ。まったく、爽香ちゃんも美紅も物好きだねぇ」

「美紅ちゃんも受験するんだ?」

「うん、そうみたい。泰麒と同じ大学行くんだって――あ」

 サヤちゃんの顔が一瞬強張ったのに気づいたのか、藍ちゃんはそこで言葉を切った。

「……ごめん。言わない方が良かった?」

 サヤちゃんは慌てて首を振って笑ってみせた。

「あ、ううん。大丈夫、もう昔のことは気にしてないから」

「……そう?」

 少し言いにくそうにしながら藍ちゃんは続ける。

「なんていうかさ。今美紅と泰麒、付き合ってるんだよね」

 ぼくはまた鎖を外しそうになる。あんなにいがみ合っていたのに……人って不思議だ。そう思っていると、おじさんはまたよくあることだと笑った。

「半年くらい前、駅で偶然会ったらしいんだけど……泰麒のやつめちゃくちゃイケメンになってたらしくてさ、美紅が押しに押しまくってやっとオトしたんだって」

「ふうん。泰麒くんが、ねぇ」

 サヤちゃんは半信半疑といった顔つきで呟く。ぼくもあのツンツン頭がイケメンになったなんて信じられないところだ。まあ背が高くて足も速かったから昔からそこそこモテてはいたけれど。

「で、あいつめちゃくちゃ頭のいい進学校に通ってるらしくて、泰麒が行くならあたしもって慌てて受験勉強し始めたってわけ」

 どうやら美紅ちゃんは相当泰麒くんにお熱らしい。うちの高校から進学する奴なんてほとんどいないのにね、と藍ちゃんは半ば呆れたように言った。

「美紅じゃ無理だと思うけどなぁ、アタシは」

「なんで?一生懸命勉強してるんでしょ?」

 サヤちゃんが不思議そうに尋ねると、そっちじゃなくて、と藍ちゃんは首を振った。

「泰麒のことだよ。なんかね、美紅最近荒れてるから。多分うまくいってないんだと思う」

「そんな……」

「この間はとうとう大喧嘩したらしくて。帰ってくるなり泣き出してさ、『アイツはまだ――」

 そこで藍ちゃんはまた言葉を切った。

「藍ちゃん?」

「……なんていうか、言っていいのか分かんないけど――」

 そう前置きして藍ちゃんが口にしたセリフに、サヤちゃんは表情を失った。



 ――『アイツはまだ、爽香のことが好きなのよ』って。



 ■■■■■■■■■■



 それから何があったのか、ぼくは知らない。けれど泰麒くんは結局美紅ちゃんと上手くいかなかったみたいで――今はサヤちゃんと付き合っている。

「――相変わらず立ち漕ぎ、出来ねーのな」

「……うん」

 座ったまま小さくゆらゆらするだけのサヤちゃんをよそに、泰麒くんはぐっとぼくを星空へ漕ぎ出した。少し伸びた黒い髪はもうツンツンしていなくて、近頃少し冷たくなってきた風にさらさらなびく。

「ねえ」

 サヤちゃんの呼びかけに泰麒くんはブランコを止め、涼やかな瞳でサヤちゃんを見つめた。

「どうした?」

 サヤちゃんは僅かに頬を染めてうつむいた。きゅっと握られたぼくの手は彼女の熱を受けて燃えるように熱くなる。同じ熱を共有しているのに――ぼくは彼女と一緒にはなれない。それは泰麒くんにしか出来ないんだって、ぼくはようやく諦めがつくようになってきていた。

 サヤちゃんはぼくの手を放すと、代わりに赤いカーディガンの裾をぎゅっと握りしめて言った。

「……泰麒は、私のことが好きなんだよね?」

「当たり前だろ、そんなの」

「離れ離れになっても、ずっと?」

 サヤちゃんの言葉に、泰麒くんは眉間に皺を寄せた。

「……どういう意味?」

「今まで何度も言ったけど……やっぱり、私は泰麒とおんなじ大学には」

 ガシャン、と音を立てて泰麒くんが勢いよく立ち上がる。

「オレも何度も言ったよな?絶対同じとこ来いって」

「私だって頑張って勉強したよ?でももうこれ以上はどうしたって伸びないの。自分が一番よく分かってる」

「お前、昔はそんな簡単に諦めるやつじゃなかっただろ?どうしたんだよ」

 サヤちゃんは少し黙って、それからゆっくりと口を開いた。

「……前にちょっと言ったけど、私がやりたいことはその大学にはないの。でも泰麒はどうしてもそこに行きたいんでしょ?だったら、お互い自分の目標のために頑張った方が――」

「……ああ、そうかよ。オレと一緒に行くのが嫌なんだろ?そうなんだな?」

 サヤちゃんは慌ててかぶりを振る。

「違う、そんなんじゃ……!」

 泰麒くんはサヤちゃんを遮って意地悪に言う。

「あーあ、やっぱ美紅にしとくんだったかな。お前わがままばっかで可愛くねーんだもん」

 しん、と静寂が落ちた。

 少し遅れて、ぽたぽたとスカートに水滴の落ちる音。

「な、なんだよ……泣くなよ……」

 泰麒くんは狼狽えたように後退って、そして。

「お、オレ知らねーかんな!」

 そのまま逃げ出して、サヤちゃんはぽつんと独り取り残されてしまった。

「……全然、変わらないんだから」

 どんなに恰好よく成長しても泰麒くんは泰麒くんだった。あの頃の、都合が悪くなるとすぐ逃げ出す彼のまま。

 どうしてサヤちゃんはあんな奴が好きなんだろう。ぼくだったら――そう考えかけて慌てて振り払った。それはいくら願っても叶わない夢物語でしかないと気づいたから。そしてたとえぼくが人間だったとして、サヤちゃんが好きになってくれるとは限らないんだということも。

「あの調子で美紅ちゃんからも逃げてきたのかもね。美紅ちゃん、怒ると怖いから」

 思い出したようにふふっと笑って、サヤちゃんは涙を零した。

「……ずるいよね。忘れたころにひょっこり帰ってくるもんだから怒るに怒れないし。どうしても……嫌いになれなくて」

 今頃美紅ちゃんのとこに帰ってるのかな、なんて寂しそうに笑うサヤちゃんにぼくは何もできない。どうしようもない隔たりが、ぼくと君の間にはある。

 ああ、ぼくに腕があったらいいのに。こんな金属質の冷たい鎖じゃなく、ちゃんとした人間の腕があったなら、そうしたら、今すぐ君を抱きしめて柔らかな髪を撫でてやれるのに。好きになってくれなくていい、君が泣き止むのなら、それだけで。

「……ホント、ずるいよ」

 けれどどうしたってぼくに腕はないから、だから今は。



 ――月明かりの下、君を抱っこしてゆらゆら風に揺れるだけ。



 ■■■■■■■■■■



 そして季節は巡って、何度目かの春。


 新学期が始まって今日からみんな学校だから午後まで暇かな、とぼくが尋ねれば、おじさんはどうだろうな、と大きく欠伸をした。

 そう言ったのも束の間、外から3人分の声が聞こえてきた。お客さんみたいだ。

「――パパ、なにもってるの?」

「虫かごだよ。もしかしたら偶然新種のムシが見つかるかもしれないからね。生態観察もしたいし」

「久しぶりのお休みなんだから研究のことは忘れようよ。っていうか、ちゃんとアヤカとも遊んであげてね?」

「わかってるよ。またカブトムシの幼虫でも見せてあげるからさ」

 最初に入ってきたのは、ひょろりとした色の白い男の人。見覚えのある大きめの虫かごを肩から提げている。

 次に入ってきたのは、ますます大人びて綺麗になったあの子。そして彼女に手を引かれて入ってきたのは――


 ――ピンク色のTシャツにサロペットを着たその女の子は、ぼくを見つけてぱぁっと顔を輝かせた。


 瞳をきらきらさせて砂場をほじくり返すパパと、そうっとぼくを揺らすママ。

 怖がらせないよう慎重に、たかいたかーい。君の身体はふわふわ宙に浮く。


「アヤちゃん、ブランコ好き?」

「――うん、大好き!」


 今はぼくの手を握ってはしゃいでいるけれど、いつか大きくなって大人になったら君はきっとぼくのことを忘れるだろう。

 でもたまには思い出して、遊びに来てくれたらうれしいな。


 そうやってこの場所が、いつまでも子どもたちの大好きな場所でありつづけますように。


 ぼくはずっとずっと、ここで待っているから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ここにいるから @murasaki_iro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ